俺の朝、僕の朝 後編
「俺の朝、僕の朝」(後編)
『発表会』
僕はとりあえず帰るなりビデオ機材の確認を始めた。確かに、元喜さんの言った通りの場所にあったし、バッテリーやテープもその通りに準備してあった。楽しみにしてたんだろうな。
機材そのものはそれほど複雑なものではないので、僕でも十分に扱えた。さあ、準備万端だ。いつでも、こい!
ということで、僕は書斎のイスでリクライニングし、ゆっくりと息を吐いた。ここ、居心地いいなぁ。いいのかな、こんなにリラックスしていて。
いや、今日だけだ。明日は、恐怖の出勤が待っている。出勤してすぐに体調が悪い、ではちょっとよろしくないので、最初の1~2時間はなんとか凌がなくてはいけない。そのうち調子悪くなった振りをして帰るにしても、問題はその最初の数時間だ。だいたい、行っていきなり何をしたらいいかわからないのだ。掃除とか?朝礼とか?うわぁ、不安だ。
そうしているうちに、一階から声がした。
「あなたー、準備、大丈夫―?そろそろ出かけたいんだけど。」
僕は、イスからがばっと立ち上がって、返事をした。
「ああ、今行く!」
また、大きなアルファードをドキドキで運転しながら、市民会館に到着した。景子さんと美唯は、発表者の入り口があるそうで、僕は一人でホールに入ることになった。
とりあえず「発表会」の案内を見て、2Fに向かう。ビデオカメラを持ってホールに入ると、既に誰かがピアノを弾いていた。僕は、真ん中よりも少し前に席を取り、そこに三脚を構えた。景子さんがきたら、一緒に座って順番を聞かないと、いつ出てくるのかわからない。とりあえず、それ待ちだ。
僕は、流れてくるピアノの流麗なメロディーに身をゆだね、ゆったりとした気分に浸っていた。
ん?子供の発表会にしては、上手いな。ミスがない。
そう思って舞台をみると、弾いているのはどう見ても大人だ。次の奏者も大人。あれ?これは子供発表会ではなかったか?僕は、慌てて三脚をたたみ、一旦ホールの外に出た。一階までダッシュで駆け下り、案内をみると…、発表会は2つある!一つは大人の発表会で、子供発表会は三階だ!
うわぁ、まずい!僕は、大慌てで三階まで駆け上がり、息を切らして「ヤマバ子どもピアノ発表会」と立て看板のあるホールへ駆け込んだ。
中に入ってみると、真ん中へんの席で、景子さんが心配そうに辺りを見回している。僕は急いで駆け寄り、小声で謝った。
「ご、ごめん!会場を間違えて入っちゃった!」
「ああ、よかった!美唯の順番、次よ!」
彼女が慌てた声で囁いた。
僕は、大急ぎで三脚を立て、ビデオをセットした。し終わるか終わらないか、ほぼ同時に次の奏者の紹介が始まった。僕は大急ぎでピントを合わせ、RECボタンを押した。ギリギリセーフ!間に合いました、元喜さん。あぶねー。
美唯の演奏は、『キラキラ星』で、ものの1分くらいのものだった。それでも、親にとって見れば貴重な1分なんだろう。僕には、まだその辺はよくわからない。まぁ、とりあえず録画は出来たので、一安心、ただそれだけだ。
美唯の発表が終わって、僕はほぅ、と小さなため息をついてビデオセットを片付け始めた。
「美唯、上手だったわね。」
横で景子さんが嬉しそうにしていた。まさに母親の顔だ。それでも、母親と言うには若々しい美しさが、この人にはある。僕は少し見惚れながら、ビデオセットを片付けていた。そこで、ふと思い出したように彼女が聞いて来た。
「そういえば、あなた。昨日の晩、寝言でホノカさんって人の名前、呼んでたけど、お知り合い?」
はっ!?
あまりにこの場に相応しくない、唐突な質問に、僕は絶句してしまった。一瞬、あうあう、と顎を震わせた後、かろうじてしゃべることが出来た。
「い、いや、知らないな。」
彼女は、全くこっちを見ないでずっと正面の奏者を見ながら、さらりと答えた。
「そう、ならいいんだけど。」
さりげなくツッコまれないのにも、妙な恐怖がある。僕は、一瞬にして全身から冷や汗がぶわっと吹き出た気がした。
それから、彼女はなにもしゃべらなかった。それが余計に怖い。でも、逆にここで何かこっちから言うのも、言い訳をしているようで勘繰られそうだ。僕は、不安をぐっとこらえて、沈黙を守り通した。
それから彼女は、この話題を一切しなかった。オトナだ。マジでオトナだ。これが穂香なら、僕は今頃メッタ打ちにされて瀕死の状態になっていたことだろう。翌日、その瀕死状態に元喜さんがなっていたことを聞かされて、ゾッとしたのだが…。
帰りの車の中でも、彼女はいつも通りだった。これが「妻の貫禄」ってやつなんだろうか?僕たち、若人にはまだ達することのできない領域だ。
『学生』
昨晩も、随分つらかった。実に。
また穂香からの攻撃を、かわし、かわし、かわし切って、なんとか眠ることに成功した。穂香は、早朝から不機嫌そうな顔で、「ホノカ、1コマ目だから。」と言って出て行った。
俺の方は、2コマ目と3コマ目だ。朝は少しゆっくりだ。いいねぇ、大学生。このへんがのんびりしてて、人生最後のバカンスよなぁ。
俺は、ゆっくりめの朝食を食べて、のんびりと部屋を出た。少しキャンパスを散策してみるつもりだった。久しぶりに貰った、家族サービスもない、本当の休日のようだ。いやぁ、のびのび。って、今頃は信哉くんは地獄かな…。大丈夫かどうか心配だったが、ここで心配してみても始まらない。信哉くんの(というか俺の)携帯に、会社の休みが取れたら明日の朝、また会合をしよう、とメールだけしておいた。
キャンパスは人であふれていた。10時。ちょうど一番賑やかになってくる頃なのだろう。思い思いの格好をした若人たちが、講義を受けたり、サボったり、自由気ままに過ごしている。いやぁ俺も、こんな時代があったねと~♪
で、キャンパスに来たはいいが、2コマ目の土壌学はどの部屋かわからん!しまった、と思いあちこち掲示板のようなものなどを捜したが、サッパリ分からなかった。俺はやむを得ず、学務係に出向いて、恥をしのんで聞くことにした。
「すみませーん、今日2コマ目の農学部土壌学って、どの部屋でしたっけ。」
あ、第2棟一階のC教室ね。OK、OK。
俺は、久しぶりに大学の講義というものを受けた。専門外だけに、ちんぷんかんぷんだ。信哉くんのためにノートでも取っておこうかと思ったが、途中であきらめた。専門用語が多すぎる。いやいや、これと同じ思いを、今、信哉くんはしているのかもしれない。がんばれ!信哉くん!
『社会人』
やばいです!元喜さん!
いきなり、訳が分かりません!ていうか、まずどこに出社したらいいんですか!?
教えてもらった社屋にはかろうじてたどり着いたものの、僕はまず駐車場で迷い、入り口で迷い、そして今は部屋で迷っている。周りの社員は、せっせと階段やら窓拭きやら、始業前の掃除をしている。
僕は、大汗をかきながらマーケティング部の部屋を探した。どたばたと走り回る僕を、周りの社員が不審げな顔で見ている。と、突然社歌が流れ始めた。周りの社員は、掃除の後片付けに入っている。
やばい、やばい!状況はどんどんやばくなっていく。社歌が終わると、皆、自分の部署にさっさと帰って行った。
続いてラジオ体操が流れる。僕はもう、大汗だらだらで走り回る。
やっと見つけたマーケティング部の表示に、大きなため息をついて、ガッと急いで扉を開けた。
好奇の視線が一斉に僕を射た。全員、僕の方を向いてラジオ体操をしている。えっ、花田係長、遅刻?うっわー、恥ずかしい、そんな囁きが聞こえてきそうだ。それでも、僕に隠れる場所はない。だって、僕は僕の席を知らないのだから。
とりあえず、こそこそっと部屋の隅っこに隠れるように移動する。そこで滝のように流れる汗を拭った。だめだ、いきなりこれじゃ、1時間と持たない。
ラジオ体操が終わると、全員起立のまま、朝礼が始まった。僕はまるで隅っこで隠れるように震えるハムスターだった。
朝礼が終わると、それぞれ業務に取り掛かり始めたようだ。僕は、こそこそと誰も座っていない席を順に見て回った。なんだか偉そうな席に座っているオジサンが、不審げにこっちを見ている。ええい!そんなことに構っていられるか!とりあえず、席を捜して座るんだ!
発見!「係長 花田元喜」のネームプレートが置いてある机!
うわ、元喜さん、係長なんだ。そんなの、余計無理ですぅー!
