高島郡
観音寺城へ戻って来た。今回の出兵では、佐和山を落とし、鎌刃を降した事で、対北近江戦線を大幅に北上させた事になる。既に磯山には砦を築き終わり、現在500の兵を入れて砦の補強を早めている。ひと月も経てばある程度は城としての役割を果たせるだろう。
浅井は結局南下をしてこなかった。既に落ちた城を取り戻しに来る余裕がなかった事と、三雲一党の働きのおかげで朝倉家の動きが想像以上に鈍かったという事もあって、積極的な動きが出来なかった可能性が高い。その代わりという訳ではないが、高島郡からの北上は思ったほどの成果は得られなかった。
「御屋形様、平井加賀守様ご到着致しました」
「うむ。通せ」
観音寺城の謁見の間には既に承禎入道は居ない。あの時の話通り、息子である右衛門督の報告を聞いた後は安堵の表情を浮かべて頷くだけで、何も苦言などを口にする事はなかった。そればかりか、静かに頭を下げ、『以後もよろしく頼む』と口にした後、優しい目をして微笑んだほどだ。彼の中で、右衛門督の存在自体を受け入れたのだろう。本当の息子であろうと、狐憑きであろうと、我が子として受け入れるという決意の表れのようであった。
「御屋形様、只今戻りましてございます」
「うむ。此度の行軍、ご苦労であった」
高島郡へ兵を進めた平井加賀守は、俺の言いつけ通り、行軍速度は遅くとも、高島七頭を中心とする高島郡の豪族達を一つ一つ降して行っていた。
高島郡は実質六角家の支配下にあるが、高島七頭を中心とした地侍たちの独立意識は高い。惣領家である高島家を筆頭に、平井家、朽木家、永田家、横山家、田中家、山崎家の総称として高島七頭と云われており、山崎家以外は全て佐々木一族の末裔と云われていた。故にこそ、名門意識もあって同族である佐々木六角家に恭順する事に抵抗があるのだろう。
朽木家も六角家の支配下であるといっても良く、実際に朽木稙綱が六角定頼に服属をしていたが、将軍家が直接朽木谷へと何度も逃げ込む事と、稙綱が幕府奉行衆として御所御門役を務めていた事もあって直臣として数えられることもあった。
平井加賀守も高島七頭の中にある平井家の出で、本貫は平井城辺りだと俺は思っていたのだが、この場所に来て初めて粟太郡平井が本貫なのだと知った。諸説はあるが、平井加賀守の家は、佐々木一族の末裔ではあるが、高島七頭の平井家とは関係のない家であった。
そんな俺の勘違いから今回の高島郡の大将を平井加賀守にしたのだが、周囲から見れば、『何故?』となっている事だろう。
「高島郡の平定を終え、田屋城の田屋石見守明政も降伏致しました」
「大儀であった」
平井加賀守の後ろに七人の男達が控えている。おそらくは朽木を除いた高島六頭と田屋石見守であろう。田屋家の事を語ると長くはなるが、田屋明政の母が浅井本家の娘である。浅井家現当主である浅井賢政の父久政は、浅井亮政の子であるが側室の子なのだ。そして、浅井亮政自体が浅井家庶流の出であり、本家の娘と婚姻を結び婿養子で本家へと入っている。つまり、浅井久政は本家の血が薄いこととなり、本家筋の娘の子である田屋明政の方が浅井本家を継ぐにふさわしい血筋となり、史実では亮政が亡くなるまでは後継者として見られていた。
だが、史実でもこの時間軸でも、彼は浅井を継ぐ事は出来ず、浅井久政が継いでいる。これを不満に思わない訳はないとは思うが、現代人の考えだと、『面倒くさいなぁ、面倒だからあいつにやらせよう』と思っても何も可笑しくはないくらい、亮政の死後直後の浅井は混乱していたのだ。
「お初にお目に掛かりまする。田屋城城主、田屋石見守明政と申します。この度は田屋家の従属をお認め頂き、誠に有難き事と存じます」
「うむ。石見守殿も浅井へ思う所多々あろう。浅井の名跡、いずれその方に継いでもらう事になるやもしれぬ」
「有難きお言葉、以後は対浅井の先鋒としての役割を粉骨砕身務めさせて頂きます」
史実での彼は小谷城に入って、浅井家の重臣として久政を補佐し、『大殿』と呼ばれたとさえ云われる程に浅井へ献身的に尽くすのだが、この時間軸では違うらしい。大殿と呼ばれるのは隠居の先代と相場は決まっているが、それと同等の重要度を持った人物だったのだろう。
