プロローグ
ほんのちょっとしたきっかけだった。
放課後の生徒会業務を終え、憧れの旭先輩と二人きりで帰りの廊下を歩いていた時、それは起こった。
いきなり目の前が真っ白になり、貧血かと思ったのだ。
私には貧血の気なんてなかったし、体調も悪くなかったので、突然クラリとして驚いた。
でもその時は、旭先輩との話にドキドキしてすごく緊張していたので、そのせいかもしれないと意識が飛ぶ寸前にうっすらと思った。
…………あれ?
そうしてふと気が付けば、辺りの様子は一変していたのだ。
やけに草臭いなぁと感じたのは、まんま芝生の上に寝転がっていたからで――
普通の女子高校生ならば、土とか芝生とかへダイレクトに寝転ぶなんて、まぁない。たとえピクニック的な事をしてもレジャーシート必須だし。
「やだ、汚れちゃうっ!」
カバリと起き上がったのは違和感とか驚いたとかではなく、それが一番の理由だった。
パンパンと制服のブレザーや髪に付いた土や草を払い落としながら前方を見る。
「え……どこ……ここ?」
なんというか、丘とか草原とかそういった大自然の中といった感じで、青々とした芝地が延々と広がっていた。
お天気はすこぶる良く、どこからか小鳥がピチュピチュとさえずる声が聞こえる。芝は柔らかいし、そこら中にちらほら咲く白い小花も可愛らしい。
のどか……過ぎるんですけど……。
もう意識ははっきりしているし、どこも痛くない。
首をぐるりと回して四方八方を見渡せば、森や山々が広がる景観の中、右手の方に小高い西洋風の建物が幾つか見えた。
……ネズミーランド?
だって、実物の西洋風景色なんてネズミーくらいでしか見たことがない。
ていうか、あれは靴を片方だけ忘れたちょっとドジっ子お姫様のお城だったか。
というか、なんで今私は、こんなところに?
「……う……ん……」
すぐ隣から聞こえた声にぎょっとする。あまりに近すぎて気付けていなかった。
なんと、旭先輩が私の隣で、ごろんとうつ伏せになって寝転がっている。
意識はしゃんとしているつもりだったけど、まだまだぜんぜんボケていたらしい。
「せ、先輩っ!?」
慌てて芝へ両手をついて這いつくばり、先輩の顔を覗き込む。
先輩は左腕の上に顔を乗せていて端正な横顔が見える。微かに聞こえる呼吸の音を確認して、ホッとひと安心した。
私と同じ濃紺のブレザーに濃いグレー地の白ラインチェック柄パンツ。えんじ色のネクタイは、今彼の身体の下になっていて見えないけれど、先輩にはとても似合っていて素敵なのだ。
お~、こんなに近くで見られるなんて~。
ここぞとばかりにまんべんなく眺めていると、爽やかな風がそよぎ、先輩の柔らかい薄茶の髪をふわりと揺らした。
ほんのりシャンプーの香りがして、思わずドキリとする。
ああ、イケメンは自然をも味方につけちゃうんですね。
旭先輩は寝ていても、かっこいい~~~~~~!
