くちなし
こんな夢を見た。
私は小さな子供だった。
大好きな母親と共におり、幸せだった。
「可愛い坊や。ずっと一緒にいておくれ」
母親はそう言うと私の頬に顔を寄せた。
私は嬉しくなって笑った。
母親からはくちなしの甘い香りがした。
私は成長していた。
でも傍に母親はいなかった。
いるのは知らない女であった。
私はその女を母と呼んだ。
「いってきます、母さん」
そう言って私は学校へ向かう。
いつもの日常のようだった。
「…坊や」
私は学校へ向かう通りで声を聞いた。
懐かしい母親の声。
振り返ると通りの向こうで微笑む母親が見えた。
「お母さん!」
私は母親の姿を追いかけた。
甘いくちなしの香りがした。
しかし母親には追いつけなかった。
必死に追いかけたにもかかわらず、母親は消えていたのだ。
私はただ立ち尽くすしかなかった。
それから毎日あの通りで母親を見た。
私は毎日追いかけた。
いつか追いつくと信じて。
「お母さん!
どうして?
どうして逃げるのですか?」
私の言葉に母親は悲しい顔をした。
「…お前を連れて行くか迷っているのです」
その言葉に私は驚いた。
「どこへ連れて行くというのですか?」
「遠いところです。
でも幸せなところです」
母親はそう言うと微笑んだ。
私は母親と一緒ならどこへ行っても構わないと思った。
「行きます。
連れて行ってください、お母さん」
私がそう答えると母親は近づいて手を差し伸べた。
私はその手をつかんだ。
小さな手だった。
甘いくちなしの香りが私を満たした。
「今のままが良いのかもしれません。
でも、真実も知ってもらいたい」
母親の触れた手から私に記憶が流れてきた。
父親が帰って来なくなり、悲しむ母親。
知らない女(今の母)がやってきて母親をなじっている。
そうして幼い私を母親から奪い去っていく。
泣き叫び、追いかける母親。
無残にも母親を置いてゆく女。
これは母親の記憶。
悲しい記憶だった。
「私は一人になってしまいました。
その悲しみに耐えることが出来なかったのです。
坊やがいれば、私は生きていけただろうに。
それすらも許されませんでした」
母親の手がそっと私の頬に触れた。
「私と一緒に行くことがどういうことか分かりますね?」
母親の言葉に私は頷いて答えた。
「はい、一緒に行きたいのです」
私から母親を奪った女よりも、この甘い香りのする母親が恋しい。
「可愛い坊や、ずっと一緒にいましょうね」
そう言うと母親は私を抱きしめた。
甘い香りが私を満たす。
私はとても満足したのだった。