ハートフル・ノート
まるで桜の花びらのように。
ひらひらと、文字が舞い降りてくる。
「――次に、放送部からのお願いです」
その丸く小さな文字は、僕の目の前に開かれた、ノートの上に降りそそいでいた。
「放送部では今、文化祭用のPRビデオの作成を行っています。各クラス、部活動共に、決められた日時に撮影場所に集合するようお願いします」
マイクに向かって話す僕の視線の先で、ノートの上に文章が綴られていく。紙の上に舞い落ちたそれは、まぎれもなく、彼女の『声』だった。
「撮影の際は、他の声などが入らないよう、皆さんご協力お願いします。では、お昼の音楽をお楽しみください」
手元のスイッチを操作して、僕は音楽のボリュームを少しずつ上げていく。それと入れ違いになるようマイクのボリュームを下げ、完全に音を拾わなくなったのを確認してからマイクに向かって長いため息をついた。
入れ替わりで流れるのは、僕たちがアンケートをとって選んだ『昼休みに聞きたい曲』のアイドルグループの曲だった。
マイクに向かって話すのはいつも緊張する。そんな僕に向けて、ノートの上に降りそそぐ文字はこう綴られていた。
『雅也、だいぶ慣れてきたんじゃない?』
その文字を指さして話しかけてくるのは、隣に座る同じ放送部のまどかだった。あごのラインで切りそろえた黒髪を涼しげに揺らしながら、次々と文字の降りそそぐノートを爪で叩いた。
『最近、雅也の声も評判いいんだよ。せっかくだしこのまま話すほうもやればいいのに』
彼女の紅くぽってりとした唇が動くたび、声のかわりにノートに文字が降る。それを読みながら、僕は返事をした。
「放送はまどかの声がいいんだよ。僕が好きなのはこっちじゃなくて、ミキシングとか機械いじりなんだから」
『でもあたしは雅也の声いいと思うよ? 低くて、深みもあって。色っぽいし』
「色っぽいって、それ褒め言葉?」
『絶賛してるの』
これが僕らの、ペンを持たない筆談だった。
ノートの文字を読んでから話すぶん、いつものようにスムーズな会話はできない。けれど彼女が実際にペンを持って書くよりは、つまることなくテンポよく話すことができた。
『しばらくは雅也が話すことになるんだし、頑張ってね』
僕たちが通う高校の放送部の活動に、昼休みに放送室を使って流すミニラジオがある。みんなが聞いているとは限らないけれど、部員交代で毎日放送するラジオを楽しみにしてくれている生徒もいることはたしかだった。
「みんな、まどかの声を聞きたがってると思うけど」
言って、僕はしまったと口をふさぐ。ちらと横目で見ると、彼女は瞳を翳らせながらも、気丈に唇をとがらせていた。
『あたしだって、早く話せるようになりたいのよ』
彼女の声が出なくなってしまったのは、一月前の事故が原因だった。
○
僕ら放送部員の中で、一番良い声で話すのがまどかだった。
ミニラジオでの絶妙なトークはみんなのウケがよくて、体育祭の進行をつとめるアナウンスははきはきとして聞きやすい。放送部の大会である「全国放送コンテスト」への出場を目指し、日々屋上で発声練習をする彼女の夢はもちろんアナウンサーだった。
我らが誇るまどかの声。それは部活動中に起きた事故で出なくなってしまった。そして声は文字としてあらわれるようになったのだけど、実はこの文字のことは、同じクラスでもある僕とまどかだけの秘密だった。
「まどか、ちょっとそこに立ってて」
文化祭の近づく放送部の活動は、もっぱら生徒会に頼まれたPRビデオの撮影だった。他にも、当日は舞台音響と進行役を頼まれているので、縁の下の力持ちで忙しく実際になにか出し物をする予定はなかった。
本来ならまどかは今頃発声練習にいそしんでいるところだろうけど、声が出ない以上、それをするわけにもいかず僕のビデオ撮影を手伝ってくれる。今日はオープニングのときに使う、スライドショー用の映像集めだった。
ただ単調に撮るだけではつまらない。どこをどう映すべきか、カメラ片手にうなる僕を、まどかは興味深そうに見ていた。