いやいや、今は萌え萌えしている場合じゃないんだった……。
でもまさか、こんなイレギュラーで先輩の寝顔をみられるなんて思ってなかったし、憧れの人の寝顔にときめかないはずもなく。
わぁ~、先輩、睫毛長いんだなぁ~。
鼻が高過ぎず低すぎずに、いい感じに整ってるのが素敵なのよね~。眉もきりっとしていながらに優しい雰囲気があって~。ふふふ、イケメンは眠っていても、やっぱりイケメンなんだな~。
もはや先輩の顔がもっと良く見えるようにと自ら芝生へぴったりと寝転び、かぶりつき状態だ。
旭駿馬先輩――
私より一つ年上の西園寺高等学園三年生で生徒会会長。
旭先輩の学園での位置づけは、いわゆる『王子様的存在』というやつだ。
文武両道、頭脳明晰、性格が良くて人徳もあり、優しくてイケメンでお金持ち。
よもや人間の域を超えているといえるほど。
女の子には当然のこと、男の子にまでモテる凄い人。
そんな旭先輩との出逢いは、私が一年生の二学期半ばだった。
「食事中に、ごめんね。弓月凛音さん、だよね?」
お昼休憩に小夏ちゃんときららちゃんとで机をくっつけてお弁当を食べていた所へ、私のクラスに旭先輩がやって来た。
しかも、私へ逢いに――
先輩は既に全校生徒の注目の的で、二年生にして生徒会長だ。
本来、生徒会長は三年生がやるものらしいのだけれど、旭先輩が何事においても『出来過ぎる人』だった為に、周りに推されて生徒会長になってしまった。
当然、異論を唱える者もなかった。
それほどの学園のアイドルともいえる旭先輩が、突然、なんの交流もない一年生の私のような一介の女子生徒を訪ねて来たのだから、クラス中が騒然とした。
向かいに座っている小夏ちゃんときららちゃんも、口をあんぐりと開けていたし。
勿論誰よりも、私自身が一番びっくりしていた。
だって当の私はというと、何事においてもごく普通。いや、上の下くらいか。
などと自分で評するとすれば、実際の周りの評価はそれより下だというので、やっぱり中の上くらい?
大して変わっていないが、その微妙なラインにもすがりたいくらいに、まぁ普通なのだ。
まんべんなく誰とでもそれなりに仲良く出来ればいいし、成績も平均点よりちょっと上なら満足だ。
友達も親友っぽいぞと思える子が二人もいるし、一人っ子だけど両親はほのぼの円満夫婦でごく幸せな中流家庭。
今日のお弁当のおかずが少なめだからって、お母さんがふりかけを二つも入れていたけど、このたらこふりかけは大好きだから全く問題ない。
そう、私は『今の自分』に充分満足しているのだ。
自分で言うのはなんだけど、見た目も悪くない方だと思う。それなりに……。
仮に他の子と違うところを挙げるとすれば、色白で黒髪を腰辺りまで長く伸ばしているところだろうか。
『お前は肌が白いから黒髪が映えるわね。ずっと伸ばしておくといいわ。色の白いのは七難隠すというしね』と、母は私にそう言った。
娘の行く末を案じて、平凡の中にも『小さな良いところ』見出してくれたのだ。
なので、髪を綺麗なアッシュブラウンやらハニーベージュなんかにカラリングする友人達を横目に、私は生まれながらの黒髪を艶やかにキープ。
お蔭で傷みもないし、ふんわりくるんと軽やかにウェーブしている柔らかい髪質のせいもあり、そう重くも見えないらしく周りの評判も悪くない。
自分でもなかなかに気に入っているし。
お母さんの言う通りにしていて良かったと、今になってつくづく思う。母とはなんとありがたいものか。お母さん、ありがとう!
これであとは、ちょっと素敵な彼氏でも出来れば――
「俺、二年の旭駿馬といいます。生徒会長をやっています」
――はい、知ってます。
多分、この学園で貴方を知らない人はいないと思いますよ。
そう思いつつも、私の顔を覗き込んてきた旭先輩の顔がイケメン過ぎて近すぎて、緊張のあまりに箸を持ったまま言葉も出させずフリーズしていた。
数秒後にハッと解凍して、こくこくこくと三度大きく首を縦に振る。
いえいえ、『素敵な彼氏でも出来れば』と思いましたが、旭先輩ほど素敵じゃなくてもいいんです。分不相応というものです。
でも先輩が、『どうしても』おっしゃって下さるのならば、喜んでっ!
