二四 真一です
「少年!」
実さんが選んだという店は学生が来るには高級そうで、かと言って働いても一生に一度しか来ることができないような店かというとそうでもなさそうであった。僕が学生で、未成年であることを考慮してくれたのであろう。
「お忙しいのに、ありがとうございます。」
僕がそう挨拶すると社長に座るように促されると、実さんは「じゃあ私はこれで。」と、その場から居なくなってしまった。二人きりとは思っていなかった僕は不安がいっそう強くなった。
「実が注文をもう決めているようでね、食べ物は私も何が来るかわからないんだ。でも飲み物は好きなのを頼んでくれ。」
そう言いながら僕にメニューを渡してくれる社長は本当に嬉しそうな顔をしている。こんな真っ直ぐな瞳が僕を脅かすなんて、そんな筈がないと信じたい。
「さて、何を話そうか?」
「あ、あの社長。」
「榊でいいよ。」
「じゃあ、榊さん、あの・・・どうして会社を経営しようと思ったんですか?」
どうして名前を知っているのかを聞きたかったが、どういう尋ね方をすればいいのかがわからずに、全然考えてもいなかった質問をした。
「自分で何かを創りたかったんだよ。」
僕の目を真っ直ぐに見据えてそう榊さんは切り出した。
「私が極道に居たことは知っているかな?」
「あ、はい。」
薫から聞いた話を思い出すと、割と早い段階で思い出せた。
「その時に全てを捨てたんだ。家も、名前も、全部ね。私が居た組は仁義がしっかりしているところだったから、無駄に命に怯えることはなかったけど、さすがにそういかなくなった時にアメリカに高飛びしてね。実力があれば誰もが認めてくれる世界に驚いたよ。その時の日本は、今では想像できないくらい家柄の影響がすごかったからね。」
榊さんの元にワイングラスが置かれ、ワインが注がれていく光景を僕はぼんやりと眺めながら自分の元に運ばれたウーロン茶を静かに受け取った。
「それでゆくゆくは自分も実力でのし上がろうって思った結果こうなったんだ。」
誇り高く話す榊さんはその後ワイングラスを持って乾杯しようと促した。ウーロン茶の入ったグラスとワイングラス、おかしな組み合わせ同士の音が軽く鳴り響く。
単純なのに、決して簡単ではないその理由に圧倒された真一は一口飲んだウーロン茶のグラスをそのまま握りしめていると、オードブルが運ばれてきた。
「すごいですね。」
やっと出てきた言葉を言った後、僕は生ハムがのっているモツォレラチーズを一緒に口へと運んだ。口の中で無理やり噛み砕きながら頭の中で話題を必死に探すも、何も浮かんでこない。本当に頭のいい人はこんな時苦痛に感じないのだろうな、という考えが余計に話題探しの邪魔をした。
「そんなに固くならないで、relax,relax!」
緊張した僕を見越しているらしく、榊さんがそう声を掛けてくれた。その優しい瞳を、今の僕は真っ直ぐに見ることが出来ない。
「あの・・・家族は?」
またもや何とか思いついた質問を口にした。さっきと違うのは、榊さんからの返事がすぐに返ってこなかったことだった。顔を上げると、榊さんが困った顔で僕の方を見ていた。
「ナスとトマトのスープとじゃがいも・ベーコンのジェノベーゼスパゲッティです。」
店員さんが小難しい次のメニューを置くと共に榊さんの空になったお皿を回収していった。僕のオードブルはまだ残っている為、テーブルの上が少し狭くなった。
「あ、ごめんなさい。言わなくていいです。」
慌ててそう言った後に僕は残っている最後のモツォレラチーズを口に頬張った。さっき生ハムと一緒に取り損ねたせいで一つだけポツンと残ったそのチーズは味がない訳ではないが、単独で食べる気もあまり起こらない味だった。
「少年は本当に優しいね。」
ウーロン茶で何とか口の中のチーズを流し終えた僕は榊さんの方を見た。今度は、榊さんに負けないよう、真っ直ぐと。
「真一です。」
