繋いだ手の先
ねえ、こんな話ってあると思う?
当の本人である私だって、こんなこと信じられないのに。
世間一般の人に信じてもらおうって、無理だと思うんだよね。
だって、そうでしょ。
私が原因なのか、あなたが原因なのかも、分かんないんだから、うちら共犯だよ。
✳︎✳︎✳︎
「おい、ちょっと待て」
幼馴染が言った。
「共犯て‼︎ 別に警察沙汰ってわけじゃないんだから」
それに呼応して、私が言った。
「け、警察だなんて‼︎ こんなの、イタズラと思われて、牢屋ゆきです‼︎」
「アイリ、お前、言ってること滅茶苦茶だぞ……ちょう混乱してんなあ」
「だって、私は本当に何も……」
「しただろ、なんか」
「してませんって! ユウゾウくんが何かしら、やったんですよね? そうですよね?」
空恐ろしくなって、タオル生地のハンカチを握った私の手は震え始めた。
大通りから一本中へと入った人通りの少ない路地。
夕方近くのこの時間。
車の通行がないのを良いことに、私とユウゾウくんは、そのど真ん中を占領して座り込んでいる。
「何かしら、やるっつったって、どうやりゃこんな風になんだよ! イリュージョンかっ」
ユウゾウくんが右手を上げた、たぶん。
たぶん、肩と腕の動きから推測すると、右手を上げているんだと思う。
たぶん。
それを見て、ふっと気が遠くなっていく感覚。
意識を引っ張り戻してから、今までの経緯をなぞってみる。
「私たち、久しぶりに会いましたよね」
「ああ、三年ぶり、くらいだな」
「正真正銘、うちの隣の家の、ユウゾウくんですよね」
「親父の転勤でこっち戻ってきたんだ。高校も明日から通うし。アイリと同じ三年な、よっしく!」
なんか、久々だと照れるなあ、などと本人は笑顔で、呑気に、頭を掻いている。
「私は、塾に向かっていました」
「なあ、それより、何で敬語?」
「そしたら、ユウゾウくんが見知らぬ人とケンカしてて」
「俺からカツアゲしようっての、100年早いっつーの」
「右手から血が出ていたので、血が出ていたので、血が……」
「顔面に食らわそうとしたら、ミスってそこの壁、殴っちった。ちょう痛かったあ」
壁を見ると、ゴツゴツした表面。
ほんとだ、これ、痛いやつだ、痛いやつだあ。
そして、ユウゾウくんの右手ら辺を見回す。
どこかから、血が滴り落ちている。
地面に鼻血でも落としたような跡、鮮血。
どこかから?
どこから?
たぶん、右手から。
たぶん。
「それを、私がこうやって、ハンカチをあて、当てた、ら……ぎゃー‼︎」
「ちょ、アイリ、落ち着け‼︎ 右手はちゃんとあるぞ‼ ほれ、触ってみろ︎」
その言葉を聞いて、私はそっと手を伸ばしてみた。
指先は震えてるけど、頭は正気。
だと、思いたい。
そして、何もないと思われた空間で、指先が生温かい体温に突き当たった。
「あ、ある。ほんとだ、あるよ」
横に滑らせて、感触を探る。
滑らかな爪、長い指、骨張った節、何よりもその体温。
36度4分くらい。
たぶん。
そして、そこに確かな『右手』の存在を確認すると、私は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「な、ちゃんとあるだろう。だから、ちょい落ち着けよ、な」
言い聞かせるような声。
三年前と変わらない、優しい声。
私はほっと息をついてから、手を離して地面につくと、首からガクッとこうべを垂れた。
すると、自分の指先がべっとりと赤で染まっている。
それが、ユウゾウくんの血だと気付いた時、「ぎゃーっ‼︎」
そして、私はその場で倒れた。
✳︎✳︎✳︎
どうしてこうなったか分からない。
私はただ、ハンカチで血を拭こうとしただけ。
このハンカチのせい?
それとも、私のせい?
それとも、ユウゾウくんのせい?
そうなのよ、ハンカチで血を拭ったら、ユウゾウくんの右手が消えちゃったんです。
ねえ、こんな話ってあると思う?
ない、と思う。
現実を見ろって感じ。
そして、その日。
眠れない夜を過ごして、でも結局、夜中の3時頃には寝ちゃってて、朝起きたら夢で良かったあ、と思って、いつも通り学校へ行こうと玄関を出たら、うおっ!
