十五 梅茶
「今朝のニュース観た?」
「観た観た!すごいよね。」
「今日って雨降らないよね?」
「やる気があれば結構なんでも出来るんじゃないかと思えるよね。」
「昨日の帰りさあ、」
ゴンッ
いつの日かと同じように寝不足な僕は壁に頭をぶつけた後、何事もなかったかのように後ろの席に座る。受講者が多いこの授業は色々なタイプの人がいて、耳から入ってくる話題もさまざま。だけど今日聞こえてくる話の大部分はほとんど同じ内容だった。
テレビをほとんど見ない僕が理解できないのはいつものことで、気にすることもなく睡眠確保への体勢に入る。一人暮らしだったらきっと休んでいたんだろうな、なんて下らないことを考えながら一瞬で眠りの世界へと入り込んでいく。
「でも今の時代じゃあそこまでのし上がれないよねぇ。」
「昨日のドラマさぁ、」
「あの人っていつも一番前にいる一条君?」
「あ、プリント忘れた。」
夢へと落ちていく時、誰かが僕のことを話していることに気が付いた。でも、今更他人の目なんか気にならない。
あっけないものだ。『優等生』は毎日の努力が必要なのに、不真面目になることはたったの一瞬でなれる。でも、その一瞬で今までの自分から脱出することが出来た。
勿論、咲のおかげで。
今まで経験したことのないことがあると動揺してばっかりだけど、少しずつ成長していると思うんだ。だから、咲もこのままじゃ駄目なんじゃないかな?
「今日も絶好調に寝てたね。」
お昼、学食で薫と向かいの席に座ってフライ定食をいつもよりも遅いスピードで消費していく。列が長くないという理由で選んだメニューがやけに胃に重く感じる。
それもそうだ。揚げものだから。
「僕は一体何しているんだろうなぁ。」
「大倉さんのことでまだ悩んでる?」
薫の不意な質問に、箸でつかんでいたフライをキャベツの千切りの上に落としてしまった。それと同時にパン粉が僕の服へといくつか飛んできた。
「あ、ごめん。図星?」
薫。
君は結構思い切って突っ込んでくるタイプだな。
「いや、それは・・・」
違う、と言い掛けて僕は言葉を濁した。咲の存在を知らない薫に違うと否定しても嘘っぽくなってしまいそうで、かと言って咲のことを話す気にはまだなれなかった。
心のどこかでまだ全てを打ち明けることを恐れている僕が居る。
「気を悪くしたらごめん。何も言わなくていいから。」
そう言ってセルフの水をおかわりしに席を立った薫の背中を三秒見つめ、キャベツの上にのっかっているフライをもう一度口に運び始める。やっぱり胃に重くのしかかるフライを諦めずに消費していると、戻ってきた薫が今朝のワイドショーで特集されていたというどこかの会社の社長について話し始めた。朝の教室で耳に入ってきた話題の大部分を占めていた人のことだろう。
「まだ学歴に厳しい世代なのに、すごいよね。」
完食までにえらく時間が掛かった僕に嫌な顔一つせずに薫が熱弁してくれた。話好きが発覚した薫にとっては何も苦ではなかったのかもしれないけど、とりあえず感謝したい。
その夜、僕は静枝さんの居る離れを訪れた。昨日の今日、どんな顔をして咲に会えばいいのかわからなかったけど、あのまま疎遠になってしまうのも嫌だった。
「もう眠ってしまいましたよ。」
落胆しながらもどこかホッとした気分にもなった僕に静枝さんがお茶を淹れてくれた。梅茶のいい香りが身体にすごく染み入って、変な緊張感に縛られていた僕をリラックスさせた。
「伝言があるなら、明日の朝伝えておきますよ。」
昔から変わらない穏やかさで静枝さんがそう言ってくれる。
「ううん、直接話したいだけだから。」
驚く程素直に出てきた言葉に、恥ずかしさはなかった。
「そうですか。」
過剰でなく、いつも通りの会話をするように反応した静枝さんは心なしか嬉しさを感じているように見える。
「いつも何を話しているの?」
お茶をすすろうと思ったが、湯呑が熱くてすぐに机の上に置き戻した。そんな僕とは対照的に静枝さんは美味しそうにお茶をすすっている。いつも家事をこなしているので指が丈夫になってこれぐらいの熱さは何ともないのだとう。
「特別なことは何も話していませんよ。今日は客が多かったとか、新メニューを発売前に試飲できたとか、話しやすい子が居るとか、そんな内容ですよ。」
早々と静枝さんが一杯目のお茶を飲み終えて、急須からまた新しいお茶を注いでいる。僕はまだ熱くて飲めていない。
と、言うより軽くショックをうけてフリーズしてしまっていた。
“話しやすい子が居る ”
僕以外にも気軽に話せる人が居るのだということが僕を落胆させた。咲は母親が死んで頼る場所がなく、仕方なくここに来る羽目になったと言っていた。だから、咲を救うことが出来るのは自分しか居ないと思っていたのに。
でも、話しやすい人が居るなら、バイトが満喫出来ているなら、僕が居る意味は?僕が居る価値は?
親父の子どもかどうか調べるという本来の目的が頭からすっかり消え去ってしまっていたこの瞬間、僕の頭の中にはネガティブな考えばかりがぐるぐると回っていた。
「真一さんのこともよく話しますよ。すごく楽しそうに。」
単純なことに、静枝さんのこの一言で一気に暗い気持ちが吹き飛ばされた。惹かれている女の子に自分のことを、しかも楽しそうにだなんて言われたら嬉しいに決まっている。
「真一さんも咲ちゃんが来てから楽しくなったんじゃないですか?」
ハッとして顔を上げると静枝さんと目がバッチリと合った。怒っているでもなく、悲しんでいるでもなく、ただただ優しい表情の静枝さんと顔を合わせることには何の緊張感も感じず、不思議と僕の心を穏やかにさせてくれる。
「そう、かも。」
やっと持てる程度の熱さになった湯呑の梅茶を一口飲んで、僕はポツリと呟くように言った。咲が来た当初は腹が立ってばっかりだったが、今は素の自分を出せる相手となっている。
「いい顔付きになってきましたね。」
「え?」
二杯目を飲み終えた静枝さんが続けて言う。
「上手く説明できないですけど、表情が随分柔らかくなりましたよ。」
自分では気付いていなかったことを指摘され、僕はどう反応していいのかわからずに黙り込んでしまった。
「咲ちゃんも来た頃に比べると、毎日が楽しそう。ここ二日を除いては。」
僕らのやり取りを把握しているかのような言い方に思わずドキリとするも、咲が素直に甘えることが出来ない性格ということを知っている僕は静枝さんがただ何かを察しているだけであるという考えに行き着いた。
きっとその考えは間違っていない。
「きっと今の咲ちゃんには真一さんが全てなんでしょうね。」
静枝さんが何を意味して、何を考えながら発言したかはわからなかった。
だけど、このままではいけない。楽しそうでないここ二日を三日に延ばしてはいけない、ということを理解するとずしりと僕にプレッシャーがかかった。
「そこまで大袈裟じゃないと思うよ。」
僕が咲の全てではないけれど、少なくとも今は僕のせいで元気がないのだから責任をとらないといけない。
そう意気込んで僕は残りの梅茶を一気に飲み干した。