そそくさと席にもぐりこみ、目立たないように小さくなって腰掛ける。斜め前の見た事もない(当たり前だが)男性が、馴れ馴れしく声を掛けてくる。
「係長、どうしたんっすかぁー?珍しいじゃないっすか、遅刻なんて。」
僕は、愛想笑いを浮かべながら、汗を拭いた。
「い、いやぁ、ちょっと体調が悪くてね…。」
すると反対側の斜め前に座っている若い女性が素っ頓狂な声を出した。
「ええーっ、係長、体調悪いんですかぁー?えーっ、プレゼンの準備、やばいのに大丈夫なンですかぁ~?」
「ま、まぁね…」
僕にはもう、なんとも答えようがなかった。座ったまま、ごそごそと机の上の書類をいじっていると、ツカツカと若い男性社員が近づいてきた。
「おはようございます!係長!今度の展示会のレイアウト、素案が出来たのでご相談なんですが!」
僕は、おっかなびっくり答えた。
「お、おう。」
男性社員は、なにか書類を広げようとしたので、僕はとっさに言った。
「と、とりあえずキミの素案で任せるよ。進めてくれ。」
はぁ?といった感じで、資料を広げる手を止めた男性社員は、そうですか…、と不思議そうに席に戻っていった。
続いて、スタタンとスキップを踏むように、若い女性社員が近づいてきた。
「係長~、サンプル出荷の検印をくーださーい。」
ボサッと目の前に、何か冊子のようなものを置かれた。け、検印?ハンコがどこかわかんないのに?僕は、頭を抱えながら言った。
「わ、悪いけど、主任にもらってくれないかな。ごめん。」
えー、面倒臭いー、とぼやきながら、女性社員は席に戻っていった。
いや、これはマジでやばいっす。1時間も持ちませーんっ!僕は頭を抱え込んで、机に顔をうずめた。
その姿を横から見ていた偉そうなオジサンが、声を掛けてきた。
「どうした?花田係長。朝から様子がおかしいぞ。」
誰だろう、このオジサン。課長さんかな、部長さんかな。
「い、いや、ちょっと朝から体調が悪くて、ですね…」
「そりゃいかんな、プレゼンも控えているのに、君がその調子じゃ。」
おおい、帰っていいよって、言ってくれー。
「は、はぁ…」
それからも、僕はなにも出来ずに座っているだけだったが、後から後からいろんな人が現れては、あの見積もりがどうの、このプレゼン資料がこうの、と次々とあれやこれやと聞いて来た。その都度、僕はあらん限りの知恵を振り絞って、また後で、とか、任せる、とか言ってその場を凌いだ。
ダ、ダメだ。もう限界だ。これ以上ここにいては、元喜さんの沽券にも関わってくる。僕は頭を抱え込み、机に突っ伏した。
「おいおい、花田くん。どうしたことだ?そんなに体調が悪いのか?」
そういってポンと肩を叩いたのは、さっき話しかけてきた偉そうなオジサンよりもう少し年を食った少しハゲの偉そうなオジサンだった。こっちが部長さんか?
「は、はい、…朝からもう、まったく…」
ごにょごにょと語尾を濁して、僕はそうとうヤバそうな雰囲気をかもし出した。
その部長さんらしき人は、おいおい、と言いながら隣の偉そうなオジサンに話しかけた。
「田所課長、花田くん、ちょっとこりゃムリだな。帰らせて、病院にでも行かせてやってくれ。プレゼンの方は、誰か代われんかな。」
よしっ!いいぞ!部長さん!話がわかる!
「そうですね、じゃ、プレゼンの方は代わりを探します。花田くん、帰って病院に行きたまえ。」
僕は、待ってました!とばかりに、でも態度には見せずに、頷いた。
「すみません、急にご迷惑をおかけして。では、お言葉に甘えて、帰らせていただきます…。」
ああー、やっとこの場所から解放される!そんじゃ、お先に失礼しますっ!
僕は、そそくさと荷物をまとめて、よろよろとふらつきながら、課長さんと部長さんに頭を下げて、部屋を出た。
うっしゃっ!脱出成功!僕は思わずガッツポーズをしそうになったが、とりあえず車まではよろよろ歩くことにした。
すみません、元喜さん。元喜さんの信用、僕が失墜させたかもしれません。
『3回目の会合』
「…結局、その後、会社に電話して、一週間ほど休みをもらうことになりました。一応、過労その他による心神消耗ということで…。すみません、元喜さんの立場を悪くしたかもしれません。」
信哉は申し訳なさそうに、元喜に詫びた。
昨日、元喜は楽しくキャンパスライフを満喫したのだが、信哉の方は散々会社で苦しんだ挙句、早退し、病院に行った振りをして帰宅したのだ。一応、景子にも過労傾向で体調が悪いから早退し、有休で一週間の長期休暇をもらったと話した。
景子は非常に驚いてはいたが、この際だからゆっくり休んだら、と優しく声を掛けてくれたのである。信哉は景子のこの対応に、心から感謝した。ついでながら、それもあって夜の生活の方も特にサインが出ることもなかった。副作用としてのラッキーであった。
「そうか、…まぁ、やむを得ないだろう。俺が同じ立場でもそうしてるよ。気にするなって。」
元喜は、少し困った顔をしながらも、仕方ないといった風に微笑んだ。今はそれ以外にどうしようもないのだから。
「ホントにすみません。しかし、それにしてもこれは…本当にどうしたらいいんでしょう…。ずっとこのままなんでしょうか。一週間でどうにかなるとも思えない気がしてきました…。」
信哉が本当に弱った顔で俯き、頭を抱えた。
これには元喜も同感だった。このままでずるずる行ったところで、何の解決にもならない。かといって、打開策があるかといえば、正直まったくない。
選択肢は意外に少ない。
その1、このままずるずる今までの生活を続ける。もしかして、これ一択なのかもしれないが、それでは元喜(中身信哉)は職を失うだろう。信哉(中身元喜)は、新たに就職活動をしなくてはいけない。恋人関係も、夫婦関係も、このままだ。不本意極まりない。
その2、暴露する。いっそのこと、気が楽かもしれない。ただ、誰が信じてくれると言うんだ。そもそも、信哉の顔をした元喜が、元喜の顔をした信哉が戻ってきて、今の関係が継続できるのか?会社に行けるのか?大学に行けるのか?証明書関連は?免許証とか、戸籍、親類関係などなどは?困難が多すぎる。
その3、完全に抹消する。二人の存在を抹消して、新たにやり直す。旅にでも出るか?その場合、元喜の方には家族と言う問題が発生する。景子と美唯の扶養をどうするのか?あまりにも現実逃避で、自己中心的だ。こんな無責任な選択はできない。
その4、なんとしても元に戻る方法を探す。病院に…という案は、以前にも2人で検討した通りだ。個別の精神疾病として扱われるに過ぎない。その結果、いろいろなものが破綻する。それ以外で、元に戻る方法があるなら、教えてもらいたいものだ。
2人は、まったく手も足も出なくなって、黙り込んでしまった。
お互い、顔を見合わせながら、はぁー、と大きなため息をついた。
「いやぁー、全く申し訳ないです。」
突然、2人の頭の上で甲高い声がした。
2人がふと顔を上げると、そこには黒衣のひょろ長い男が立っていた。男はまったく今の日本では見かけないような黒のシルクハットをかぶり、もじゃもじゃの髪をしていた。顔は骸骨のように頬骨が張っていて、大きな眼窩に今にも落ち込んでしまいそうな大きな目をした、不気味な顔立ちだった。背は2mはあろうかというひょろ長い体躯だが猫背で、黒く細長いスーツを着て、黒いネクタイを締めていた。
「いやぁー、全くお悩みのようで申し訳ないです。」
男は同じような言葉を繰り返した。
2人がいぶかしそうな顔をして睨むと、男は、慌てたように胸ポケットに手を入れた。
「おおっと、申し訳ありません。名乗るのが遅れましたな。私、こういうものでして…」
そう言って、男は名刺を二枚取り出すと、それぞれに手渡した。
『黄泉葬送振興協会 冥土案内課
課長 死神 髑髏』
名刺には、そう書いてあった。
2人が首をかしげてそれを眺めている間にも、男はしゃべり始めていた。
「いやぁー、こちらの不手際で、本当に申し訳ないことをしました。とりあえず、保障の範囲内で、7日間期限いっぱいの滞在を認めてもらってますんで、ここは一つ穏便に。」
「はぁ?」
元喜が最初に疑問を漏らした。
「あんた、何者だ?不手際だとか、期限だとか、言ってることがサッパリわかんないんだがね。道化なら、他所でやってくれないかな。こっちは色々大変なんだ。」
男は、ポンと細長い手を打った。
「そう!大変でしょう。なるほど、事情がよくお分かりになっておられない。そう言うことですね。わかりました。私が順を追ってご説明いたしましょう。」
元喜はさらに不審げな顔をした。
「はぁ?どういうこった?事情?この今の俺たちの事情か?」
男は恭しく頭を下げた。
「左様でございます。あなたがたは、今、きっちりと入れ替わっていらっしゃる。そのご事情でございます。」
信哉ががばっ!と立ち上がって、男の胸倉を引っ掴んだ。
「なにっ!この事情を知ってるってことか!?」
男は表情を変える事無く、淡々と説明口調で話した。
「まあまあ、落ち着きになってください。私の話で、いろいろ疑問に思っていらっしゃったことが分かってくると思いますので、ここはご静聴を。」
信哉は毒気を抜かれたように手を離し、へなへなとまたベンチに腰掛けた。
「わかった。何でもいいから、教えてくれよ。僕たちはどうなってしまったんだ?」
男は恭しく頭を下げた。
「はい、まず、驚かないでくださいね。お二方、花田元喜様と、宮元信哉様は、4日前の晩に、…」
男は一呼吸置いた。
「お亡くなりになっています。」
「は!?」
2人は声をそろえて叫んだ。
「お亡くなり?お亡くなりって、死んだってことか?」
元喜が上ずった声を、かすれる様に絞り出した。
「はい、左様でございます。4日前の晩、というか早朝ですか、ほぼ同時刻に、お二方は心臓麻痺でお亡くなりになられました。」
2人は絶句したまま、唖然として死神と名乗った男を見つめた。
「これがですねぇ、私の部下がお二方を冥界にご案内する予定だったのですが、あまりに同時刻だったものですからね。」
男は申し訳なさそうにしながら、言葉を続けた。
「まぁ、部下も少々不慣れな部分もありましてねぇ、本来ならお二方とも回収いたしまして、冥界へとご案内するところを、一度に出てこられましたもので、慌てたようでして。」
2人は、ポカンとした顔でその話を聞いていた。
「ちょっと対応に時間を食ってる間にですねぇ、お二方がパニックを起こされたようで、体に戻ってしまったらしいんですよ。しかも、同時刻に出た別の体の方に。」
元喜と信哉はお互いに顔を見合わせて、指差し合った。
「そうなりますと、ウチの部下では回収が出来ませんでねぇ。私のところに報告に来たわけですが、その段階では既にお二方ともお目覚めになっていた、とまぁ、そういう寸法でございまして。」