「うっす」
隣の家のユウゾウくんが、立っていた。
両手に手袋をして。
「んむっ」
咄嗟に身構えてしまったけれど、ユウゾウくんはお構い無しに話しかけてきた。
「まだ、こんなんなんだけども」
幽霊がよくやるあのポーズをしてから、肩からずり落ちたカバンを掛け直す。
「…………」
「原因、分かった?」
こっちが聞きたいことを、あっちが聞いてくる。
私は腰高の門を開けて、道へと歩を進めた。
すると、後ろからユウゾウくんがついてくる。
「なあ、なあ、」
「私には何が何だか、分かりません。それより、どうしてついてくるんですか」
「え、だって同じ学校だもんな」
ああ、そうだった、と改めて。
「ねえ、それよりさあ。アイリ、ちょっとここ撫でてみて」
ずいっと、足を出してくる。
すらりと長い足を見せつけられて、私は戸惑った。
「え、何でですか」
「足ならさあ。普段から靴下履いてるから、もしな。もし万が一、透明になったとしても隠さなくていいだろ。そうだよ、お前が触ると消えるのか、ってのを試したい」
「‼︎」
私は驚きと焦りと、この人バカなんじゃないという気持ちとが混ざって、爆発しそうになった。
っていうか、爆発した。
「な、何、言ってるんですか! もしまた消えちゃったら、どうするんですか? 私、責任取れないです。取りようがないです。どう取っていいか、分かんないです!」
「いやいやいや、責任取って結婚してくれなんて言わねえから。ただ、この透明人間化がお前の力なのかどうかを、見極めたいだけだ」
「見極めてどうするんです?」
「アイリがそういう力を持っているなら、幼なじみとしては、それを把握しておきたいだろ」
「はあ、」
「もし、今後の人生で、透明人間になりたいって時がやってきたとしたら! お前に頼むことがあるかもしれん!」
「それって、たとえばどういう時なんですかっ」
「ん? いや、まあ、色々と?」
「…………」
「……ほら、いいからやれって!」
怪しむ顔で見られているのに、居たたまれなくなったのか、ユウゾウくんは足を突き出して、靴下を脱いだ。
「どうなっても、知りませんよっ」
私は不安半分、怒り半分で、ユウゾウくんの足先にそろそろと指を伸ばしていった。
大きな足、少し出っ張ったくるぶし。
脛には毛が生えている。
三年会わなかっただけで、私の知ってるユウゾウくんとは似ても似つかないくらいの完成された『男』になっていて戸惑う。
毎日、顔を合わせていたあの頃は、顔も今よりも丸っこかったし、人懐っこい笑顔が可愛くて。
それがどうしたら、こんな風にシャープに成長するんだろう、と思う。
私は、そっとその甲に触った。
昨日触れた36度4分の温かさとは違って、朝だからか思っていたよりその肌がひやりとしていて、その冷たさが指先から伝わって、私の心臓をも冷やすのではないかと思った瞬間。
「あれ、透明人間にならないぞ」
呟くように言った言葉で我に返り、そして、私は指先を見た。
「本当だ」
「じゃあ、あのハンカチが原因なのかなあ。今日、持ってる?」
そう言うので、私は顔を上げて、ユウゾウくんを見た。
バチリと目が合って、私は混乱した。
あの、血まみれの、タオルハンカチ。
「せ、せ、洗濯……せんた、く、」
その時、私の頭に声が降ってきた。
「なあ、坂上、何やってんの?」
道のど真ん中に座り込んで、男の足をわしづかみしているという、この状況。
見上げると、そこに同じクラスの委員長、田端くん。
私は、ぎゃー‼︎
心で叫んで、家へと逃げ帰った。
✳︎✳︎✳︎
逃げ帰ってから、家の時計を見て、ぎゃーとなって、学校へと走る。
一限目が始まる頃にはもう、どっと疲れが吹き出してきて、私は限界に近かった。
担任が入ってきて、気だるそうに、出席取るぞ〜〜からの、小テストなあ、だなんて言って、ブーイングを浴びながらそのまま授業に突入したので、ユウゾウくんの転校生としての紹介やらなんやらを、他のクラスで行われていることが分かって、少し安心。
隣か、その隣のクラスから、拍手と歓声のようなものが聞こえてきたので、私は耳をすました。
すましたけれど、声までは聞こえない。
その後、笑いが起こって、たぶん、その手袋は何ですか〜とか、訊かれているんだろうって、勝手に想像していた。
想像していたら、斜め後ろの席から、委員長の田端くんが声をかけてくる。
「ねえ、坂上ぃ、あいつ誰よ?」
右手だけ透明のユウゾウくんです、とは言えず、
「うちの隣の子、お父さんの転勤で戻ってきたって」
は、はあんと、妙な相づちを声で表現し頬づえをつくと、委員長は言った。
「幼なじみってヤツだあ」
「うん、まあ、そうかな」
「それはやばい」
薄っすら笑う委員長が気になったが、担任がテストを配り始めたので、そのまま前を向いた。
それより、どうしよう。
透明になった手を元に戻す方法。
昨日はパニックで、思考を停止したけど、今日は考えなくては。
スマホで調べる?
