宿敵の夢魔の若君を血契で縛ったら、泣きながら「ご主人様」と呼ばれました
第1章 覚醒
私は吸血鬼の血脈に目覚めた。
そして宿敵は、夢魔の血脈に目覚めた。
その日、剣術の授業が終わったばかりだというのに、ルシアン・アッシュクロフトは訓練場を足早に離れていった。
一時間ずっと様子がおかしかった。
いつもの彼なら、銀羽剣を腹立たしいほど華麗に振るい、黒荊学院じゅうに自分の優秀さを見せつけていたはずだ。
けれど今日の彼は、基礎の受け流しでさえ何度も乱し、危うく教官に名指しされるところだった。
私は訓練場の端に立ったまま、彼の青ざめた横顔を見つめて目を細めた。
おかしい。
ルシアンはアッシュクロフト家の若君で、黒荊学院きっての天才だ。
そして、私――セラフィーナ・ウィンターボーンが六歳のころから気に食わないと思っている相手でもある。
彼は何につけても私と張り合ってきた。
魔薬学で私より一点上だっただけで、三日間は私の前をうろつく男だ。
騎乗術で半周だけ先にゴールしたときなど、勝ち誇った孔雀みたいな顔で笑っていた。
けれど今日は、何ひとつ自慢しない。
それどころか、私と目を合わせることすら避け、訓練場の奥にある白樺林を抜けて、古い時計塔のほうへ向かった。
私は少し遅れて、そのあとを追った。
時計塔の裏手にある月桂樹の林は、いつも人けがない。
枝葉が空を覆い、地面には厚い落ち葉が積もり、夕暮れの風が湿った冷たい香りを運んでいた。
そのとき、押し殺したような息遣いが聞こえた。
私は足を止めた。
真っ先に浮かんだのは、ルシアンがここで誰かと逢い引きでもしているのではないか、という疑いだった。
顔から一瞬で血の気が引く。
けれど耳を澄ませても、二人目の声はない。
絡み合った枝を払うと、古い月桂樹に背を預け、今にも崩れ落ちそうなルシアンの姿が見えた。
彼の頬は不自然なほど紅潮し、夕焼けに焼かれたような赤みが目尻から白い首筋の下まで広がっている。
額から落ちる汗は、柔らかな黒髪の先を濡らしていた。
しかも、頭には小さな悪魔の角が生えている。
背後では暗紫色の尻尾が苛立たしげに落ち葉を叩き、その先端は小さなハートの形をしていた。
腹立たしいほど、きれいだった。
私は一瞬だけ呆然とし、すぐに理解した。
夢魔の血脈が目覚めたのだ。
アッシュクロフト夫人は、もともと夢魔の一族の貴婦人である。
半血のルシアンが少し遅れて目覚めたところで、不思議ではない。
「セラフィーナ?」
ルシアンが私に気づいた。
いつもは冷ややかで高慢なその声が、今は信じられないほど弱い。
彼は慌てて尻尾を隠そうとしたが、その尻尾はまるで言うことを聞かず、かえって緊張したように木の根を叩いた。
赤く潤んだ目で、彼は私をにらむ。
「ここで何をしている。行け」
まったく迫力がない。
むしろ甘えているように聞こえた。
私はゆっくり近づき、携帯していた記録水晶を取り出して、彼の前で揺らした。
「本当に行ってほしいの?」
私は唇の端を上げる。
「このまま出ていって、ついでにこの映像を学院の掲示塔に映すかもしれないわよ。黒荊学院じゅうに教えてあげるの。みんなの憧れの高嶺の花は、実は尻尾をばたつかせる小さな夢魔だったって」
もちろん、からかっただけだ。
こんな艶やかな姿を、ほかの誰かに見せるわけがない。
ルシアンの顔色が変わった。
「やめろ!」
羞恥で目元まで濡れた声だった。
「セラフィーナ、君は何がしたいんだ」
私は彼の背後で揺れる尻尾を見つめ、できるだけ誠実そうに笑った。
「尻尾を触らせて」
「私が満足するまで触らせてくれたら、水晶は出さないわ」
ルシアンは雷に打たれたような顔をした。
「正気か?」
「よく考えて」
私は記録水晶を軽く持ち上げた。
彼は目を閉じ、まるで重大な敗北を受け入れるように息を吐いた。
「一度だけだ」
私は聞こえなかったふりをした。
近づいて、その尻尾を手に取る。
思ったよりもずっと美しい尻尾だった。
暗紫色で、少し冷たく、細かな鱗の光が走っている。
ハート型の先端は柔らかく、私の手首に巻きつけるとちょうど四周した。
私は根元から先端へそっと指を滑らせ、悪戯心でそのハートを軽くつまんだ。
ルシアンの全身が震えた。
彼は唇を噛み、赤い目で私をにらむ。
「触るなら触れ。変なところをつまむな」
夢魔の尻尾が敏感だという話は聞いたことがある。
それでも、実際に彼がこんな反応を見せるのは、なかなか面白かった。
「つらい?」
「気持ちいいわけがないだろ」
かすれた声で即座に反論するくせに、彼は私の顔を見ようとしない。
強がりだ。
私はゆっくり、丁寧に尻尾をなだめ続けた。
最初は肩を張って耐えていたルシアンも、やがて支えきれなくなったのか、私の肩に額を預け、乱れた呼吸のまま袖口を握りしめた。
私は目を細めた。
実のところ、少しだけ仕返しの気持ちもあった。
一週間前、私は吸血鬼の血脈に目覚めたばかりだった。
ウィンターボーン家の吸血鬼の血は長く沈黙していたから、私自身もこんな面倒なことが起きるとは思っていなかった。
けれどある夜、牙が唇を傷つけ、鏡の中で赤い瞳が光った。
その瞬間、私はもうただの貴族令嬢ではないのだと、はっきり思い知った。
新鮮な血が必要だった。
だから私は、当時の恋人だったセドリック・ヴェイルのもとへ行った。
指先を少しだけ噛ませてほしかっただけだ。
けれど彼は怯えきった顔で私を突き飛ばし、赤い瞳と牙を指さして、私を化け物だと言った。
私はその場で彼に平手打ちを食らわせ、あのくだらない関係を終わらせた。
彼がほかの貴族令嬢と裏で親しくしていたことには、そこまで腹も立たなかった。
けれど、あんな目で私を見ることだけは許せなかった。
ルシアンなら、そんなふうには言わない。