あまりに荒唐無稽な話に、2人は唖然としていたが、事実2人は入れ替わっているのである。信じない道理はない。元喜も信哉も目をしばたかせながら、お互いを見つめ合った。
男は、伺いを立てるように2人を覗き込んだ。
「お分かりいただけましたかねぇ?」
元喜が、頭をポリポリと掻きながら、眉根を寄せた。そして、かっと目を見開いて死神を睨んだ。
「事情はなんとなくわかった!それはそれで良いとしよう!問題は、今後のことなんだ!入れ替わった理由は分かったから、早く俺たちを元に戻してくれ!」
死神は、少し憐れむような、困った顔をして答えた。
「そうして差し上げられれば一番良いのでしょうが…、そうも行きませんもので。」
元喜も信哉もいきり立って死神に詰め寄った。
「なんでだ!原因がはっきりしたんだ!元に戻ることも出来るんだろ!?」
死神は2人をなだめるように平手で制すると、落ち着いて腰掛けるよう促した。
「申し訳ありませんが、お二方。お二方は、さっきも申し上げました通り、『亡くなられて』いるのです。予定通りであれば、4日前の時点で、冥界へと行かれているはずの方なのでございます。」
改めて死をつきつけられた2人は、思わず目を見開いて、うう、と声を漏らした。
「ですので、本来なら今すぐにでも魂を抜き取らせていただいて、冥界へとお連れせねばならぬのですが、こちらとしましても不手際があったことは事実。お詫びと保障の意味も込めまして、7日間だけ、お二方を現世に留め置くことを許されたのでございます。」
またもや呆然とする2人に、死神は話を続けた。
「そこで部下の責任を取りまして私が参ったわけですが、4日間拝見させていただく限りでは、現世への留め置きの意味がわからない状態での7日間は、無意味であることがわかりました。私は、閻魔大王様に稟議書を上げまして、お二方に事情の把握と、残り3日間の猶予期間を有意義にお過ごしいただきたいとの思いから、ご説明に馳せ参じる許可をいただいたのでございます。」
黙って唖然と聞いていた信哉がここで初めて口を開いた。
「なるほど、本来なら存在しないはずの7日間を、体が入れ替わったとはいえ、僕たちは上手くつかうことを許された、簡単に言うとそういうことですね?」
死神は、にいっと笑って大きく頷いた。
「物分りがよろしゅうございますな。その通りです。もしも私の部下が不手際をせねば、お二方とももう既に冥界にて裁きをお受けいただいている頃でございます。が、幸か不幸か、こちらの不手際で、条件付、つまり体が入れ替わった状態での7日間の猶予を差し上げた、そう思っていただくのが妥当かと。考えようによっては、これはあり得ない幸運でございますよ。」
元喜が、頭をわしゃわしゃと掻き毟って立ち上がった。
「幸運なのかどうなのか、俺にはわかんねぇ!でも、とにかく戻れないんだな?元には!そして、…そして、あと3日後には、俺たちは完全に死んでしまうんだな?そういうことだな?」
死神は、哀しそうな顔で答えた。
「そう、つまりそういうことにもなります。3日後の深夜、私がお二方をお連れに上がります。」
どすっ、と元喜はベンチに尻餅をつくように座り込んだ。なんともいえない、複雑な表情で。
「もしも、今の話を誰かにバラしたら、どうなるんだ。」
死神は平然と答えた。
「どうもなりませんとも。まず、おそらくは誰も信じやしません。信じたからと言って、何もできません。」
元喜は、大きくため息をついた。
「そうだよな、そうだ。わかってたよ。」
死神は、2人を憐れむような、慈しむような、不思議な目で、じっと見ていた。
その幸運とも不幸ともつかない、運命のいたずらに、2人はただその場に立ち尽くすしかなかったのである。
「お話は以上です。私は3日後の深夜まで現れることはございません。あとはどうぞお二方で、最も有意義なお時間をお過ごしくださいませ。それでは、失礼をば。」
そういった瞬間、目の前の男は、突然真っ黒い数十羽のカラスになり、バサバサッ!と目の前から消えていった。
「驚きましたね。」
信哉がやっと口を開いた。
「ああ、驚いた。死んでんのかよ、俺。死んじまってるんだとよ、俺ら。」
元喜の声が、ほんの少し涙声になっているのがわかった。
「戻れないんですね、もう。元には。僕は、穂香を抱けないんですね。もう二度と。」
信哉の声も、ほんの少し震えていた。
元喜が、ぼそりと言った。
「景子に、景子に会いたい。美唯に、会いたい…」
2人は、そのまま俯いてじっと黙り込んでしまった。お互いに隠してはいたが、実は2人とも小さく嗚咽していた。
しばらく、かなり長い間、2人は黙りこくっていたが、それは無為な沈黙ではなかった。やっと事情が飲み込めた2人は、それでも可能な限りの希望を模索していた。信哉は小さく呟いた。
「絶望なんか、してやるもんか。」
『3日間の過ごし方』
「よし、信哉くん、考えよう。あと3日間の過ごし方を。俺たちには、もうそれしかできない。それしか残っていない。」
元喜が、頭を抱えたまま、大きな声で言った。
信哉も、ぐいっと顔を上げた。
「そうですね、元喜さん。お互いに、今の残された3日間を、どう過ごすか考えた方が、よっぽど希望があります。負けるモンですか!」
元喜は顔をあげて手の平を見た。
「自由になるのは、明日から2晩だ。3晩目には、旅立つことになる。この2晩。どう活かす?」
信哉は、爪を噛みながら考えた。元喜も、ごつんごつんと拳を頭に当てながら考えた。
「やっぱり、この格好でもいい。僕は穂香に会いたい。元喜さんもそうでしょ。その格好でもいいから。奥さんと娘さんに、会いたくないですか?」
「そうだな、会いたい。」
信哉は毅然とした顔で言った。
「会いましょう!お互いの家に行くんです。もちろん、愛を表現することはできませんが、会話もできますし、触れ合いも可能です。」
元喜の顔が明るくなった。
「なるほど!そうだな、それがいい!お互いの家に、お互いを招待するんだ。そしたら、堂々と会える!」
二人の顔が、希望に満ち満ちてきた。
死は、誰にも平等に訪れる。
その中で、残された時間を知らされたものは、実は幸せなのかもしれない。
『僕と穂香』
ピンポーン。
小さなマンションの一室の、呼び鈴を鳴らした。
「はぁーい。」
穂香の凛と通った声が、部屋の中から響いた。
「来たのかな。」
「そうだね。多分、花田先輩だ。」
そう話す声が聞こえた。今日の晩は、僕の番だ。このマンションに、城西大学からドクターコースの移籍学生として来た、花田先輩が遊びに来るという設定だ。
穂香が玄関を開けにきた。僕は多分すごく嬉しそうな顔で立っていたのだろうと思う。穂香が、僕を招き入れる。
「どうぞ、信哉の部屋、汚いですけど。遠慮なく上がって下さい。シンくーん、花田さん、来たよー。」
僕の部屋だってば、穂香。汚いはないだろ。心の中で苦笑しながら僕は中に入った。
「花田先輩、わざわざありがとうございます。どうぞ、中に入って楽にしてください。足の踏み場、あんましないですけど。」
そう言って元喜さんは目配せしながら笑った。僕は、もう危うく目を潤ませかけていた。落ち着け、僕。今は、今は、泣くなよ。
「お邪魔します。」
かろうじてそう言うと、僕は中に入った。思わず懐かしそうに部屋を見回してしまう。
「いい、部屋じゃないか。宮本くん。」
「ええ、僕も気に入っています。」
そんな他愛のない会話を、穂香の前ですると、穂香は僕を、ここにどうぞ、と座布団の場所を示した。そして、キッチンの方へと向かった。
僕は小さな声で元喜さんに囁いた。
「本当に、ありがとうございます。もう、嬉しくて涙が出そうです。穂香がこんなに近くにいる。」
元喜さんはにんまり微笑んで小声で返した。
「何言ってんだ、明日はこっちがお邪魔するんだからな。お互い様さ。」
キッチンから、いそいそとカルボナーラスパゲッティを3人分運んでくる穂香。元喜さんはビールを冷蔵庫から出して、テーブルに置いた。
スパゲッティとサラダとビール。シンプルだが、僕にはもう、これ以上の何も要らなかった。
「じゃ、乾杯しましょうよ!ね、花田先輩。穂香も、注いであげて。」
あ、そうか、という感じで、穂香がビール缶のふたを開け、僕の方に差し出した。僕は感無量でグラスを差し出した。トクトクトク、僕のグラスに穂香が注ぐビールが溜まって行く。僕の心の中にも、穂香の香りが溜まって行く。
「じゃ、花田先輩、かんげーい!乾杯~!」
そう言って元喜さんが乾杯の音頭を上げる。
僕は、穂香が注いでくれたビールを一気に飲み干す。もっと欲しい。こんなに嬉しいことはない。
「花田さん、すごーい!いい飲みっぷりぃ!じゃ、ホノカ、じゃんじゃん注いじゃお!」
そういって僕のグラスにまた穂香がいっぱいに注がれる。僕はこぼれそうになる涙をグッとこらえて、大声で笑った。
「楽しいね!こういうの、大好きだ!」
僕は、そういって、きゅっとビールを傾けた。
目の前には、いつも穂香が作ってくれたカルボナーラ。一品料理ばっかりだけど、でも美味しいカルボナーラ。僕は、一口一口を味わうように食べた。
「美味い!このスパゲッティ、最高だよ。アルデンテだね!」
そう言って大袈裟に褒めると、穂香が照れくさそうに言った。
「えへへ、ホノカ、これしかできないの。美味しいですかぁ?照れちゃうな~、そんなに褒められると。」
そんな僕らの会話を、元喜さんは嬉しそうに眺めていた。特に必要以上に会話には入ってこない。できるだけ、僕と穂香に話をさせてあげようというのがよくわかった。僕は心から有難かった。
「花田さんは、結婚とか、されてるんですか?」
穂香が聞いて来た。ここはちょっと答えにくいが、嘘は言わないほうが良いと言うことになっている。
「ああ、一応してます。ははは、妻一人、娘一人かな。」
「そーなんだ、ざーんねん!花田さん、ワイルドイケメンだから、ホノカ、乗り換えちゃおうかなって思ったのにぃ。」
これにはさすがに元喜さんが割り込んだ。不自然にならないようにとの配慮だろう。
「おいおい、穂香、なに言ってんの。カンベンしてよー。」
「だって、シンくん、頼りないじゃん。それにさ、なんかこう、花田さんって、シンくんと同じ香りがするんだよねー。なんか、優しいって言うか、さ。同じような匂いがすんの。なんでかなー。」
女のカンは、げに恐ろしき。
僕は上機嫌で言った。
「そりゃ光栄だ。こんなかわいい彼女を持ったとあっちゃ、妻に殺されちゃうよ。」
景子さんもすごく綺麗だけど、やっぱり僕には穂香が一番だ。
「奥さんかぁ。ね、ね、花田さん、奥さんのお名前は?」
「え?えーと、…」
言ってもいいのかなという感じで元喜さんに目をやると、小さく頷いているのでヨシとした。
