前章。うずめの旅立ち
とある山奥の村。天然温泉の湧き出るその地の大きな露天風呂に、少女が一人つかっていた。
「今日も良き仕事をしたなあ。やはり歩き巫女とはいいものだ。私の力で救われる人がいる上に、どんな高級宿にも無償で招待してもらえるなんてーー」
彼女の長い髪は日に焼けてやや茶色くなっているが、その肌は真珠のように白く、世にも美しい少女だ。
長いまつげは湯気で湿ってきらりと輝き、大きな瞳はきゅうっと細められる。
少女はピチャピチャと顔を湯で湿らせた。
「こうした庶民からの施しのおかげで、私はいつまでも若くいられるのだなあ」
肩に湯をかけ、暖かさを楽しむ。舐めるとビリビリした味のするこの湯は、きっと美肌効果があるのだろう。
そんな風に、少女が一人温泉を楽しんでいると。
ぶくぶく、温泉の中心にひとりでに泡が立つ。
少女は一瞬で緩んだ表情を引き締めた。そばにおいてある巫女装束に手を伸ばす。
服を羽織るのと、温泉が間欠泉のように吹き出すのはほぼ同時だった。
湯の中から立ち上るのは、一体の青い龍。長い髭からは水滴が滴り、固そうな鱗はギラリと輝き、金色の眼で少女を睨みつけている。
少女はそばに置いてある弓矢を手に取り、自分の倍以上の図体の龍を勇ましく見上げた。
「なんだ水神か。入浴中に襲って来るとはなんと無粋な。名もなき神がこのウズメに敵うと思っているのか?」
「お前を天上界に連れて帰れと、全国の神々に令が下っているのだ! 女神アマノウズメの力を取り込んで人間に生まれてしまったお前を元の神に戻すべくーー! 大人しく神々の言う事を聞け!」
「断る! 私はこのゆるい生活を気に入っている! 死んでも神になんてならんぞ!」
うずめは龍を前にしてもなお平然とし、所々はだけた着物をしっかり直す余裕を見せる。
そして胸から術式の書かれた白い紙を取り出して、ポンっと空中に投げた。
もくもくと煙を立てて宙に現れたのは大きな羽を持つ長鳴鳥。うずめはそれに飛び乗り、天高く舞う。龍神より高い空から、うずめは高笑いをした。
「神は人間を傷つけてはならぬからな。何回説得したとてムダだ! 暇なら他の女神を代わりにこしらえるんだな」
神から逃れあざ笑い続けてきたうずめ。小さな頃から神の使いに自分のことを色々と聞かされてきた。
『お前はアマノウズメという、尊い女神様の生まれ変わりです。だから、人間なんかでいてはいけない。天上界の神々はみんな、お前の帰りを待っているのですよ』
いつか、どこかの偉い神様が、山道を歩く小さなうずめに言った。
しかし、うずめはコクっとかわいらしく首を傾げた。
『でも、かみさまって大変でしょう?』
『この世界を治めるのは大変なことです。しかし、誰かのために何かをする、それはとても美しいことなのですよ』
聖母のような笑顔を浮かべた使いの神様だった。しかし、うずめはケッと顔を歪める。
『めんどくさいこと、うずめ、嫌い!』
そして、神様のスネを思いっきり蹴った。
幸い、人を守る立場の神は人間に技をかけたり、攻撃してはならないという掟があるため、神々ができるのは言葉による説得だけだった。
うずめの気持ちは幾つになっても変わらなかった。
何を言われても、弱き人間の立場と自身の強力な神通力を利用すればどうってことない。
もう神の扱いもテキトーになるほど慣れてしまっていた。
――油断大敵、という言葉を忘れるほどに。
「確かに人間のお前に手出しはできない。だが眷属の鳥ならどうだ?」
空に飛び上がったうずめは完全に後方を死角にしていた。水神の長い尾が長鳴鳥を叩き壊す。
「!!」
長鳴鳥が消滅し、うずめは真っ逆さまに転落する。
今まで負け知らずだったうずめは、突然の敗北に頭が真っ白になった。まさか、眷属を破壊してくるなど思いもよらない。
神がうずめを傷つけようとしたことなど一度もなかったのだから。
視界は真っ黒になる。
高い空から、深い緑の森へと転落していくーー。
神の生まれ変わりとはいえ、待ち受けるのは死のみ以外あり得ない。
うずめは、着地の瞬間に、意識を失った。
――そして、再び目を開けた時は。
「なんだここーー?」
森も神も村もない、スクランブルしている大都会の交差点であった。