みんなのぴいちゃん?
次の日の午後3時すぎ。
リレーの練習を終えて5人で図書室に行くと、ぴいちゃんが机に座ってプリントをやっていた。
あれほど嫌がっていたのに、約束どおりに来てくれている。
こんな状況に臨むのは、きっと、彼女の心の中では大きな決心が必要だったに違いない。
申し訳ない気持ちと、彼女のがんばりを尊敬する気持ちで、胸が苦しくなった。
俺は内心、この話がどんどん広まって、人数が増えてしまうんじゃないかと心配していた。
何人もの男の中に一人でいることは、ぴいちゃんにものすごい緊張を強いることになるような気がして、大きな罪悪感を感じていた。
それなら、あんな所で言わないでメールか電話でもすればよかったかもしれないけど、たぶん、彼女には直接頼まなければ、OKしてはくれなかっただろうし、あのときはいいアイデアだと思った。・・・いや、本当は彼女と話がしたかったんだ。
でも、昨日のメンバーは誰にも言わなかったらしい。
大人数になったら、目当てのプリントが回って来ないかもしれないし、彼女の様子を見て察してくれたのかもしれない。
その中の1人、ぴいちゃんと同じ中学の出身だと言ったのは3組の前川だった。
「俺、中学の3年間、吉野とずっと同じクラスだったんだ。」
その前川が、帰り道で話してくれた。
「1年のときは普通にみんなとしゃべったり笑ったりしてたんだけど、3年になったときには、あんまり大きな声で笑ってるところは見なかったよ。2年の秋ごろかな、吉野の靴が隠されるのが何度かあったから、それが原因かもな。」
「靴を隠されるなんて、うらみでも買ってたのか?」
「吉野は成績が良かったから、妬まれたんだと思うよ。同じクラスの女子が、ときどき何か言ってるのを聞いたことあるし、靴もそいつらが隠したんじゃないかな。」
ふうん。女子は恐いな。
成績がいいくらいでいじめに遭うなんて。
それでぴいちゃんは、殻の中に閉じこもってしまったわけか。
ときどき、彼女をそっと見守ってあげなくちゃいけないような気がするのは、彼女が卵から出てきたばっかりみたいに見えるからだな。
あのノートの絵のとおり、本当に小鳥のヒナみたいだ。
ひんやりして静かな図書室には、ぴいちゃんのほかに7、8人の生徒がいるだけ。学校の図書室で勉強なんて、みんな思い付かないのかもしれない。
6人机の端に1人で腰掛けている彼女の周りに、どやどやと集まる俺たち。隣の席は、無言で俺が確保する。一応、盾のつもりなんだけど。
ぴいちゃんは、ときどき見せる不安げな表情でひとこと。
「よろしくお願いします。」
大丈夫かな。
俺たちも小声で「よろしく。」と答える。
「とりあえず、やってある分は全部、持って来たけど・・・。」
「サンキュ!」
「悪いな。」
「助かった!」
彼女が全部の言葉を言い終わらないうちに、数学も古文も英語も、分けられるものはバラバラにされて、さっさとみんなの手に渡る。
「悪い。」
俺が言うと、彼女はちょっと微笑んで、
「いいよ。」
と言ってくれた。
実は昨日からずっと、自分が嫌われているんじゃないかと不安だった。
ぴいちゃんは優し過ぎて言い出せなくて、俺が強引にそこにつけ込んでしまったんじゃないかと。
でも、今、彼女の顔を見て、何となく安心した。
俺に対する嫌悪感は、彼女の態度には表れていなかったから。
むしろ、俺を見てほっとしたように見えたし。
そのまま、ぴいちゃんは自分の日本史のプリントにとりかかった。
初めのうちは無言で写していた俺たちも、10分くらい経って慣れてくると、わからないところが気になってしまう。
「ぴいちゃん、ここなんだけど。」
「ぴいちゃん、これはどうやって・・・?」
「ぴいちゃん、これ、もしかして、違ってない?」
なぜか、みんなが彼女をぴいちゃんと呼ぶ。
ぴいちゃんは最初、戸惑っていたけど、何度か続くうちにあきらめたらしい。
小声で話しているつもりでも、静かな中では部屋中に響く。
何度か注意された揚げ句、たった30分で、図書室の先生に追い出されてしまった。
「ええと、これで終わりかな?」
ぴいちゃんが首をかしげながら、俺たちを見回す。ちょっとほっとしているのがわかる。
緊張させちゃって悪かったな。
「いや、ちょっと待ってて。」
5組の内田が廊下を走って行った。と思ったら、鍵を持って戻って来た。
「うちの担任が、教室使っていいって。」
ぴいちゃんが一瞬、残念そうな顔をした。けど、すぐにまた覚悟を決めたらしい。
ごめん。
でも、えらいぞ。がんばれ。
苦手なことに立ち向かう彼女のことが誇らしい。
・・・って、やっぱり父親みたいだ。しかも、この状況って、俺のせいなのに。
教室には冷房が入らないので、誰かが扇風機を調達してきた。
机を6つ向かい合わせて、こんどはぴいちゃんを真ん中にして座る。
扇風機の風で、彼女のまとめきれない髪がふわふわとなびいている。
いつもの教室で俺たちは緊張が解け、会話が一気に弾む。
質問や説明がポンポンと続く。
ぴいちゃんもだんだん落ち着いて、普通に話せるようになり、わからなかった問題を教わったりしている。
5時すぎに先生が見回りに来て、今日は終了。
明日も同じ時間に。
自転車で、同じ方向でまとまって帰る。
俺たちはぴいちゃんも含めて4人。
やっと慣れた相手に、ぴいちゃんの笑い声も元気が出てきた。
翌日。
校舎を上がって行く途中、内田がニヤリとしながら俺にささやいた。
「今日は、宿題がはかどったお返しをするから。」
なんだろう?こんな言い方するなんて。
ぴいちゃんが5組の教室の前でうろうろしていた。
鍵は開いていたけど、一人で中で待つのは嫌だったのかな。
「今日もよろしく。」
はにかんだ笑顔であいさつする様子に、ちょっとドキリとする。
ほかの男には見せたくなかったかも。
昨日と同じ席に座って、カバンから宿題を・・・と思ったら、彼らのカバンから出てきたのは、クッキーや大福などのお菓子。
「これ、お礼。食べて。」
そう言って、ぴいちゃんの机に次々に並べられる。
お返しってこれか!