「妻はね、景子っていいます。景色の景に子どもの子。」
「ふーん、綺麗な名前。ん?景子さん?どっかで聞いたような…。して、娘さんは?」
僕は大丈夫かな、と思いながら答えた。
「娘は、美唯。美しい、唯一の唯で、美唯。」
「わ、かわいい名前~。みゆちゃんかぁ。何歳ですか?」
「5歳だよ。」
「かわいい盛りですねぇ~。ん?景子さんに、美唯ちゃん?どっかで聞いたような…。」
そこで元喜さんが割り込んできた。
「ま、ま、いいじゃん!どんどん飲もうよ!ホラ、穂香、花田さんに注いだげて!」
「あ、そか、そか!だめねー、若い娘は気が利きませんで、えへ。」
僕は、穂香の隣でずっとしゃべっていた。楽しかった。こんなことなら、もっと、もっと、毎日、毎日、穂香とたくさんしゃべるんだった。
なんで僕は、もっと穂香と一緒に居なかったんだろう。
なんで僕は、穂香をもっと愛してあげなかったんだろう。
笑い涙の振りをして、僕は、実は、泣いていた。
「なあなあ、せっかくだから写真も撮ろうよ。」
そう言って、元喜さんは携帯を取り出した。
「あっ、ホノカのケータイにも撮って!花田さんとのツーショット!シンくん、いい?許してちょんまげー。」
「しゃあないな、いいよ。携帯貸しな。撮ってやるから。」
そういって、穂香の携帯を僕たちのほうに向ける。僕は精一杯の微笑と、ちょっとお酒に酔った勢いを利用して穂香に寄り添った。穂香の香りと髪の毛が鼻をくすぐる。
二人でピースをして、パシャッと写真を撮った。元喜さんは、2枚も3枚も撮ってくれた。これが穂香と映る、最後の写真だ、顔は僕じゃないけど。
たくさん食べた。たくさん飲んだ。たくさん話した。たくさん笑った。本当は、本当は、穂香を抱きしめたかったけど、それは絶対にできない。それだけは分かっていた。でも、いい。元喜さんは、僕に十分に楽しい時間をくれた。
あと、元喜さん、少しだけ僕の我儘を許してください。
「俺からみると、宮本くんと穂香さんはお似合いのカップルだね。見ててわかるよ。お互いが凄く、お互いを好きだってこと。」
お酒もだいぶ進んで、僕は少し酔った口調で言った。
「宮本くんは、穂香さんが大好きなんだね。誰よりも、何よりも。空気でわかる。穂香さんも、それが分かってる。うらやましいカップルだ。」
ごめんなさい、元喜さん。僕の気持ちを代弁させてもらいました。ありがとうございました。これで、もう思い残すことはありません。これが、僕の気持ちです。最後に伝えれて、よかった。
僕自身は、もう穂香には会えないけど、僕の気持ちを今、代弁させてもらったことで、僕はもう十分伝え切りました。本当にありがとうございました。
「こんないいカップルを見ると、泣けてきちゃうね。」
僕は、少し目を潤ませて笑った。
穂香は、すごく、すごく、嬉しそうに僕と元喜さんとを何度も交互に見ていた。
穂香、愛してる。心から、愛してる。でも、これでさよならだ。本当ならこんなこと伝えることすら出来なかったはずなんだ。死神のミスにも感謝しなくちゃ。
穂香、愛してる。愛してる。愛してる。
僕にとって、十分すぎる幸せな夜は、こうして夜が空けるまで続けられた。
『俺と景子と美唯』
翌日の晩、俺は懐かしい自宅の前に立っていた。
ガチャっと信哉くんがドアを開けた。
「ただいまー。昨日言ってた後輩、連れてきたぞー。」
信哉くんがそう叫ぶと、奥から「はぁーい」と、景子の鈴のような声が聞こえた。ああ、景子の声だ。
パタパタとエプロンで手を拭きながら、景子がキッチンから顔を出す。
「ごめんなさいねー、バタバタしちゃって。どうぞ、汚いですけど、遠慮なく上がってくださいね。」
俺は、『お邪魔します』と言って、玄関を上がった。
「まぁ、入って。」
少しぎこちなく信哉くんが、俺をキッチンに招き入れた。景子は食事の準備をしていたようで、慌しくキッチンで動いている。景子、いいんだ、そんなにしてくれなくても。ただ、そばにいてくれれば。
「ごめんなさいね、もう全部出来ますから。あなた、付きだしと枝豆、置いてあるから、先に宮本さんにビールを出してあげて。」
信哉くんは、ああ、と気付いて、冷蔵庫からビールを山ほど持ってきた。俺は小声で言った。
「おいおい、こんなに飲ます気かい?」
信哉くんは、ニヤリと笑って小声で返した。
「いいじゃないですか、たっぷり飲んで、今日は泊まって行っても。」
「おいおい、穂香さんに怒られちゃいますけど?ははは。」
景子が料理を運んできながら、楽しそうに言った。
「あらあら、男同士で何のコソコソ話?」
すかさず俺は言った。
「いやぁ、花田さんに、綺麗な奥さんですねぇ!って言ってたんですよ。」
「あらやだ、本気にしちゃうわよ。宮本さんからしたら、もうオバサンよ。」
俺は調子に乗って景子を褒めた。今日は、昨日と逆で、俺が少し我儘を言わせてもらうと信哉くんにも言っていた。もちろん、信哉くんは全力で応援すると言ってくれた。
「そんなことないですよ!こんな綺麗な奥さんがもらえるんだったら、僕なら10歳や20歳差があっても全然平気ですね。」
景子は機嫌よさそうに答えた。
「まぁまぁ、お上手。」
ははは、と和やかな笑いがリビングをこだました。その時、奥からトテテテと走る音が聞こえた。美唯だ。
美唯は、リビングに走りこむとそのまま景子の方に走って行き、後ろに隠れるようにしがみついた。まだ初めての俺を警戒しているようだ。
俺は、景子の足の横から顔を覗かせる美唯に、ばぁ、とか、うぉー、とか、ひょうきんな顔をして見せた。美唯が、クスッと笑った。
料理が並べられて行くと、信哉くんが切り出した。
「今日は、景子の絶品料理を食べてもらおうと思って準備してたんだよ。な、景子。宮本くん、景子のポークピカタは絶品だよ。チーズがたっぷり入ってて、美味いんだ。是非、食べてくれよ。」
そう言って、信哉くんはちょっとだけ目配せをした。最初に情報交換をした時のことを覚えていてくれたんだな。俺は、久々に景子のポークピカタを食べられることに、感激を覚えた。ポークピカタは、チーズを豚肉で巻いて、玉子を衣にして焼いた料理だ。景子のそれは、チーズがたっぷりで、一口食べるととろぉりとチーズが出てきて、たまらないのだ。
俺は、景子と楽しく会話をしながら、絶品ポークピカタを待った。そうしていると、いつの間にか美唯が俺のそばに来ている。最初はお父さんの姿である信哉くんのそばにいたのだが、いつの間にか俺のそばに来ていた。
「かぁか、この人、とうちゃんのともだちー?」
景子は笑って答えた。
「そうよー。おともだち。カッコイイお兄ちゃんでしょう?」
美唯は、じっと俺の方を見ると、ニッと笑って言った。
「なんかね、このおにいちゃん、とうちゃんとおんなじにおいがするー。」
そう言われて、俺は目頭が熱くなった。
思わず両手を広げて、美唯の方に手を伸ばした。美唯は、一瞬躊躇したが、すぐにニッと笑って、そのまま俺の腕の中に突進してきた。
「あはははは!ほうら、高いぞー!」
そうやって、高く美唯を持ち上げてやる。キャハハハ、と楽しそうな笑い声をあげる美唯。微笑ましそうに、その光景を眺める信哉くんと景子。
ああ、俺はまた、もう一度、美唯を抱くことが出来た。美唯、美唯、俺と景子の結晶!俺はあふれそうになる涙をぐっとこらえて、美唯を抱き上げ続けた。
何が気に入ったのか、美唯はずっと俺のそばにいた。
「ははは、これじゃ父さん、かたなしだな。」
そう言って信哉くんが苦笑いした。でも、もちろん自分の方に呼び戻す気なんかないのだ。そう、ずっと俺のそばにいていいのだ、と信哉くんの目は言っていた。
俺は、テーブルに並べられた豪華なもてなし料理に手をつけた。どれも絶品だ。さすが景子だと、俺は褒めたくて褒めたくて仕方なかった。
俺は、今まで景子の手料理をそんなに褒めたことがあっただろうか。
なんでもっと褒めてやらなかった。
なんでもっと美味いと言ってやらなかった。
なんでもっと、俺のためにありがとう、と言ってやらなかった。
思わず悔やまれて涙があふれそうになった。
「これ、美味いです!最高の味ですよ!」
俺は、泣きそうになるのを誤魔化すように叫んだ。
「なんか、もう美味すぎて泣けてきちゃうなぁ!」
景子は優しく微笑んだ。
「そんな、言いすぎよー。ねぇ、あなた。あなたは、褒めてくれたことなんてないもんね。」
信哉くんは、バツが悪そうに鼻の頭を掻いた。
「このポークピカタ、すんごい美味いです!今まで食べたことがない!」
景子は照れくさそうに、手をひらひらさせた。
「そんな、宮本さん、褒めすぎですって。何も出ないわよ?ふふふ。」
景子が、妖艶な笑みを浮かべた。思わずドキリとして景子を抱きしめたくなったが、おっと、ここはそれはできない。
ひとしきり食事を食べ、飲み、話も弾んだ頃、美唯が俺の足を引っぱった。
「おにいちゃん、あそぼー、ねー、あそぼー。」
それを見て景子が美唯にちょっと厳しい顔をした。
「こら、美唯!お兄ちゃんを困らせないの!」
俺は立ち上がって、景子を制した。
「いいんですよ。酔い覚ましに、少し遊ぼうかー、美唯ちゃん。」
「やたー!」
そうして俺はリビングに転がって、美唯と遊んだ。飛行機をしたり、ブランコをしたり、久しぶりだ。
美唯と遊ぶなんて久しぶりだ。
そして、もう遊べない。
美唯とは、もう遊べない。
この子の成長を、俺は見守ってやることができない。
小学校の姿を、中学校の姿を、高校生の姿を、大人になった立派な姿を、俺は、俺は、見ることができない。
流すまいと思っていた涙が、俺の目から溢れ出した。止めることはできなかった。
「あれー?どうしたの?おにいちゃん、ないてるー。」
俺は慌てて涙を拭って、取り繕った。
「あはは、美唯ちゃんとの遊びが楽しくて笑い涙がでちゃったよ!」
俺は、席に戻って残った料理をつまみながらビールを飲んだ。
「ああ、いい家庭だなぁ。僕も、こんな家庭が作りたいですよ。綺麗な奥さんをもらって、かわいい子どもを設けて。」
景子が、あら、と言って口を挟んだ。
「宮本さんには、彼女はいらっしゃらないの?パッと見、すごくイケメンなのに。」
俺はちらりと信哉くんの方を見ながら答えた。
「います、一応。穂香っていいます。できれば彼女と、こんな家庭が築けたらと思っています。」
「そう、ホノカさん、っていうの。あら?どこかで聞いた名前ねぇ。でも、大丈夫、築けるわ。だって、宮本さん、この人と同じような香りがするもの。だから、大丈夫。」
ああ、景子、景子、こんなに間近にいるのに、抱きしめられないなんて。
景子、景子、愛してる。愛してる。
こんなに愛していても、俺は明日にはここを旅立たなくてはいけない。
お前と美唯を残して旅立つなんて俺にはできない!