そして、その唇が動く。途端、ぱらぱらと軽い音をたてて、彼女の声が床に散らばった。
しまった、とまどかはあわててその黒い文字を拾い上げる。あたりを見回してほっと息をついた唇から、また声がこぼれて散乱した。
「まどか。いいからノート出しな」
あわてればあわてるほど、廊下に文字が散らばる。カメラを置いて僕が拾うのを手伝うと、まどかはようやく声を出すのをやめて口パクで『ごめん』と言った。
床に散らばった文字は、ノートと違って染みこまずに消えていく。墨のように真っ黒なはずの文字は、時間がたつと溶けるようになくなってしまう。すべて拾い終えるより先に消えてしまった文字は、もしかしたら花びらよりも雪に似ているのかもしれない。
『ごめん、ありがとう』
さしだされたのは、いつもまどかが声のかわりに使うノート。彼女がペンを持って書くときと同じ、女子特有の丸文字が罫線にそってならんでいた。
「誰かに見つかったら大変だよ」
『気をつけます』
ちろりと舌を出して、まどかは立ち上がる。ノートを僕に渡して、いつでも声が届くようにするのが、二人でいるときの会話だった。
なんの装飾もない地味な大学ノートは、まどかのものではない。他のページをめくると数学の公式がびっしりと書かれているそれは、僕が授業で使っていたノートだった。
まどかの声はなぜか、僕の数学のノートにしか反応しない。このノートを開いたときだけ、声は紙の上に行儀よくおさまるのだった。
まるで彼女の声が、僕のノートに移ってしまったようだった。
まどかの声は僕が読み終えると消えてしまうから、ノートのページが減ることはなかった。彼女が僕のノートを没収してしまったため、授業やテスト前には困ることがあるけれど、まどかの声がわりになっているのだからしかたなかいといえばしかたない。
『早くやっちゃおうよ、雅也』
「わかってるよ」
ノートを小脇に抱え、僕は先を歩くまどかに続いた。
筆談は、どうしても彼女の表情が見えなくなる。簡単な会話だけでも唇で読み取りたくて、僕はまどかの唇をじっと見つめた。
なによ、じろじろ見て。と、唇が動く。
「いや、何事もちゃんと目で見て確認しないとだめだなって思って」
ほんと雅也って、映像バカだよね。と、唇が動く。
「いいだろ、放送部の役に立ってるんだから」
自分でそれ言うわけ? と、彼女は笑う。
眉をひそめたり、笑ってみせたり。ころころと変わる表情に、声はない。まるで無声映画を見ているようだと、僕は心の中で思った。
なによ、とまどかが僕を見る。
「いや、よく動く口だなと思って」
その唇が、つんととがって早口に動く。それは彼女がいつも口にしている言葉だった。
どうせマシンガントークって言いたいんでしょ。
「別にいいんじゃない? だから放送部で人気あるんだろ」
よく動く唇ところころ変わる表情が、まどかのチャームポイントだと僕は思う。
そんな僕の言葉を無視して先を歩く彼女が、不意に歩みを止めたのは、人通りの少ない西階段に差し掛かったときだった。
「……まどか?」
文化祭の準備でにぎやかな声が、階下から聞こえてくる。西日が差し込み熱のこもった踊り場を見て、僕はしまったと内心呟いた。
ここはまどかが声を失った場所だった。
ちょうど、同じ時間。階段が茜色に染まるとき。彼女はこの階段から落ちたショックで、声が出なくなってしまったのだった。
「まどか、別のところから降りよう」
だいじょうぶ、と唇が動く。
『落ちたときのこと、覚えてないから。別に平気』
「でも、こわいんじゃないのか?」
『全然。覚えてないから、思い出そうとしただけだよ』
「別に無理して思い出そうとしなくても」
『だって、その時のこと知ってるのは雅也だけなんでしょ?』
「まぁ、そうだけど……」
僕は覚えている。まどかが階段を踏み外し、ここから転げ落ちていったときのことを。
『別にこわくないから。雅也、心配しすぎ』
そう言うなり階段を下りはじめたまどかを、僕はあわてて追いかける。踊り場のターンで、軽やかにスカートの裾を翻す彼女の後ろ姿。それを僕は映像に残したいなと思った。