彼は皮肉屋で、高慢で、小さいころから私を苛立たせてばかりいる。
それでも、私を化け物とは呼ばない。
あの夜、私は龍焔酒を飲みすぎて、ふらふらになりながら学院外の貴族宿舎区へ戻った。
けれど鍵の魔法陣がどうしても開かず、扉の前に座り込んでいた。
そこへ現れたのが、ルシアンだった。
彼は眉をひそめて私を見下ろした。
「どうしてこんなに飲んだんだ」
そのあと、何かに気づいたように唇を上げた。
「別れたのか?」
その嬉しそうな顔が気に入らなかった。
「私が別れて、そんなに楽しい?」
彼は答えず、別のことを聞いた。
「あんな男のどこに、そこまで飲む価値がある」
私は酔っていて、彼の胸元を指先でつつきながら、適当なことを言った。
「そりゃあ悲しいでしょう」
「私に隠れてほかの女に手を出していたのよ。自分の魅力に問題があるのかって、少しは疑うじゃない」
私は彼に近づいた。
酒の香りが、彼の唇のそばに落ちる。
「じゃあ、あなたが恋人を一人弁償してくれる?」
「そうしたら、少しは機嫌が直るかも」
ルシアンの喉が小さく動いた。
「どんな相手がほしいんだ」
私は彼の首に腕を回し、そのまま噛みついた。
牙が肌を破った瞬間、私は彼の前で吸血鬼の正体をさらした。
彼の血は、想像以上に甘かった。
私は彼の耳元でささやいた。
「あなたみたいな人」
そのあと何があったのかは、あまり覚えていない。
翌朝、目を覚ますと、私は自分のベッドにいた。
それから一週間、ルシアンは伝言鴉を一羽も寄こさず、魔晶ランプも一度として光らせなかった。
どういうつもりなのか。
私に噛まれたことなど、どうでもよかったのか。
私に抱きつかれたことも、気にしていないのか。
それとも、酔った宿敵に噛まれただけで、気にするほどのことではないと思っているのか。
そう考えた瞬間、尻尾を握る手に少しだけ力が入った。
ルシアンが低く息を漏らす。
次の瞬間、彼は私の顎をつかみ、無理やり自分のほうを向かせた。
黒かった瞳が、いつのまにか妖しい紫に変わっている。
彼はまばたきをして、ゆっくりと人を惑わせるように笑った。
月桂樹の林が、水面のように歪む。
風の音が遠のき、木影がぼやけた。
残ったのは、息をのむほど美しいルシアンの顔だけだった。
私はほとんど迷わず、彼の後頭部を引き寄せて口づけた。
柔らかな感触は一瞬だけだった。
彼はすぐに私を押しのけ、ゆっくりと襟元を整えた。
その尻尾も、ようやく姿を消している。
彼は決闘に勝った孔雀のように、私を見下ろした。
「君の負けだ」
私は拳を握りしめた。
危うく笑いそうになる。
これも勝負にするのか。
第2章 宿敵
私とルシアンは六歳のころから知っている。
ウィンターボーン家の屋敷とアッシュクロフト家の城は、銀杏の林を一つ挟んだだけの距離にあった。
幼いころの私は、隣家の若君が精巧な人形のように可愛いと思い、素直に一緒に遊ぼうと誘った。
彼は断った。
そこで私は、私の持っていたレースのドレスを着てみないかと、これまた素直に提案した。
彼は泣きながら私の母に告げ口しに走っていった。
長いまつげに涙がたまり、真珠のように頬を転がっていた。
私は一晩じゅう貴族礼法を書き写す罰を受けたが、少しも腹は立たなかった。
むしろ、あんなにきれいに泣く彼を見て、妙に満たされた気分になった。
私は昔から少しおかしかったのだと思う。
やがて私たちは、そろって黒荊学院に入学した。
彼はますます眩しい存在になった。
成績、礼儀作法、剣術、魔薬、古語、騎乗、射撃。
すべてで私の一歩先を行こうとする。
掲示板の順位表の前で、何気ないふりをしてこちらを見るたび、私は悔しさで歯がゆくなった。
壁に押しつけて、泣くまで口づけてやりたいくらいに。
もちろん、そんなことは誰にも言えない。
思春期の貴族令嬢たちが彼を好きになるとき、頬を染め、恋文を書き、舞踏会でこっそり彼を見るだけで胸を高鳴らせる。
私は違った。
彼を見ると、あの誇らしげな瞳を、私のせいで潤ませたくなった。
そういう意味でも、私はたしかに昔から少し危険だった。
学院で彼の夢魔の血脈が再び不安定になったのは、三日後のことだった。
その日、符文学の授業が終わると、ルシアンは空き教室へ駆け込み、扉に鍵をかけることさえ忘れた。
私が追っていくと、彼は震える手で抑制薬を取り出しているところだった。
けれど、尻尾はもう出ていた。
彼は講壇にもたれ、限界まで耐えているように見えた。
私は歩み寄り、彼の手から薬を奪い取った。
「セラフィーナ!」
怒った声まで震えている。
「どうして君はいつも現れるんだ。返せ」
私は薬を鞄にしまった。
「これは頼りすぎないほうがいいわ」
これは本当だ。
夢魔の覚醒後、最初の三か月は不安定な時期が続く。
抑制薬で無理に押さえ込めば、次に崩れたとき、さらに苦しくなる。
昨夜、アッシュクロフト夫人はわざわざ伝言鴉を飛ばし、学院でルシアンを見ていてほしいと私に頼んできた。
夫人は、夢魔の尻尾には安撫が必要だと言った。
言い方は遠回しだったが、私は快く引き受けた。
だって私は、ただ安撫したいだけではなかった。
彼の目尻が赤くなるまで、からかってみたかった。
私は笑顔で彼に近づいた。
「前みたいに、私が手伝ってあげようか」
ルシアンは一瞬固まった。
すぐに顔をそむけ、声を小さくする。
「夢魔の尻尾は、誰にでも触らせるものじゃない」
そのとき、ちょうど終業の鐘が鳴った。
廊下から生徒たちの足音が近づいてくる。
私はうなずいた。
「嫌ならいいわ。扉を開けるから」
「みんなに、今のアッシュクロフト少爺を見てもらいましょう」
「だめだ!」
彼は私の手をつかんだ。
怒りのせいか、瞳に薄く涙が浮いている。