でも仕方ないんだ。景子、心から愛している。
景子、景子、景子!俺の心は、金切り声のような雄叫びをあげていた。
もう少しだけ、もう少しだけ景子と一緒にいたい、そう願う俺の心を読み取ったかのように、信哉くんは、朝までこの宴を閉じようとはしなかった。
『最後の会合』
残された2晩の夜は空け、残すところは今日の深夜までとなった。
二人は、少し二日酔い気味の頭で、朝から公園のベンチに座っていた。
「哀しいですけど、有意義でした。穂香とあんなにいっぱいしゃべることが出来た。本当は死んでいるのかと思ったら、有難くて。元喜さん、ありがとうございました。」
信哉は、深々と頭を下げた。元喜はいやいや、と手を振りながら同様に礼を言った。
「礼を言うのはこっちも同じさ。昨日は美唯ともたくさん遊んだ。景子ともたくさん話すことが出来た。触れられないのは哀しいけど、それでも、俺たちは幸運なのかもしれない。なぁ、信哉くん。」
信哉は、少し微笑んだ。
「そうかもしれません。死は不幸ですが、その不幸の中でも、別れの一つも告げられないで死んで行く人より、よっぽど幸せです。」
二人は、うすく微笑みながら、黙ってベンチに座り続けた。
ふと、思い立ったように信哉が提案した。
「そうだ!元喜さん、何か買いに行きませんか。」
元喜は、不思議そうな顔をした。
「何か、って?」
「お互いに、愛する人に贈るものですよ。選ぶのはそれぞれが愛する人に。渡すのは、お互いが代行して。今日の夜なら、最後に渡せますよね。死神がくるのは深夜ですから。」
元喜の顔が明るくなった。信哉は必死で穂香さんに何かしてあげたいと考えていたのだろう。若い。想いが一直線と言うのは、素晴らしいことだ。
「いいな。そうしよう。今から、買いに行くか!お金は大丈夫かい?ナンなら、俺のカードから貸すぜ。返すときはもうないかもしれないけどな、ははは。」
信哉はあらかじめ交換していた自分の財布を出して、ポンと叩きながらにこりと笑った。
「大丈夫です。僕の全財産を注ぎ込んででも。じゃ、行きましょうか。僕のオンボロワゴンRでよろしければ。」
二人は、勇ましく立ち上がった。
本当にオンボロなワゴンRに、男2人がぎゅうぎゅうに乗り込んで、2人はちょっと高級そうなジュエリーショップへと向かった。ショッピングモールの中に設けられたその店は、高級そうな宝石、ネックレス、指輪などが、綺麗にディスプレイされていた。
二人は、それぞれの想いを込めて、品を見定めた。穂香には、絶対赤が似合う。ルビーとダイヤモンドの指輪?景子は落ち着いた宝石がいい。青系統なんかもいいかもしれないな。二人は、その間、なんとはなしに幸せだった。死んだはずの自分が、愛する人に物を贈れる。そんな喜びが滲み出ていた。
結局、信哉はルビーを基調に小さなダイヤモンドをあしらったネックレスを、元喜は大きなサファイアが存在感を感じさせる指輪と、小粒のパールの少し小ぶりのネックレスを、それぞれ買い求めた。
二人とも、とても満足だった。
「こっちの指輪は、景子へだ。で、こっちのネックレスは、まだ少し早いけど、美唯が中学か高校くらいになったらつけるように、パールのネックレスだ。よろしく頼む。」
「僕の方は、このルビーのネックレスです。お願いします。」
お互いに、買ったものを交換し合った。今晩、これを渡す。愛の証に。
二人は、元の公園に戻っていた。交換する情報も、もう何もない。ここでお互い別れたら、次に会うのは死出の旅でだ。死神の元で、また会えるだろ、と元喜が笑い飛ばした。
そろそろ、それぞれの自宅に戻ろうかというころ、元喜が、意を決したように信哉に向き直った。
「信哉くん、非常に申し出にくい話があるんだが…」
信哉は、なにごとかと不思議そうな顔をした。元喜は、少し握り拳を震わせながら、言おうか、言うまいか、まだ少し悩んでいるようだった。それでも、目を瞑り、大きく深呼吸をしたかと思うと、カッと目を見開いて、上を向いた。
「信哉くん、お願いがある。」
元喜は、もう一度大きく深呼吸をした。
「今晩、…景子を、景子を抱いてやってくれないか。」
信哉は、一瞬何を言われたのか分からなかった。元喜が何を言わんとしているのか、本当につかめなかったのだ。
「?、も、もう一度言ってください。言葉の意味が、わかりませんでした。」
元喜は、少しうなだれたかと思うと、ニッと無理に微笑を作りながら、顔をあげて言った。
「今夜、景子を抱いてやって欲しい。」
信哉は慌てた。理解が出来なかった。
「ど、どういうことですか?僕ですよ、元喜さんじゃない、僕なんですよ?元喜さんは、構わないんですか?」
「そうだ、でも体は俺だ。景子にとっては、キミは俺なんだ。」
言葉を失う信哉に、元喜は続けた。
「信哉くんにはわからないかもしれない。でも、俺は、景子をこんな寂しいままで一人ぼっちにさせたくないんだ。」
少しの沈黙が訪れた。
「ぼ、僕には、無理、です…。」
絞り出すように信哉は答えた。それが精一杯だった。
元喜は、少し苦々しそうな顔をしたが、すぐにもとの顔に戻って続けた。
「俺は景子を心から愛している。景子も俺を愛してくれている。このまま俺は消え去ってしまうというのに、それじゃあまりにも景子が寂しすぎる。せめて最後に、景子を満足させてやりたいんだ。中身が違うのは分かっている。でも、景子には、どう見たって俺なんだ。俺から愛してもらっているという実感を残さないままに、あいつを一人ぼっちにしたくないんだ!」
元喜は、目に涙を溜めていた。
「これは、本当に正しい決断なのか、俺にもわからない。ただの俺のエゴかもしれない。でも、考えに考えた挙句、俺はそう答えを出した。どうか、どうか、俺になりきって景子を抱いてやってくれないか。」
信哉は、震えながらどう答えを返していいものかわからなかった。元喜の言い分もとてもよくわかる。しかし、人の妻を抱くなんて、考えられない。ましてや、その決断は、自分には出せない。
答えを渋る信哉に、元喜が深々と頭を下げた。
「どうか、頼む!キミには無理なお願いだと承知している。我儘勝手なお願いだと言うことも承知している。だが、どうか、どうか、景子をこのまま一人ぼっちにはさせないでやってくれ!頼む!」
信哉は、大きくため息をついた。そして、ようやく次の言葉を絞り出した。
「僕には、そんな決断はできません。」
ごくりと唾を飲み込んだ信哉は、やっと次の言葉を続けることが出来た。
「仮に、同じように穂香がこのまま一人ぼっちになったとして、確かにそれは寂しいことだと思います。でも、もし中身の違う男性に抱かれたと彼女が知ったら、それは彼女の心を裏切ることになると、僕は思うんです。元喜さんの考え方も否定はしません。できません。景子さんを愛してこその、ある意味尊敬できる決断だと思います。でも、僕には…」
元喜は、頭をあげてうすく微笑んだ。
「多分、信哉くんならそう答えるだろうと思っていたよ。キミは本当に真摯な男だな。景子を抱くことで、その自分の行為が穂香さんへの裏切り行為になると、そうも思っているんだろう?」
信哉は、ゆっくり頷いた。
「…はい。どちらに対しても、精神的に裏切っているような背徳感を感じてしまいます…。」
元喜は、少し頭を掻きながら、小さくため息をついた。
「やっぱり、無理な相談だったか。」
そう言って、ベンチに腰掛けた。信哉は、じっと俯いたまま考えていたが、やがて同じようにベンチに腰掛けた。しばらく、じっと俯いていたが、ポツリと漏らした。
