朝の教室
夏の高校野球の県大会は、残念ながら、1回戦で負けてしまった。
もともと強い学校ではないけど、先輩達には最後のチャンスだから、なんとか勝ちたかったけど。
たまたま日曜日に当たっていたので、生徒もたくさん応援に来ていて、いい思い出にはなったと思う。
引退する先輩から、俺は野球部の部長を言い渡された。キャプテンは映司だ。
これから1年間、がんばらないと。
月曜日は朝練が休みになった。
けど、それを親に言い忘れ、早起きして弁当を作ってくれた母親に悪いような気がして、早めに家を出た。とは言っても、朝練の日よりはだいぶ遅いけど。
久しぶりの晴天で、自転車で走るのが気持ちいい。
学校に着いてみると、朝練の生徒とも、それ以外の生徒とも、到着時間が違っているせいか、校内が静かな気がする。
上履きに履き替えて、生徒がいない校舎内を歩く。
階段の空間を抜けて、どこかで女子がふざけて叫んでいる声が聞こえる。
4階まで上り、左に曲がる。2つめの教室。
前のドアは閉まっている。それを通り越して後ろのドアから・・・。
一瞬、4月に戻った気がした。
ぴいちゃんがいる。
一人で席に座って本を読んでいる。
明るい光が窓から差し込んで、半袖のワイシャツに白いニットのベスト姿の彼女が輝いているみたいに見える。
ドキン、と心臓が大きく打つのがわかった。
ドアの手前で立ち止まっていたことに気付いて、一歩踏み出す。
なんとなく、音をたてないように。
・・・動かないな。
教室の真ん中にある自分の席まで行ったところで思う。
いくらなんでも、気付かないってことあるのか?
そんなに集中して本を読めるなんて、すごい。
おどかしてみる?
机にぶつかって音を立てないようにしながら、机を1つはさんだところまで近付く。
かがんでのぞき込んだら・・・左手で頬杖をついたまま寝ていた。
下を向いているからよく見えないけど、長いまつ毛が頬にかかっているのはわかる。
あーあ。
朝からこんなによく寝てるなんて。
岡田みたいなヤツが最初に来たら、何されるかわかんないぞ。
くすっと笑いがもれた途端、ぴいちゃんが起きた。
パチパチとまばたきして教室を見回し、俺を見つけて驚いた顔をする。
それから「失敗した」という顔。
彼女のこんな顔、久しぶりに見たな。
「おはよう。」
笑わないように気をつけながら言う。
本当に「おはよう」そのものだ。今、起きたばっかりなんだから。
「おはよう。」
困ったように笑いながら、ぴいちゃんが言う。
それから彼女は、さっと廊下の方に視線を走らせた。
逃げないで!
なんとなく、そう思った。
あわてて言葉を探す。
「いつも、こんなに早いの?」
とりあえず、話をつながなきゃ。
ぴいちゃんの前の席の椅子に座って、話をする態勢を整える。
これで逃げられたら、ショックだ。
「うん、そう。電車が遅れるときもあるから、早めに来てるんだ。」
彼女はなんとなく落ち着かない様子。
「藤野くんは、今日はどうしたの?」
「朝練が休みで。昨日、試合があったから、今日はお疲れさまってことかな。」
「ああ、昨日は負けちゃって、残念だったね。」
逃げるのはあきらめた?
ぴいちゃんは椅子の背に寄りかかると、膝の上に手を重ねた。
「よく本読んでるよね?何の本?」
「これ?SF。神林長平って知ってる?」
首を横に振ると、ぴいちゃんが笑った。
「そうだよね。最近、SFって読む人が少ないかも。これは天文部の先輩お薦めの作家でね、読んでみたらはまったの。」
「そういえば、天文部だって、笹本から聞いたよ。」
「笹本くん・・・?知り合い?」
ぴいちゃんは微妙な表情をした。
俺と笹本がどのくらい仲がいいのか推し量っているのかもしれない。
「同じ中学出身。この前、帰りにバスで一緒になって、久しぶりに話をしたから。」
「ああ、そうなんだ。」
安心した?