図書館の本で調べる?
「できんっ‼︎」
頭も小テストも、両手でぐちゃぐちゃと握り潰したいような衝動に駆られて、実際、頭だけワシャワシャとかき回してみた。
その言動と行動に担任が呆れて、おいおい坂上、今回のテストは限りなくお前レベルに近づけてやったんだけどな、と言って腕組みをして苦笑する。
みんなが笑ったので、ようやく私も笑うことができた。
✳︎✳︎✳︎
「全然、できんかった〜」
隣の、一つ飛んでまた隣の席の、親友のサヤが机を避けながら走り込んでくる。
「ねえ、透明人間ってさあ、どうやったら元の人間に戻るか知ってる?」
って、気軽に訊けたら、世話はない。
私も、できんかったあ、と言って話を合わせる。
「ハルマっち、いっつも予告なしだもんね。ま、予告があっても、私の点数は変わんないけど」
『勉強』という根本なるワードが、サヤの辞書には載っていないことは、長い付き合いで分かっている。
ふふと、相づちを打つと、サヤが続ける。
「今日、お昼弁当ないから、学食行ってきていい? 何食べよっかなあ」
一限目から、もう昼ごはんの話題か。
私は苦笑しながら、サヤが席に戻っていく背中を目で追っていた。
もし透明人間だったら、せっかく皆勤賞で毎日学校に通ったとしても、坂上は今日もサボりかあ、いえ私いますけど、みたいな感じになっちゃうんだろうなあ、……ってところで気がついた。
ユウゾウくんが、透明人間になりたいのって、たぶん。
……ユウゾウくんは、男の子なので、たぶん。
のぞき、とか。
うっそ、まじでか。
妄想が恥ずかしくなって、顔を両手で覆っていたら、誰かが呼んでいる声が聞こえてきた。
「アイリー、おーい、アイリー」
手を離して顔を上げると、入り口で手を振っているユウゾウくんがいる。
上げている右手には、手袋はない。
ひらひらとさせる右手に釘付けになる。
「う、そ、」
私はふらりと立ち上がって、吸い寄せられるようにユウゾウくんの方へと向かった。
✳︎✳︎✳︎
その休憩時間で、物事の把握ができなかった私。
だから、昼休み。
女子に囲まれているユウゾウくんを堂々と、ではなく、こそっと呼んで、中庭で一緒に弁当を食べることにした。
ユウゾウくんが膝の上に乗せた弁当箱には、白ご飯に卵焼き、ウィンナーにハムカツ、リンゴが詰められている。
ユウゾウくんは、ユウゾウくんが小学生の時に、お母さんが病気で亡くなっているので、このお弁当は、自分で作ったか、お父さんが作ったかのどちらかだ。
それは、たぶんだけど、ユウゾウくんだと思う。
私が、じっとそのお弁当を見ているもんだから、ユウゾウくんが笑って、
「アイリのも、美味しそう。なんか、交換しねえ?」
卵焼きはあるので、ウィンナーと唐揚げを交換。
お箸を持つ手を見る。
右手はちゃんとそこにあって、昨日は見ることのできなかった、その全貌が明らかとなっている。
こぶしの怪我した部分には、不器用な感じで縦横縦横と、バンドエイドが貼られていた。
弁当を食べ終わって、ブリックのオレンジを飲みながら、私は訊いた。
「どうして、元に戻ったんですか?」
ユウゾウくんは、呆れ顔を作った。
「あのさあ、敬語、やめてくんない?」
「……でも、久しぶりで久しぶりだし、それに、」
「ん、」
「実際、……先輩だし」
ユウゾウくんは、私より一つ年上で、それがどうして今、同じ学年なんだとか、そういうことは訊きたくない。
