毀れるものを愛する
もうずっと、蜜は私の手の甲を指先で撫でている。私はベッドに横たわったまま、無言でそれを受けている。蜜の指は引かれた線をなぞるかのように、寸分たがわぬ軌道を動く。蜜の軌道にある皮膚は既に感覚が鈍くなっている。このままこれが続けば、皮膚が擦り切れてしまうかもしれない。けれど私は無言でそれを受ける。蜜の唇には微笑が浮かんでいる。
蜜は、もうすぐ毀れる。
蜜は自律人形だ。白い硝子のような肌と、海に似た青い瞳、そして蜂蜜色の髪の、少年の姿をした人形だ。髪の色から、蜜と名づけた。幼い私の世話係および遊び相手に、さらには長じたときの恋の相手にと、父が与えてくれたのだ。
私は身体が弱い。私を産んですぐに亡くなった母の、消えそうな命をそのまま受け継いだのか。具体的にどこがどう悪いというわけではないが、どの機能も弱く脆く出来ている。人がもっと獣に近い頃なら、成人することなく淘汰されていただろう。
ものごころがついたころから、傍らにいつも死があった。生の縁をふらふらとおぼつかない足取りで辿り、様々な「かろうじて」という言葉を拾いながら、私は成長していった。急な発熱などで死の方へ落ちそうになったときは、いつでも父の大きな手が、私の手を包んでいた。その力強いあたたかな手が、こちらへと引き戻してくれるようだった。そんなとき父は言葉もなく、私の顔を怯えたようにじっと見つめていた。苦痛は稚い私の日常だったけれど、父が悲しむことだけが、悲しかった。私は父を愛していた。父の大きな手だけで、私は世界と繋がっていた。
けれど父は蜜を与えると、途端に義務を果たしたといわんばかりに私には見向きもしなくなった。私の知らない女性の待つ屋敷へと帰り、私の元へはときたま訪れるだけだった。それも一月に一度、三月に一度、半年に一度、と徐々に足が遠のいた。私が成人した後は、ついに一度も会うことなく、去年亡くなった。もう私という娘がいることさえ、父は忘れていたのかもしれない。
父の唐突な冷たさと、そんな人が私に蜜という素晴らしい贈り物をくれたのだということが、幼い私には不可解だった。だが、寂しくはなかった。もう蜜がいた。
蜜は、私を愛した。そう作られているから。そして私も、蜜を愛した。そうするほかなかったから。
私と蜜は、父がくれた小さな屋敷で、二人静かに暮らしている。蜜は家政全てを一人で切り回し、私の健康を管理し、私の無聊を慰める。蜜といて、私は幸福だ。私の生活は狭く、私の幸福は結晶している。私は私の幸福を、手のひらに乗せて楽しむ。私はその結晶の小ささ、ささやかさを愛している。私には他に欲しいものはない。
だが蜜は、毀れようとしている。何かの明確な要因によって毀れるのではない。蜜を毀すのは、時間だ。
この一年ほど、蜜は動作が不意に止まったり、物事の前後を間違えることがある。私はそれをもう指摘はしない。蜜自身がそれを認識しているのかも、わからない。だが、自分がもう十全の状態、幼い私を託されたあの頃とは違うことは、わかっているのだろう。この頃の蜜の微笑みは、甘さの中に諦めが含まれている。
蜜の指先が、止まる。私は蜜の顔を見つめる。唇の端がぴくりと痙攣し、ゆっくりと浮かんでいた笑みが溶ける。蜜の手が私の手の甲を包むように握る。私は手を返し、蜜の手を握り返す。蜜の肌は柔らかいが、温度がない。その白濁した硝子に似た、光をぼおっと透かす肌も、時の染料をくぐって僅かに黄色みを帯びている。私の肌の色に少し、近づいた。
「僕を修理に出すつもりはないのでしょうか」
そんなことを聞くなんて、もう残された時間は短いのかもしれない。
予感を振り払うように首を振る。そんなことはできない。蜜の手を強く握る。
蜜はゆっくりと、着実に、毀れていく。昔一度だけ父に連れられた海岸で、珊瑚で出来た砂で遊んだ。白い砂をどれだけ硬く握っても、拳から砂は少しずつ、零れていった。もうどうすることもできないのだ。蜜はまだ自律人形の技術が確立される前の、一体一体手作業で調整された作品だ。修理に出して部品を入れ換えてしまえば、それはもう蜜としての記憶も自我も持たない、外殻だけ同じの、全く違う自律人形だ。一度零れた砂は風に吹き散らされ、もう二度と私の拳の中には戻ってこない。
