好きになった彼女は、前世で婚約破棄した相手でした〜今世をかけたセルフざまぁ〜
「セラフィーナさん、おはよう!」
「おはよう、ユリオ」
隣の家に住むセラフィーナさんは、町でも評判の優しい人だ。
誰に対しても分け隔てなく接し、よく笑っていて、家の前の小道を掃いていると、通りかかる人がつい足を止めて話し込んでしまう。
彼女には、旦那さんと小さな子どもがいて、庭にはいつも洗濯物が風に揺れている。
その光景は、まるで絵本の一場面みたいに穏やかで、幸せそうだった。
セラフィーナさんは、昔からこの町に住んでいたわけではないらしい。
母さんが言っていた。「前にどこかの名家の血を引いてるって聞いたことがあるけど、本人はあまり語らないのよね」って。
実際、それが本当でも不思議じゃないくらい、彼女は綺麗で、どこか気品があった。
僕は、なぜだか、彼女から目が離せない。
自分よりずっと年上で、大人で、手の届かないところにいる人なのに。
幼い頃から、そうだった。
気がつくと、彼女の姿を目で追ってしまっていた。
彼女が笑いかけてくれると、僕の心もふわりとやわらかくなる。
彼女が寂しそうな顔をすると、胸の奥がきゅっと痛む。
理由なんて、分からない。
でも、僕は――ずっと、彼女のことが好きだった。
***
幼い頃から、頻繁に見る夢がある。
僕には、大好きな女の子がいて、その子と手を繋いで薔薇園を歩く。
薔薇園なんて行ったことがないのに、「ここは屋敷の薔薇園だ」と、なぜか分かる。
僕が笑うと、彼女も笑う。その時間が、ただただ幸せだった。
「今日もまた、彼女の夢だ」
年齢を重ねるにつれて、夢は少しずつ鮮明になっていった。
昔は薔薇園を歩くだけだったのに、最近はお茶会をしたり、観劇に行ったりしている。
お茶会では、彼女の好きなお菓子を用意した。
観劇の最中は、こっそり彼女の横顔を見ていた。
その一瞬一瞬が、夢の中の僕にとって、何よりも大切だった。
彼女はどこか、セラフィーナさんに似ている。
柔らかな金色の髪、空みたいに透き通った水色の瞳。
笑ったときに下がる目尻、照れると目を逸らす癖。
夢の中の僕は、そんな彼女のすべてが大好きだった。
だけどまだ、僕は彼女の名前を知らない。
「……セラフィーナさんのことが好きすぎて、変な妄想してるのかなぁ」
現実の僕は、セラフィーナさんが好きだ。
会うとドキドキして、嬉しくなって、自然と微笑んでしまう。
旦那さんや子供と幸せそうにしている姿を見ると、胸が締め付けられる。
もし僕が、夢みたいにセラフィーナさんと近い歳だったら。
どこか高貴な雰囲気のある彼女に、釣り合うような立場があったら。
「……でも、セラフィーナさんは平民だし。旦那さんだって平民だから、僕が平民だって別に問題ないし」
もう少し……いや、二十年くらい早く生まれていれば。
僕だって、いや、僕こそが、セラフィーナさんと結婚したのに。
***
今日、僕は十二歳になった。
「誕生日だから、ご馳走を作るわ」
母さんの言葉に「やったー!」と答えたら、「だから、買い物に行ってきてちょうだい」と言われた。
なんだか釈然としないまま、僕の誕生日を祝うための材料を買いに来ている。
「あとは……バターと、オレンジ」
オレンジを買うってことは、母さんはオレンジパイを焼いてくれるのだろうか。
あまり他の家では聞かないケーキだけど、僕の好物だ。
“夢の中の僕”がよくそれを食べていたから、母さんにねだって作ってもらって、それから好きになった。
「あ! セラフィーナさん!」
青果店に行くと、子供と手を繋いだセラフィーナさんがいた。
「ユリオ、こんにちは」
「こんにちは、セラフィーナさん。リアムも、こんにちは」
「こんにちは」
リアムは、セラフィーナさんの子供。
彼はまだ幼くて、少し辿々しい「こんにちは」だった。
正直、リアムのことは好きじゃない。たぶん、嫉妬ってやつ。
だけどリアムが悪いわけじゃないから、なるべく普通に接するようにしてる。
「セラフィーナさん! 僕、今日誕生日なんだ!」
もう、誕生日が嬉しいって歳じゃない。
でも、彼女からの「おめでとう」が欲しかった。
彼女の心が、一瞬でも僕に向いてくれたら、それだけで嬉しかった。
「そうなの? ……おめでとう、ユリオ」
