二十 ミスター出現
「お、久しぶりだねぇ。」
ドアが開いたことに反応して部屋の奥の窓を開けて煙草をふかしていた男の人が振り向いた。四十歳を過ぎたくらいだろうか、中途半端に伸びた髪はボサボサで、剃り残したような不精髭がうっすらとしているもののどこか上品な風格が漂っている。
その為か語尾の伸びがある口調も特に気にならない。
「若くて可愛いゲストだねぇ。」
「この子は客じゃないですよ、ミスター。道端で拾ってきたんです。」
しれっと言った女性の発言に、ミスターと呼ばれたその男性は何が可笑しいのか声を出して笑い、奥の部屋へと消えていった。
「・・・・・?」
何の訳もわからずに咲はその女性を見た。思えば道も車の中も暗かったこともあって顔をちゃんと見たのがこの時が初めてだった。整った眉にしっかりとしたアイメイク、真っ赤な口紅をしているのにそれに負けない顔。
かなりの美人である。
部屋の中にあるのは机や椅子や棚やファイルなどの筆記用具、そしてソファといった特に珍しくないものばかりだが、ごちゃごちゃとしたまとまりのなさが知らない場所をより強くそう思わせた。
「とりあえず、そこに座って。」
促されるままに、咲は黒いソファにポスっと腰を下ろして背をもたれた。階段やドアに負けない程の歴史を感じる天井に蛍光灯、視界に入ったそれらの景色が少しずつぼんやりとなっていく。
「コーヒーと紅茶、どっちが・・・って、あら。」
その女性が咲の方を見やると、咲は眼を閉じ、何の反応もない。つまり咲はあっという間に眠ってしまっていたのだ。
「コーヒーよろしく。」
ミスターが奥の部屋から持ってきた毛布を咲に掛けながらその女性に頼んだ。
「はい。」
「お、さすがだねぇ。」
言われるまでもなく女性が用意していたコーヒーを差し出すと、ミスターは感心しながら笑顔でカップを受け取った。
「やっぱり実の淹れるコーヒーが一番上手い。」
「・・・じゃあ私はやることがあるので。」
一瞬切なそうな表情をした実と呼ばれたその女性は、ミスターの言葉には返事をせずにまたヒールの音を響かせながらミスターが毛布を持ってきた部屋へと入って行った。
その言動にどう反応するでもなく、ミスターは自分の椅子に腰かけ、もう一度コーヒーをすすった。
「うん、やっぱり美味い。」
穏やかな表情で、ただその一言だけ発した。
カタカタカタ・・・・
電気を点けてはいるものの、どこか薄暗い部屋で実は速いテンポでパソコンのキーボードを叩く。
「絶対にどこかで見たことあるのよね。」
そして何かが引っかかる。
小さく独り言をいいながらパソコンの中に入っているデータや机の中の資料を取り出す。
今調べているのは昼間に会った少年のことだ。一回のロビーまで迎えに行った時に社長と一緒に居て、明日あの忙しい社長が一緒に食事をすると言い出した。ビジネスでしか基本的に動かない社長が、結婚もしていない社長が、どうして一人の少年と?やっぱりビジネスのことが絡んでいるのだろうか?
気になると調べずにはいられない実は時折こうしてやってきてこの部屋で黙々と調査を始める。朝まで一睡もせずに調べることも特に珍しくない。
最初は奇麗に整頓されていた資料が机の上に散乱されたように広がったと思うと、そこに載っているデータが希望通りのものでないとわかるとまた綺麗にファイルに戻っていく。そしてまた違うファイルから探し出された資料が同じような状態に広がり、まとまっていく。
違う、もっと前・・・?
前の職場の時ではなかったかしら?
声には出さずに頭の中でぐるぐると考えるも、手の動きは少しも遅くならないスピードでパソコンのキーやマウスを動かしている。
「ふう。」
もう何時間と手と頭を緩めずに動かしていた実は背もたれに体を預けた。慣れていることとは言え、一息もつかずに朝を迎えることはさすがに苦しい。さっきは飲まなかったコーヒーを今度は自分に淹れようと思い、片手に毛布を持ってさっきの部屋へと戻っていった。
「がんばるねぇ。」
実がドアを開けると同時にミスターの声がした。
「・・・ミスターこそ。」
とっくに寝てしまっていると思って持ってきた毛布を持ったまま実はなんとか返事をした。もう少しで空が明るくなってくるという時間帯、さすがに疲れが隠せない二人の頭の中には懐かしいある光景がフラッシュバックした。
「ミスター、私」
「悪いけど、もう一杯コーヒー淹れてくれないかな。」
書類に目を戻したミスターに言葉を遮られた実は少しそこに立ちすくんでから黙ってコンロの火を点けた。ふと横を見ると、棚から取り出されたコーヒー豆と洗われていないコーヒーカップ置かれている。実がいなくなってから自分で淹れていたからだろうか、おかわりしようと一度ここに訪れていたらしい。
「・・・バカ。」
実はミスターに向けてか、自分に向けてかわからない一言をポツリと呟いた。
「やっぱり美味い。」
さっきと同じ笑顔でミスターがそう言うと、今度は「どうも。」という返事をして実はまたパソコンの元へと戻っていった。ミスターと同じブラックコーヒーを飲みながら、社長と調査中の少年のことを思い出していた。社長をロビーまで降りて迎えに行って・・・・
「あっ。」
ある重大なことを思い出した実はまだコーヒーが半分入っているカップを机の端に置き、まだ見ていない資料を漁りだした。少年がもう少し幼い頃、まだ制服を着ていた時に見ていた。と、なると二年前くらいになる筈だ。
さっきとは違って何個かのファイルの資料が机の上で交ってしまいながらも、それに構うことなく実は急いで目当ての資料を探し求めた。
「あった!」
やっと見つけた資料を手に持ち、書いてある文章に目を通し始めた。
「そうよ、一条真一。一条誠の一人息子。やっぱり見たことがあったわ。」
もやもやしていた問題が解決しても、実はまだそこから動かなかった。折角だからとそのままパソコンを、今度はゆっくりと動かしながら朝を迎えた。
この部屋で何回朝日を拝んでも、この眩しさに目が慣れることはないな。
そう思いながらとうとう昇ってきた朝日の光を浴び、実は残りのコーヒーを飲み終えた。