「まどか、ちょっと待って」
一息に階段を下りきって。まどかはカメラを向ける僕を見て驚いたように目を見開いた。
なに? と首をかしげる。
「これも、使えたら使おうと思って」
やめてよ。睨まれて、僕はカメラを止めた。
本当は撮っていない。ただ、まどかの反応が見たかっただけだ。
「今日はこれくらいにして、帰るか」
もう? と彼女は不満げな表情を浮かべた。
「階段、こわかったんだろ。顔色悪いぞ」
夕陽色に染まった頬を、まどかは両手で包む。本人は気づかれないと思っていたのだろうけど、青ざめているのがばればれだった。
ようやく一階に下りた僕の手を、まどかが取る。そしてゆっくりと、唇を動かした。
手のひらに、文字が降る。
あ り が と う
「……どういたしまして」
まるで雪の結晶のように、手のあたたかさで溶けていく文字を見ながら、僕は無理やり笑みをつくった。
まどかは知らない。
僕のせいで階段から落ちたということを。
「――太田、いるか?」
太田とはまどかの苗字だ。呼ばれて、彼女は口いっぱいにほおばった唐揚げをあわてて飲み込んだ。
昼休みの放送室に入ってきたのは、顧問の小林先生だった。ミニラジオはちょうど音楽を流している最中で、僕らはいつもその時間を利用してお弁当を食べていた。
先生の顔を見て、まどかはあわててポケットからメモ帳とペンを出す。それが彼女の筆談用の道具だった。
「文化祭の進行のことだったんだが、声が出ないようなら早めに誰かにかわりを頼んだほうがいいんじゃないか?」
「――は?」
先に声をあげたのは、僕のほうだった。その横で、まどかがメモに殴り書く。
『文化祭までには出るようになります!』
「そうは言っても、いつ戻るかわからないんだろ? なにもやめろといってるんじゃない。ただ、代役は早めに決めるべきだと思う」
たしかに、先生の言っていることはもっともだと思う。今でこそみんな濁していることだけど、あと少ししたらリハーサルなども始まるようになる。生徒会から渡された台本を、まどかはまだ一度も喋ったことがなかった。
『あたし、どうしてもやりたいんです!』
「太田の気持ちはわかるけど、一応先生としてもこういうことはちゃんと言わないといけないからな」
頭をばりばりとかいて、彼は苦々しい表情で呟く。それは数学の授業で新しい公式を教えるときに見せるのと同じものだった。
「……まぁ、そういうことだから。くれぐれも無理はするなよ」
「――先生!」
放送室にいたのは、ほんのわずか。けれど彼はとんでもない爆弾を落としていった。まどかに次の文を書かせてさえくれなかった。
まって、と唇が動いたのを僕は見ていた。
けれどその声は出ずに、僕たちがつい今し方まで使っていたノートに降っただけだった。
『待って!』
その文字が、虚しく残る。ノートいっぱいに広がった大きな文字は、それだけ彼女が大きな声を出したということを表していた。
どんなに声をはりあげても、文字になってしまえば相手の耳には届かない。悔しそうに唇を噛んで、まどかはそのページを破いてしまった。
そして、音楽がまだ流れている最中だというのに、マイクのスイッチを入れてしまう。フェードアウトも関係なしにぶつりと音楽を止め、彼女はマイクの前で唇を動かした。
「――――――」
けれどそこに、声は届かなかった。
しんと静まり返ったのはきっと、放送室だけではない。学校中に流れていた音楽が突然消え、声もなにもなく無音だけが流れたはずだ。これは立派な、放送事故だった。
「――これで今日の放送を終わります」
とっさにマイクを奪って、僕はそれだけを言った。
スイッチを切り、うつむいたままのまどかを見る。彼女の唇はふるえていた。
なんで、声が出ないの。
「まどか……」
うつむく頭を撫でようとした手を、すんでのところで振り払われた。そのまま彼女は、放送室を飛び出していってしまう。
追いかけようとして立ち上がった僕は、くしゃくしゃになったノートに残された言葉に気づき、その場から動けなくなってしまった。
