十一 ドクドク、ドクン
「今日は何時にバイト終わるの?」
可南子と友達に戻れた日の放課後、僕はまた一人で咲のバイト先へと向かった。家には両親が居るし、携帯電話を持っていない咲とはメールをすることも出来ず、かと言って静枝さんと一緒の部屋で寝泊りしている離れへ電話を掛けたり会いに行くのも何だか恥ずかしくて出来ない。
だから咲と話す為にこのバイト先へと来たのだ。
「あと三十分。」
店の壁に掛かっている時計をチラリと見やると、咲は短くそう返事をした。
「じゃあ、店の中で飲みながら待ってるから。」
昨日と同じアイスコーヒーを頼んだ僕のコーヒーに、昨日と同じように蜂蜜を入れてくれている咲は何の返事もしなかったけど、それが「わかった。」という返事だと受け取った僕は窓際の席で四十五分を過ごした。
腕時計を見ながら三十分掛けて飲み終わるように計算されたアイスコーヒーのカップが空になった頃、咲の方を見やると作業を止める素振りもなく、ただ与えられた仕事をこなしている。「時間だよ。」と言いに行きたかったけど、次から次に注文されてくるドリンクを手際よく作り出している姿を見るとそれをすることも出来ず、ただ黙って空のカップを潰りしめたまま席に座っていた。
「次のシフトの子が少し遅れたからね。珍しくないことよ。」
座って四十分が経った頃、咲が一人の男性と交代し、それから五分が経って私服へと着替えた咲がようやく僕の元へと辿り着いた。「遅かったね。」と言うと、混んでいるあの時間帯、すぐに帰れないことは特別なことではないらしかった。
「それで?どうしたの?」
少し疲れた顔の咲が、いつも通りの口調で僕に尋ねてきた。
「あ、あぁ。可南子と友達に戻れたよ。一応報告しておこうと思って。」
「そ、よかったわね。」
咲の柔らかい笑顔を見ると、何だか不思議な気持ちになる。最初は気が強くて生意気で、こんな風に笑ったりしていなかった。そんな咲が笑うと、何故だか心が温かくなる気がした。
「あ、それでさ、お礼も兼ねて今日晩ご飯でも奢ろうかと思って。もしくは何かプレゼント。」
何故か僕の心臓はドクドクと鼓動が早くなっている。可南子を、いや、前付き合っていた彼女とのデートの時ですらこんなに変な拍動をうった記憶はない。
「いらないわよ、プレゼントなんて。」
僕の心臓がドクン、と一回大きな音を立て、体が変に緊張をしていることに気が付いた。
「ご飯も、今から食べて帰るなんて言ったら静枝さんに失礼でしょ。」
足が動かなくなってしまった僕と咲の距離が少しずつ開いていく。次の言葉が出てこない僕は、ただ茫然と咲の後姿に釘付けになっている。一昨日、僕の部屋を出て行く咲の背中は小さかったのに、今の咲の背筋はシャンと伸びていて、僕なんかよりも数倍大きな人間に見える。
「次の土曜日。」
少しずつ小さくなっていた咲のサイズが一定になった頃、前を向いたままポソリと一言だけ発した。
「え?」
「だから、次の土曜日。」
数秒程反応できずにいた僕が聞き返すと、咲がもう一度乱暴に同じ言葉を繰り返した。
「バイト夕方からなの。だからそれまでどこかに連れて行ってよ。」
思わず唖然とした僕を置いて咲はまた歩き出す。
僕が唖然としたのは咲の要望があまりにも予想外だったからだ。だってお礼と言ったら形の残る、例えば有名店の服とかブランドの小物だとかを、咲のことだからそういのは欲しがらないだろうが、とりあえず何か特定のものを要求すると思っていた。それか今すぐ親父に会わせろとか。
それなのに、咲が望んだのは“どこかに連れて行ってもらうこと ”。
本当にそんなものでいいのだろうか?
「いつまでそうしているつもり?」
「へ?うわぁっ!!」
いつまでたっても歩き出さない僕にいらついて、咲が僕の顔を覗きこんでいた。さっきまでは逞しく感じた背中が遠くに見えていたのに、今は咲の顔がドアップに僕の瞳に映り込んでいる。
「そこでボッケー、と突っ立っていたら野良犬にでも襲われるわよ。」
「は?いや、ありえないでしょ。犬は人間のパートナーとも言える存在なんだから。」
「・・・・・・・・」
咲がものすっごく呆れた顔で僕を眺めている。僕はなぜそんな反応が返ってくるのかわからない。
「あんたがボンボンで高級住宅街に住んでいるってことすっかり忘れてた。」
何のことか解明できない僕を置いて咲がまた歩き出す。
咲は高級住宅街で飼われている犬が血統書付きだとか、大人しい犬が多いことを言っていたのだろう。それはただの偏見だと思うが、咲が本当にそう思っていたことすら今の僕には確認することが出来ない。
まぁ、居たとしてもそんな馬鹿馬鹿しい質問に答えてくれたかはわからないけど。
ねぇ、咲。
二人で出掛けたあの土曜日は楽しかった?