「元喜さんの気持ちは、よくわかります。」
信哉は大きく一息ついた。
「残されたものにとって、それはとても大切な思い出ですよね…。僕たちは、今晩死に行きます。しかし、景子さんは、穂香は、現世に残って、その悲しみを乗り越えていかないといけない。そんな重荷を背負わせるのに、愛の形の一つも残してあげられないのは、悲しいことですよね…。」
信哉は、そのままじっと考えていた。ふるふる、と頭を振ってまた話し始めた。
「僕に、元喜さんと同じ決断はできない。穂香を抱いてくれとは…。でも…、元喜さんの、景子さんの気持ちに応えてあげることは、できないことではないような気がします…。」
ふぅ、と息を吐いて、信哉は言った。
「すみません、もう少し考えさせてください。」
20分ほども沈黙しただろうか、信哉はそのうなだれた頭をゆっくりと持ち上げた。
「僕は…、僕は、元喜さんになります。なり切ります。」
信哉は、決意したようにぐっと顔を上げた。
「元喜さんの、景子さんの気持ちに応えます。僕を殺し、僕は、今晩、元喜さんになってみせます。」
元喜は、その頼もしい青年の横顔に、心から畏敬の念を抱いた。
「ありがとう、信哉くん。すまない、無理を言って。」
信哉は、にこりと笑って元喜を見た。
「逆に、穂香を抱いてくれとは、僕には言えませけどね…。」
「そんなことはわかっている。キミがそんなことを言うとは思っていない。だから俺はただ、贈り物を渡す。そして信哉くんの愛も、俺に出来る限り伝えるつもりだ。ただ、抱きはしないが、肩を抱きしめるくらいのことはしてあげてもいいかな。」
元喜は、可能な限り真剣な顔をして、しっかりとその気持ちを受け止めるように答えた。
「はい、それは構いません。でないと、逆に穂香が寂しすぎますしね。」
価値観の違う二人が、お互いに意見を尊重し合って、それを遂行する。苦しい選択もあるだろう。しかし、それは新たな旅立ちへの試練でもあるはずだ、二人はなんとはなしに、そんな感覚を抱いていた。
『穂香』
俺は、手の中に信哉くんから託された想いを握り締め、マンションへと帰った。
扉を開けると、そこにはいつものように穂香がいた。待ちわびていたと言わんばかりに、玄関の音にくるっと反応して、猫みたいに反転した。
「おそかったじゃーん、まったくホノカをほっぽり出して、そんなに花田先輩と仲良くなっちゃったのー?」
少しぶすっとしたように、頬を膨らませて穂香が文句を言った。
「悪い、悪い。いろいろ話してたら、こんな時間になっちゃったよ。」
「ちぇっ、結局ホノカは一人ぼっちだよ。シンくんのいけず。」
“一人ぼっち”という言葉に、思わず反応してしまった。そう、彼女は明日の朝、完全に一人ぼっちになってしまうのだ。愛する信哉くんを失って。俺にはそれが辛くて辛くて仕方なかった。
「なぁ、穂香。またスパゲッティ、作ってくれよ。」
穂香は、ええー、といううんざり顔で不平を言った。
「面倒臭~い、シンくん、自分で作ったらいいじゃ~ん。」
「いや、穂香の作ったスパゲッティが食べたいんだ。」
俺の言い方が随分真剣だったからか、穂香はキョトンとした顔で俺を見た。
「どしたの、シンくん。いつもなら『またスパ?』とか言うのに。だいたい、こないだの残り物しかないから、またカルボナーラになっちゃうよ。いいの?」
俺は、ニッコリと微笑んだ。
「いいんだ、カルボナーラで。穂香の作るスパゲッティが一番いいんだ。」
穂香は、少し照れたような顔になって、エヘッと笑った。
「ナニ、ナニ~、今頃ホノカのアルデンテに目覚めたか~?おっそいよ、シンく~ん。ヨシヨシ、じゃホノカさま特製のカルボナーラを作ってしんぜよう。」
得意げな顔をして、穂香はキッチンへと向かった。
考えれば考えるほど、彼女が不憫で仕方なかった。そして、彼女に心から会いたいであろう、信哉くんの気持ちを思うと、胸が張り裂けそうだった。でも、今はそれを顔に出してはいけない。
俺は、彼女に何を残してあげられるだろうと考えた。彼女は、景子と違って独身だ。まだ大学生で、子供もいない。背負うものは特にない。ならば、信哉くんとの想いを胸に残しながらも、それでも前向きに明るく生きて欲しかった。
信哉くんの気持ちはわからないが、いつかはこの悲しみを乗り越えて、新たな出会いや人生を紡いで行くのだ。自信を持って生きて行ってもらいたい。そのためにも、彼女には、「愛された」という記憶と確証が必要だ。
「愛された」ことがある人は、その人を失っても自暴自棄になってはいけない。なぜならば、自分を蔑んだ時点で、その自分を愛した人を蔑んでいることになるからだ。それに気付けば、人生はもっと明るくなる。私は愛された。あの人に愛された。それが、人生の糧になる。
少々お世辞めいていても、穂香に愛を伝え、そして自分は愛される資格があるのだと気付いてもらいたい。俺はそう考えていた。
「はいよー、オーダープリーズ。特製カルボナーラでっきあっがりぃ~。」
「待ってました。」
俺は、とっさに笑顔を作って穂香を見た。ふふふん、と自慢そうにしている。早速、フォークを片手に食べ始める。
「美味い!やっぱし美味いよ、穂香のカルボナーラは!ビール!ビールちょうだい!」
「はいはいーっと、ビール一丁!お待ちっ!」
穂香は上機嫌だ。この子は明るい。明るいのが一番だ。
「穂香も、呑も!ホラ、一緒に呑もうよ!」
えへへ、と嬉しそうにグラスとビールを持ってきて、お互いに注ぎ合う。この時間が、幸せなのだ。これこそが幸せなのだ。このかけがえのない幸せを、最後にしっかり味あわせてあげたい。
「美味いっ!カルボナーラも、ビールも、穂香も、最高っ!」
「うふっ、ホノカも食べちゃう?」
おっと、そこはかわさねば!
「穂香は食べちゃわない。だって、僕の宝物だから。大事にとっとく!」
「ちょっとやかましい宝物だねぇ、シンくん!」
わかってるんだな、自分のこと。でも、この上機嫌が、今の俺には最高に嬉しい。信哉くんがこの場に居れたら、どんなにか喜ぶだろう。何の躊躇もなく、信哉くんが彼女を抱けたなら、どんなにか幸せだろう。
それでも、彼はキミに会う事無く、この世を去る。哀しいがそれは覆らない。だから俺は伝える。キミを愛していると。
「やかましくても、宝物は宝物だ!愛してるんだから、しょうがない!」
おお、と穂香が目を丸くした。
「どしたの、シンくん。今日はやけに積極的発言が多いねぇ~。」
ちょっと勢いに乗りすぎたか?
「でも、ホノカ嬉しいな。最近、シンくん、エッチしてくれないんだもん。ホノカ嫌われたのかと思ったりしてさ。」
ここは、それを論点にしたらダメだ。
「エッチするしないじゃない。だって、僕は穂香を必要としているんだから。穂香を愛しているかどうかが問題なんだ。そこには絶対の自信がある!誰にも負けない!」
俺は力いっぱい、穂香を愛していることを表現することに努めた。
「そ、そうだよね。シンくん、ホノカがいないとダメなんだからさぁ~っ」
えへへ、と穂香が照れくさそうに言った。
「そう!僕は、このカルボナーラと同じくらい、穂香を愛している!」
「なにーっ、ホノカとカルボナーラを一緒にすんなーっ。」
二人は笑い転げながら、床を、テーブルをたたいた。これが幸せだ!穂香、忘れるな!幸せの味を。キミを心の底から愛してくれる人がいる、という事実を!それさえ忘れなかったら、キミは強く生きてゆける!