そのような人物が六角家傘下に入り、先鋒を務めるとまでいうのだから頼もしい以外にいう事はない。
「御屋形様、高島七頭の当主達となります」
田屋石見守が一歩下がる。六角へ頭を下げる事に抵抗がない訳ではないだろう。それでもそれを顔に出す事なく、田屋家の存続、そして浅井の存続の為に静かに下がるその姿に、逆に頭が下がる。現代でもこうやって泥水を啜りながらでも上に上がっていく人物は会社内でも評価されて行く。本来ならば、俺のような人間に頭を下げなければならないような人間ではない筈だ。
「高島越中守高賢にございまする」
「永田伊豆守秀宗にございまする」
その後、六人の自己紹介が続く。現代人の感覚で言うと、本当に自称の官位を持つ者が多すぎて、この近江の中でも同じ官位を自称する者が何人いるかも分からない。本来官位は世襲出来るものではないのだが勝手に息子が名乗っていたりするし、以前貰った官位だからと勝手に下賜する大名などもいた。
結論から言うと、苗字が分かれば良いかと思い、適当に聞き流す。この時代は、下の名は諱であり、親族以外は呼ぶことが無礼に当たる。苗字と諱の間にある通名を呼ぶことが通常なのだが、官位を持っていれば官位で呼ぶことが礼儀とされる。だからこそややこしい。
「高島七頭惣領家に関しては、引き続き佐々木越中家に担ってもらおう」
「はっ、有難き幸せ」
「但し! 以後、高島七頭は、平井加賀守の与力とする」
「なっ」
満足げに頷きかけた高島越中守は、続く俺の言葉に顔色を変えた。高島郡は高島七頭の物という考えが抜けていない証拠となる。ここに来て頭を下げた時点で、高島七頭は完全に六角配下の家なのだ。それを頭では理解していても余計な自尊心が邪魔をしている。
田屋石見守明政を見ろ。当然の事のように受け止め、表情一つ動かしていない。
「不満か? ならば急ぎ戻って戦の支度せよ。その方らは、ここに何をしに来た? 高島郡は高島七頭の物故、六角の干渉は遠慮願いたいとでも言うつもりであったか?」
「し、しかし、左京太夫様に御許しを…」
「儂は六角右衛門督義弼である」
父、承禎入道の時代は高島七頭にある程度の自治を認めていた。六角に税を納める事もなく、六角から俸禄を与えられる事もない。戦になれば六角の傘下に入り戦う事でそれが許されていたのだ。だが、これからの時代にそのような地方豪族の寄せ集め大名が生き残れる訳がない。それならば、悉くを平らげ、その城を褒美として家臣達に分け与えた方が良いのだ。
高島郡を全て合わせても、この時代は5万石程、兵を集めても1500に届くかどうかという所であり、それを細かく分けて独立勢力として認めるよりも、全て潰して六角家臣を城代として入れて纏めてしまった方が早い。そして今ならば出来る。
「時代は流れる。盛者必衰の理であろう。六角の下で纏まらねば、この先高島郡数万石など容易く滅ぼされるぞ。その方たちが選べるのは二つだ。滅ぶか、残るか」
「くっ、ここまでの侮辱、我慢ならん!」
真っ先に立ち上がったのは高島越中守。それに続くように、平井、横山、山崎も立ち上がった。苗字だけでの認識である為確かではないが、永田と田中はこちらをじっと見つめながら動く気配がない。
高島、横山、山崎の三名が広間を出て行く。怒りを表したいのか、大きな足音を立てて去っていくのが解る。子供かと言いたい。本当に怒り心頭ならば、静かに頭を下げ、無言で静かに出て行けば怖さも倍増するのだがな。あれでは子供の癇癪にしか映らない。現代の会社の上司にもああいうのがいたな。怒鳴り散らす事が良い指導と思っているのかと思うような人間が。そういう人間は遠からずその地位を追われる事になっていた。
「その方らはどうする?」
「…御屋形様にお聞き致します」
「申せ」
「我々の本領は安堵頂けますでしょうか?」
ふむ。もう一歩欲しいな。彼らは、六角傘下に入り家臣として働く事を完全に受け入れたが、自身の本領に拘りがある。この時代の土豪らしい考えであった。名門佐々木一族の末裔とはいえ、やはり出生地に誇りと拘りがあるのだろう。
別にそれが悪いこととは思わないし、当然だという想いもある。現代でも故郷を大事にする人は多いし、企業にも全国転勤ありと転勤なしでの社員希望を受け入れる所はある。だが、その場合、基本給から大幅な差が出て来る。
