二一 モカメモリー
体が痛い。
その感覚に襲われて咲は眼を開けた。年季の入った天井に蛍光灯、見慣れない部屋であることを一瞬で理解した咲は身体を起こした。
「痛っ・・・。」
ソファに背もたれたまま眠っていたのだ、妥当な感想であろう。
「おはよう。」
ソファの後ろから声がして、咲は振り向いた。徹夜したのか少し疲れた顔の男が机の向こうに居た。
「おはようございます。えっと・・・ミスター。」
咲は挨拶を返すと共に必死で昨晩の記憶の糸を手繰り寄せ、美人な女の人がミスターと呼んでいたことを思い出した。
「おはようございます。」
咲達の声が聞こえたのか、隣の部屋のドアが開いて美人な女の人がカツカツと近づいてきた。
「実、」
「あなたコーヒー飲める?紅茶の方がいいかしら?」
ミスターの言葉を遮って実が咲に質問をした。咲は少しあっけにとられたように考えてから「紅茶」と一言だけ返した。
「実、」
「おはようございます、ミスター。コーヒー淹れますね。」
またもやミスターの声を遮って実が机の上に置かれていた空のコーヒーカップを取った。
「さすが。」
感心したようにコンロの方へ歩いていく実の背中を眺めながら、ミスターが賛辞の言葉を送った。その二人の関係がイマイチわからない咲はソファで少しボーっとした後、掛かっていた毛布を丁寧に畳んで実の歩いた方へと向かった。
「あ、手伝います。」
慌てて来たつもりだったが、実は既にフィルターに挽いた豆を入れ、ポットには紅茶の葉を入れており、後は沸騰したお湯を注ぐだけという状態であった。
「ミルクとシロップはどうする?」
「あ、じゃあミルクだけ。」
何もすることがないと一瞬で悟った咲はただ実の質問に返事をするだけだった。かと言って引き返すのもどうだろう、と思うとそこから動くことも出来ず、ただ変な沈黙が二人の間に流れた。
「あなた今日はどうするの?」
そんな沈黙を全く気にしていないかのように実がまたもや質問してきた。
「さすがに、帰ります。」
「そう。」
実は特に何かを追及することもなかったので会話が途切れ、またもや沈黙が広がった。
「あの、ありがとうございました。」
沈黙に耐えられなくなった咲がやっとのことで口を開くと同時に、やかんの中の水がすごい音を奏で始めた。どうやら沸騰したらしい。
「高級住宅街はスリや変質者がよく出るのよ。気をつけなさい。」
火を止めた実がお湯を紅茶の葉が入ったポットに注ぎ、蓋を閉めて砂時計をひっくり返した。その後、手際よくコーヒー豆にお湯を注ぎ始めると、いい香りがあっという間にその部屋を支配した。
「それに、体の調子がおかしいみたいだったけど、病院に行かなくて本当に大丈夫だったの?」
フィルターの中のお湯が減るとまたお湯を少し注いでいく、という動作を繰り返している実が咲の方を見ることなくそう心配の声を掛けてくれた。
「あ、はい。」
咲もフィルターの中のお湯を眺めながらそう答えた。
病院 ・・・・
忘れかけていた感情が一気に湧き出てきた。涙を流す、立ち尽くす、顔を覆う白い布・・・・次々と思い出される記憶に、咲は思わずその場にうずくまりそうになった。
「大丈夫?」
咲の顔が曇ったことを察知して、実がそう問いかけた。咲はハッと我に返って頷き、いつの間にかコーヒーと紅茶がのせられていたお盆を持ち上げた。
「モカ?」
辺りに広がっていた香りがお盆を持つことによって更に強くなり、咲の口からポロっとコーヒーの種類が出た。
「あら、よく知っているわね。」
「あ、私カフェで働いていまして。」
「それでも香りだけでわかるなんてすごいわね。まあ、独特な香りではあるけども。」
実と並んで話しながらミスターの居る空間へと向かう。
忘れるわけがない。新店舗の雑貨めぐりの時、他の店で飲んだコーヒーがモカだったのだ。真一にバッタリ会う、ほんの少し前に。
「私はこれを飲んだらもう出るけど、あなたはどうする?」
ソファに座って咲がミルク入りの紅茶を飲み始めると、前のソファでブラックコーヒーを口に運んでいる実がそう切り出してきた。
「あ、電車で帰ります。近くの駅を教えてくれますか?」
さすがにこれ以上お世話になるのは気が引けるので、咲は電車で一旦静枝さんの部屋に戻ることにした。仕事までまだ時間があるのでシャワーを浴びたいし、携帯電話を持っていない咲に連絡することも出来ずに心配しているだろう静枝さんを取り敢えず安心させておきたい。
「まだ朝早いから、もう少し温くなってからにしたら?」
「えっ?」
ミスターのその言葉に、咲は少し部屋の中をキョロキョロしてようやく見つけた置時計で時間を確認するとまだ朝の六時であった。そう言えば部屋の空気がまだ冷たいと今更感じ始めた。
「では駅までの道、お願いしますね。」
気がつけば既にコーヒーを飲み終えていた実がソファから立ち上がってさっきコーヒーを淹れた部屋の方へと消え、水を流す音が聞こえ始めた。自分の飲み終えたカップなどを洗っているのだろう。
「あ、あの、迷惑じゃないですか?」
申し訳ないように咲がそう問うと、ミスターは優しく微笑んで「全然。」と返事をした。
「じゃあ、もう行きますね。」
相変わらずカツカツとヒールの音をテンポ良く響かせ、あっという間にドアの向こうへと消えていった。
「相変わらず働き詰めだなぁ。」
心配してミスターが溜息を吐くように呟いた。咲がミスターの方を見やると、ミスターは実が出て行ったばかりのドアをじっと眺めていた。疲労感の漂うその表情からは深い気持ちは読み取れないが、ただ心配しているという気持ちだけは伝わってくる。
どう反応すればいいのかわからず、咲がそのままミスターを見つめていると、今度はミスターが咲の方を向いて目が合うと、またにっこりと笑った。
「寒くないかい?」
優しく心配してくれるミスターの言葉に、咲は頷くとそのまままたミルクティーを飲み始めた。久々に飲む紅茶がやけに体に沁み渡る。
それから何の脈絡もなく真一に会いたい、と思った。