カルボナーラを平らげ、ビールを何本も飲みながら、二人は他愛もない話でケラケラと笑い転げていた。それでよかった。最後の夜は、これでいいんだ。幸せを、思う存分満喫するといい。
俺は、散々笑い転げたあと、少し真顔に戻って穂香に声を掛けた。
「穂香、実は、こんななんでもない日に、こんな幸せな気分であることを記念して、プレゼントがあるんだ。」
俺は、信哉くんが準備したプレゼントを、手に持った。
「穂香、ちょっとこっちにおいで。」
不思議そうな顔をしている穂香を、俺の方に呼び寄せると、後ろを向くように言った。穂香は、何事?といった顔で首をかしげていた。
俺は、ケースからネックレスを取り出して、後ろから頭越しに穂香の首にネックレスをかけた。そして、首の後ろで、パチンととめた。
穂香は驚いたように、そのネックレスを手に取り目を丸くしていた。
「ど、どうしたの?これ?な、なにごと?」
俺は真面目な顔でこう言った。
「だから、言ったじゃないか。こんな幸せな気分の日の記念だって。」
穂香はルビーのネックレスをまじまじと見ながら、戸惑っていた。
「だって、これ、結構高そうじゃん。こんなのもらっちゃ悪いよ。」
「悪くない。これは、幸せの記念なんだ。穂香は、僕からこれを受け取らないといけない。受け取ってもらうために、僕は(信哉くんは)必死で選び、これを買ったんだ。僕が愛した証、穂香が愛された証だ。」
振り返りながら、俺の方を見る穂香の瞳に、じわじわと涙が滲んできた。
「…えへっ、…えへへっ、…う、嬉しい、嬉しいよぉ。なんでこんな幸せなんだろう。ホノカもう死んでもいいよ。」
縁起でもないことを言うな。死ぬのはこっちなんだからな。
俺は、穂香をくるりと向き直らせると、しっかりと肩を抱いた。
「いいか、穂香。穂香は愛されている。愛される価値がある人間だということだ。それを忘れるな。自信を持って生きていいんだ。僕は穂香を愛している。穂香は僕に愛されている。愛されたことのある人間ほど、強いものはない。わかるかい?」
穂香は、コクコクと頷いた。俺は、穂香をぎゅうっと抱きしめた。
俺に出来るのは、ここまでだ。伝えることは十分に伝えた。これでいいだろうか、信哉くん。君の想いは、彼女に伝わっただろうか。
『美唯と景子』
僕は、心の中でいろいろ覚悟をしながら、帰路についた。
家の玄関の前で立ち止まる。僕の、この家庭の、最後の夜が始まる。僕は、元喜さんの気持ちを十分に伝えられるだろうか。
ガチャリと玄関を開けて、ただいま、と中に入る。
奥から、トテテテと美唯が駆けてくるのがわかる。
「とうちゃーん、おかえりー。」
僕は、美唯をしっかりと受け止めて、抱き上げてやる。
「美唯、今日も元気だなぁ!」
「みう、げんきよー!とうちゃんすきだもん!」
ぎゅうと抱きしめてやる。この少女に、父の記憶はいつまで残るのだろう。抱きしめられたことを覚えているだろうか。愛されたことを、覚えているだろうか。
そう、思えば思うほど、5歳にして、父と離れなくてはならないこの少女が愛しくて仕方なくなった。思わず抱きしめる手に力が入る。
「とうちゃん、きついきつい。みう、しんじゃう。」
ごめんごめん、といって美唯を降ろすと、美唯はまたトテテテと奥に走っていった。
「かぁかー、みうねー、とうちゃんにすごいぎゅーされたー!」
奥のほうで、そう、よかったわね、と景子さんの声が聞こえる。そのままリビングに入ると、彼女はソファで少しくつろいでいた。
「あら、あなた、随分遅かったのね。ずっと宮本さんと話してたの?お気に入りになっちゃたものねぇ。」
そう言って、鈴の音のようにコロコロと笑った。
「そうだね、仲良くなったよ。」
そう言って、僕もソファに座った。なにげなくくつろいだこの空間。僕の部屋にはない、このゆったりとした落ち着きの間。これが、この家族の幸せの一瞬。そうやって噛み締めていると、彼女が口を開いた。
「あ、晩ご飯、なにがいい?」
僕は、うーんと少し考えて、思い出したように答えた。
「そうだ、あのチーズハンバーグがいいな。ベーコンで巻いたやつ。あれ、できるかい?」
彼女は、優しく微笑んだ。
「うふふ、大丈夫。なんでもござれ、よ。楽しみにしてて。」
夕食時、僕らは3人で食卓を囲んだ。テーブルにはリクエストのチーズハンバーグ。これで二度目だが、実に美味い。
「本当に、美味いな。これも景子の絶品料理に加えないとな。」
僕が美味しそうにハンバーグを頬張りながら言うと、彼女はとても嬉しそうにした。
「みう、べーこんきらいー。」
「こらこら、好き嫌いを言うもんじゃないぞ、美唯。母さんの料理は、どれも絶品だ。文句を言ったらバチがあたるよ。」
「あら、そんなに褒めるほどかしら。今まであまり褒めなかった人が、珍しいわねぇ。」
そう言って彼女が、コロコロと笑った。この笑顔を、元喜さんは見たかったに違いない。この中に、元喜さんを連れてこれたら、どんなにか喜ぶだろう。僕も、どんなにか嬉しいだろう。でも、元喜さんはもうここには来れない。そして、僕ももうこの食卓には座れない。
どれだけ愛そうとも、どれだけ必要としようとも、抗えないものがある。僕はまだ独身だ。穂香も同じ。でも、元喜さんには家族がいる。さらには、元喜さんを失った後の景子さんは、美唯ちゃんという家族を抱えて、これからの苦痛や苦労を考えると、思わず叫びたくなってくる。
ああ、誰かこの家族を救って欲しい。僕だけで済むものなら、元喜さんは返してあげて欲しい。この幸せな空間を、取り上げないで欲しい。僕はじわりと涙を浮かべていた。
「どうしたの?あなた、何かあった?」
はっと気付いて僕は首を振った。
「い、いやいや、なんでもないよ。あまりに美味すぎて泣けちゃったよ。ははは。」
「へんな人ねぇ。」
僕は、少し語り始めた。
「へんじゃないよ。今、俺がこうやって幸せに夕食を食べていられるのも、景子と美唯がいるからなんだ。こんな幸せなことはない。愛する家族がいて、愛してくれる家族がいて、一緒にご飯を食べられて、こんな幸せなことはない。感謝してもし切れないほどだ。」
景子さんは、どうしたのかしらと言わんばかりに不思議そうな顔をしている。
「やっぱ、へんかな。でも、この幸せを支えてくれているのは、キミなんだ。景子、ありがとう。感謝してる。そして愛してる。」
「ほんと、へんだわ。そんなこと言ったことないのに。でも、嬉しいものねぇ。そうやって言われるのって。」
うふふ、と艶っぽく笑う姿に、僕は見惚れてしまった。
その晩、僕は美唯と一緒にお風呂に入った。頭を洗ってあげて、体を洗ってあげて、ゆったりお風呂の中で水鉄砲をしたりしてたっぷり遊んだ。こんなことも、少しでも覚えていてほしかった。きゃははは、と大笑いをしながらお風呂で遊ぶ美唯は、元喜さんからすれば天使に見えたことだろう。美唯、少しでも、この父さんの姿、覚えていてくれよな。
ガラリと、後ろで浴室の戸が開いた。僕はもう逃げなかった。
「あら、美唯、楽しそうねぇ。かぁかもまぜてー。」
僕は、正直恥ずかしくなかったとは言わない。見てはいけないという気持ちがなかったとも言わない。でも、元喜さんの気持ちを考えたら、ここは一緒の幸せを満喫すべきなんだ。
「おぅ、入ってきたのか。じゃ、かぁかも一緒に遊ぶかー!」
そう言って、僕はバシャバシャとお湯を彼女にかけた。
「きゃぁ!あなたったら!子どもみたい!」
そういってコロコロと笑う、全裸の彼女は、ビーナスのように美しかった。
僕は、美唯が寝る前に、美唯の部屋に入った。そして、美唯の頭をゆっくり撫でながら、話をした。
「とうさん、すきか?」
「うん、みう、だいすきよ。」
僕は、美唯の頭を撫でながら、ゆっくりと話をした。
「今から美唯はどんどん大きくなる。いっぱい大変なこともある。辛いことも、楽しいこともいっぱいある。元気に大きくなれ。そして、かぁかを助けてやってくれ。今は言ってることがわからないかもしれないけど、それでもいい。父さんは、かぁかをすごくすごくだいすきで、美唯もすごくすごくだいすきだ。とうさんのだいすきな二人が、今からいっぱい幸せになってくれることだけを祈ってる。がんばれ、美唯。がんばれ、美唯!とうさん、ぜったい応援しているからな。」
そう言って、美唯をぎゅうと抱きしめた。思わず、涙が零れ落ちた。元喜さん、僕にはもう何も言えません。
「とうちゃん、ないてるの?なかないの、ふいたげう。」
ああ、ああ、と僕は言うだけで精一杯だった。心の底から、幸あれと願っていた。
寝室に戻ると、景子はもうベッドに入っていた。僕は少し高鳴る心臓を抑えるように深呼吸した。僕は元喜さん。僕ではない、俺は元喜。景子さんを、いや景子を心から愛している元喜。そしてそこにいるのは、俺を、元喜を心から愛している景子。そう、彼女は俺を愛している。俺も、心から彼女を愛している。さあ、今から俺たちの愛を確かめ合おう。そして、心からの幸福を感じるんだ、景子。
俺はベッドにもぐりこんだ。こちらに背を向けている景子の方を向き、その少しカールしたセミロングの髪を触る。ピク、と彼女が反応する。俺は景子の肩に優しく手を置く。そして、耳元で囁く。
「腕枕、させてくれ。」
景子は、少し震えたかと思ったら、ゆっくりとこちらを向いて頭を上げた。そこに俺は左腕を差し込んだ。左手でぐっと彼女を抱き寄せる。俺の胸に彼女の頬が当たる。わき腹の辺りに豊かな胸が押し付けられる。
彼女が、うっ、うっ、と嗚咽した。寂しかったのだ。そう、景子は寂しかったのだ。すまない、景子。今、愛してあげる。
俺はがばっと景子に覆いかぶさり、嗚咽する景子の涙を親指で拭って、その唇に唇を重ねた。そして二人は貪るように舌を絡めあった。景子の吐息が俺をくすぐる。熱い。吐息が熱い。
俺は、唇を下にずらし、その首筋をも貪った。ああ、景子。俺は、パジャマを引きちぎるように乱暴に景子の胸をはだけた。そして、その全てを吸い尽くすようにむしゃぶりついた。景子の吐息は、前にも増して熱くなり、その幸福を肌で感じ取れるまでになった。
俺は、元喜は、その思うままに、景子を愛し、景子は、その思うままに、元喜に愛された。そこには、愛し合う夫婦の幸せの絶頂が存在した。
俺は、確かに愛を感じた。そして景子に愛を感じさせることが出来た。そう信じている。安らかな顔で横になる景子の幸福そうな微笑みに、俺はそれを確信していた。
僕は、ふと我に返った。後悔はなかった。元喜さんの愛を伝えきれたかどうか、自信はなかったが、僕にやれることはやったし、驚くほどに僕の中に邪まだったり、淫らだったりする感情はなかった。
