十七 止まらない
どうして今日はいつも起こらないようなことが続けて起こるのか。携帯電話を届けたビルから出て駅に向かおうと右に向かい始めたその瞬間、ものすごく見覚えのある顔が視界に入った。
「咲。」
咲が左手に持っている半分に折り曲げられた数枚の紙はそれなりにしおれており、何度も鞄から出して広げたり畳まれたりした跡が残っている。二日ぶりに会えたというのにどうでもいいようなことに目がいってしまう僕は何とつまらない人間なのだろう。
「彼氏?」
全く視界に入っていなかった空間から、思ってもいない言葉が聞こえてきたことに驚いた僕は更にもう一度驚くことになる。
「違うわよ。」
咲が赤い顔して、隣に立っている男に慌てて否定している。
ズキン
僕の胸が自分の意志と反して勝手に痛み始める。
誰だ?この男は。二十代後半だろうか、僕よりも少し年上の雰囲気がある。顔は整っていて、男の僕が見ても格好いいと思う。
「!」
ふいにその男が視線を僕に移すものだから、僕の視線とぶつかった。僕は咄嗟にずらしてしまった視線をどこに向ければよいのかもわからずに、とりあえず男の足元から顔へと動かすとまたもや目が合った。
「睨まないでよ。ただの職場仲間だから。」
聞いてもいないことなのに、そう教えてくれたことにより変に強張った僕の体が少しだけリラックスする。
「今日の予定はもう終わりだし、ここで解散しよっか。」
「え?あの、」
「また明日ね。じゃ、失礼します。」
丁寧なことに僕にまでキチンと挨拶をした後、咲と僕をその空間に置き去りにしてさっさと行ってしまった彼の背中が、つい先程ビルの中で見た男性の姿と重なった。きっと彼も仕事が出来る人間なのだと直感で思った。
「何してんのよ、こんなところで。」
気まずそうに咲が言う。前の様に強い口調ではあるものの、最初の頃のような棘はなくなっている気がする。
「たまたま、野暮用で。咲こそ、何で・・・こんな場所に?」
僕は“何で職場の男と二人きりでこんな場所に?”と口からふいに出そうになった言葉を一旦止め、咲に聞かれたことと同じ内容の質問を返した。どうも僕は咲相手だと頭で考えるより本能が先に出てしまうらしい。それだけ素が出せているということなのだろう。
「まぁ、色々。」
咲も僕と同様に短い返事で片付けた。僕達の間に無言が広がる。
「私も、もう行くわね。」
「どこに?」
「どこでもいいじゃない。」
回れ右をして今にも歩き出そうとする咲を慌てて止める僕に、容赦ない強気な発言が降りかかる。
「今からバイト?それなら僕も行って終わるのを待ってる。」
「何で?」
咲が驚いた表情で僕を見据える。久々に強い咲の視線に貫かれて、思わず思考が停止してしまいそうになる。
「話がしたいから。」
何をどう話すかなんて、シナリオなんて全然ない。でも、このままじゃいけないということだけはずっと思っていたことなのでこのまま咲の背中まで見送るわけにはいかないのだ。
「・・・・・」
咲は何も言わない。きっと、咲もわかっているのだ。
このままじゃいけないことを。
現実から逃げ続けることは不可能だということを。
「わかっているのよ、今の生活をずっと続けることが出来ないことくらい。」
目標地点を定めるでもなく、とりあえず肩を並べて歩き始めてすぐ咲がそう切り出した。
「でも、初めてのことだらけで楽しくて、このまま人生が終わってしまえばいいって思う気持ちもある。」
信号待ちで歩くことを強制的に一時停止することになっても、咲の話は止まらなかった。
「ずっと憧れてた。かわいい制服を着て働いたり、下らないことばっかり話して時間を潰したり、目的もなく街中を歩いたり。」