「どうしてそんなに意地悪なんだ」
私はなめらかな頬を軽く叩いた。
「私は意地悪なの」
「それで、答えは?」
ルシアンは急に黙り込んだ。
じっと私を見る。
魅了を使うつもりだと、すぐにわかった。
「無駄よ」
私は手首の銀月の腕輪を見せた。
「抗魅符をつけてきたの。あなたの小細工は効かない」
彼は目にたまった涙をまばたきで消し、ふっと笑った。
「そうかな」
次の瞬間、彼は自分の下唇を軽く噛んだ。
鮮やかな赤い血の珠が浮かぶ。
甘く濃厚な香りが、ほとんど一瞬で私の神経を揺らした。
喉が乾いた。
ここ数日、私はろくに血を摂っていない。
吸血鬼の血脈は、飢えるほど感覚を鋭くする。
ルシアンは小悪魔そのものの顔で、首を傾げた。
「目覚めてから、まだまともに飲んでいないんだろう」
「腹が減っているんじゃないか」
私は彼の顎をつかみ、平静な声を出した。
「怖くないの?」
「本当に噛むかもしれないわよ」
彼は少しも怖がっていなかった。
「君にはできない」
「この前、宿敵に口づけられて、気持ち悪くて口を洗いたくなったんだろう?」
彼は挑発的に私を見た。
「薬を返せ」
「さもないと、どうなっても知らない」
彼は、私が魅了に惑わされて口づけたのだと思っている。
けれど彼は知らない。
魅了などなくても、私はずっと前から彼に口づけたかった。
私は目を伏せて笑った。
そして、そのまま彼に口づけた。
ルシアンが目を見開く。
私は彼の下唇を含み、そこに滲んだ温かな血を舌先で絡め取った。
血の味に、吸血鬼としての本能が目覚め、頭皮に細かな震えが走る。
次の瞬間、彼は私の手首をつかみ、今度は私を壁に押しつけた。
彼の口づけはぎこちないのに、やけに強い。
尻尾はいつのまにか私の腰に絡みつき、強くなったり緩んだりして、主人の動揺をそのまま漏らしていた。
夕暮れの光が窓枠から差し込むころ、私はようやく彼のしわになった制服を整えた。
悪魔の角も尻尾も、もう消えている。
けれど顔はまだ熱っぽく、唇も赤すぎるほど赤い。
彼は乱れた息のまま、私を責めた。
「君は吸血鬼のくせに、どうして僕より夢魔みたいなんだ」
「セラフィーナ、君は骨の髄まで悪い女だ」
私は涼しい顔で答えた。
「魔息を安定させてあげただけよ」
彼は鼻で笑った。
「君がそんなに親切なわけがない」
私は汗で湿った前髪を軽く払ってやった。
「あなたのお母様に頼まれたの」
「よく面倒を見るって約束したわ。アッシュクロフト夫人にはいつもお世話になっているもの。破るわけにはいかないでしょう」
ルシアンは目を伏せた。
「それだけか」
「ほかに何があるの?」
彼は私の手を払い、背を向けた。
その背中は相変わらず高慢で、意地っ張りだった。
けれど小さくこぼれた声には、隠しきれない寂しさがあった。
「母の言葉なんて、忘れればいい」
私はその場に立ったまま、ゆっくり笑みを浮かべた。
完全に私をどうでもいいと思っているわけではないらしい。
第3章 元恋人
セドリック・ヴェイルは、しつこく私に手紙を送ってきた。
最初は伝言鴉だった。
私が彼の魔印を封じると、今度は人に頼んで、宿舎の扉の前に手紙を置かせた。
内容はどれも似たり寄ったりだ。
よりを戻したい、まだ愛している、あの日に化け物と言ったのは怖かっただけだ、というものだった。
私はまったく心を動かされず、その手紙を暖炉に放り込んだ。
すると今度は、本人がやって来た。
私が住んでいるのは、黒荊学院の外にある貴族宿舎区だ。
静かで、冷たく、部屋は高位結界で守られているため、普通の寮の騒がしさに悩まされずにすむ。
偶然にも、ルシアンも私の向かいに住んでいる。
引っ越してきたときの彼が「まったく、腐れ縁だな」と吐き捨てていなければ、わざわざ私の向かいを選んだのかと疑っていたところだ。
セドリックは廊下に立ち、深刻そうな顔をしていた。
「セラフィーナ、まだ怒っているのか」
私は扉にもたれたまま、彼を中に入れる気もなく言った。
「またお金が足りないの?」
彼の顔が一瞬こわばった。
すぐに傷ついたような表情を作る。
「どうしてそんな言い方をするんだ」
「あの日は驚いただけなんだ」
「本心じゃなかった」
「半年も付き合っていたのに、あんな小さな誤解だけで本当に僕を捨てるのか」
彼は腕を差し出した。
「噛んでいい」
「君が満足するなら、いくら吸っても構わない」
私は嫌悪を隠さず、一歩下がった。
「誠意を見せたいなら、先月貸した三万金貨を返して」
セドリックは黙った。
私は笑った。
「全部、ほかの女に使ったんでしょう?」
彼には、たしかにルシアンに似た部分が一つだけあった。
横顔だ。
顎の線と鼻筋だけは、ある角度から見ると三割ほど似ていた。
当時、私が彼と付き合った理由も、結局はそれだけだった。
今では、ルシアンが私に何の感情も持っていないわけではないとわかっている。
ならばセドリックには、もう何の価値もない。
そのとき、向かいの扉が開いた。
ルシアンがゆるい黒の長衣を羽織って出てくる。
髪はまだ濡れていて、水滴が落ちていた。
彼の部屋の浴室魔法陣が壊れたので、さっきまで私の浴室を貸していたのだ。
ルシアンはセドリックを見るなり、冷たく笑った。
「浮気男が、扉の前まで追ってきたのか」
セドリックは彼を見るなり、顔色を変えた。
「誰だ、君は」
次の瞬間、何かに気づいたように、滑稽な自信を浮かべる。
「セラフィーナ、そんなに僕が忘れられなくて、身代わりを見つけたのか」
「でも見る目がないな」
「そいつ、横顔だけ少し僕に似ているだけだろう」
ルシアンの顔が完全に暗くなった。
彼はセドリックを上から下まで眺め、鼻で笑う。
「僕が君に似ている?」
「金をせびるしか能のない、落ちぶれた色男に見えるという意味か?」