そこまで気が利かなかった俺は、差をつけられて後悔した。
机の上のお菓子を見て目を丸くしていたぴいちゃんは、「ありがとう。」と笑うと、
「せっかくだから、みんなで食べよう。」
と、袋入りのお菓子を開けて、真ん中に置いてくれた。
それから、
「みんなリレーの選手なの?」
と俺の顔を見て尋ねる。
ほかのヤツじゃなく、俺に訊いてくれたよ!
「うん。みんな運動部の俊足。」
「ふうん。すごいんだね。」
感心するぴいちゃんに、内田が言う。
「俺たちの顔と名前、覚えた?体育祭では自分のチームじゃなくて、俺たちを応援してくれないと。」
「前川くんは知ってる。それから、」
ぴいちゃんは机を囲むメンバーの名前を思い出そうとする。
「5組の内田くん。それから東くんと・・・野村くん、かな?」
「東と野村は緑チームだよ。」
俺が付け足すと、ぴいちゃんがすまなそうに言う。
「同じチームなのに、全然知らなかった。ごめんなさい。」
それはお互いさまだ。
俺だって、同じクラスにならなければ、今でも彼女のことは知らなかったと思う。
「俺、ぴいちゃんの声が聞こえたら、ものすごくスピードアップできそう。」
内田の調子のいい言葉にぴいちゃんが笑って答える。
「そうだね。あたしの声を聞いたら、きっと宿題を必死で写してるときの気持ちがよみがえるよね。」
みんなの笑い声が重なった。
今日も5時過ぎに終了。
残りの宿題は、今夜と明日一日でなんとかできそうなところまで行った。
みんなに口々にお礼を言われて、ぴいちゃんはあわてていた。
自転車を出したところで、内田が一言。
「今日は寄るところがあるから、俺たちはここで。じゃあな。」
そして、俺の前を通り過ぎざまに、小声でひとこと。
「がんばれよ。」
え?
口々に「ぴいちゃん、サンキュー。」と言いながら、4人ともさっさと自転車に乗って去って行く。
ぼんやりしたまま取りのこされるぴいちゃんと俺。
あれ?
もしかして、内田が言ってたお返しって、さっきのおやつじゃなくて・・・?
俺の態度って、そんなにわかりやすかったのか?
なんか、あらためてこういう状況になってみると、かなり困る。
でも、せっかくだから、少しゆっくり話したい。
おととい、二人きりを理由に断られそうになったことを思えば、早く何か言わないと、逃げられてしまうかも。
「・・・急いでる?」
しまった!
これじゃ、逆に逃げる言い訳を与えたようなものだ。
彼女が俺を見上げる目には、問いかけるような表情?
「え・・・と、それほどでは・・・。」
でも、彼女の口から洩れたのは、拒否の言葉ではなく。
・・・うそがつけないんだなあ。
そんなところもぴいちゃんらしくて、少し笑ってしまう。
おとといは、あんなに困った顔をしていたのに。
「あの、でも、家が遠いから、あんまり時間は。」
はいはい。
無理に引きとめたりしないよ。
「駅の本屋で参考書を見たいんだけど、一緒に見てくれない?」
大急ぎでこしらえた出まかせ。
でも、本屋ならどうだ!
それに、これなら断られても、駅までは一緒に行ける。
意外に策士じゃないか、俺って。
「ああ、それくらいなら大丈夫。」
ぴいちゃんの安心した顔。
よし!
本屋が効いたのか?
それとも、帰り道から逸れないのがよかったのかな。
駅まで一緒に自転車で行くあいだも、本屋で参考書を選ぶあいだも、ただひたすら楽しい。
ぴいちゃんは、たくさんしゃべって大きな声で笑うようなタイプではないけど、彼女との会話は一つひとつが心に残る。
声も、言葉も、表情も、今までの会話がたくさん記憶に残っている。
レジに並んだところで、ぴいちゃんは「電車の時間があるから」と言って、急いで行ってしまった。
改札口まで見送りに行くつもりだったのに。
小走りに去って行く彼女の背中で、長い三つ編みが踊っている。
明日で夏休みは終わる。
あさってにはまた会えるけど、明日も会いたい。
だけど、残った宿題がそれを許してくれないな・・・。