「では、新しい自律人形を買う?」
私はまた首を振る。
「いいのよ」
「よくありません。お嬢様のお世話を誰がするんですか」
「自分でどうにかやっていくわ」
「出来るわけがないでしょう」
私は微笑んだ。
「人間って、蜜が思うより色んなことができるものよ」
たとえば嘘をつくこととか。胸の内で呟く。
「蜜は私が新しい自律人形を買って、その子を可愛がったりしたら、嫉妬しないの?」
蜜は即座に否定した。
「自律人形は嫉妬をしません」
そして嘘もつかない。私は微笑む。
「じゃあ、これは私の身勝手でしかないのね」
「少なくとも、僕は嬉しくはありません」
「知っているわ。でも、私にはどちらもできないの。蜜を愛しているから」
「でもどちらかを選んでください」
「本当に困ったら、きっとどちらかを選ぶわ」
蜜を安心させるための方便だったけれど、口に出した瞬間、私は本当に自分がそうするだろう、という予感に捕われた。私は毀れた蜜だけを抱きしめ続けることなど本当に出来るだろうか。もう二度と帰らないものを抱いて、今度は自分が毀れるのをただ待つ。苦痛を伴うその過程を耐えることなど、本当に出来るだろうか。
私は弱い。知っている。ならばきっと私の愛も弱い。私の愛はいつだって私のためにしかなかった。顔も知らぬ母を愛したことなどないように、身近でなくなった父を思い出さなくなったように。触れられないものを、愛することなどできなかった。蜜だけは違うと、言い張ることはできはしない。
私に纏わるものすべてが、ひどくささやかで、儚い。今手のひらで美しく結晶している愛も幸福も、蜜を失えば輝きをなくし、ただの小石に変わるだろう。それでもきっと、美しいまま時を止める強ささえ、些細な欺瞞と夢の中でしか呼吸をしたことのない私は、持っていない。
私は蜜の頬を撫でる。私がそうしやすいようにと蜜は身体を傾ける。窓から入る日差しが、蜜の髪を透って、蜂蜜の色を持つ。
「蜜が毀れたら、悲しいわ」
私が心から告げることが出来るのは、それだけだった。
「あまり悲しまないでください」
「悲しいわ」
繰り返す私に諦めたのか、蜜は唇を閉ざす。私の胸を、ベールのような不安が包む。最近、蜜の沈黙が、意図したものなのか、それとも機能の停止なのか、咄嗟に判断できない。私は蜜の手を両手で包みこむ。蜜の手は私の両手に合わせて僅かに動く。私は安堵する。だがじきに、蜜の手が私の手を握り返さなくなる日は、来る。避けられない。
つめたい、柔らかい、美しい、精巧な手。作り物の、そして、毀れようとしている手。私はそれを硬く握る。握っている間は、蜜をこちら側に繋ぎとめておけるとでも言うように。かつて父が、私の手を握ってくれていたように。
その瞬間、身体の内に空いていたちいさな洞が、記憶というあたたかい水で満ちて、わかってしまった。何故蜜がここにいるのか。何故蜜が私を愛し、私は蜜を愛するのか。今まで考えもしなかったことが。
それは父が、私を愛していたからだ。父は私への愛を、そのまま美しい一人の少年に結晶させたのだ。毀れそうなものを愛するのは、ひどく苦しいことだから。私の具合が悪くなると、父は何も言わず、ただ怯えていた。父は耐えられなかったのだ。
「愛しているわ」
私は蜜に告げる。蜜は答えない。毀れてしまったのかもしれない、という懸念が胸を突き刺す。苦しい。
「蜜」
「はい」
私は微笑む。蜜も微笑む。安堵と共に、やがて蜜の唇から微笑が去る日が来るのだという予感が、私を苦しめる。だが今なら私はその苦しみさえも、愛せると思った。蜜に纏わる苦しみ全て、愛しいものとして抱きしめられると思った。
蜜は、もうすぐ毀れる。私は知っている。蜜の瞳の色は、初めて会った頃と変わらない。あの日見た海の色が、その瞳には宿っている。幼い私は砂浜にいる。父が傍に立っている。その顔は、陰になっていて見えない。私はその見えない顔を、だが愛している。硬く握った幼い拳から、砂が零れている。少しずつ、だが確実に。潮風に、零れた砂が吹き散らされる。けれど私はその砂を、最後の一粒まで硬く硬く、握りしめている。