この時代もそうであるべきだと俺は思う。本領に拘りを持つ者と、手足となって働き新たに領土となった場所に土地を貰う事を良しとする者では待遇が違ってしかるべきなのだ。
「その方らが望むのならば本領の安堵はする。だが、儂が言いたいのは、自身の領土に拘るなという事だ。この先六角は大きくなる。いや、儂が大きくする。その際に働きによっては別の土地で今よりも広い領土を褒美として与える事になるだろう。その時に現在所有している土地に拘れば、他の者達だけが大きくなる事になる。故にこそ、今の本領だけに拘るな」
「この田屋明政、御屋形様に従いまする」
「っ! 田中重政、御屋形様に従いまする」
田屋石見守の声を皮切りに、今まで無言でいた田中、永田、平井が恭順の意を示した。やはり田屋は出来る。高島七頭とだけのやり取りではなく、今後の六角の流れである事を理解したのであろう。
「御屋形様、高島郡の事、この加賀守にお任せを」
そしてもう一人。今後義父になるであろう平井加賀守もまた、俺の考えを読んでいる者であった。しっかりと見据えたその瞳を見て、俺は大きく頷きを返した。
加賀守の本領である粟太郡草津付近の領土を将来返上する事になるかもしれない事も考慮に入れ、高島郡への出兵を願っているのだ。
高島郡の平定を終えるのに一カ月も掛からなかった。
高島郡の小さな家は即座に六角に靡き、平井家は、平井加賀守の城攻めにより自刃。横山氏は横山城を田中、永田の両軍に急激され落城。その後に本拠としていた船木城にて命を落とした。横山城と言っても、史実で羽柴秀吉が城代となった長浜近くの横山城ではなく、高島郡中央にある横山城だ。横山氏の居城である。ただ、この頃は琵琶湖近くの安雲川船木の城に入っている事も多かった。
この船木城だが、安雲川が琵琶湖に向かって別れる三角州になった場所に建てられており、攻めにくい場所になるのだが、堅田からの船を規制したために兵糧も届かず、結局は降伏、自刃する他なかったという事だろう。
高島越中守は、居城である清水山城に立て籠るが、支城である新庄城が落城した事を聞くと城を捨てて逃げてしまった。残された家臣と兵は大騒ぎだ。結局は清水山城の開城を条件に将兵の助命をする形で決着する。
「公方様より、左京太夫殿、右衛門督殿へ高島郡の御下問の為、朽木谷へ参上するようにとの命にござる」
今、この観音寺城には、幕府よりの使者として、幕臣である大館左衛門佐晴光が訪れた。幕府からの使者という事で、この謁見の間には先代である承禎入道も同席している。征夷大将軍である足利義輝からの使者であるため、俺も承禎入道も下座へと移動し、その命を聞いていた。
「畏まりました、高島郡の仕置きが終わり次第、朽木谷へご参上致します」
「公方様は、即時観音寺城を出立される事をお望みです。急ぎ出立の準備を」
溜息が出る。本当に何様だ。ああ、将軍様か。『この将軍様が命令しているのだから、他の事を差し置いても来い』という事だろう。
お前のような他人の金で何不自由なく暮らしているような人間は暇なのかもしれないが、この時代の大名などは現代のブラック企業よりも仕事漬けなのだ。朝から晩まで予定が詰め込まれているし、寝る間も惜しんでという事は出来ないまでも、朝は日が昇ると同時に仕事開始で、日が暮れて仕事終了となる。季節によって変わりはするが、この時期は特に忙しいのだ。
「畏まりました。では、明後日に出立するように支度を致します。山城守、朽木谷へ先触れを。但馬守、仔細任せる」
「はっ」
後ろに控える、進藤山城守賢盛と後藤但馬守賢豊に指示を出す。そのまま広間を二人が辞す機に、今回の使者への饗応役として急遽動いてもらっている蒲生下野守もまた席を外した。
この時代、流石に護衛の兵も連れずに朽木谷まで移動は出来ない。高島郡が六角の旗下になったとはいえ、不穏分子が居ないとは言い切れず、高島越中守の行方は未だに分かっていない。更に言えば、一向宗の堅田は何時動き出すか分からないし、比叡山の僧兵達という厄介な連中もいる。
兵を用意するにも、兵糧などの用意も必要であり、先日戦を行っていた六角としては度重なる出兵は財政の圧迫になる。