『雅也のせいで、出なくなったんじゃない』
まどかは声をなくしたときのことを、ちゃんと覚えていたのだ。
○○
まどかが声をなくしたとき。僕は彼女と一緒にあの西階段にいた。
人気の少ない、夕日の差し込む茜色の西階段。僕とまどかの二人きりで、文化祭の打ち合わせをすべく放送室へと向かう途中だった。
いつもなら違う階段を使うのだけど、その日は職員室に寄る用事があったので西階段を使った。そしてPRビデオの構図を決める参考にと、カメラを片手にまどかにモデルをしてもらっていた。
『職員室に用事って、鍵ならもう他の子が小林先生からもらってたじゃない?』
『小林先生に提出してた数学のノート、僕のだけ職員室に忘れたらしくて授業中に返してくれなかったんだよ』
『じゃあそれを取りに行ってたってことね……だからってあたしにそのノート持たせないでよね』
カメラを持つのに邪魔だから渡したのだけど、まどかは部誌のノートと勘違いしていたらしい。中を開いて、数式を見るなり大げさに渋面を作ってみせた。彼女は数学があまり得意じゃないことを僕は知っていた。
『ここで撮影するのってどこのクラス? それとも部活?』
まどかはあれこれ喋りながらも、僕の指示に応じて踊り場に立ってくれる。どの時間帯になると夕陽がどういう角度でさしこむのか、それを知りたくていろんな角度から彼女を撮っていた。
『演劇部だよ』
『演劇部? なら部室でいいじゃない』
『ちょうど今回の見せ場が夕陽のシーンらしくてさ。でも本番は昼間だから夕陽にはならないんだよ。だからPRビデオくらい本物の夕陽で撮影してもいいんじゃないかと思ってさ。背景もかなり力入れて描いてるみたいだけど、撮影までには完成しなそうだし』
僕はカメラをのぞきこみながら、夕陽に染まるまどかの顔をズームで寄せた。
画面に映るまどかが、黙って僕を見つめてくる。彼女が黙るなんて珍しかった。
『……ほんと雅也は、こういうときだけよく喋るわよね』
『いつもまどかが喋りすぎなだけだろ』
『どうせあたしはマシンガントークですよ』
ぷうっと頬をふくらませながら、まどかが近づいてくる。アップになりすぎた顔がついにフレームアウトして、カメラから顔を離すと彼女のいたずらっ子のような笑みが間近にあった。
『たまにはあたしにも撮らせてよ。雅也、向こう行って』
『やだよ。まどか絶対壊すだろ』
『壊さないってば。ほら、貸してよ。あたしもどうやって映るのか知りたいのよ』
無理にでもカメラを覗きこもうとして、まどかの頭が僕の腕の中に入る。ノートを筒のように丸めていて、『クセがつくだろ』と僕はそれをとりあげようとした。
『……あ』
そして、お互い息がかかるほどに近づいていることに今更ながら気づいたのだった。
『ごめん』
抱きしめているといっても過言ではない状況だ。にわかに跳ね上がる鼓動が、聞こえてしまうのではないかと思うほどに。彼女はすぐそばにいた。
『……なんで、あやまるの?』
『いや、近いし』
『近いとだめなの?』
『それは……』
僕の腕の中にいる、まどかの細い身体。鼻腔をくすぐるシャンプーの香りに戸惑い後ずさると、彼女もそれにあわせて一歩一歩前に進んでくる。
ついには踊り場の端までおいつめられて、あと一歩で下り階段が始まるというところで彼女は立ち止まった。
『あのね、雅也……』
まどかが、瞳をさ迷わせながら、僕を見上げてくる。いつものマシンガントークはどこへいったのか、胸にノートをぎゅっと抱きしめて、なかなか次の言葉を見つけられず唇を開いたり閉じたりを繰り返していた。
『あたし……』
そのぽってりとした唇が、とても近くにある。夕陽を浴び、よりいっそう紅く艶めいた唇に目が釘付けになり、僕は自然と、その唇に吸い寄せられていた。
あと、少し。
お互いの息が止まったその時、上の階から誰かの話し声が聞こえてきた。
『――!』
先に離れたのは、まどかのほうだった。
我に返り、近づいてくる話し声から逃げようとあわてて階段を下り始める。けれどおぼつかないその足取りはもつれ、段をひとつ踏み外してバランスを崩した。
