14. 私と彼は。
物心ついた頃から。私の頭の中ではいつも複数の声が飛び交っている。
平時であれば2・3個で済むが、問題に衝突した時の多さとやかましさは半端ない。我ながら支離滅裂なそれらは、喚くだけ喚いていざ私が何かの決定を迫られる時になれば、救けを求める私からサッと目を逸らし全てが沈黙してしまうのだ。
まだ私が幼くて思考が単純だった頃が、わかりやすい例になるだろう。
小学4年生だった時、弟タクトと妹キヨと3人で家の前で遊んでいると向かいの家の大型犬が柵を抜け出して、まだ小学2年生で四つん這いのそいつよりも小さかった妹に飛びかかったことがある。
そしてその1秒前、柵の下の土を狂ったように半ば頭を突っ込みながら掘る犬を見た時。
私の中の全愛歌が、同時に絶叫した。
「ダメ、やめて!」「もう穴が大きすぎる!」「誰か!」「キヨとタクトを!」「この家のおばちゃんに!」「タクトとキヨの方が犬に近い!」「違う、間に合わない!」「そうだ、家に!」「キヨとタクトを!」「守る!」「守る!!」「よけて、にげてふたりとも!」「こわい!」「キヨとタクトにひどいことしたらゆるさない!」「早く早く、間に合わない!」「犬から目を離すな!」「たすけて!」「家には入らないと!」「私のかぞくを!」
犬が、泥にまみれて柵の下の穴を抜け5メートル幅の道路をキヨめがけて走った時。
すべての音が消え、私に選択を迫る一瞬の静粛が訪れる。
守る。
ただそれだけを選んだ私がした「キヨに飛びかかる犬にタックルかまして犬諸共弾き飛ぶ」という行動は、結局思考にはなかったものだった。
そんでね。
実はこれも、マッパの私から4時の方向に少し下がった鎮雪氏と目を合わせ固まった私の思考その4がしている現実逃避だったわけなんだけど。
奇声を上げ罵りまくっている脳内に、2秒後かつてのように静けさが訪れた。
大人になってより複雑化した脳内多数決会議(乱闘あり)では、「悲鳴と罵声を浴びせながら一発暴力を振い(竜に当たるものなら)、ダッシュで湯か着替え場に飛び込む」という三つの意見の複合案が採用されていたが。
「あ……の、は……ずかしいのですが……?」
なぜか。
人生で最も殊勝で遠回しなアプローチをしていた。
裸のまま、会話する。
かつて腕に裂傷を負いながらも弟妹には傷一つ付けず守り切った私の誇りを瓦解させる愚策の極みに、私は絶望を見ていた。
「……なにが、でしょうか」
戸惑いがちに、宗竜は言った。
絶望は、見ているだけでは許してくれなかった。……女子として大切すぎる何かに、えぐるようなボディブローをかましてきた。
もう、だめだ。いや、違う。もう、いいだろう。
異世界だから、なんだっていうんだ。
「華も恥じらう清き乙女が、すっぽんぽんだっつーことですけどぉおーー?!?!」
悪を許さぬ不動明王の眼で睨み吐き捨て、脱衣所よりも近かった湯船に飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
「大変、申し訳ございませんでした」
部屋に戻って勧められるままに座ると、宗竜さんは平伏した。
ぎゃーやめて! それは日本人の最終奥義なんですぅ!
それをされると、〝そんなっ頭を上げてください〟ってなっちゃうんですぅ! それから妥協案とか言っちゃうんですぅ!
「そんなっ頭を上げてください! 確かに恥ずかしくて怒っちゃいましたが、それはもうさっきも謝って頂きましたし、いいんです! 異世界で私がこちらの常識を知らないせいかもしれませんし、もうしないって約束してくださったら、それで!」
ってか、もうまんまじゃん。あれか、土下座された時の模範解答Aか。チョロ子か。
それで乙女の柔肌(首)に絞め技かけられ、乙女の細首に刃物振り下ろされ、乙女のぷに腹見られたことを贖えるとでも思っているんのんかー!
……あれ? なんかこれ、もっと謝ってもらうべきこと、あったんじゃない? ぷに腹とか、そういうレベルじゃないやつがさ。
あれ、てか私、それ怒った方がよくない? 今後の生存的な意味で。
それでも体は慌てて立ち上がり、床に額までつけて伏せる鎮雪さんに駆け寄った。
起こそうと、揃えて綺麗に三つ指付いた掌を床から剥がすように手を取った。
が、手首より上はびくともしない。おぬし、やはり怪力か?
「いえ、お怒りはごもっともでございます。私は、こちらの女性が同じ事をされた際恥じるのかさえ、存じ上げません。私は…………感情が、欠落しておりますので」
恥じるのか、……知らない? 感情の、欠落?
「どういう、ことですか」
「私は、記憶のはじまりから約3年前に至るまで、光のない闇の箱の中で育ちました。その後主に暗殺と護衛の任で仕えましたので、…………あまり、こういった形でお傍にお仕えすることには慣れておりません。ですが、ご命令には必ず……必ず」
「どう…………して」
ああ、――――――― ど う し て 。
「……山井……様……?」
青月長石の帳から、驚きに見開かれた至高の青が私を見上げていた。
その真白の頬にも、ぽたりぽたりと雫が落ちていく。
私の、ただの黒い瞳から。
その視界には固まったように動かない鎮雪さんと、もう一つの……彼。
ねぇ、セイ。竜癒には、こんな力があるなんて。
黒かった。それは、確かに闇の箱。
眼球に触れられるまで、その指さえ見えない漆黒の空間。正方形のそれは端から端まで15歩で、飢えに動けなくなると上からソレは落ちてくる。
べちゃりと潰れて飛び散ったり砕けて跳ねたりするソレは、口に入れれば飢えを消してくれる。
けれど、口は痺れ喉は焼け腹は切り裂かれるように痛む。ろくにのたうつこともできないが、吐けばこの苦しみにまた飢えが重なるだけだから、出しはしない。
しばらくすれば、発熱や痙攣や麻痺を繰り返しながら治まる。
その頃、また上から何かが落ちてくる。
ソッチは、はじめこそ腹をえぐられ骨を切り裂かれたが、今はそれほど問題ない。
ただ、気配を探ってソッチが手にしているものを奪い、同じように振えばいい。
ソッチが動かなくなれば、しばらくは何もしなくていい。
次の飢餓か、ソレか、新しいソッチが来るまでは。
そして、私は考える。
どうして、そうなったのか。
―――――答えは、彼の中にはない。
どうして、彼がそんな目に合わなくてはいけなかったのか。
―――――答えは、彼の中にはない。
なんで………………なぜ私は、あなたの竜癒になったのだろう。
20代前半に見える彼は、3年前にあの空間を出たと言った。
龍は、成人すればそこで外見の成長を止める長寿の生き物。
その成人は、平均200年。
そんなことが、あってたまるか。
ねぇ、私はあなたの為に、何ができるかな。
血でも肉でも、何でもあげる。
私に、何ができるかな。
あなたの頭を掻き抱いて、声を張り上げて泣くだけのちっぽけな私に、
何ができるだろう。
――――― いま、どうかお傍に。
鎮雪さんが〝鎮雪さんとして〟した初めての願いに、私は震えながら何度も何度もうなずいて、泣いた。
その苦しみが少しでも私に流れてくれたらいいと、抱きしめる腕を強めて。
心を裂かれるままに、一晩中泣き叫んだ。
鎮雪さんは一度も動かず、けれど私の手が腫れるまで強く強く握り返し続けていた。
離さぬように、縋るように。 安堵するように、戸惑うように。
なく、ように。