「あ、じゃあ。この吹奏楽部の演奏会のしおりを作ったのは、君で間違いないよね?」
旭先輩は右手に持っていた白い用紙を自分の頬の隣にピラリと掲げた。
それは確かに先日、市民会館で行われた吹奏楽部の演奏会前に観客へ配られたしおりで、私が作ったものだった。
というのも、私が朝寝坊して一時限目の音楽の授業に遅れた際、罰として音楽担当の田嶋先生にしおり作りを命じられたからだ。
田嶋先生は吹奏楽部の顧問でもあり、『近々吹奏楽部がボランティアで行う演奏会で使うしおりが必要だから』と説明した。
遅刻した生徒を戒めつつも、その労力を有効活用。田嶋先生の手腕には無駄がなかった。
「実はね。生徒会で書記をやっている桜井さんが引っ越しするんだって。それで急遽新しい書記が必要になって――」
要するに、旭先輩は新しく書記をやってくれる人材を探していた所に、たまたま私が作ったしおりを見て、勧誘に来てくれたらしい。
はい、多分そんなことだろうなとは薄々感づいていましたよ。
「学期途中だし、臨時要員みたいになってしまって申し訳ないんだけれど。弓月さんのこのしおりはとても良く出来ていて、まとめるのが上手な人なんだなって思って。もしよければ、引き受けて貰えないかな?」
結局断る理由もなく、私はあっさりと先輩のオファーを受け入れた。
分不相応と知りつつ、旭先輩に憧れていたのも理由の一つだったけれど……。
でも、こっそり憧れるくらいはいいと思う。
ただ書記という立場を利用して、会議の時に先輩の隣の席に座ったり、生徒会仕事の後に喫茶店でお茶を飲んだり、はたまた昼休憩の作業の合間に私が作ったお弁当を一緒に食べたり、それから稀には二人きりで下校したり。
ちょっとそういうこと、したいだけなんだもん~。
そうして、私が二年生になった今――
旭先輩は三年生になり、もうすぐ生徒会長を引退する。
……先輩が引退したら、もうこんな風に先輩と一緒に帰ることもなくなるんだなぁ。
そんな風に思いながら、この日の放課後も先輩と二人で生徒会室の戸締りをしてから、肩を並べて校門へと向かう階段を下りていた。
先輩は背が高い方で、私は背が低い方だ。
隣に並ぶと、私の頭は先輩の胸辺りになる。
肩が触れ合うほどのこの近い距離だと、見上げなければ先輩の顔は見えない。
旭先輩の隣にいるというだけで、この日はなぜかいつも以上にドキドキしていた。
先輩へ顔を向けることもままならず、ただ少し先の地面を見つめ、時々だけ目の端で先輩の二の腕辺りをちらちらと見るのが精一杯だった。
階段の踊り場にある大きな窓からは傾いた夕陽が差し込み、辺り一面をオレンジ色に染め上げる。
白い壁も階段も、旭先輩も私も――
しん、と静まり返った廊下には誰もおらず、窓の向こうの校庭からサッカー部の子達らしい掛け声が遠くに聞えて、なおさら先輩と二人きりのこの空間を孤立させた。
いつもとは違う特別な雰囲気に空気が緊張の密度を上げ、息苦しくすら感じる。
このままでは心臓が持たない気がして、私は先輩より少し足を速めた。
「……弓月さん」
数歩先に進んだところで、旭先輩が私を呼び止める。
ゆっくりと振り返ると、先輩は窓を背にして立ち止まり逆光を受けていた。
顔が陰になっていて表情は良く見えない。でも、先輩はちょっと真剣な顔をしているように見えた。
「俺ね……弓月さんに話があるんだ」
先輩の頬がうっすら赤く染まったのは、私の気のせい? 夕陽のせい?
それとも――
「……な、なんですか?」
ドキドキと胸が高鳴って声が震える。
このシチュエーションで『話』なんて――
え……うそ……もしかして……告白? 旭先輩が私へ……告白!?
ええっ!? いやいやいやいやでもだってしかしまさかそんな――
そこで突然目の前が真っ白になり、気づけば私達はこの草原にいたのだ。