セドリックは冷笑した。
「幼なじみ設定か? 誰を騙すつもりだ」
「セラフィーナは一度も君の話なんてしなかった」
私はそこで口を挟んだ。
「たしかに私たちは昔から知り合いよ」
「でも、あなたには関係ない」
私は壁際に立てかけてある箒を指さした。
「これ以上うるさくするなら、あれで掃き出すわ」
「身代わりのために本物を追い出すのか?」
セドリックは信じられないという顔をした。
扉を閉める直前、私は親切に忠告してやった。
「あなたが今すべきなのは、貴族向けの安っぽい恋愛小説を読むのをやめることね」
扉が重く閉まった。
振り返ると、ルシアンが廊下の灯りの下に立っていた。
唇を噛み、目元を赤くし、傷ついたのに平気なふりをする猫みたいな顔をしている。
「本当なのか」
「君は僕を身代わりにしていたから、あの日、あんなふうに抱きついたのか」
私は眉を上げた。
さっきの余裕は、全部ふりだったらしい。
この子は、相当気にしている。
私は手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「そうかどうかって、そんなに大事?」
「妬いているの?」
「思い上がるな」
彼は私の手首を強くつかみ、ひどく険しい顔でにらんできた。
目に浮かんだ涙さえなければ、少しは迫力があったかもしれない。
「僕は僕だ」
「それに、よく見ろ。僕は君の元恋人より百倍はきれいだ」
そう言って、彼は自分の部屋へ戻っていった。
扉が乱暴に閉められる。
防音結界の性能があまりよくないせいで、途切れ途切れのすすり泣きが聞こえてきた。
私はすぐには慰めに行かなかった。
男というのは、ときどき少しだけ距離を置いて釣る必要がある。
それに、私は急にいろいろなことに気づいてしまった。
ルシアンが長年、何かと私に張り合ってきたのは、単なる負けず嫌いではなかったのかもしれない。
ただ、私に自分を見てほしかっただけなのかもしれない。
ルシアン。
あなた、私のことが好きだったのね。
第4章 飢え
あの日、私は「身代わり」という言葉を否定しなかった。
ルシアンを数日ほどやきもきさせて、もっと私を気にさせるつもりだった。
ところが、それは逆効果だった。
それから数日、彼は私を見るとすぐに逃げるようになった。
訓練の授業では黒い半仮面をつけ、私が彼の顔越しに誰かを見ているのではないかと警戒しているようだった。
三日も血を摂っていない私は、頭がぼうっとするほど飢えていた。
吸血鬼の血脈にとっての飢えは、普通の空腹とは違う。
血の気配だけが、やけに鋭く匂うようになる。
私は学院の中庭の石段に座り、ずっとルシアンを見つめていた。
見れば見るほど、彼はおいしそうだった。
どちらの意味でも。
ついに我慢できなくなったのか、彼がこちらへ歩いてきた。
仮面を押さえたまま、怒ったように私をにらむ。
「僕を通して、ほかの誰かを見るな」
「見てないわ」
言い終わる前に、彼はもう背を向けていた。
私はため息をつく。
説明したいのに、うまい理由が見つからない。
まさか、セドリックと付き合ったのは横顔があなたに似ていたからです、と正直に言うのか。
そんなことを言えば、棺に入るまで笑われるに決まっている。
十五歳のころから彼に片想いしていたなんて、絶対に知られたくなかった。
伝言魔晶を見下ろし、何か送るべきか迷っていたとき、懐かしい声が聞こえた。
「セラフィーナ」
またセドリックだった。
彼は慎重に近づき、私の手を取ろうとする。
「彼女とは切った」
「君を傷つけるようなことも、もう二度と言わない」
「一度だけ、許してくれないか」
拒絶しようとした。
けれど視線が彼の唇に落ちた瞬間、体が勝手に固まった。
唇が切れて、わずかに血が滲んでいる。
今の私には、その匂いが釣り針のように思えた。
喉が鳴る。
これ以上血を摂らなければ、私は本当に制御を失う。
セドリックは私の変化に気づいたらしい。
目を輝かせ、花廊の陰へ私を引き込んだ。
「腹が減っているのか」
彼はわざと唇の端の血を広げた。
「飲んだら、僕たちは元に戻る。そういう約束だ」
「それから、これまでどおり毎月――」
「黙って」
彼のおしゃべりは耳障りだった。
私は彼の顔をつかみ、ルシアンに唯一似ている角度に向けた。
見れば見るほど、平凡だ。
ルシアンの言うとおりだった。
彼はセドリックより百倍は美しい。
どこを噛めばいいか迷っていたそのとき、背後を風がかすめた。
次の瞬間、ルシアンの拳がセドリックの顔面に叩き込まれ、彼は私の前から弾き飛ばされた。
「まだ彼女に近づく気か」
セドリックは悲鳴を上げ、顔を押さえて後ずさった。
「また君か!」
「僕の恋人に会いに来て何が悪い!」
「もう別れた相手だろう」
ルシアンは彼の襟元をつかみ、氷のような目で見下ろした。
「彼女は君みたいな男を食べ直したりしない」
「君は自分の血を餌にしているだけだ」
「彼女は飢えているから、君を一時的な食事として見ているだけだよ」
私は眉を上げた。
かなり正しい。
セドリックの顔が赤くなった。
「それが何だ」
「僕は彼女に噛まれてもいい。君に関係あるのか」
「本当に?」
私が口を開くと、二人は同時にこちらを見た。
私の牙はすでに完全に伸び、花廊の陰で赤い瞳が光っていた。
暗い血紋が白い首筋から耳の後ろまで這い上がる。
私は微笑んだ。
「私の長期血源になりたいなら、血契を結ぶ必要があるわ」
セドリックの顔が白くなった。
「血契って何だ」
「結べば、あなたは私とつながる」
「私はあなたの血流と魔力の揺らぎを感じ取れるし、あなたは私の召喚に逆らえなくなる」
「もちろん、吸い尽くしたりはしないわ」
「でも、自由はほとんど残らないでしょうね」
