お礼だよ。
次の日、その次の日と、吉野さんにノートを借りる。
約束どおり、その翌日の朝に返して。
2、3人の友人がこのやりとりに気付いて俺に尋ねてきたけど、「休んでいた間のノートを借りてる」と言ったら、みんな納得した。
4日目の夜、日本史のノートを写しながら俺は首をひねった。
「藤原道路」?
平安時代の街道みたいなものか?
藤原氏が造ったとか?
ノートの前後をよく見て、そのあたりの教科書を調べる。
・・・「藤原道長」じゃないか。
人物名が別なものになってしまっている。日本史だから、きっと寝ながら書いたんだな。
本人はあとで見て、わかるんだろうか?
生物はそのまま写してしまったけど、歴史上の人物名は間違いがけっこうはっきりわかって、その間違いが笑える。
とりあえず、「藤原道路」に丸をつけて、余白に『「藤原道長」だと思う』と書いておいた。
1か所直したら、ほかのところも気になるな。
あんまり直したら悪いかな?
でも、もうすぐテストだし、知らんぷりするのも後味が悪い。
ノートを借りたお礼もしてないし、このくらいはいいかな?
休んだ期間の部分を写し終わってから、1ページ目から自分のノートと見比べて、間違いを探してみる。
それほど多くはなかったけど、聖徳太子の時代に4ケタの年号が書いてあったり、語尾がなにやらわからない言葉になっているところを補足しておいた。
ちょっと字が汚くてごめん。
翌日の朝、ノートを返すときには直したことは言わなかった。
吉野さんがどんな反応を示すのか見たかったから。
学校で気付かなかったら残念だけど。
「ありがとう。助かった。これで全部終わったよね。」
そう言ってノートを返したら、吉野さんが俺の顔を見て言った。
「あと体育だけど。」
「え?!体育?」
驚いた俺を見て吉野さんがくすりと笑う。
「うそ。体育なんて、あるわけないよ。しかも男女別だし。」
笑われて、悔しいので言い返した。
「吉野さんなら体育中でもノートをとってそうだから。」
それを聞いて、彼女はまた笑った。
「ジャージのポケットにシャーペンとメモ帳が入ってて、先生の説明を必死で書いてるとか?なんか、自分で言ってて目に浮かぶ。」
どうやら自分でツボにはまったらしい。吉野さんのくすくす笑いが止まらない。
「そのくらいやれば、体育も得意になるかも。」
なんだか楽しい。
吉野さんがこんなふうに笑うのを近くで見るのは初めてだ。・・・っていうか、冗談を言い合うのも初めて。
ノートを借りてよかったかも。
その日の日本史の授業。
開始直後、前の席から大きな声が。
「あれ?!」
「どうした、吉野?」
先生がこっちを向いて尋ねる。
「い、いえ。なんでもありません。すみません。」
小さくなって答える彼女。
そうだった。
あれに気付いたんだな。
吉野さんを驚かせることができて、大満足!
でも、怒らないよね?
その日本史の授業でも、やっぱり吉野さんはコックリコックリと寝ていた。
授業が終わると、吉野さんがノートを持って振り向いた。
「あの、これ、直してくれた?」
「うん。少しだけど。」
そう答えると、吉野さんは何となく困ったような顔をして、
「ありがとう。」
と言った。そういえば、彼女はよく困った顔をするような気がする。
こんなことしちゃ、いけなかったかな。
「ノートを貸してもらったお礼。」
そう言うと、やっと嬉しそうに笑ってくれた。
「ありがとう。助かる。」
それから、
「でも、びっくりして、大きな声出しちゃったよ。」
と。
「自分で言ったら恩着せがましいと思うけど?」
「そうかもしれないけど・・・。」
でも、こうやって話すきっかけになったじゃないか。
それじゃダメ?
「これじゃあ、日本史でいい点を取らないと、藤野くんに申し訳ないね。」
「え?それじゃ、俺は全部いい点を取らないといけないわけ?」
「そういうこと。」
・・・ほかの人に借りた方がよかったかな。
でも、これからもよろしく、ぴいちゃん。
「吉野って、藤野とはずいぶん話すよなあ。」
放課後、岡田と映司と3人で部活に向かう途中、岡田がふいに言う。隣の席から見てたのか。
「ノートを借りてたから。別に特別じゃないと思うけど。」
「そうかな。1年のときは、男子とはほとんどしゃべってなかったんじゃないか?俺も記憶がないし。」
「あれ?同じクラスだったのか?」
「うん。席が近くなったこともなかったから、縁がなかったといえばそうなんだけど。」
そういえば、今のクラスでも男と話しているところは、この前の川辺以外は見たことないかも。
岡田だって席は近いし、1年で同じクラスだったのに、そんな様子は全然見せなかった。
「話すと普通だけど。」
「そうなんだよなあ。今朝、お前と冗談言って笑ってるの見て、なんだかびっくりした。」
「へえ。」
驚かれるほど珍しいのか。
どうしてなんだろう?
「吉野って、ちょっと話しかけにくい雰囲気ない?」
いつもヘラヘラしてるお前でもか?
「まあ、そういう雰囲気はあるけど。でも、腹が鳴ったとき、おもしろかったから。」
「ああ、あのとき?俺も笑いそうになった。川辺がはっきり訊いちゃうし。」
あのときを思い出して、岡田が笑う。
「おもしろいし、親切な人だよ。」
そう言うと、岡田は流し眼を送って来た。
「もしかして、けっこう気に入ってる?」
え?
それは・・・考えてなかったけど。
「どうかな。」
それしか言えなかった。
話すと楽しいけど、まだちょっとだけしか知らない。
「そう言うお前は、誰かいるのか?」
「決まってるじゃん!なんと言っても神谷だよ。」
「ねえねえ、俺にも訊いて。」
映司が割り込んでくる。その嬉しそうな顔、どうしたんだ?
「映司に好きな相手がいるとは考えたことなかったけど。」
「いるの。誰だと思う〜?」
「その顔、すでにうまく行ってるってことなのか?」
岡田がふざけて、腕で映司の首を締める。
「やめろ〜!違う!まだ!」
そう言って岡田の腕を降りほどくと、荷物を持ち直した。
ちょっと不機嫌になった?
仕方ないから、のろけ話を聞いてやろう。
「相手は誰だよ?」
「へへへ。和久井さん。」
もう機嫌が直った。
でも、和久井?
「和久井?いつから?」
岡田も意外だったらしい。
「去年の文化祭で演劇部の劇を見てから。彼女、男役だったんだけど、それが凛々しくてさあ。」
「でも、男役だったんだろう?ちゃんと、女として好きなのか?」
岡田、変なこと訊くなよ。
「あたりまえだろ!あのぴんと伸びた背筋とか、ちょっとハスキーな声とか・・・。同じクラスになれて超ラッキー♪」
びっくりだ。
和久井は中学から知ってるけど、彼女にこんなにメロメロになるヤツがいるとは思わなかった・・・。
「今、席が近いから、よく話すんだけど、けっこう可愛いところもあってさ〜。」
「わかった、わかった。」
岡田がもうたくさんだという顔をする。
俺は映司のこんな態度は初めて見た。
誰かを好きになるのは誰にでもあることだけど、映司がこんなふうになるなんて。
野球部では冷静なキャッチャーで通ってるのに。
不思議だ。