ほんの一瞬、彼女の瞳が揺れた気がした。
でも、『おめでとう』と言ってくれたときには、僕を見て微笑んでくれたから、深くは気にしなかった。
「それなら、今日はご馳走なのかしら?」
「うん。僕の好きなオレンジパイもあるんだ。セラフィーナさんは、オレンジパイって食べたことある? もしなければ、お裾分けするよ」
まだオレンジパイが作られる確証はなかったけれど、予定になかったとしても、母さんに頼んで作ってもらうつもりだった。
持っていくときに、もう一度セラフィーナさんに会えるから。
「そうね、昔はよく食べていたわ。だけど……ごめんなさい。大人になってからは、苦手になってしまって」
「昔は好きだったのに、今は嫌いなの?」
セラフィーナさんは、少し目を伏せて、寂しそうに言った。
「ええ……。大好きだったけど、今はもう、そんな気持ち……忘れてしまったの」
「セラフィーナさん……?」
「あ! ごめんなさい。ちょっと昔を思い出しちゃっただけ」
『思い出しちゃっただけ』には見えなかった。
だけど普段見ない表情に、僕はそれ以上言葉を続けられなかった。
「……ユリオ、改めてお誕生日おめでとう。良い一日を」
「ありがとう、セラフィーナさん」
彼女は僕から視線を外し、買い物に戻っていく。
「じゃあ、これと、これと……あと、これで。いくらかしら」
財布を出すために、セラフィーナさんはリアムの手を離す。
僕はその横で、オレンジを選びながら、ぼんやりと彼女の横顔を見ていた。
ふと、視界の端で、リアムがふらりと動いたのが見えた。
「……リアム?」
小さな靴音が、角を曲がった。
セラフィーナさんが振り返るより先に、僕は走り出していた。
角の向こうから、荒い蹄の音が響く。
誰かの叫び声が混ざって、僕の心臓が跳ねた。
荷を崩した荷馬車が、馬に引かれたまま暴走していた。
手綱を失った馬が、狂ったように走り、リアムの方へ突っ込んでくる。
「リアム!」
全身が、勝手に動いた。
僕はリアムの小さな身体を抱きかかえ、そのまま道の端へと身を投げ出した。
次の瞬間、重たい衝撃が肩口をかすめ、視界がぐらつく。
「ユリオ!?」
セラフィーナさんの、叫ぶような声が聞こえた。
「だいじょ……ぶ……」
そう言おうとしたのに、声が出ない。
喉が詰まり、言葉にならない。
視界の光が滲みはじめて、何もかもがぼやけていく。
セラフィーナさんの顔も、リアムの姿も、遠ざかっていく。
***
「セラフィーナ、君とは婚約を破棄する!」
そう言って、僕は君の手を振り払った。
出会った頃、君は僕の大切な幼馴染だった。
優しくて、聡明で、いつも僕の隣で笑ってくれる存在だった。
「セラ」と呼ぶと、「なぁに?」と返す、その表情が好きだった。
それなのに、君は変わってしまった。
僕が親しくしているという理由だけで、リリカを害した。
何度も言った。「リリカはただの友人だ」と。
君が彼女に手を出す理由なんて、どこにもなかった。
それでも君は信じてくれなかった。
リリカへの嫌がらせもやめなかった。
そして、昔みたいに僕に笑いかけてくれることもなくなった。
くだらない嫉妬だと思った。
だから、立場の弱いリリカを守らなければと思った。
婚約者として、君を罰さなければならないと思った。
そして、君を追い詰めてしまった僕自身も、罰せられるべきだと思った。
――本当に婚約破棄する気なんて、なかった。
ただ、君が謝ってくれると信じていた。
泣いて、すがって、「ごめんなさい」と言ってくれると。勝手に、そう思っていた。
そうしたら二人で、リリカに謝って――それからまた、やり直そうと。
だから僕は、脅しのように、「婚約を破棄する」と口にした。
でも君は、罪を認めなかった。
「謝るようなことはありません」と言い、僕との婚約破棄を受け入れた。
その瞬間、何かが音を立てて崩れた気がした。
……セラと別れたあと、僕は父からリリカとの結婚を命じられた。
もちろん断るつもりだった。セラ以外と結婚する気なんてなかったから。
けれど、父は僕の言葉を一蹴した。
「お前にその権利はない」
「……どういうことですか?」
「セラフィーナは、もうとっくにルーヴェル伯爵家の娘ではない。我がヴァルモント公爵家に婚約破棄された娘など、どこが引き取る? 僻地の修道院にでも入れられただろう。結婚したところで、何の価値もない女だ」