私はわざと近づき、牙を見せた。
「それでもいい?」
セドリックは青ざめて後ずさった。
「そ、そんな話、前はしていなかっただろう」
「あなたは初めて私が血を欲しいと言ったとき、私を化け物と呼んだでしょう」
私はにこやかに告げた。
「説明する機会なんてなかったわ」
彼は完全に怯え、転がるように逃げていった。
ルシアンはその背中を見て、冷たく鼻を鳴らした。
「あんな男を、よく選べたものだ」
私は彼を見る。
「私の食事を追い払ったわね」
「どうしてくれるの?」
「追い払ったのは君だろう」
「あなたが来なければ、私はとっくに一口噛んでいたわ」
私は自分の牙を指で示した。
「もう限界なの」
ルシアンはしばらく黙った。
そして、自分の襟元に手をかけ、白く整った鎖骨を見せた。
午後の金色の光が彼の目に落ち、紫を淡い琥珀色に変えている。
彼は指先でそこを示し、ひどく真剣な声で言った。
「僕を飲め」
「これからは、僕が君の血源になる」
第5章 専属の血源
ルシアンは本気で言った。
けれど、実際に私の部屋へ入ると、シャツの釦を外すだけで随分時間がかかった。
骨ばった指が小さく震え、耳の根元は燃えるように赤い。
「早くして」
私は待ちきれずに催促した。
彼は目を閉じ、処刑台へ向かうような顔で外套とシャツを脱いだ。
流れるように整った筋肉の線を見て、私は思わず唇を上げた。
「アッシュクロフト少爺、普段はずいぶん隠しているのね」
「黙れ」
彼は顔をそむけたが、首筋の赤みはさらに濃くなった。
私は近づき、まず口づけようとした。
彼は素早く避けた。
「口はだめだ」
私は目を細める。
「どうして?」
彼は長いまつげを伏せ、低い声で言った。
「愛し合っている相手とだけするものだろう」
まだ身代わりの件を気にしているらしい。
私はあえて説明しなかった。
傷ついているのに意地を張る顔が、あまりにも私の胸を突いたからだ。
もう少しだけ、からかうことにした。
指先で彼の肩の線をなぞり、耳元に顔を寄せる。
「ルシアン、私のことが好きなんでしょう?」
「どうして言わないの?」
「誰が君を好きだって?」
声はかすれているくせに、まだ強がる。
「思い上がるな」
私は笑った。
「じゃあ、どうして私の血源になるなんて言ったの?」
「君が飢え死にしそうだったからだ」
私は彼の首筋に牙を立てた。
牙が肌へ沈んだ瞬間、彼は私の肩を強くつかんだが、押し返しはしなかった。
彼の血は、何よりも甘い。
温かく、澄んでいて、夢魔の血脈特有の幽かな香りがある。
私は少しだけ飲んで、すぐに口を離した。
吸血鬼と血源のあいだには節度が必要だ。
彼を傷つけたくはなかった。
ルシアンが目を開ける。
目尻が赤い。
「もういいのか」
「ええ」
「本当に?」
私は彼を見て、思わず笑いそうになった。
「あなた、残念そうね」
彼の顔色が変わる。
「違う」
相変わらず口だけは強い。
私は彼の手を取り、ゆっくり引き寄せた。
今度は、彼は逃げなかった。
私が唇を重ねると、彼は一瞬だけ固まり、それから恐る恐る応えた。
まるで私が途中でやめることを恐れているようだった。
あるいは、ずっと待っていた答えをようやく得たように。
口づけの終わりには、いつのまにか尻尾が現れ、私の手首にそっと絡んでいた。
私は笑いを含んだ声で聞いた。
「お互いに長期血源になるのはどう?」
「あなたは私に血をくれる」
「私はあなたの魔息を整える」
「それで貸し借りなし」
ルシアンの目元が赤くなった。
「それだけか」
私は彼を見る。
「今はね」
「この先は、あなたの働き次第」
彼は目を伏せた。
長い沈黙のあと、ようやく小さくうなずいた。
「わかった」
その日から、ルシアンは私の専属の血源になった。
もちろん、それは表向きの言い方でしかない。
実際には、彼は毎晩枕を抱えて私の部屋に来るようになった。
理由は、私が夜中に飢えて倒れないよう見張るため、だそうだ。
堂々と半分のベッドを占領する彼を、私は特に追い出さなかった。
だって私も、彼を抱いて眠るのが嫌いではなかったから。
第6章 蛇裔の旧友
数日後、高等部時代の同級生、イライアス・グレイから連絡が来た。
黒鴉の都へ来たばかりだから、よければ食事でもどうかという内容だった。
イライアスは、かつての私の勉強仲間だ。
高位符文と古代魔法史に強く、穏やかで頼りがいのある人物だった。
高等部の野外研修で私が怪我をしたときも、最初に見つけて医館へ運んでくれたのは彼だと思っていた。
だから私は、ずっと彼に感謝していた。
伝言魔晶の向こうで、イライアスはこんなことを教えてくれた。
【少し面白い話がある。大学一年のころ、蛇裔の血脈に目覚めたんだ。急に尻尾が出て、自分で自分を怖がってしまったよ】
この世界では、さまざまな異族の血脈と人間が平和に共存している。
吸血鬼、夢魔、狼族、蛇裔、鷹身族、さらには古い龍裔まで、王国の登録簿には記録がある。
ただ、吸血鬼という名は少し恐ろしげに聞こえる。
母からも、むやみに名乗る必要はないと言われていた。
私は返信した。
【蛇裔っていいじゃない。夏は冷却魔法を使わなくても涼しそう。自分の尻尾を抱いて眠ればいいもの】
送信した瞬間、伝言魔晶が大きな手で覆われた。
ベッドにうつ伏せで寝転んでいたルシアンが、不機嫌そうな顔をしている。
「どういう意味だ」
「君は彼の尻尾を抱いて眠りたいのか」
私は彼の想像力に驚いた。
「何を考えているの」
彼の頬をつまむ。
「私が抱いて寝たいのは、あなたよ」
「口だけなら何とでも言える」
ルシアンは枕を抱えたまま、私とイライアスのやり取りを指でつついた。
「『ついでに会えないか』だと?」
「君はついでに扱われるものなのか」
「彼は君のことを大事にしていない」
