五 優等生はもう終わり
ゴンッ
「大丈夫?」
いつもと変わらない筈の朝、いつもと違う僕は教室に入る時に派手な音を発生させた。寝不足で足がふらつき、ドアをくぐることなく壁へと激突したのだ。そんな僕を見て門で一緒になった可南子は心配の声を掛けてくれる。優しい子だ。
「うん。」
明らかに大丈夫じゃないが、僕はぶつけたおでこをさすりながらとりあえず頷いた。
「明日、止めとく?」
明日は可南子から映画のデートに誘われている日。気が進んでいなかったものの、少し調子を崩したくらいで断るのは男らしくない。僕はただ「大丈夫。」と一言だけ伝えると、引き続き心配そうな顔をしてくれている可南子を置いて僕は教室の中へふらふらと入っていく。体を動かすことに精一杯で、可南子と話を続けることがきつかったのだ。
だから僕の背中を見ながら可南子が不信な顔へと変化していくのに全く気付くことが出来なかった。
「真一君、今日はもう帰ったら?」
午前の授業を何とか終え、昼ご飯を食べに可南子と学食へ向かっている時に可南子が心配してまた優しい声を掛けてくれた。
僕は授業を常に一番前の席で集中して受講しているのに、今日は一番後ろの席に座りずっと居眠りをしていた。先生や一緒に授業を受けている人達が驚きの眼差しを向けていたけれど、眠気に強く支配されていた僕は気にすることなく眠りの世界へと入っていた。
おかげで少し体が痛い。
「寝たから平気だよ。それに明日は何もないし。」
明日は休日なので、多少これ以上体調を崩しても大きな支障はないだろう。
そう思って凝った肩を回しながら僕がだるそうに言うと可南子が心配から驚きと、そして怒りを含んだ表情へと変わった。
「そうね。」
いつもよりもトーンの低い可南子の相槌に続いて僕が驚く。
「じゃあ次の授業は別だから、今日はここでね。バイバイ。」
「え?」
いつもなら昼ご飯まで一緒なのに、僕を無視するかのように可南子は行ってしまった。
睡眠をとったものの、熟睡出来なかったのが原因かまだ半分眠っている頭で僕は原因を一生懸命考える。
「あ。」
考えること約三十秒、僕は原因へと辿り着いた。
「明日、映画だった。」
そう、可南子が誘ってきたデートのことをすっかり忘れていたのだ。乗り気じゃないとは言え今まで忘れたことなどなかったのに。しかも、朝は覚えていたのにどうして忘れてしまったのだろう。
「はぁー。」
ちゃんと目が覚めたものの、こういう時どうすればいいのかわからなくて僕は深い溜息をついた。デートを忘れたこともなければ可南子を、いや、記憶上では人を怒らせたことのない僕は情けないことに今すごく動揺している。
“あんたは自分のことしか考えられないの?”
昨日咲から言われた言葉を思い出してもう一度深いため息をつく。夜眠れなかったのは紛れもなく咲のせいだった。その中で、一番ずしりときたこの言葉。
「当たってるよ。」
図星を指されたら人は怒りの気持ちが湧くものだ。今まで周りを見ながらみっともない、なんて思っていたのに実際自分が指摘されたらこれだ。僕は今世界で一番みっともない人間に違いない。
「とりあえず、飯食うか。」
ここで立ち止まっていても仕方がない。午後の授業に出るためのエネルギーを蓄える為に僕は一人で学食へと向かった。
この日以降も、僕と可南子が二人きりで学食でご飯を食べることはもう二度と無かった。
もう、二度と。
「前に戻ってきたね。」
睡眠と昼ご飯によるエネルギーを取った午後の授業、いつもの定位置へと返り咲いた僕に話し掛けてきたのはいつも近くの席に座っている同級生の板橋君。エスカレーター式の幼稚園からずっと同じ学校で、今は学籍番号も前後だから彼とは話す機会が多い。おそらく同級生の男子の中では一番話す相手だと思う。
「ああ、もう眠くないから。」
「ふーん。」
僕の少しぶっきらぼうな答えに、板橋君はニヤニヤしながら頷いた。
「何かおかしい?」
「何か雰囲気変わったね?」
僕はこの瞬間ギクリとした。今まで僕が必死に演じ続けてきた『優等生』モードは午前中に爆睡してしまったことで跡形も無く崩れてしまっているのだ。頭では理解しているものの、初めて指摘されてどう反応すればいいのかわからない。
「そ、そうかな?」
勿論いつものお得意の言い訳も浮かばず、僕は板橋君から視線を逸らした。こういう好奇心の目で見られるのが嫌で『優等生』を演じていたというのに。
「何か、親しみやすくなった気がする。」
だけど僕が内心恐れていたこととは裏腹に、板橋君は嬉しそうである。
「今更だけど、真一って呼んでもいい?」
「ふぇっ?」
思ってもいない反応に、僕の喉から思ってもいない裏声が出た。板橋君は少し驚いた後、小さい声で笑い出した。
「幼稚園から今まで同じクラスになったことなくてすごい優等生のイメージしかなかったけど、真一って面白い人間だったんだな。」
まだ許可していないのに板橋君は僕のことを呼び捨てで呼んできた。でも、悪い気はしない。
「そ、そうかな?」
自分でもわかるほど真っ赤な顔になった僕はついさっきと同じ台詞を繰り返した。
「僕のことも名前で呼んでよ。」
「か、薫?」
「そう。憧れてたんだ、呼び捨てで呼び合う男の友情。」
彼、薫はおそらく世間一般では理解されないような願望を口に出した。今まで同じクラスになったことが無くても、成績上位者に常に名前が載っていたので薫のことは知っていた。彼の父親は某大手企業の社長。きっと薫も『優等生』でなくてはならなかったのだ。
「薫。」
「うん。」
「薫。」
「・・・。」
「薫。」
「もういいって。」
何度も薫と呼ぶ練習をしていたら薫に止められた。でも、ある程度 反芻していないとすぐに忘れてしまいそうだ。
「真一。」
今度は薫が僕を呼ぶ練習をしてきた。僕みたいに何度も名前を連呼することは無かったけど、何故か無性におかしくなって二人で笑い始めた。さっき薫が笑った時同様、小さい笑い声だったが、長く笑うことが滅多にない僕にとっては大笑いに匹敵した。
“本当の友達と言える人もいないんでしょ?”
また昨日咲に言われた言葉を思い出した。これも図星だった。
今まで『優等生』を演じている時に深い付き合いをしてきた人など一人もいなかった。特に必要なかったのだ。皆僕が『優等生』であることを一切疑わなかった為、大きな問題が生じることもなく平穏な毎日を過ごせていた。
だけど、先程の可南子のことを相談するような相手もいないことはすごく心細く、寂しいことだ。どうすればいいか、解決方法が見付からなくても話を聞いてもらえるような相手が居たら。
その考えは更に僕を動揺させた。
“本当の友達”
今からできるかもしれない。僕と一緒に笑っている、この薫となれるかもしれない。
なりたい。
生まれて初めて、そう思った。