「な……っ」
「お前の短慮が招いた結果だ。あぁ、それと、お前は嫡男から外す。家督は弟に継がせることにした」
その後のことは、あまり覚えていない。
ただ、醜聞でもあるため、リリカとは式も挙げず、籍だけを入れさせられた。
そしてすぐに、王都から発つことになった。
「お前をイーゼルの“執政代理”として派遣する。お前に残された最後の責務だ。これ以上の恥をさらすなよ」
イーゼルは、公爵領の北端にある、小さな街だ。
父の言葉は、実質的には“厄介払い”だった。
屋敷と最低限の予算だけを与える。あとは好きにしろ。
そう言われて、切り捨てられた。
王都から遠く離れたその地で、僕たちは、ひっそりと暮らすことになった。
結婚前のリリカは、控えめで、慎ましい貴族令嬢だった。
けれど結婚してすぐに、彼女は豹変した。
「こんな何もない僻地で、どうやって過ごせばいいの?」
そう嘆いていた数日は、まだよかった。
けれどそのうち、屋敷の金で贅沢品を取り寄せるようになった。
「貴方に相応しい女性でいなければ」
そう言って、高級なドレスや流行の宝飾品を次々と注文する。
「貴方の妻でいられることが、私の唯一の誇りなの」
そう言って、贅を凝らした家具や絵画を買い漁る。
屋敷の予算は限られていると告げると、彼女は泣きながら詰め寄ってきた。
「貴方は私のことが嫌いなの? 社交界にも出られず、こんな場所に閉じ込めて……ただ死んでいけと言うの!?」
次に現れたのは、使用人への傲慢さだった。
気に入らない料理が出れば、皿ごと床に叩きつける。
メイドの服装が粗末だと言って、罵声を浴びせる。
「私が心を込めて贈った言葉を、忠告とも思えないのかしら?」
反論した者には、そう言い放った。
何人もの使用人が、屋敷を去っていった。
それでも満たされないのか、今度は地方領主の子息や旅芸人を屋敷に招くようになった。
「ただの客人よ」と言っていた男たちは、いつの間にか屋敷に長居するようになった。
僕がそれらを咎めると、彼女は怒鳴った。
「あなたが、私を都会に戻してくれないからでしょ!」
結婚して初めての、僕の誕生日。
この頃には、夫婦関係はすっかり冷え切っていた。
セラなら、そんなことはしなかった。
そう思い続けることが、僕の日常になっていた。
この日を区切りに、リリカとは別れようと思った。
それをリリカに切り出すと、彼女はすがるような声を出した。
「……ごめんなさい。あなたがそんなに傷ついてたなんて、気付かなかったの。お願い、もう一度だけ信じて?」
潤んだ瞳に、心が痛んだ。
けれど、それでももう、彼女とやっていける自信はなかった。
その気持ちを伝えると、リリカはポロリと涙をこぼし、言った。
「……分かったわ。でも……今日はあなたの誕生日でしょう? ね、せめて……最後に、乾杯をしましょう?」
「ちょっと待っていて」と言って、彼女は自らワインを取りに行った。
普段なら使用人に「早く準備しなさいよ」と怒鳴るところなのに、優しく丁寧に差し出す姿は、まるで結婚前のリリカのようだった。
「それじゃあ……乾杯」
「乾杯」
ワイングラスを軽く掲げ、口につける。
飲み下した瞬間、「変わった風味だな」と思った。
――直後、視界がぐらりと揺れる。
そのワインには、毒が入っていた。
身体が痺れ、視界が滲んでいく中、リリカは微笑んだ。
「死ぬ前に、教えてあげるわ。あなたが大好きだったセラフィーナはね、罪なんか犯してなかったの。ぜーんぶ、私の嘘。ちょっと泣きつくだけで、貴方たちが壊れていくのは……見ものだったわ」
「う……そ……だ……」
「本当よ。貴方が欲しかったの。でも、私が欲しかったのは“贅沢な暮らし”をさせてくれる貴方」
リリカは、自分のグラスに口をつけ、優雅にワインを飲み干した。
僕のグラスにだけ、毒が仕込まれていた。
「セラフィーナに贈ってたみたいに、私を飾ってくれる男が欲しかったのに……。“節度を守れ”とか“公爵家の名に恥じるな”とか……まるで牢獄よ。もう、うんざり」
吐き捨てるような声を最後に、リリカは背を向けた。
――だから僕は。
最後の力を振り絞って、そばにあった果物ナイフを掴み、彼女の背に突き立てた。