「昔の草を食べ直すのはやめたほうがいい」
「しかも蛇の尻尾つきの、質の悪い草だ」
私は笑うしかなかった。
「私とイライアスはただの同級生よ」
ルシアンは半信半疑の顔をする。
「本当に?」
「もちろん」
「信じない」
彼は目を左右に動かし、急に何かを思いついたように声を高くした。
「わかった」
「彼が今は蛇裔だから、君みたいな変わり者は、まさか――」
途中で自分から口を閉じた。
そのくせ、頬はふくれたままだ。
「とにかく、会いに行くな」
私は完全に彼の思考についていけなかった。
「どうしていつも私を変わり者って言うの?」
彼は私に何度か噛まれた手首を見せ、抗議した。
「毎日僕を血源にして、尻尾まで触っているだろう」
「それで変わり者じゃないと言うのか」
「あなたも楽しんでいるでしょう」
「楽しんでない」
この口は、空が落ちてきても支えられそうだ。
私は横目で彼を見つめた。
「私にイライアスへ会ってほしくないのね」
「当たり前だ」
「じゃあ、今夜は少し多めに飲ませて」
ルシアンが固まる。
私はにっこり笑って付け加えた。
「満足できたら、行かないことを考えてあげる」
彼の顔が一瞬で真っ赤になった。
「食事のたびに僕をからかうな」
「君みたいな吸血鬼がどこにいる」
「私よりひどい吸血鬼だっているわ」
私は彼に顔を寄せる。
「あなたが知らないだけ」
ルシアンはぶつぶつ文句を言いながらも、結局はベッドの端に座り、襟元を開いた。
私はそこまでひどいことはしなかった。
手首を少し噛んだだけだ。
それでも彼は、ひどくいじめられたような赤い目で私をにらんだ。
私は彼の指先に口づける。
「おやすみ、私の可愛い子」
彼は私を悪い女だと小声で罵りながら、私の腕の中へ潜り込んだ。
ほどなくして、すっかり眠ってしまった。
第7章 遅れてきた真実
翌日、私は結局イライアスに会いに行った。
せっかく黒鴉の都まで来たのに、断るのは失礼だと思ったからだ。
待ち合わせは、月桂広場のそばにある白鹿亭だった。
イライアスは相変わらず、頼りがいのある優等生という雰囲気だった。
銀縁の眼鏡をかけ、穏やかな口調で、注文の仕方まできちんとしている。
話の途中で、彼はふと尋ねた。
「君はルシアンと同じ学院なんだよね」
「ええ」
「本当は彼も誘おうかと思ったんだ」
イライアスは花茶を一口飲む。
「でも、昔から僕に少し含むところがありそうだったから、やめておいた」
私は何気なく聞いた。
「どんなところ?」
「高等部の野外研修のあとから、彼の目つきがずっと冷たかったんだ」
イライアスは少し言葉を切った。
「そういえば、彼の脚はその後どうなった? 君を背負って山を下りている途中で転んだんだろう。あれはかなり痛そうだった」
私の指が止まった。
「何の話?」
イライアスが目を瞬いた。
「知らなかったのか」
あの年、私の祖母は重い病に伏せっていた。
野外研修地の近くには古い神殿があり、とても霊験あらたかだという噂があった。
私は誰にも言わず、一人で山へ祈りに行った。
けれど下山するころには日が落ち、道に迷い、足を滑らせて斜面を転がり落ちた。
目を覚ましたとき、私は医館にいた。
隣の寝台には、ルシアンが横たわっていた。
左脚には石膏、顎には包帯、肘にも擦り傷があった。
私は彼が面白半分で山に入って怪我をしたのだと思っていた。
礼を言おうとする前に、彼が伝言魔晶に向かって友人を怒鳴っているのを聞いたからだ。
「探検だと? 宝だと?」
「行ってみたら木ばかりじゃないか」
「暗くなったら道も悪いし、脚まで折った」
彼は私に気づくと、冷たく目を向けた。
「何を見ている」
「僕の脚は折れたのに、君の脚は無事だ。そんなに嬉しいのか」
だから私は、彼が私のために山へ来たなどとは思わなかった。
けれどイライアスは言った。
「違うよ」
「僕が最初に見つけたとき、君たちは野営地の近くに倒れていた」
「二人とも気を失っていたんだ」
「見た限りでは、彼が君を背負って下りる途中で転んだようだった」
「君を守ろうとして、とっさに手をつけなかった。だから顎もぶつけていたんだと思う」
「僕は救護馬車を呼んだだけだ」
「本当に君を背負って山から下ろしたのは、彼だよ」
そうだったのか。
長年の誤解が、風に払われる霧のように晴れていった。
食事を終えると、私はすぐに宿舎へ戻った。
ルシアンは私を助けたのに、自分はただ遊んで怪我をしたのだと偽った。
高等部以降、彼が私に冷たくなったのは、私を嫌っていたからではない。
私がイライアスを好きだと誤解したからだった。
ルシアンのばか。
あなたはいったい何年、何を隠していたの。
貴族宿舎区へ足を踏み入れた瞬間、空気に甘い香りが浮いた。
ただの眠り薬ではない。
夢魔族の幻眠香だ。
視界が暗くなり、私は意識を失った。
第8章 薔薇の籠
目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。
周囲には柔らかな毛布が敷かれている。
頭上には銀の鳥籠のような結界があり、きれいすぎるほど整えられ、外側には小さな鈴がいくつも掛かっていた。
手首には銀鎖がゆるくかかっている。
痛みはないが、しばらく魔法は使えそうになかった。
部屋は広くない。
けれど、薔薇灯、魔薬、絹紐、符文錠、そして使い道を深く考えたくない小道具が、妙に丁寧に並べられている。
私はしばらく沈黙した。
この世には、私より面倒な人間がいるらしい。
扉の向こうから足音が近づいてくる。
頭の中で、陰気な変質者の姿を百通りほど想像した。
けれど扉を開けて入ってきたのは、ルシアンだった。
私は思わず白い目を向けた。
彼は黒いシャツを着ていて、顔色は悪く、目元は赤い。
