十九 女性A
「はぁはぁ・・・ごほっごほっ」
駅からの帰り道、ものすごい咳と動悸に耐え切れずに足を止めた。すっかりと暗くなってしまったこの時間、星も月も全て雲に覆われている今日はただ街灯の明かりだけが何とか咲の姿を存在させている。
「ぜえ、ぜえ」
全力疾走するなんて生まれて初めてではないだろうか。「好きだ。」という言葉が聞こえて体が反射的に動いた。どうしようもなく恥ずかしくなって、その場から逃げだすようにもう見慣れてしまった道路を駆け抜けた。
「うっ」
止まらない動悸に加え、違う痛みも伴って視界が霞んだ。
どうしようもなく嬉しかった。
この歳になって初恋をしてしまうなんて。
昔から素直じゃない上に思ったことをハッキリと言ってしまう性格が災いしてぶつかることが多々あった。学校も休みがちな上に元々人見知りが激しい性格も手伝って教室ではほとんど一人だった。おせっかいな人もいたけど、結局性格が合わなくてまた一人に戻ったり、クラス替えで離れてそのままになってしまったり、失いたくないと思う程大切な人が母親以外に今まで存在したことがなかった。
それは恋愛面でも同じで、ドキドキしたり誰かを想って泣いたりするなんてことは一度もなかった。
「・・・っ・・・」
一度引っ込んだ筈の涙がまたこぼれ始める。
母親が死んでからもう大切な人が現れるなんてどうやったら想像することが出来ただろう。父親の可能性がある一条誠の元に来る時もさほど期待しなかった。門の前で初めて真一に会った時にも。
「はぁー、げほっ、げほっ」
相変わらず止まらない動悸。あまりにもひどい咳も出始めて思わずその場にうずくまった。
「ぜえ、ぜえ」
苦しい。
それは感情からくる痛みだけでなく、普通の呼吸が出来ないことからくる苦しさの方が強かった。
本当にやばいかもしれない。私このままここで死んでしまうのだろうか?母親が死んでまだそんなに経っていないのに、もう後を追ってしまうのだろうか?
嫌だ。そんなの嫌だ。死にたくない、こんなところで。
私はまだ生きたい。
「・・・っ・・・」
それなのに体が言うことを聞いてくれない。涙も次から次にこぼれてくる。
そうか、これは今までの罰なんだ。
死を覚悟した咲にそんな考えが浮かび上がった。今までさっさと死んでもいいと思っていた。母親より長生きできればそれでいいと。元々体の弱い母親が母子家庭ということで人一倍苦労して育ててくれていたのにそんなことを思っていたから罰があたったんだ。
だって好きな人なんかいなかったのだから仕方ないなんて言い訳もできない。好きになろうと努力もしなかったから。
「うぅっ・・・」
後悔の気持ちが一気に押し寄せてきた。もっと命の尊さを感じて生きればよかった。もっと素直になっていればよかった。もっと沢山話しておけばよかった。もっと一緒に時間を過ごせば良かった。
好きと言っておけばよかった。
気が付けば苦しいということよりも真一のことを考えている自分に咲は驚いた。どうやら思っているよりもずっと真一のことを好きになっているらしい。
ねえ、お母さん。お母さんは死ぬ間際何を考えていた?誰を想っていたの?
「ちょっと、大丈夫?」
ふいに辺りが明るくなったと思うと誰かが車から降りて声を掛けてきてくれた。咲と同じくらいか、少し年上くらいの女性。
「今救急車呼ぶから。しっかり!」
そう言ってその女性が手に持っていた携帯電話のボタンを押し始めた時、咲は慌ててその電話をつかんだ。
「呼ばないで・・・はぁっ、はぁっ」
必死な咲の形相にその女性は一瞬怯んだが、すぐに冷静な顔つきに戻った。
「何を言っているの、そんなに苦しそうにしているのに。」
その女性の言うことももっともである。だけどここだけは咲もゆずれまいと食い下がる。
「へい・きよ・・・ごほっ・・・少し、横に・・なれ・ば・・・ごほっ・・・すぐに・・治る・から・・」
意地だけでそう言っていたのに、不思議とさっきよりも苦しさが落ち着いてきている気がした。呼吸がさっきよりも深く出来る。動悸も少しだけマシになった。
その様子がその女性にも伝わったのか、咲の手を振り払い携帯電話をパタンと閉じた。
「わかったわ。その代わり、家までは送らせてもらうわよ。」
咲に負けじと鋭い瞳を持つその女性の言い方には有無を言わせぬ勢いを感じた。しかし、咲は首を縦に振ることもできない。
だって、あの家は私の家じゃないもの。
「もしかしてあなた家出しているの?」
何の返事もせずに神妙な顔して黙り込んだ咲にそう疑問を抱くのも無理はないだろう。前に住んでいた場所で遅い時間帯に外に居る時、警察官に女子高生と間違われて声を掛けられることも何度かあったくらい咲は幼く見える。
「家も何も、ただの居候だし。」
消え入るように小さな声でも言葉にすると咲はやけに空しくなった。すっかりと落ち着いた自分の体を嬉しく感じない。
「はぁー、乗りなさい。」
女性は呆れたような溜息をついた後、その女性は咲を車に乗るように促した。静枝さんの居る場所に今日は戻りたくないと思いながらも、諦めたようにその女性の言うことを聞いて後ろの席に乗り込んだ。他にどうすれば良いのか思い付かないのだ。
逃げてばかりじゃ駄目なことは自分でわかっていても、心が追い付かない。そんな弱さを自覚するとまた泣けてきた。
「・・・あの?」
車に乗って五分は経った頃だろうか、咲は自分の寝泊りしているところを聞かれていないことに気が付いた。てっきり静枝さんの元に送っていかれるとばかり思っていたのに、その女性は咲に何も聞かずに黙ってハンドルを握っている。気がつけば道も自分が知らない場所だ。
「帰りたくないんでしょ?」
前を向いたまま、少し冷たく言い放つ女性の言葉に咲は思わず黙り込む。
それからまた五分程経った頃、女性が運転する車はある建物の駐車場へと入り始めた。ほとんど泊まっていないガラガラの駐車場で素早く車を駐車すると
「降りて。」
エンジンを止めながら簡単にそう言われると、その女性が無言でカツカツとヒール音を響かせて歩き始めたので、咲も慌てて後ろを付いていく。
「・・・あの?」
先程と同じ言葉を咲が投げかけた頃、駐車場の端にある階段へと辿り着き、その女性は歩く時と変わらないスピードでカツカツと階段を一段ずつ登っていく。
「普通の人には縁がないところでしょうね。」
それなりに歴史を感じる階段に、辿り着いたドア。半分が曇りガラスのその仕切りを女性は何の躊躇をすることもなく丸いドアノブを握り、開けた。全然知らない人についてきた咲は何の不安も感じずにそのまま女性の後ろについてその部屋に入った。
もしかしたら悪い人なのかも?という考えが生じなかったのは何も考えたくなかったからではない。何も考えられないくらい体が疲労していたのだ。
初めての気持ちに、告白、そして全力疾走。咲の思考回路を止めるには充分であった。
後悔することにならなくて本当によかった、と思うのはもう少し時間が経ってからのことである。