2話 独立
妻の出奔の事情は分かったが、何も解決はしてない。
娘の世話をどうすべきか。家のローンもまだ残っているし、家事を男手一人でやることになった。
その週の3日は妻の実家の手を借りてやりくりしたが、どうにもならなくなったのが事実である。
今までは妻がパートに行き、娘を送り迎えして、全ての家事を引き受けていてくれた。
だが今は朝7時前に娘に朝食を摂らせ、妻の実家に娘を預けて通勤しなければならない。残務処理を済ませ仕事を終え帰宅すると夜の8時を回ることになる。それから娘を風呂に入れ、寝かしつける。今週は比較的仕事が楽だったが、忙しくなれば夜十時、十一時は当たり前になる。そんな中で娘の世話を出来るはずもない。義理の父母にもいつまで頼ることもできない。
妻からは一向に連絡がない。
いや、例え男と別れ帰って来ても、もう私は妻を許す気にはなれない。娘を放って出て行った女に憎しみはあっても愛は残ってない。今後は一人でやりぬことを決め、退職の意思を固めた。
週末の午後、北村課長に相談した。
「実は妻が家出しまして、娘の世話が難しくなりました。それで、残業の無い早退出来る部署に変更してもらいたいのです。それが無理なら会社を辞めさせてください」
私は入社して10年を越し、ある程度の仕事なら任せてもらうまでになっていた。自負とはいえないが、課長の信頼も厚いと感じていた。やりがいもあったし、将来の希望もこの会社にはある。だがこのまま仕事を続けるのは不可能だ。新たに家の近くに仕事を見つける覚悟だ。
「そうか、大変だな。少し上と相談してくる。進退はその後から考えて見ろ。」北村課長には強く慰留された。
私は一人っ子で両親を早くに亡くし、苦学して今の会社に入った。それまでほとんど恋愛の経験もなく、妻とは会社の友人の紹介で知り合った。初印象は人並みの器量だが、どこかに影があり、何事にも控えめで私の好みだった。すぐに交際を申し込んだ。お互いに自己主張しないので、デートも時間を置きがちであったが、どちらかと言えば私の方が積極的だった。
「あのう、私でいいんですか?」妻は私の申し出を遠慮するように受け入れた。今考えれば男に捨てられた過去をまだ引きずっていたように思う。
27で結婚して1年目に娘が生まれた。そうなると都内の狭いアパート暮らしは不満になる。思い切って家を買うことにした。いろいろ探した結果、私の懐具合と相談して、都心から相当離れるが妻の実家近くに決めた。
最長30年のローン。私が定年近くなってようやく返却できる計算だ。少々無理であったが、私の給与は平均会社員よりも高かったし、会社は2部であったが上場しており、安定していた。何とかなると思ったし、だからこそ銀行も金を貸してくれたのだ。
「大丈夫なの?」電車に乗っているだけで1時間以上かかるし乗り換えを考えたら通勤時間は2時間かかるのを心配だった。
「うん、健康だけは僕の取り柄だからやれるよ」通勤地獄は覚悟の上だし、若いから十分やれると目論んでいた。妻は仕事をやめ、近くにパート先を見つけ、二人で支え合おうと誓い合っていた。
そんな苦労も娘の寝る姿に疲れも吹き飛ぶ思いがしていたし、妻も愚痴一つこぼさなかったので多分不満は持っていなかったと思う。
だが、今となればそれが全て裏目だった。妻の故郷に家を持たなければ妻が古なじみと出会うこともなく、家をでることもなかったのではないのか。家を売り飛ばしてもローンの返済は残るし、今の会社以上の給与を出してくれる職場を、近所に求めるのは難しいだろう。娘の世話をしながら会社務めとの両立は困難と考えらざるを得ない。
翌週上司から呼び出された。
「鳥井君。君、独立しないか?」
思いもしない言葉だった。私は建築の設計をやっており、いずれは設計師として独立は夢見ていた。だが、32の若さで独立しても生計が成り立つはずもない。私の先輩で若くして起業した人がいる。だが、その人は得意先を十分確保しないまま、独立したので、今は相当苦労しているようだ。それを知っているだけに私は家のローンの大半がなくなるまで独立はまだ早いと考えていた。
「君の仕事ぶりは上にも信頼されている。だから君の話をしたら、地元の工務店を紹介されたよ。本間工務店。その名前は君も知っているだろう」
その工務店は地元の駅から少し離れた所にあり、私も何度も近くを通り知っている。そんなに大きいとは言えないが、地元では手堅い仕事ぶりが評価されていた。
「最初は大変だろうが、わが社に通勤する苦労を考えれば良い話ではないのか?うちには嘱託制度もあり、出勤時間に制約はないが、何よりも給与が安い。君にとっては生活出来ない額だろう。地元の工務店とつながりを持てば、設計だけでやっていけるだけの仕事を回してくれるはずだ。工務店にとっても良い設計士と組めば、商売につながるから有難いと思うよ。うちにとっても地元の工務店とのつながりは重要だからね」
願ってもない話だった。「是非お願いします」私は課長に頭を深々下げた。
私の辞職が知れ渡ると、同僚、先輩は大いに心配してくれた。
「お前、やっていけるのかよ」それが彼らの言葉だった。そして事情を打ち明けると、だれも私に同情をしてくれ、力になると約束してくれた。
仕事の引継ぎや工務店との話し合いには十分な時間をかけた。
それだけ私の退職に社内のどこからも非難の声が聞こえなかったのは本当に有難かった。そのときの私にはやりかけの仕事が残っており、それを同僚が引き受けてくれたのだ。彼らも他に仕事を持っているのに、いやな顔もしないで私の分までやってくれた。
「すまん、迷惑をかける」
「言いてことよ。その代わりお前の近くに行ったら、奢れよ」同僚の言葉が肩の荷を軽くしてくれる。
これは組織としての会社の在り方なのだとつくづく思う。
一人が存在しなくなっても、次の誰かが引き受ける。それが組織の持つ強みだ。
私はこれから一人で仕事をしなければならない。私の替わりはいないのだ。もし私が倒れてしまえば、どれだけ多くの人に迷惑をかけてしまうのか恐ろしくなる。独立する前に、気を引き締めなければならないとつくづく思った。
2カ月後、私は会社勤めを辞め、自宅に事務所を置いた。
円満に退職できたことで、私の評判を傷つけることなく、そして工務店からも信頼を得られることとなった。
「なかなか、立派な看板じゃないか」事務所開きには義理の両親と工務店の社長が駆けつけてくれた。
「これからが大変ですよ。まだまだ皆さんに頼るばかりですが、よろしくお願いします」
「うん、うん。その気持ちをいつまでも変えないことだ。」社長は私の肩を叩いて勇気づけてくれた。
この本間社長と北村課長にはその後も随分とお世話になっていくことになる。