きっかけは、腹時計
吉野さんの後ろの席になっても、彼女と急に親しくなることはなかった。
特に話しかけるような用事がないし、彼女の方から話しかけてくることもない。
彼女は授業中に寝ているだけじゃなく、よく窓から外を見ていて、その度に三つ編みが右に左にと動く。
目の前でゆらゆら揺れる三つ編みは、神社の鈴に下がっている紐みたいで、なんとなくいたずら心を誘う。ちょっと引っぱってみたい。
休み時間になると、友人たちが俺の席のあたりに集まってくる。
俺の隣に同じ野球部の岡田がいるし、窓際の席だから、集まりやすいのだ。
吉野さんは、休み時間にはたいてい席からいなくなってしまうので、彼女の椅子に座っているヤツもいる。
川辺や近くの席の男子もまじえて、3、4人からときには10人くらい集まっていることもある。
一度、何気なく廊下側に目をやったとき、吉野さんが教室に戻ってきて、自分の席を見てギョッとしたのを見てしまった。これでは席に戻りづらいのは当然だ。
ほかの女子なら平気で席に戻って、俺たちの話に混ざって来る人もいるかもしれないけど、彼女はそういうタイプではなさそう。
どうしよう、と思ったら、彼女はまたすっと廊下へ消えてしまった。
チャイムと同時に戻って来たとき、彼女は何も言わなかった。
悪かったな、とは思ったけど、俺も何も言えなかった。
5月に入ったある日の3時間目。
「ぐるるるる・・・。」
誰か、腹が鳴ってる?
一番近いのは吉野さんか、後ろの竹内だけど・・・。
まだ11時を過ぎたばっかりだぞ。12時半まで授業なのに。
と思っていたら、もう一度。
「あのう。」
と言いながら、吉野さんがそうっと振り向いた。
「ごめんなさい。お腹が空いちゃって。うるさいよね?」
小声で、真面目な、でも困った顔で言う。
律義にそんなことを言う彼女が可笑しかったけど、笑っちゃ悪いような気がして、首を横に振った。
「いや。別に。」
その会話が聞こえたらしく、川辺がこっちを向いて言った。
「吉野さんなの?」
笑いをこらえているのがはっきりとわかる。
黙っておいてやればいいのに。
吉野さんは「そっちまで・・・?」と、情けない顔でつぶやいて、川辺に謝った。
「早弁しちゃえば。」
俺もよくやってるし。
「女子でそんなことする人、いないよ。」
・・・そうか。確かに見たことないな。
それからしばらく吉野さんの腹は鳴り続けて、彼女は小さくなっていた。
女子でもそんなことがあるんだなと、俺は変なところに感心してしまった。
それにしても、初めての会話がこれだなんて。なんか変だ。
「ここ解る?!次の授業で当たりそうなんだ!」
その日の昼休み、川辺が吉野さんにあせって話しかけた。
英語の教科書を持って、必死な様子だ。
英語は年配の男の先生で、けっこう厳しい。予習をしていないと厭味を言ったりする嫌な相手だ。
とは言っても、予習をしてくる生徒はほんの一握り。俺もやってない。
吉野さんは「どこ?」と言って川辺の教科書をのぞき込むと、自分の教科書とノートと見比べながらその部分を探している。
どうやら見つかったらしく、川辺はノートを借りると、せっせと写しにかかった。吉野さんは和久井のところに行ってしまった。
俺のところに来た映司―野球部の友人―が川辺の様子を見て話しかける。
「英語?誰のノート?」
「吉野さんに借りた。」
「へえ。さすが、きれいだな。今度、俺も借りようかな。」
確かに、吉野さんのノートならわかりやすいだろうな。見たことはないけど、彼女の雰囲気から、そんな感じがする。
俺もいざというときには見せてもらおう。
腹の鳴る音がきっかけとはいえ話すことができて、彼女が普通に話せる人だということはわかった。
さっきも、川辺に対して嫌な顔をしなかったってことは、親切な人だってことだ。
ただし、話題があれば、だけど。
向こうから話しかけてくることは、今までの様子から見て、あんまりないだろうな。
和久井はおもしろい人だって言ったけど、冗談を言うほど親しくなることはなさそう。
昼休みの終わりに戻って来た吉野さんに川辺が礼を言いながらノートを返すと、彼女はにっこりして「いいえ。」と言っていた。こういうところはやっぱり大人っぽい。
でも、午前中に腹が鳴ったときの気まずそうな顔は全然違ってて、ほかのヤツが知らない彼女を見たようで、ちょっと得したような気がした。