まるで何日も眠っていないようだった。
彼は籠のそばまで来ると、指先で結界に触れた。
「目が覚めたか」
私は手首の銀鎖を指さし、外せと目で訴えた。
けれどルシアンは、すぐには動かない。
「どうして言うことを聞かないんだ」
彼の声はひどく静かだった。
「僕に会いに行かないと約束したのに、どうして行った」
私は説明しようとした。
けれど彼は、私の首筋に小さく残った赤い痕を見つけてしまった。
実際には、庭で虫に刺されただけの痕だ。
それなのに彼は、深く傷ついたような顔をした。
「僕を身代わりにしてもいい」
「僕の顔を通して誰かを見てもいい」
「僕に名分をくれなくてもいい」
「でも、どうしてまだイライアスに会いに行くんだ」
「彼が君の初恋なのか」
「僕を捨てるつもりなのか」
聞いているうちに、腹が立つのと同じくらい胸が痛くなった。
この人はどこまで一人で思い詰めるのだろう。
私は結界をこつこつ叩いた。
「出して」
ルシアンは赤い目で私を見た。
「彼とは何もないと言うつもりか」
私はうなずいた。
彼は小さな鏡を取り出し、私の首の赤い点を示した。
「ではこれは何だ」
じっと見た。
どう見ても、虫刺されだった。
危うく怒りを通り越して笑いそうになる。
「ルシアン」
私の声は冷たくなった。
「今すぐ出しなさい。そうしたら、きちんと説明してあげる」
彼は混乱した目で立ち尽くしていた。
「嫌だ」
「君が出ていったら、もう振り返らない気がする」
私は彼を見た。
今度は冗談にはしなかった。
「ルシアン・アッシュクロフト」
「こんなやり方で私を留めるなら、本気で怒るわ」
彼の体がこわばった。
夢魔の血脈に引きずられていた混乱が、潮が引くように薄れていく。
やがて彼はうつむき、かすれた声で言った。
「ごめん」
銀鎖と結界が同時にほどけた。
私は籠を出ると、彼の襟をつかみ、そのまま壁際へ押しつけた。
彼は目を閉じ、叱られるのを待っているような顔をした。
たしかに私は怒鳴りたかった。
けれど彼のまつげが小さく震えているのを見たら、急に言葉が出なくなった。
「あなたは、いったい何をそんなに怖がっているの」
ルシアンの目元が赤くなる。
「君が僕を好きじゃないこと」
「君がイライアスを好きなこと」
「僕が何年も努力してきたのに、最後までただの身代わりで終わること」
私は深く息を吸った。
「ばかね」
「私は一度も、あなたを身代わりにしたことなんてない」
ルシアンが息を止める。
私は彼の目をまっすぐ見て、一言ずつ告げた。
「セドリックと付き合ったのは、彼の横顔の一部があなたに似ていたからよ」
「身代わりと言うなら、彼のほう」
「イライアスについても同じ」
「彼はただの同級生よ」
「今日会いに行ったのは、彼があることを教えてくれたから」
少しだけ間を置いた。
「あの山で、私を背負って下ろしたのはあなただったのね」
ルシアンの顔色が変わった。
否定しようとしたのだろう。
私は先に続けた。
「あなたは私を助けたのに、自分は遊びで山に入って怪我をしたふりをした」
「何を隠していたの」
ルシアンは顔をそむけ、低い声で言った。
「笑われると思った」
「英雄気取りで助けに行ったのに、君よりひどく怪我をしたなんて、格好悪いだろう」
私は呆れて笑った。
それなのに、胸の奥が少し痛んだ。
「笑うわけないでしょう」
「感動するだけよ」
彼の目がさらに赤くなる。
「本当か」
「本当よ」
私は彼の頬に触れた。
「それから、私はあなたが好き」
「十五歳のころから」
ルシアンは言葉を理解できなかったように固まった。
「何?」
「あなたが好きだと言ったの」
「何年も前から」
「好きすぎて、頭の中まで少しおかしくなったくらい」
私は隠さず言った。
「あなたが見ていたものは間違っていないわ。私はたしかにあなたを困らせたいし、泣かせたいし、私だけを見てほしいと思っている」
「でも、誰かに似ているからじゃない」
「あなたが、あなただからよ」
ルシアンは呆然と私を見ていた。
長い沈黙のあと、彼の瞳に少しずつ光が戻ってくる。
「セラフィーナは、僕が好きなのか」
「ええ」
「僕の血だけじゃなく?」
「それだけじゃない」
「尻尾だけでもなく?」
「それだけでもない」
「じゃあ、何を」
私は笑った。
「全部よ」
次の瞬間、彼は私の胸に飛び込んできた。
尻尾まで飛び出し、空気をかき混ぜる勢いで揺れている。
私は思わず笑ってしまった。
「夢魔が子犬になったの?」
「君が好きなら、それでいい」
彼は私の胸に顔を埋め、ようやく安心したような声でつぶやいた。
「セラフィーナは僕が好き」
「僕は身代わりじゃない」
「僕が唯一だ」
私は彼の髪を撫でた。
「そうよ」
「あなたが唯一」
第9章 日記
その後、私はあの薔薇の籠の部屋で、一冊の日記を見つけた。
隠し方は、決して巧妙ではなかった。
まるで持ち主が、私に見られるのを恐れながらも、どこかで見つけてほしがっていたようだった。
私は最初のページを開いた。
高等部のころの字だ。
【徹夜で勉強する。セラフィーナに追いつく。イライアスに解ける問題なら、僕にもいつか解ける。彼女が僕に聞きに来てくれますように。もう彼に聞かないでほしい】
【月例試験の結果が出た。魔法物理は彼女より十点上だった。最後の問題が解けなかったらしいから、教えようと思って行った。彼女は、僕が自慢しに来たと誤解したみたいだ】
【またイライアスに聞きに行った】
【二人が付き合っているという噂を聞いた。本当なのか。彼女は彼が好きなのか】
【彼を見るときの彼女はよく笑う。僕を見るときは、いつも不機嫌そうだ。答えは明らかだ】
【第三者になれるだろうか】
【無理だ。彼女は僕を好きじゃない】
私はさらにページをめくった。