ただひたすらに、景子さんの、彼女の幸福を祈っていた。それでいいのだと思った。
彼女は寝ているのかと思った。が、ふいに声を掛けてきた。
「あなた、疲れているのに、大丈夫?」
それでも僕を心配してくれる景子さんに、僕は心から畏敬の念を感じた。
「景子が気遣うことはないよ。大丈夫、心配するな。」
その後、彼女は小さな声でつぶやいた。
「ありがとう、あなた…」
これでよかったのだと、思える一言だった。僕の心までも、彼女は救ってくれた。
僕は、今しかないと思って、クローゼットに向かった。彼女は、不思議そうに僕を見ていた。かけた上着のポケットから、僕は小さな包みを2つ取り出した。
僕は彼女に近寄って、ベッドに腰掛けた。彼女は、シーツで胸のふくらみだけを隠し、上半身を起こした。
僕は、小さな四角いケースを差し出した。
「これ、景子に。俺が、心から景子を愛している証だ。誕生日だからとか、クリスマスだからとかじゃない、普通の日だからこそ、俺の心からの気持ちだ。理由はない。ただ、愛している。愛している、それだけだ。その証だ。」
彼女は、不思議そうにケースを受け取ると、それを開けた。中には真っ青に光り輝く大きなサファイアの指輪が入っていた。
「…なんて綺麗…。」
「優しい、青い光。景子にピッタリだと思うんだ。俺が(元喜さんが)必死で選んだ。受け取ってもらえるかな。」
彼女は、目を潤ませて顔を上げると、裸のまま僕に抱きついてきた。
「ああ、嬉しい!嬉しいわ!あなた、愛してる!あなたの愛の証を断るなんて、私にできるわけない!ああ、なんて幸せ!」
彼女は、ポロポロと涙をこぼしながら、僕にしがみついていた。僕は彼女の両肩を抱いて、少し離すようにした。彼女は涙をシーツで拭きながら、その指輪を薬指にはめた。そして、手を伸ばし遠くに眺めるように、キラキラと反射させた。
「ああ、綺麗。」
「それから、もう一つ。これは美唯になんだけど、悪いが、美唯が中学か高校になったら、渡してくれないかな。パールのネックレスなんだ。今はまだ無理だろ?」
彼女は不思議そうに僕を見た。
「それなら、あなたが渡せばいいのに。」
僕は、少し苦しいが弁明をした。
「その頃には、お父さんなんてキライなものベスト3に入ってるさ。それに、特に理由はないけど、これは女として、景子から渡してやって欲しいんだ。アクセサリーのなんたるかを諭しながらね。」
そう言って、僕はにこりと笑った。
「うん、わかった。じゃあ、預かっとく。」
彼女はネックレスを鏡台に置くと、ベッドに戻ってきた。そして、改めて僕にしがみつき、ありがとう、と言った。
僕は、この言葉を、元喜さんに聞かせたくて仕方がなかった。
『慟哭』
「もう、よろしいですかね。」
その言葉を聞いた途端、体が宙に浮くような感覚を味わった。
気がつくと、二人は空中に浮かんでいた。思わず顔を見合わせた。
「元喜さん!」
「信哉くん!」
二人は同時にお互いの名前を呼んだ。今度は自分の体で自分の心だ。ただ、違うのは宙を浮いているというだけで。
「申し訳ありません。回収の時間が参りましたので、魂を抜かせていただきました。もう、思い残すことはないでしょうか。こちらの不手際とはいえ、いろいろご迷惑をおかけいたしました。」
二人が振り返ると、そこにはあの時の死神が浮いていた。骸骨のような顔をし、ひょろりとした体躯で、二人を見下ろしていた。
元喜が最初に口を開いた。
「いや、そちらさんのミスのおかげで、俺たちは十分に最善を尽くすことが出来たよ。逆に感謝したいくらいだ。なぁ、信哉くん。」
横で信哉がにっこりと頷いた。
「その通りです。僕たちは思いのたけを伝えあいました。もう、十分です。あとは、残された彼女たちの幸せを祈るばかりです。」
死神は、それは結構、という顔をした。
「それでは行きましょうか。」
と、その時元喜が死神を呼び止めた。
「ちょっと待ってくれ。できたら、夜が白むまで、ここにいちゃいけないかね。」
死神は、無表情に答えた。
「構いませんよ。もう魂は抜けていますので。」
元喜と信哉は、じっと自分たちの住んでいた方を見ていた。その心の中に、いろんな思い出や、記憶や、愛するものの姿が交錯した。
じっと考えれば考えるほど、もっとああしてやればよかった、こうしてやればよかった、とつのる想いばかり出てくるが、それでも、後悔はなかった。
自分の家の屋根を見ているうちに、涙がわいて来た。愛するものがそこにいる。そう思うだけで、涙がとめどなくあふれてきた。
突然、元喜が叫んだ。
「景子ぉーっ!美唯ぅーっ!景子ぉぉーっ!!美唯ぅぅーっ!!景子ぉぉーっ!!!美唯ぅぅーっ!!!」
それは途切れることのない慟哭だった。
それを見た信哉も、あふれる感情を抑え切れなかった。
「穂香ぁーっ!穂香ぁぁーっ!!穂香ぁぁぁーっ!!!」
二人は、声が枯れるまで慟哭し続けた。涙が、後から後からあふれてきた。誰にも止められない、生の終わりの涙と慟哭。
その声は、生ある誰に聞かれることもなく、死神の夜空を響き渡り続けた。
やがて、夜が白むと同時に、2台の救急車の音が、二人の去った後を追うように街を響き渡った。
『希望』
早朝の病院。
まだ誰もいない病院の救急診療室の前、長いベンチに二人の女性と一人の少女が腰掛けていた。一人の若い女性は、長い髪をばさりと前に垂らし、俯いて小さく何かをつぶやいていた。その長い髪のせいで表情は全く見て取れなかったが、その声はほぼ嗚咽に近いものであることは分かった。
もう一人の女性は、横でうたた寝をする少女を自分に寄りかからせて、俯いていた。泣いてはいなかったが、その表情には憂いの影が色濃く浮き出ていた。
二人とも、同時に愛する人を失ったその悲しみに、今は耐え切れず押しつぶされそうになっていた。
ほんのさっきまで、一緒に寝ていたのに。ほんのさっきまで、一緒に笑ってたのに。
二人は、同時に救急診療室の中に呼ばれた。若い女性は俯いたまま、またもう一人の女性は少女を抱きかかえ、診療室に入った。
夜間当直の主治医よりそれぞれに一通りの説明があり、すでに息を吹き返すことのないその骸と、彼女たちは対面した。
若い女性は、名前を叫びながら泣き崩れた。
「シンくん!こら!宮本信哉!起きろ!起きてよ!起きてよぉーっ!」
少女を抱えた女性は、その名前を聞いて少し反応をしたようだが、そのまま真下に見下ろす我が夫の骸に、必死に涙をこらえているように見えた。
二人はまた長いベンチに腰掛けていた。少女は完全に眠ってしまったようだった。女性は、少女をベンチに横にし、タオルをかけた。
しばらく、小さな嗚咽と沈黙が流れた。時折、看護婦がせかせかと診療室に入っていった。
ふと、女性が声を掛けた。
「失礼ですが、あなたは宮本信哉さんのお身内の方?」
長い髪を垂らして嗚咽していた若い女性が、少し顔をあげて目と鼻をこすった。
「は、…いえ、お付き合いをさせていただいてたものです。」
女性は、はっと気付いたように、若い女性の方を見た。
「もしかして…、ホノカさん?」
えっ?といったように若い女性は、顔を上げた。
「は、はい、そうですが、…なんで私の名を?」
女性は、ゆっくりと哀しそうな微笑を見せながら、落ち着いた声を出した。
「私、花田元喜の妻で景子といいます。主人の生前に、宮本さんと親しくさせていただいて…」
若い女性は、驚いたように涙で腫らした目をこすりながら顔を向けた。
「景子さん?じゃ、その子は美唯ちゃん?もしかして、は、花田さんの…」
そこまで言って、穂香はまた涙があふれてきて、声を詰まらせた。何故、見知った人が一度に二人も…、そう思うと穂香はやりきれなかった。
「偶然って、恐ろしいわね。つい先日一緒に訪ね合って、食べたり、飲んだり、とても楽しい日々を送っていたのに。まさかそれが同時に失われるなんて。」
景子は、悲しみをぐっと押し殺すように淡々と話した。
「…信じられません。今でも、まだ信じられません。」
穂香は、かろうじてそれだけつぶやいた。景子は、静かな声で、ゆっくりとつぶやくように話し始めた。
「あの二人、何か通じるものがあったのかしら。なにかすごく気が合ってるようだった。それどころか、私には時々宮本さんが私の夫にそっくりなような気さえしていたの。」
穂香が、はっと気付いたようにポツリと言った。
「私も、そんな感じ、してました。花田さんが、まるでシンくんみたいに見えて…。そんなわけないんだけど…。」
景子が、また静かな声でゆっくりと話しかけた。
「気が合う、じゃない何かがあったのかもしれませんね。もしかしたら、あの二人には。それも今では分かりませんけど。」
そこでまた穂香が嗚咽した。
少しの沈黙の後、景子は、誰に話すでもなくしゃべり始めた。
「でも、私は何故か満足なの。へんでしょ。でも、不思議と希望を持っているの。主人は、最後に私を心から愛してくれた。私も、主人を心から愛したわ。そして、愛の証にって、この指輪をくれたの。この真っ青なサファイア。なんでもない日だからこそ、愛の証になる、って。愛されたことの証明が今ここにあるの。だから、私は絶望しない。私は愛し、愛されたの。それだけが私の確かな真実。」
いつの間にか穂香は嗚咽をやめ、景子に見入っていた。そして思わず口を開いた。
「私も言われた。愛してるって。愛されてるって、自信を持てって。愛されたことがあれば、何にも負けることはないって。そういって、愛の証にって、彼はこのネックレスをくれたの。真っ赤なルビーのネックレス。まるで、今の花田さんの話と一緒。私も愛し、愛された。それは、私の真実。」
景子は、うすい微笑を浮かべながら、穂香を見た。
「そう。そうなの。まるで一緒。あの人たち、つるんでたのね、ふふふっ。いえ、もしかすると入れ替わっていたのかもしれないわ。そして、私たちに希望を残して去っていった。ひどい人たちねぇ、主人も、彼も。」
景子は、微笑を浮かべたまま、ポロリと涙をこぼした。
「やってくれるわ。こんなに愛されちゃ、挫けてらんないじゃない。ねぇ、そう思わない?穂香さん。」
穂香が、腫れた目をこすりながら、えへへっと笑った。
「ホント、ホントですね。シンくん、ひどいなぁ。全部丸投げじゃん。愛も、人生も。ばぁか。」
景子は流れる涙を拭いもせず、穂香に話しかけた。
「私、穂香さんと話せて良かったわ。同じ境遇の人がいる、そう思っただけで、一人じゃない気がしてくる。愛したことも、愛されたことも、同じ。だから、多分私たち、やっていけるわ。」
穂香は、微笑んで静かに頷いた。
朝日が、病院の廊下を煌々と照らし始めた。
その光は、真っ青なサファイアと、真っ赤なルビーに反射して、キラキラと輝きを増していった。
(完)