「では、左衛門佐様にはお部屋をご用意しております。夕餉の宴までごゆるりとお過ごしくださいませ」
「うむ。有難く頂戴致しましょう」
俺が謙る姿を満足げに眺めていた大館左衛門佐は、ゆっくりと立ち上がり、案内役の小姓に付いて広間を出て行った。大館に用意した部屋はこの謁見の間よりかなり離れた場所となる。会食をする広間からは近い為、文句は出ないだろう。
大館が出て行ってから暫くした後、ようやく承禎入道が俺へと視線を向けて来る。それに頷きを返し、上座の位置に移動して座り直した。隣に承禎入道、目の前にはそれぞれの任務で席を外した者以外の宿老三人となった。
「右衛門督、問題はないのか?」
「大樹としては、周囲が六角に囲まれた事に不満があるのでしょう。ただ、本来、高島七頭は六角傘下にある者達であります。今回の浅井の離反に伴い、不審な動きがあったために仕方なく処断したとでも言いましょう」
「御屋形様、そ、それは…」
俺のあっけらかんとした物言いに、平井加賀守が口ごもる。承禎入道も同様に唖然とした表情で俺を見ていた。彼らからすれば、将軍家を蔑ろにした物言いに聞こえたのだろう。誰でもわかる嘘を口にしているとでもいった感じかもしれない。
ただ、この時代、力なき正義に意味はない。現代と呼ばれる遥か未来に残っている文献、史実も勝った者達が残した物であり、どちらが正義でどちらが悪なのかなど、立場によって異なるし、結局勝って生き残った者達が正しいと宣言するだけなのだ。
突き詰めれば、観音寺騒動だって真相は謎である。いつまでも権力を手放さない承禎入道の力を削ぐために重臣である後藤但馬守親子を誅したように伝わっているが、もしかすると後藤但馬守親子に隠居を迫られ、次男である次郎へ家督を譲るように脅迫されていたのかもしれない。
話がずれてしまったが、力はない将軍家など、周囲の大名を焚きつけるぐらいしか出来ないのだ。
「それに、今、大樹は六角を敵には出来ません。三好と誰が戦えるのか。畠山単独では不可能であり、太郎左衛門尉殿のいない朝倉に上洛出来る余力はないでしょう。まぁ、六角にしたところで、今回の浅井離反によって後方に不穏ありとして西には向かえませんがね」
「幕臣共が騒ぐのではないか?」
「騒いだとして、出来るとすれば暗殺の類でしょう。それも甲賀者がいなければ叶いません。対馬守も我々に無断でそのような依頼を受ける事はあり得ませんな。のう、対馬守?」
「無論でございます。そのような依頼があれば、逆に依頼者のお命が短くなる事でしょう」
むぅと唸り声を発して腕を組んだ承禎入道を見ていると、この時代は本当に足利の権威が残っている事が解る。既に十三代目となっている足利将軍家ではあるが、既に形骸化していると言っても過言ではない。それでもやはり全ての武士の主家であるという考えが消えない。凄い事だと思う。
「それに今は大樹の敵は三好ですが、万が一三好が衰退すれば、今度は六角が敵になりかねません。先々代の雲光寺様が為した事への恩賞もなく、感謝もない。そしてまるで自身の力だとでも言うように、六角の兵力を使おうとする。このような考えでは更に人は離れて行きましょう」
先程まで俺の言葉に驚愕していた目賀田、平井、三雲も納得のいく部分もあるのか、否定も肯定もする事なく、寡黙に何も口にする事がない。現在の領土である南近江は足利将軍家に与えられたものではない。室町幕府成立前の鎌倉時代から既に近江の守護職を保持していた。寧ろ室町成立時には、幕府は佐々木家庶流である京極氏に守護職を与えるなど、六角にとっては許しがたい行為を行っているのだ。
まぁ、室町幕府成立時など、この1560年からみても200年以上前の話であるから、その頃の事を声高に口にしたとしても馬鹿にしか見えない。それこそ、足利義輝からすれば、そんな昔の事は自分の責任ではないと言っても不思議ではないし、俺自身がその通りだと思う。
「あい、わかった。大樹は儂とその方をお呼びじゃ。共に参るとしよう」
「畏まりました。また堅田に余計な銭を払わなければなりませんな」
「そちらについては、某が承ります」
平井加賀守が堅田との交渉を買って出てくれた。