お父さんの転勤で戻ってきた、それだけでいい。
「ん、だな」
「…………」
「でも、なんか寂しい。アイリが遠く感じる。俺たち、毎日一緒だったじゃんね?」
「う、ん」
「だったら、前みたいに普通にしゃべってよ。俺、そんなにカタくないだろ?」
そんな寂しそうな顔で言われたら……引っ越しで別れたあの日を思い出しちゃうでしょう。
大泣きし過ぎて、危うく酸欠になるところだった、あの日のことを。
「……うん、分かったよ」
「よしよし」
私の頭に手を乗せて、余裕のある笑顔を見せる。
やっぱり、ユウゾウくんは、私よりも年上だ。
いつもそうやって、優しさを抱えている。
✳︎✳︎✳︎
「……じゃ、なかったわあ。右手が元に戻った理由、訊いてないわあ」
午後の授業も終わり、学校から帰る途中、私は石を蹴ったりしながら歩いているうちに、その事実に気がついた。
その事実に気がつくのに、かなりの時間を費やしたことにも、びっくりする。
それは、ユウゾウくんがお弁当の時。
私の頭に、手を置いたからで。
置いた、というよりは、撫でた、からで。
それでもう、私は浮遊霊のごとく、ふわふわふ〜となってしまって、その後の記憶も定かではない。
完全に浮き足立ってしまったことを反省しながら道を歩いていると、おーいと後ろからユウゾウくんが追いかけてきて、さらにびっくりする。
それは放課後、教室を出て廊下を行こうとすると、ユウゾウくんが数人の女子に囲まれていて、帰りに何か食べて帰ろうよ、とのお誘い攻撃に遭っていたからで、その横を通らないと帰れない私は、ユウゾウくんがアイリと声を掛けてくれたのを無視して、ダッシュでその場を離れた、という経緯があったのだ。
足に自信のある私が、結構なダッシュで学校を出たのに追いつくとは、という驚き。
あと、あの頑丈そうな女子包囲網をかいくぐってくるなんて、凄っ! っていう、ダブルの驚き。
ユウゾウくんが息を切らせながら追いついて、「なんで、逃げんのよ」と言う。
私と肩を並べて、歩き出す。
「なんでって、言われても……」
あの状況で。
ユウゾウくんに向けて、うっかり返事なんかしたら。
きっと女子の視線という矢が突き刺さって、虫の息だよね。
誰だって無理だよね。
ユウゾウくんは、ふうん、と言い、少し間を置いてから、何を思ったか矢継ぎ早にまくし立てた。
「あ、のさあ、この右手の話もあるしさあ。今日、親父遅いから、今から俺んちにおいでよ。でさ、あのハンカチ持ってきて。やっぱり、もう一度試してみたいし、な! ああ、そういえば、さっき女の子に廊下であの子誰よって言われたから、彼女だって言っといたから。あ、あと、あれな! 昨日の男な、お前んとこの委員長? 同じこと訊かれたからさ、俺ら付き合ってるって言っといたからな。じゃあ、ハンカチとなんかオヤツ的なもの、持ってこいよ! チョコは食えねえから、パスな」
そう言って、小走りで自分の家へと入っていってしまった。
私はその場で立ち尽くし、頭の中で今までの経緯を反芻した。
ダッシュしたのに追いつかれた↓ユウゾウくんの家にお邪魔する↓例のハンカチ持参(↓お父さんは居ない)↓透明人間化においての実験・検証↓透明人間になって、何か良からぬことを企てている(のぞき?)↓おっと、それはまだ未確認、と。
あとは、何だっけ?
↓チョコは不可、だっけ?