半分以上空になったグラスを握りしめたまま、榊さんを見据えながらもう一度言った。
「真一です。」
「真一。」
榊さんが僕の名前を軽く呼んだ。頬が少し緩んでいる。呼び捨てで呼び合うことを決めた時の薫の表情と似ている気がした。名前はお互いを知る最初の第一歩、僕が名前を教えることで心の距離が近づいた気がしたのは、きっとお互いに感じ取ったことであっただろう。
「真一、冷めない内に食べよう。」
そう言って上品にスープやパスタを消費していく榊さんに少し見とれかけながらも僕も必死にスプーンやフォークを動かした。
結局食事中に聞きたいことを質問出来なかった僕は内心あまり穏やかでなく、どうしてもご飯を素直に美味しいと思うことが出来なかった。それでも、榊さんの話は面白く、他愛もない話は終わりまで続いた。名前を教えただけで、呼ばれるだけで変化したぎこちない空気に流され、このまま聞かなくても良いのではないかという衝動に駆られた。
曖昧になってしまっている咲との関係のように、逃げたい自分が居ることに気が付いていないふりをした。
「今日は本当に楽しかったよ、ありがとう。」
会計を終えた榊さんが僕にそう声を掛けた。少しは自分で出すと言ったが、頑なに受け取ってくれなかった榊さんはそのことを誇示することもなく、まだ少年っぽさが残る笑顔である。
「いえ、こちらこそ本当にありがとうございました。」
「また一緒に食事しよう。今度は是非友達も一緒に。」
ドアを開けると冷たい空気が僕達を襲った。昼の気温はまだ高い為、厚着をしていない格好の僕には少し応える気温である。
「大通りに出よう、タクシーがここじゃ捕まりにくそうだ。」
「榊さん!」
そう言ってスタスタ歩き始める榊さんを僕は背後から呼び止めると、軽やかな動きで榊さんが振り向いた。
「あの・・・電車で帰りますから。」
本日三度目の失敗に、僕はもう本当にどうでもよくなり始めた。未成年なのでお酒は飲んでいないが、ワインでホロ酔いになった榊さんを見ているとそれだけで僕も酔ってしまったかのように、頭の中で考えがまとまらなくなっていた。きっと僕の顔が真一っぽくてたまたま言ったら当たったのだ、なんて万が一の確率にもないことを思ってしまっていた。
何より、こんなにいい雰囲気の人を疑いたくなんかなかった。
「そうか。でも、どっちにしても大通りに行かなくてはいけないね。」
そう言ってまた榊さんが歩き始める。その背中を僕は慌てて追いかけて右横に並んだ。僕より拳二つ分くらい高い背の榊さんの横顔が、ふいに懐かしく感じられた。
誰かに似ている?
「少し遅くなったけど、親御さんは大丈夫かな?」
「あ、はい・・・・・!危ない!」 ゴンッ
言い終るか終らないかの時、僕の左肩に鈍い痛みが走った。後ろから棒で殴られそうになった榊さんを庇うと同時のことであった。
「真一!」
「真一!社長!」
どこからともなく実さんの声とヒールの音が聞こえ、棒を持った男が宙を舞った。
「Quick!!」
「大丈夫?」
一度地面に膝をついた僕が顔を上げると榊さんは電話で警察を、実さんは暴れる男を地面にうつ伏せて逃げられないように拘束していた。肩の痛みも忘れて僕が唖然としている間にパトカーが訪れ、凶器である棒と共にその男はパトカーの中へと押し込まれ、その場からすぐに消えていった。
「その時のこと、詳しく聞かせてくれますか?」
「Shit!病院が先だろうっ!」
「私が残って話します。一部始終見ていましたから。」
榊さんの一言に、迎えに来てくれていた実さんの心遣いの後、この現場に残った警察の人が失礼しましたと一礼し、他の警察の人に付き添うように言付けした。僕と榊さんはその警察の人と共に病院へと向かい始めた。タクシーの後部座席に男三人で乗った狭苦しささは上手く表現することが出来ない。
が、それよりも謝る時の、本当に辛そうな榊さんの表情の方が僕の心の中にずっと残った。