レモンの夜
スマホが文字通り「悲鳴」を上げたのは、夜も更けた頃だった。久しぶりに画面に表示された彼女の名前を見ただけで、頭の奥がうっすらと痛み出す。
案の定、耳元に響いたのは、呆れたSOSだった。
聞けば、明日都内のイベントに出店する予定なのに、ホテルの予約日を丸一ヶ月間違えたのだという。週末の土壇場で宿など見つかるはずもなく、行く所がないから今から泊めてほしい、というあまりにもお粗末な泣きつき。
いったい何をどうやったら、そんな間違いが起きるのか。
私にはわからなかったが、ともかく妹はやってのけたのだ。
「……あんたねぇ、もっとはよ言わんね」
最後に声を交わしてから、もう何年になるだろう。
回線の向こうで、妹は小さく鼻をすすった。
「ごめん……ほんとごめん。うちも、しんけん焦っちょるんよ」
それから彼女は、ひどく安っぽい言い訳をいくつか並べ立てた。
が、私はそれを半分も聞いていなかった。
代わりに台所のシンクに溜まった、夕食の汚れた皿を眺めていた。
水に浸かったフォークが、蛍光灯の光を鈍く跳ね返している。
それからおよそ一時間後、妹はやってきた。
大きなキャリーケースを引きずり、ひどく疲れた顔をしていた。
そのキャリーケースの中には大量のレモンの果実と、ガラス製の大きな密閉瓶が詰まっていた。翌日の「手作りマルシェ」とかいうイベントで、一晩砂糖に漬け込んだ自家製のシロップを炭酸で割って出すのだという。
「ほんとはもっとはよ漬け込まな、味が馴染まんのやけどな」
妹はアパートの狭い床に座り込み、そう言って冷えたレモンを一つ、私に差し出した。
「よだきいやろうけど……ちょっとだけ、手伝ってくれん?」
私はため息をついた。
それから、お気に入りのウールのセーターの袖を肘の上までまくり上げた。
私たちは狭いキッチンに並んで、作業を始めた。
私がレモンを薄くスライスし、妹がそれを瓶の中に敷き詰め、上から計量した砂糖を容赦なく振りかけていく。トン、トン、とまな板を叩く音が、真夜中のアパートに響いた。
最初の数個が終わる頃には、部屋の中は耐えがたいほどの酸っぱい匂いで満たされていた。それは新鮮で、暴力的なまでに生々しい匂いだった。
「あんた、相変わらず計画性がないな」
私はレモンの黄色い端切れを見つめながら言った。
「わかっちょる。うちが一番わかっちょんよ」
妹は砂糖の袋を持ったまま、手を止めた。
彼女の指先は、レモンの汁と白い砂糖の粒でベタベタに汚れていた。
「でもな、大分におったときから、うち、これだけは上手にできよったやろ。親父も、うちのレモネードだけはうめぇっち言いよった」
炭酸で割るならそれはレモンスカッシュだ、と私は思った。だが妹にとっては、炭酸が入っていようがいまいが、黄色くて酸っぱい飲み物は全てレモネードなのだ。
「覚えちょる?」
私は覚えがなかった。
父親が妹の作ったレモンスカッシュを褒めている姿も、我が家にレモンがあった記憶さえも、曖昧だった。そもそも妹が誰かに褒められている記憶すらなかった。だが、妹の横顔はひどく真剣で、まるであの狭い実家の台所に、今でも立っているかのような目をしていた。
「知らんね」私は言った。「そげんこと、うちは覚えちょらん」
「嘘。お姉ちゃん、いっつもそうやって忘れたふりするんよ」
妹は小さく笑い、また次の瓶にレモンを詰め始めた。
私は次のレモンを手に取った。
冷たくて、ゴツゴツしていて、実が詰まっている。
包丁を当てると、皮が弾けて、鋭い汁が私の親指の小さなささくれに飛び込んだ。
痛みが走った。だが、私は顔をしかめるだけで、何も言わなかった。
夜はまだ始まったばかりだった。
床には、まだ半分も減っていない、黄色のレモンの山が転がっている。
午前二時を回った頃、部屋の空気はすっかり冷え切っていたが、
同時に信じられないほど濃厚な柑橘の匂いで満たされていた。
床の上には、琥珀色の砂糖と黄色いレモンが何層にも重なった大きなガラス瓶が、まるで不格好な彫刻のように四つ、並んでいた。明日出店するというマルシェの規模に対して、それが致命的に足りない量であることは、おそらく二人とも気づいていた。だが、あえて口には出さなかった。
瓶の底では、すでに溶け始めた砂糖がどろりとした透明な液体に変わりつつあった。
「終わったあ……」
妹は床に大の字に寝転がった。
ジーンズの膝のあたりが、砂糖の粉で白く汚れている。
「お姉ちゃん、手がいちぃの?」
「別に」
私はシンクで手を洗った。
ささくれに流水が当たると、まだ微かにヒリヒリとした。
タオルで手を拭きながら、私は寝転がっている妹の顔を見下ろした。
彼女の目は天井の蛍光灯をじっと見つめていた。
大分にいた頃、まだ高校生だった彼女が、部屋の畳の上でよくやっていたのと同じ姿勢だった。長い空白の時間を挟んでも、そういう癖だけは変わらないのが奇妙だ。
「明日、何時に出るん」私は訊いた。
「六時」妹は目を閉じた。
「早いやろう。起ききらんかもしれん……なぁ、お姉ちゃん、明日ひまなん?」
「ひまじゃねえわ」
私は言った。
明日は土曜日で、本当は昼過ぎまで寝ているつもりだった。
洗濯をして、溜まった録画を見るだけの、誰にも邪魔されないはずの一日。
「そっか」
妹はそれ以上何も言わなかった。
ただ、寝返りを打って、壁の方を向いた。
小さな背中だった。彼女がいつの間に、こんなふうに一人でキャリーケースを引いて、知らない街のマルシェとやらに出店するような大人になったのか、私にはうまく捉えきれずにいた。
風呂を終えて髪の毛を乾かすと、私は電気を消して、手探りで自分の布団に入った。
まだレモンの匂いは消えていなかった。
むしろ目を閉じると、自分が巨大なレモンの果肉の真ん中に取り残されているような、奇妙な錯覚さえ覚えた。
隣の布団から、衣擦れの音が聞こえた。
「お姉ちゃん」
暗闇の中で、妹の声がした。
大分弁のイントネーションが、冷たい空気の中に溶けていく。
「うちな、時々自分が何しよんかわからんくなるんよ」
私は天井を向いたまま、呼吸を整えた。
カーテンの隙間から、街灯の薄い光が差し込んで、天井に細い線を引いていた。
私は何も言わなかった。
何かを言えば、この部屋に満ちているレモンの匂いが、
すべて嘘になってしまうような気がした。
「……寝るよ」私は言った。
「うん。おやすみ」
妹の呼吸がやがて深く、規則正しいものに変わっていくのを私は聞いていた。
私は暗闇の中で、自分の右手の親指を、左手でそっと包み込んだ。
ささくれの痛みはもう消えていた。
ただ、指先が妙に温かい。
自分の身体の一部ではないような、不思議な感覚が残っていた。