普通の学生生活を送っていれば体験できそうなことを“憧れ”と言う咲の気持ちを僕は複雑な気持で聞いていた。普通の学生生活を送ることが出来なかった根底には、婚外子であることが影響しているに違いなかったからだ。
「今もね、新しくオープンする店舗の内装を決めていいって言われて店を回って来たの。さっきの人が新店舗の店長で、そこに私が正社員として雇われることに決まったから。ライトとか小物とか、他の店の視察も兼ねてウロウロしたの。一から作り上げる空間に参加できるなんて、本当に楽しい。」
信号が青になって進み始めると共に咲の話し方が弾むように明るくなってきた。そんな咲とは対照に、僕にはイライラした気持ちが込み上げてくる。
「学校の行事も準備の時から休みがちだったから、こんな風にワクワクすることって今までなかった。」
「隣には格好良い男の人が居たしね?」
途切れることのなかった咲の話が、僕のこの一言で途切れた。嬉しさが溢れていた表情が一瞬にして険しくなったことを空気だけで悟ることができても、僕の口はそこで止まらなかった。
「背も高いし、仕事もできそうだし、そんな男と並べて歩けて良かったな。同じ店舗で働けるなんて、これから仕事が楽しみだろ?」
最悪だ。
いくら咲が自分の知らない男と二人で歩いていたからって、その嫉妬心をぶつけてしまうなんて。今の自分では到底敵いそうにない大人を続けて目の当たりにすることで自分の幼さを感じたばかりなのに、尚更子どものようなことをしてどうするのか。
一体、僕は何がしたいんだろう?
「何よっ。」
どこかで冷静に嫉妬心を認めていた筈なのに、咲の泣きそうな、怒りを含んだ一言でハッとさせられ、僕は慌てて振り向いた。
案の定、咲の表情から泣きたさと怒りが窺える。
「ごめん。」
僕は素直に謝った。他に何を言えばいいのかもわからない。
一体、僕はどうしたいんだろう?
渡り終わった横断歩道から数歩しか離れていない歩道、すれ違う人はそんな僕らに見向きもせずに点滅し始めた青信号に慌てて走り過ぎていく。
「あんたにはわからないわよ。例え演じていたのだとしても、普通に学校に通えていたんだから。」
さっきの普通の学生生活を憧れていると言った台詞と共に、咲と出会って間もない頃を思い出した。僕の大学に行きたいと言った時のことを。授業を楽しそうに受けていた時のことを。
「下らないことでも、私には・・・・・」
咲の言葉が途中で消えた。僕が消したのだ。いつの日かと同じように、抱きしめることによって。
「ちょっと!」
あの時と違うのは、僕が無意識にじゃなく自分の意志で抱きしめたこと。そして後ろからではなく、前から抱きよせていること。おまけに赤信号で歩くのを止められた人々が近くに居ることだ。
「ごめん。咲と喧嘩したい訳じゃないんだ。怒らせたいわけでも、悲しませたい訳でも。」
抵抗のない咲は、前と違って震えたりしなかった。ただ困惑はしているらしく、僕の腕を振り払うことも、何か言葉を発するでもなく呆然と僕の腕の中に包まれている。
僕らの周りに人が増えていく。青信号になるまでのせいぜい一、二分程度なのにこんなにも人が集まってしまうこの都会。「撮影?」「カメラどこ?」なんて会話も聞こえてくる。
「馬鹿。」
やっと発した一言に、思わず腕と気が緩んだ隙を見逃さずに咲は僕の腕を軽く振り払い、そして寺に行った時の様に手を握った。
「行くわよ。」
まだ好奇心の眼差しを向ける人々を完全に無視して、真っ赤な顔した咲が僕を引きずるように歩き始める。
僕は完全にどうかしている。恥ずかしさよりも、咲への愛おしさの方が勝っている。どんな理由であれ、握られているこの手を、その手から伝わってくる咲の体温を離したくない。
他に何もいらなくなるという恋を知ってしまった十九歳の終わり。最初で最後の恋になると思っていた僕はまだまだ幼かった。
今はようやく穏やかに思い出せるよ。