その日は、僕の誕生日だった。
そして、今世――ユリオとして生まれた僕の、誕生日でもあった。
***
「大丈夫!? 意識が戻ったの?」
「……おかあ、さん……?」
「覚えてる? 貴方、お隣の子を庇って馬車に撥ねられたのよ」
セラの子供――リアム。
父はあんなふうに言っていたけれど、セラは修道院なんかに入れられていなかった。
この町で、穏やかに、家族と一緒に過ごしていたんだ。
過去の僕と、今の僕が混ざっていく。
先ほどの夢だけじゃない。
前世の記憶が、セラとの思い出が、僕の中に静かに溶け込んでいく。
「うぅ……」
「まだ痛むの? そうよね、痛むわよね。お医者様を呼んでくるわ。セラフィーナさんがお医者様とお知り合いだったの。だから呼べて……あぁだめね、まだ混乱してるわ」
とにかく少し待っていてね。
そう言って、母は部屋を出ていった。
医者を呼べるのは、普通は貴族か、裕福な家だけだ。
セラは町で暮らしていても、きっと実家と繋がりがあるのだろう。
僕のせいで伯爵家に居られなくなって……それでも、ちゃんと愛されている。
それはそうだ。
セラは優しい子で、悪いことなんてひとつもしていなくて、そばにいると幸せになれる子だった。
意識がまた、遠のいていく。
夢の中に導かれるように、ゆらゆらと現実から離れていく。
***
一面に咲き誇る薔薇の庭園。
いつも夢に見る、屋敷の薔薇園。
けれど今日はいつもと違う。
今がはっきりと、夢だと分かる。
目の前の女の子の名前も――もう呼べる。
「セラ」
「なぁに? どうしたの?」
振り返って笑う君は、綺麗で。
「……なんでもないよ」
「ふふ、変なの!」
どうしようもなく、愛おしかった。
***
事故から数日。
医者からは、もう容態も落ち着いていると言われた。
僕自身の意識も、はっきりしてきた。
コンコンコン、と部屋にノックの音が響く。
「母さん? どうしたの?」
「セラフィーナさんがお見舞いに来てくれたわ」
母の声は、少し複雑そうだった。
僕はセラの子供を守って死にかけた。でも、セラの伝手があったから、生き延びることができた。
『セラフィーナさんが悪いわけじゃないのは分かっているのだけど……』
そう苦笑した母の姿は、まだ記憶に新しい。
「入ってもらって」
「……分かったわ」
セラは部屋に入ると、僕のベッドのもとに来て、頭を下げた。
「ユリオ……本当にありがとう。あなたのおかげで、リアムは無事だったわ。そして……本当に、ごめんなさい。私のせいで、こんなに大怪我を……っ」
今にも泣き崩れそうなセラに、思わず手を伸ばした。
ビリビリと身体が痛んだけれど、そんなものは気にならなかった。
「泣かないで。いいんだ、僕が勝手にやったことなんだから」
「でも……っ」
「いいんだよ。こうして、生きてるんだからさ」
「……本当に、ありがとう。ユリオ、あなたは私の恩人よ。困ったことでも、なんでも。何かあったら、いつでも言って。できる限り、あなたの力になりたいわ」
なんでも。
それなら、僕は――
「セラ、僕は……っ」
「うん。なぁに?」
セラは、僕の呼び方に少し驚いたようだった。
でもすぐに、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべた。
いつも通りの――あの頃とは違う、「なぁに」の表情で。
「……ううん、なんでもない。気にしないで、セラフィーナさん」
「……分かったわ。でも、本当に、なんでも言ってね。それと、今度は夫とリアムからもお礼を言わせて。あなたの負担になるかもしれないから、今日は私一人で来たのだけど……あなたは、私たち一家の恩人だもの」
『私たち一家』
君の愛する夫と、愛する子ども。
君は、あれからどれだけ苦しんで、今の幸せを手に入れたんだろう。
もし、僕が愚かでなければ。
隣で笑いかけてもらえるのは、僕だったのかもしれない。
「うん、ありがとう。何かあったら、セラフィーナさんに相談するね」
相談をすることは、きっとないけれど。
僕がしたいのは、君への償い。
そして、僕にできる償いは、君の幸せを願うことだけ。
さようなら。
僕の大好きなセラ。
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