そのまま部活の話やうわさ話をする。
なんでもない話題ばかりだけど、彼女と話しているこの時間が心地いい。
ぴいちゃんは、神谷たちのように大きな声では笑わない。でも、彼女の控えめなくすくす笑いでも、楽しいことは同じ。
落ち着いて、ほっとする。今の席は賑やかすぎるな・・・。
「藤野。」
廊下から呼ぶ声がして、顔を上げたら野球部の林だった。
「ちょっといい?」
何か用?
話してる途中なのに。
ぴいちゃんに目を戻すと、彼女はにこにこしながら右手をドアの方に差し出して、「どうぞ」という仕草をした。
引きとめてくれないのか・・・。
「じゃあ。」
ぴいちゃんにうなずいて、後ろ髪を引かれる思いで背を向ける。
野球部員には後ろ髪なんてないけど。
何も知らない林には悪いけど、めったにないぴいちゃんとのひとときを中断されて、うらめしい気持ちになる。
どうでもいい話だったら、殴るぞ。
「あれ誰?篠田じゃないよね?」
廊下を歩きながら林が尋ねる。
見てたのか。・・・当たり前か。
「篠田?違うよ。なんで?」
「なんか、いい雰囲気だったから。ちょっと、声かけるのが悪いような気がした。」
そんなふうに見えた?
ちょっとくすぐったい。
そろそろみんなが到着する時間だ。廊下がさっきより騒がしい。
彼女と話していたのは、ほんの5分くらいだったらしい。
でも、1つ1つの会話を鮮明に思い出すことができる。
「そうかな?吉野さんだよ。」
「吉野・・・?この前、岡田が話してた女子?なんだ。だったら、もっとよく見ればよかった!」
「なんで?」
「あれからしばらくの間、『神谷と競ってる女子』って話題になってたの知らない?」
いや!知らない!
驚いて林を見る。
「競ってるって言っても、岡田の中で、だろう?おとなしくて、目立たなくて、神谷とは全然タイプが違うし。」
彼女が男に注目されるのは、なんとなく嫌だ。
できることなら、俺が全部追い払ってやりたい。
「そのおとなしいところがいいんじゃないか。お前だって、楽しそうに話してたのに。まさか、一人占めしようっていうわけ?」
一人占めって、そんな、まさか。
でも、彼女は・・・。
「もしかして、篠田と二股?」
ええっ?
「なんで、そうなる?!篠田とは、まだ友達なだけで。」
じゃあ、ぴいちゃんは?
・・・彼女だって友達だ!
「ふーん。あ、映司!野球部の2年でちょっと話が・・・。」
助かった。
林が映司を見つけて話題が逸れたことにほっとする。
でも、ぴいちゃんが注目を集めていることが不安だ。そんなことには慣れていないように見えるし。
あー!また保護者みたいになってるよ。
だけど!
だけど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・電車に乗っている。
明るい、昼間の電車。
すいていて、同じ車両には誰もいない。
俺が座っている反対側の窓から、広く海が見える。
よく晴れた空と広がる海。
“青”。
俺の名前だ。
何しに来たんだっけ?
ことん、と、腕に何かが当たった。
女の子が寝ている。
腕に、彼女の肩が軽くあたる。
うちの学校の制服姿。
ひざの上の閉じかかった本に、指が挟まったままだ。
誰だっけ?
髪がうつむいた彼女の顔を隠している。
もうすぐ彼女が降りる駅だ。
起こさなくちゃ。
でも、いくら声をかけても彼女は起きない。
誰だっけ?
また、その疑問。
起きてくれればわかるのに。
目を見れば。
声をかけても起きなくて、でも、手をかけて揺するのは気が引けて、腕にかかる彼女の控えめな重さが心地よくて、もうこのままでいいや、と思う。
窓の外には明るい空と海。
2人並んでずっと。
「眠り姫。」
くすりと笑ってそうつぶやいたら、目が覚めた。
朝。
自分のベッドの上だった。
ああ、あれは・・・と思ったら、するりと逃げる記憶。
残ったのは「眠り姫」の言葉と、腕にかかった重さだけ。
覚えていたかったのに。
・・・誰だっけ?