早く、あの一向宗の自治都市を潰したいところだ。あの場所は琵琶湖の東と西を結ぶ拠点でもあり、北からの船の発着場所でもある。今後琵琶湖を使った商売などを考えると、必ず手にしなければならない拠点でもある。
「加賀守、此度の論功行賞の際にその方に船木城とその周辺を与え、高島党の取り纏めを頼もうと考えておる。船木に大掛かりな港を作り、その場所と栗見を船で結びたい。頼めるか?」
「!! はっ、あ、有難き幸せ。港の整備と船木城周辺の開発、粉骨砕身の想いで努めまする」
平身低頭、深々と頭を垂れた加賀守に視線が集まる。何も感じていないように表情を崩さない者達もいれば、あからさまに表情を歪める者達もいる。雲光寺様が逝去されて以降、六角家の領土はほとんど増加していない。手伝い戦などで恩賞も金銭での支払いが多く、新たに家臣に知行を加増する事も少なかった筈。
そこに突然降って湧いたような加増。周囲からの妬みを加賀守が受けてしまう事も容易に想像出来た。これは少し手を打たなければならないかもしれない。
「近江が落ち着けば、伊賀、北伊勢へ進む。皆励め!」
「ははっ」
謁見の間に居た全ての家臣が頭を下げる。
久方ぶりに承禎入道がこの場所に居るが、少し前とは異なり、家臣達が正対しているのは当主である俺であった。全ての家臣の心の内までは見通すことは出来ないが、それでもあの頃よりは当主として接するに値すると考える家臣が増えているという事だろう。迅速に行動し、佐和山を落とし、鎌刃を降した事と、高島郡の平定が功を奏しているのだろう。
「摂津守、将軍家への付届けとは別に朝廷への献上品も用意せよ。朽木谷への出立に合わせ、その方は禁裏へ赴くのだ。父上、献上取次への書状をお願い致します」
「うむ。承知した」
「摂津守、献金をすれば、ご下問があろう。何も要求するな。俺が京の荒廃を憂いておるとでも伝えれば良い。少しでもお役に立てればと」
「畏まりました」
「出立は明後日だ。皆には苦労を掛けるが、良しなに頼む」
「ははつ」
一斉に立ち上がった家臣達が謁見の間を出て行く。残ったのは俺と承禎入道のみ。何かを言いたいのか、皆の足音が消えても承禎入道は立ち上がる気配を見せなかった。
何か話があるのだろうと、俺も立ち上がる事をせずに承禎入道が口を開くのを待った。
「四郎、少し良いか?」
「はい。しかし、父上がこちらに…」
暫くして、ようやく立ち上がった彼は、俺の横から前に移動した。畳を敷いている分、一段高い場所にいる俺の正面に座るという事は、必然的に俺よりも低い位置に座るという事になる。それは家臣筋の場所であった。
「よい。今はその方が六角当主。これで良い」
「然れば、そのように」
浮かしかけた腰を再度下ろし、承禎入道を前に座り直す。しっかりと座り直したのを見届けた承禎入道が、ゆっくりと口を開き始める。
「加賀守の娘の事だ。その方、誠に正室に迎えるつもりか?」
「と、いうと?」
なんだ?
あの時認めたのに、ここまで来て反対だと言うつもりなのだろうか。
「うむ。此度の論功行賞にて、その方が加賀守に知行を加増する旨を口にした。それを多くの者達が聞いておる。そして、先日にその方が正室に迎えると口にした娘の家も平井であり、それも多くの者達が聞いておった」
「いらぬ邪推を呼ぶと?」
「その通りよ。立身出世の妬みは武家には付きものだ。だが、その出世の理由が娘の斡旋となれば、平井の家だけではなく、その方の名まで落とす要因となろう」
なるほど。女に目が眩み、その女の実家を重用するというように見られるという事か。この戦国の時代、そのようなこと当たり前なのだがな。娘を側室に挙げて、その実家として家の家格を上げるなど、常套手段でもあろうに。
ただ、六角家のような古くからの家臣達の多い家となると、その家臣達の亀裂にもなりかねないし、娘を献上すれば出世出来ると考えられてしまえば、当主としての威厳もなくなるという事だろう。
「ふむ。父上の申す事、至極尤も。これは某の落ち度でございますな。代わりに粟太郡の領地を召し上げるとなれば、流石に騒ぎましょう。娘に関しても、あれだけ豪語したにも拘らず、側室にするなど言えば、これまた君主としての資格なし。これは参りましたな」
「その割には、その方は笑っておるが?」
参った、参った。そんな感じだ。