とりあえず、私は私の家へと入って、ただいまを言った。
✳︎✳︎✳︎
ユウゾウくんの部屋にて、私とユウゾウくんは再度、何らかを試そうとしていた。
家で、干してあったハンカチをそっとつまむと、部屋干しだったからか、まだしっとりと湿っている。
洗濯したお母さんが、あのゴキブリやらカメムシやら押し売りやらで大騒ぎのお母さんが、今朝はそんなには騒いでいなかったから、たぶん触っても透明にならなかったのだと思う。
そう自分に言い聞かせて勇気を出し、ハンカチをつまんでみた、という。
ほっ。
私の手も、無事だ。
そしてそのタオルハンカチと、お菓子置き場にあったエビせんべいを拉致すると、私はユウゾウくんの家のチャイムを鳴らした。
「どうする? やっぱり、足でやってみる?」
「足だな、足。足が一番、人には見られない」
「でも、お風呂とか」
「親父は風呂もメシも遅いから、かぶらねえよ」
その言葉で、私は胸が痛くなった。
ユウゾウくんがお母さんを亡くしてから、ユウゾウくんはお父さんと話す時間までも失くしてしまった。
仕事で忙しいから仕方がないって口では言いながらも、一緒に遊んだ夕暮れの公園で、別れ際によく涙を見せていた。
私はどうしていいか分からず、ユウゾウくんが泣き始めると直ぐに、手を繋いだ。
ずっと。
ぎゅっと握った手はいつも小さくて、その時は、私より歳が一つ上だなんて、思いも寄らなかった。
それくらい、この頃のユウゾウくんは、泣き虫で弱々しかった。
私の知らない三年を、彼はどうやって生きていたのだろうか。
私がいつまでも離さなかった手は、他の誰かが繋いでいてくれたのだろうか。
言葉を飲み込むようにして、私はユウゾウくんが入れてくれたオレンジジュースを口にした。
「よし、心は決まった。やってみて」
「じゃあ、いく、よ」
タオルハンカチを、彼の足の甲に近づける。
そのデジャヴ感に、今朝の光景が浮かび上がってきて、私は。
手を止めた。
「そういえば、委員長に何て言ったって?」
「……俺ら、付き合ってるって言っといた」
「ええ‼︎ どうして、そんなこと……明日、学校、どうすんの、ぎゃー‼︎ 何てこと、言ってくれたんだあ、このバカっ‼︎」
「……敬語からの、このギャップがすげえ」
委員長に会ったら、何て言われるんだろう。
クラスに広まってたら……そう思うと、顔がカッと燃えて、一気に火照った。
私は、ぎゃあと叫びながら、タオルハンカチを顔に当てて、身体をだんごむしのように丸くした。
「あ、おい、」
「いやだあ、なんでそんなこと言うのよう」
「えっと、あの、お前、委員長のこと好きなの?」
タオルハンカチをばっと取って、精一杯の声で叫んだ。
お父さんはいらっしゃらないから、騒いでも大丈夫、などと考える余裕も無い。
「違うっ、違うけどっ‼︎」
「……じゃあ、いいじゃんね」
私は再度、いやあああ、と顔を覆った。
「おいおいおい、ちょっと待て」
顔が真っ赤になっているのが分かる。
「アイリ、顔……」
そう言われて、ハッとする。
このハンカチは……今さら気づいて、ハンカチをバッと放り投げると、自分の顔に手をやった。
「あ、……ある」
ほうっと心から安堵の息をつく。
すると、ユウゾウくんが顔を歪ませながら言った。
「いや、ないぞ」
ユウゾウくんが勉強机の上に置いてあった鏡を見せてくる。
首まではある。
首から先、っていうか上の部分がない。
っていうか、顔が……な、い。
私は、ぎゃあっと言うヒマなく、そのまま倒れた。
✳︎✳︎✳︎
「アイリ、大丈夫だぞ。俺がいるからな、俺がついてるから」
温もりが、そこかしこにある。
耳元で囁かれて、私はそろっと眼を開けた。
涙が、横を向いている顔の鼻梁を横切って、そのまま頬を伝って落ちていくのが分かる。
その感覚はある。
「泣いてんのか? 大丈夫だぞ、直ぐに元に戻るから。ごめんな、俺のせいだ。恐い思いさせちまって、ごめん」
握られた手は、力強く温かい。
「私……どうなっちゃうの」
「大丈夫、顔を洗えば治るはずだから。なあ、顔に傷とか無かったか?」
「……昨日……ニキビ、つぶした」