『まどか!』
伸ばした手はすんでのところで届かず。彼女はノートを抱きしめたまま、悲鳴を響かせることなく階段から転げ落ちたのだった。
○○○
午後の授業を、僕はサボった。
放送室の鍵を返さず、そのまま残り続けていた。鍵は使用後必ず顧問に返すきまりだったはずなのに、小林先生が僕を探しに来ることはなかった。
まどかが教室に戻ったかどうかはわからない。放送室に置き去りにしたのは食べかけのお弁当と、ノートとすこしの文房具。これがなくても授業は受けられるだろうと、僕はすっかり乾燥してしまったご飯の蓋を閉めた。
防音効果の高い放送室は、しんと静まり返って自分の呼吸がやけに響く。授業をサボって何をするわけでもなく、僕は椅子に縛り付けられるように座り込んでいた。
なぜまどかは、忘れたふりをしていたんだろう。
あの時のことが嫌だったのなら、無理に忘れたふりなんてせずに僕のことを避ければいいのに。彼女はそれをせず、なにごともなかったように僕と接することを選んだのだった。
部活で会うのが気まずくならないようにするためだったのか、それは僕にはわからない。
ただそのおかげで僕は、彼女に謝ることも自分の気持ちを伝えることもできなくなってしまっていた。
「こんなことなら、あの時キスしちゃえばよかったな……」
天井を仰ぎながらひとりごちてみても、声は放送室の無音に吸い込まれていくだけ。いつもはにぎやかなはずのこの部屋も、彼女がいなければ静かすぎて気味が悪かった。
まどかの声が出なくても、ノートで話すだけでも、一緒にいるだけで静かだなんて思わなかったのに。
僕は床に落ちたノートの切れ端を拾い上げ、しわを丹念に伸ばした。声はすっかり消えてしまっていた。
僕と話すとき以外は、まどかはこのノートを使わない。だから、クラスメイトと話すときときも困ることはないだろう。
もとはといえば僕のノートだ。このまま返してもらうべきなのか、それとも、今はまどかの声なのだから彼女に返すべきなのか。切れ端をノートに挟もうとして、僕はそこに浮かんだ文字に気がついた。
『――あんなこと言うんじゃなかった』
「……まどか?」
呼びかけても、返事はない。ただ次々と、切れ端に文字が浮かんでくる。
『ずっと黙ってるつもりだったのに、言っちゃうなんてほんとバカ。あれじゃ八つ当たりじゃない』
最後にまどかが残した声のページではなく、その裏に、次々と文字が浮かんでくる。いつものように降りそそいでは来ない。ノートの内側から湧き出るように、文字がにじみ出てくる。
『声が出なくなったのは雅也のせいじゃないのに……』
次から次へと、文字が浮かび上がっては消えていく。途切れることのないその丸い文字は、まぎれもなくまどかのものだった。
けれど今は授業中のはず。まどかが授業中にこんなにべらべら話すわけがない。むしろこのノートがここにある以上、離れたところに声が届くとも考えがたい。
じゃあこのノートの文字は何なんだろう。
『早く喋れるようになりたい。でもどうやったら声が戻るかわかんない』
「……もしかして、まどかの、心?」
呟き、僕は食い入るように文字を見つめた。
『このままじゃ文化祭にも間に合わないし、雅也に言いたいこともちゃんと言えないよ』
その文字はいつもの彼女の声と違い、たくさん重なって読めないところがあったり、色が薄くてすぐに消えてしまったりする。その不安定さに、僕はノートにまどかの思っていることが浮かび上がっているのだと確信した。
『なんで嘘ついちゃったんだろう。なんで覚えてないなんて言っちゃったんだろう。階段から落ちたこと、忘れてなんていないのに』
「まどか……」
やっぱり、彼女は覚えていた。
『だって、とっさに覚えてないって言っちゃったんだもん。覚えてるって言って、ぎくしゃくするのが嫌だったんだもん』
幼い口調は、まるで母親に叱られた子供のようだ。文字までが子供が書くような拙いものに変わっている。その文字を指で撫で、僕はノートを見るのをやめようと目をつぶった。