【彼女を背負って山を下りたせいで脚を折ったことは、絶対に知られてはいけない。知られたら、きっと笑われる】
【イライアスが黒荊学院を去った。僕にも機会があるだろうか】
【卒業試験の点数は彼女とほとんど同じだった。前に彼女の志望先をこっそり見た。これで同じ学院へ行ける】
【また誤解された。自慢しに行ったんじゃない。ただ、また同じ学校だと伝えたかっただけだ】
【彼女の向かいに引っ越した。嬉しい】
後ろのほうは、字が少し大人びていた。
【彼女に恋人ができた。相手は少しもきれいじゃない】
【つらい。いつも一歩遅い】
【部屋を作った。あれらは、彼女にきっと似合う】
【見たら怖がるだろうか】
【彼女が別れた。酔って、僕みたいな恋人を弁償しろと言った】
【彼女は吸血鬼だった。可愛い】
【『あなたみたいな人』とはどういう意味だ。一晩眠れなかった。本人に聞きたい。でも血脈が不安定で、機会を逃した】
【セラフィーナは悪い。どうして僕の尻尾を触るんだ】
【彼女の唇は柔らかい。また口づけたい】
【教室の扉は、わざと施錠しなかった。彼女が後ろからついてきているのは、最初から知っていた】
【彼女と口づけるのは、とてもいい。ずっとしていたい】
最後のほうまでめくる。
【身代わりでもいい】
【セラフィーナは少し悪い。ちょうどいい。僕もそうだから、もっと好きになった】
【彼女は僕を噛むのが好きだ。僕が乱れるのを見るのも好きらしい。これは、僕の体が好きということではないだろうか】
【体が好きなら、いつか魂も好きになってくれるだろうか】
私は日記を閉じた。
胸が甘く痛んだ。
嬉しくもあり、切なくもあり、それから少し腹も立った。
彼が一度でも私に尋ねていれば、こんなに長く誤解を続けることはなかったのに。
私は、寝台の上で寝たふりをしていたルシアンを引っ張り起こした。
「ルシアン」
彼はぼんやり目を開け、私の手の中の日記を見た瞬間、顔を真っ白にした。
「セラフィーナ、僕は……」
「泣かないで」
私は先に言った。
「これ以上泣かれたら、私はどうしたらいいかわからなくなる」
それでも彼の目は赤くなった。
「みっともないだろう」
「みっともなくはない」
私は彼の前に座った。
「ただ、少しばかね」
彼はうつむいた。
私はため息をつき、自分から彼を抱きしめた。
「私にも悪いところはある」
「あなたが成績の話をしに来るたび、私は自慢しに来たのだと思っていた」
「あなたがただ私と話したかっただけだなんて、考えもしなかった」
ルシアンが小さく言う。
「君はいつも僕に冷たかった」
「あなたもいつも私を怒らせたわ」
「君の気を引きたかったんだ」
「わかった」
私は彼の髪を撫でた。
「今は、ちゃんとわかった」
彼は顔を私の肩に埋めた。
「これから、ほかの誰かを好きになる?」
「ならない」
「イライアスは?」
「ただの同級生」
「セドリックは?」
「元血袋」
ルシアンがようやく笑った。
尻尾がこっそり私の手首に絡む。
私はそれを見下ろした。
「あなたの尻尾は、本当に正直ね」
彼の耳が赤くなる。
けれど尻尾は引っ込まなかった。
「尻尾が君を好きなんだ」
私は笑いながら、そのハートの先をつまむ。
「尻尾だけ?」
ルシアンは目を閉じ、ついに観念したように言った。
「僕も好きだ」
「ずっと、ずっと前から」
第10章 血契
ルシアンは、私と血契を結びたいと言った。
私は彼を見た。
「本気?」
「血契は普通の誓約じゃないわ」
「噂の中には大げさなものもあるけれど、ほとんどは本当よ」
「契れば、あなたと私は永続的につながる」
「私はあなたの血脈を感じ取れるし、あなたは私の飢えを感じ取れる」
「あなたの生命印は、私の吸血鬼の印と結ばれる」
「この先、一生、簡単には離れられない」
ルシアンは寝台の端に座り、私の脚を抱え、顎を膝に乗せていた。
見上げる目は、星のように明るい。
「それの何が悪いの?」
私は眉を上げる。
「私に支配されるのが、そんなに好き?」
「うん」
彼は少しも迷わなかった。
「それに、血契を結べば、君はもうほかの誰の血も飲めない」
「僕たちは互いに唯一になる」
私は彼の顎を軽くくすぐった。
「血契を結ばなくても、あなたは私の唯一よ」
「信じられない?」
「違う」
彼は私の脚を抱く腕に力を込めた。
紫色の瞳が、かすかに揺れる。
「ただ、証がもう一つほしい」
「君に印をつけられるのが好きなんだ」
「君の中に、僕の気配が残るのも好きだ」
あまりにもまっすぐな言葉だった。
私のほうが、一瞬黙ってしまった。
ルシアンは不安そうにする。
「だめ?」
私は目を細めて笑った。
「いいわ」
「ただし、契ったら本当に逃げられないわよ」
彼は笑った。
「逃げる気なんて、一度もない」
窓の外では、夜が深く沈んでいた。
黒荊学院の鐘の音が、遠くから届く。
蝋燭の火が揺れ、足元に銀色の誓約陣がゆっくり浮かび上がった。
私は指先を噛み、彼の手の甲に血を落とした。
ルシアンは片膝をつく。
古い騎士が女王に誓うように、彼は私の手を取った。
そして手の甲に、そっと口づける。
「セラフィーナ」
「これからは、僕の血も、影も、欲も、魂も、すべて君のものだ」
私は彼の髪を撫でた。
吸血鬼の印が、私の瞳の奥で赤く灯る。
「ルシアン」
「これからは、あなたも私の唯一よ」
銀の法陣が立ち上がった。
暗い青緑色の不思議な印が、彼の腰にゆっくり浮かび上がる。
それは血契の紋章だった。
そして、私たちがこの先もつながり続ける証でもある。
ルシアンは顔を上げた。
目尻を赤くしたまま、今までで一番きれいに笑う。
「ご主人様」
私は身をかがめ、彼に口づけた。
窓の外では夜薔薇が咲き誇っている。
吸血鬼と夢魔の物語は、ここから始まる。