「それだ、それ。このハンカチ、たぶんだけど、血液に反応するんじゃないかな。ほら、俺の足は無事だった」
「…………」
私は涙を拭いた。
「……多分あれだ、呪いのハンカチ的なやつ。っていうか、俺だ。俺が悪い」
「ユウゾウくん?」
珍しく言い淀むユウゾウくんに、私は違和感があって問うた。
「アイリ、俺……おまえが好きなんだ。だから、こっちに戻ってこれて、嬉しかった。でも、三年も経ってるし、どうやって声かけたらいいのか、悩んじまってて。んで、アイリになんとか近づくチャンスが欲しいって、ずっと……」
「…………」
「ずっと、念じてたかんな。それがそのハンカチに宿ったんかなあって思って」
「そんなわけ……ないじゃん」
あるわけない。
けれど、現実に私は今、透明人間だ。
「んっ、んんっ」
再度、涙が溢れ出てきた。
「あ、アイリ、顔を洗いにいこう。俺も右手の血、洗い流したら元に戻ったから」
「え、でも今朝、手袋……」
「学校、一緒に行きたくて……本当はその時には、もう。……だまして、ごめんな」
腕を引っ張られて、起き上がった。
洗面台には鏡があって、私の姿が丸映りだ。
けれど、ユウゾウくんが身体を前に出して、見えないようにしてくれる。
その優しさは、小さい頃から、変わっていない。
バシャバシャと顔を洗って、差し出されたタオルで顔を拭くと、私は恐る恐る顔を上げた。
ある。
顔がある。
元に戻ってる。
「良かった、良かったあ」
拭ききれずに残った水滴が、顔の縁を幾筋か流れていくのを感じながら、私は声を上げて泣いた。
✳︎✳︎✳︎
「それさ、俺があげたハンカチ、だよな」
「え、そうだっけ?」
「ん、まあ覚えてないのは仕方ないか。まだ母ちゃんが生きてる時に行った家族旅行のお土産でさ。俺がアイリにって選んだんだけど、面と向かって渡せなくって。で、母ちゃんから渡してもらったから」
「そうだったんだ」
「それ、もう捨てろ」
「え、でも……」
「俺の、怨念が宿ってるかもしれん」
机の上に置いてあったハンカチを、ガッと掴むと、ゴミ箱へと放り込む。
私は、あっと声を上げた。
「使うの、恐いだろ。ホラー映画かっつーの。今度、違うの買ってやるから」
説得されて、大人しく頷く。
「なあ、あの委員長のこと、好きなのか?」
「違うよ、違う」
「あいつ、イケメンだから、焦っちまって。その件に関しても、嘘ついて悪かった。アイリのこと、取られたくなくって。あーあ、俺、まじでヘタレだな」
はあああっと、大きなため息。
けれど、すぐに真っ直ぐに私を見る。
「でもアイリ、好きなやつ居ないなら、俺と付き合ってくれないか」
どきん、と胸が鳴る。
「……うん」
「まじで?」
「……まじです」
「やっ、た!」
ユウゾウくんが小さくガッツポーズ。
それにしても、こんな展開、私は想像もしていなかった。
けれど、嬉しかったんだ。
だって、私も好きだったから。
小さい頃から。
ずっと。
嬉しくて、顔から火、吹きそうだったけど、顔を両手でパチンと叩く。
それから、はっとして慌てて鏡を覗き込み、ユウゾウくんを笑わせた。
✳︎✳︎✳︎
デートと公言するのは恥ずかし過ぎるので大きな声では言えないけれど、週末の日曜日、私とユウゾウくんは買い物にて、新しいハンカチを買った。
「これ、可愛いな」
ユウゾウくんが手にしたのは、オレンジのドット柄。
私はそれも気に入ったのだが、他にもないかと一通り眺めてみる。
すると、ビニールに包まれた高そうな商品が。
ハンカチではなくて、それは洗顔用のタオルだった。
『美顔、ツルツルのお肌に』
何となく、手にするのが恐い。
ツルツル=のっぺらぼう的、発想。
「それ、買うの?」
「ううん、買わない。もう、懲り懲りだもん」
私とユウゾウくんは、顔を見合わせて苦く笑った。
(小学生の時、お母さんから渡されたあのハンカチの包みにも、同じフレーズが書いてあったような気がする)
ちょっと思い出したけど、口にはしなかった。
その代わり、私はユウゾウくんの手を、握った。
「大丈夫。ちゃんと手はあるぞ」
そう言って、ユウゾウくんが強目に握り返してきたので、私は笑った。