このまま見ていれば、まどかの気持ちがわかるかもしれない。
けれど、勝手に人の心を覗いてはいけない。
その葛藤を繰り返し、僕はノートを閉じようとし――結局また、見てしまった。
けれどそれと同時に、放送室のドアが勢いよく開け放たれた。
驚いて取りこぼしたノートの上には、でかでかと大きな文字が広がっていた。
『――見ちゃダメ!』
「……まどか」
肩で大きく息をしながら、彼女は睨むように僕を見ていた。そして息苦しさにあえぐ喉を押さえながら、見たの? と唇を動かした。
「見てないよ」
『うそ』
「見てないって。片付けようとしてただけ」
『うそ。絶対、見たでしょ』
ずかずかと、まどかが放送室に入ってくる。乱暴にドアを閉め、ようやく整ってきた息を落ち着けながら、「今までどこにいたんだ?」と僕が投げかけた質問を華麗に無視した。
『雅也の、ばか。見るなんて最低』
「別に好きで見たわけじゃないし。ノートがどうなってるかなんて、知らなかったし」
あわてて放送室に戻ってきた様子からして、まどかはノートの秘密を知っていたに違いない。自分の声が移ったノートの裏には、自分の心がすべて映し出されてしまうことを。
「階段から落ちたときのこと、覚えてたならそう言えばよかったんだ。ごめんな、嫌な思いさせて」
ノートを閉じて、僕は立ち上がった。
こうすれば、彼女の声は僕に届かない。彼女の顔さえ見なければ話をすることはない。僕は下を向いたまままどかのわきをすり抜け、放送室から出ようとドアノブに手をかけた。
そして頭に、なにかぶつかった。
ぶつかったなにかが、床に落ちてからんと音をたてる。それはひらがなの『ば』だった。
「……まどか?」
振り向いた僕に向かって、彼女は叫んでいた。
ばか。
ばかばか。
ばかばかばか。
その叫びが、文字になって僕にぶつかってくる。手のひらほどもあるその文字は、いかに彼女が声を張っているかがわかる。顔にぶつかる痛みに耐え切れず、僕は「やめろよ」と手のひらでさえぎった。
それでもまどかはやめようとしない。跳ね返って落ちた文字を拾い上げ、僕に向かって投げつけてくる。叫ぶのもやめない。
ばかの嵐が僕を襲った。
「まどか、やめろよ」
ドアにもたれかかりながら、僕は降りそそぐ嵐に目を閉じる。観念してされるがままにしていると、嵐がやむのにそんなに時間はかからなかった。
足音が聞こえて、まどかが僕に近づいてるのがわかる。僕の肩をそっと叩いて、彼女は目を開けるよううながした。
『雅也が、好き』
まだしわの残るノートの切れ端に、小さな文字でそう綴られていた。
『あの時、あたし、こう言いたかったの』
僕はなにも言えず、ただノートにつむがれる彼女の声を読むことしかできなかった。
『雅也に自分の気持ち、ちゃんと言いたかったんだけど、結局言えなかった』
ひらひらとノートに降る、声。それを胸に抱えながら、彼女は僕を見上げてくる。まるであの、階段のときの再現のようだった。
『そうしたら雅也のノートに、あたしの声が移っちゃったみたい』
ノートをさらに強く抱いて、まどかは真っ赤になった頬を隠そうとうつむいてしまう。そして、そっと小さな息をついた。
『ちゃんと、言えてよかった』
「まどか……」
『自分の声で、言いたかったけど』
呟く彼女の頬を、僕は両手で包み込んだ。
まどかの声が好きだった。艶のあるよく響く声も、無限の泉のように湧き出てくる言葉も。そしてその言葉を紡ぐ、唇も。
その唇に、僕はそっと、自分の唇を重ねた。
「僕も、まどかが好きだよ」
「……まさや」
その唇からたしかに発した声に、彼女は目を丸くして自分の喉に手をあてる。そして、大輪の花が開くような満面の笑みを浮かべた。
「雅也が、好き」
はっきりとつむがれた、彼女の言葉。それに僕はうなずき、しっかりと抱きしめた。
胸にあたるのは、彼女の細くやわらかい身体。そして、その腕に抱かれた僕のノート。
包み込むように、僕は抱きしめる。まどかの身体を、愛らしい声を、そして。
彼女の心が降るノートを。
END