ただ、別に大した事ではない。すぐに解決する問題である。
「父上、当家には平井以外に五家の宿老がおります。若い当主の考え違いを正そうと、皆がそろそろ参りましょう」
「失礼致します」
俺の言葉を遮るように、小姓の言葉が謁見の間に響く。
やはり来たか。
早いな…
「如何した」
「はっ、蒲生下野守様、後藤但馬守様、進藤山城守様、お見えにございます」
ふむ。六宿老の半数か。当事者の平井加賀守は当然だが、朝廷への献金を命じた目賀田摂津守、既に俺に心酔に近い動きをし始めた三雲対馬守の三名は来ていない。
謁見の間に入って来た三人は、俺の前で静かに腰を下ろした。以前であれば、ずかずかと入って来て、先代へ一礼をしてから俺の前に座るような感じであったが、そのような様子はなくなった。
「宿老三家が如何した?」
「…されば御屋形様へ具申致したき儀がございます」
問いかけに答えたのは、後藤但馬守。その両脇に蒲生下野守、進藤山城守が座っている。六宿老に明確な序列はない筈だが、現在の六宿老の中で最古参の者となれば、蒲生下野守になるのだろうが、父承禎入道が重用したのは、後藤但馬守なのだろう。進藤山城守は、先代山城守である進藤貞治の後を継いでいる為、立場的には二人よりも下という認識なのかもしれない。
六角の両藤は、進藤山城守貞治と後藤但馬守の呼称であって、進藤山城守賢盛ではないのだろう。
「ふむ。聞こう」
「然れば、此度の平井殿の事でございます。浅井に離縁された娘に関しましては、御屋形様のご温情の賜物と我らも納得しております。ただ、船木周辺の加増と高島郡の頭領は些か行き過ぎかと考えます」
「儂の論功行賞に不満があると?」
「そうではございませぬ。但馬守殿の申す通り、離縁された娘を御屋形様の室とされる事で十分な恩賞となります。それ以上の厚遇は六角家中で要らぬ諍いを生み、六角家中の団結に亀裂を生じさせます」
後藤但馬守の言葉を聞き、半目で睨むように呟くと、但馬守は口を噤み、変わって蒲生下野守が口を開く。六角家中という言葉を口にはしているが、結局宿老の中でも大きな領地を有する動きとなった平井への牽制でしかないのだろう。
どこの世界にも、どの時代にも、人間の妬みによる足の引っ張り合いはある物だ。会社の為、店の為など口にしてはいるものの、結局自分の事しか考えていない人間は多いのだ。
「して、その方らは何を言いに来たのだ? この儂に、自身の言葉を覆せと? 綸言汗の如くという言葉を知らぬ訳ではなかろう。儂自身を皇帝と准える事が不遜ではあるが、上に立つ者として、自身の言葉に責任を持たねばならぬ。故にこそ、此度の恩賞が覆る事はない」
「しかし、既に先程この場にいた者達からは不満の声も上がっております…」
「山城守殿!」
俺の言葉に我慢が効かなかったのか、進藤山城守が口を開くが、それを蒲生下野守が制した。どうも、やはり彼は先代山城守と比較すると、少し能力に欠けるようだ。両藤としては難しいかもしれない。
先頃、俺の考えが不満なのかという問いに、蒲生がそれを否定する言葉を口にしたのだ。今、不満の声があるという事を再度口にするという事は、自分達もまた不満なのだと改めて表明したに等しい事になる。
「今回の高島郡への出兵の大将は平井加賀守である。故にこそ、七頭の内四頭を失った高島郡の目付としての役割を担わせた。ただ、一朝一夕にはいかぬとは思うがな」
「…と申されますと?」
進藤を咎める言葉を口にすることなく、平井の高島郡頭領の妥当性を語る俺の最後の言葉に、後藤但馬守が食いついた。
「高島七頭はそもそも独立意識の高い豪族のようなものだ。それぞれが佐々木隠岐守高信公の末裔であるという自負が強い。我々六角の祖である泰綱公は信綱公の三男であり、高島の祖である高信公は次男である。その辺りも自尊心の拠り所なのだろう。最早鎌倉の御代の話だがな」
「…御屋形様はそこまでご存じでございましたか」
やはり、進藤山城守は少し残念だな。その発言は当主である俺を見下していたと認めている事に等しいのだが。現に、後藤、蒲生の両名は進藤を白々しい目で見ていた。
「名門意識が強く、独立意識も強い地域なのだ。如何に佐々木一族の末裔を謡っていようと、六角の家臣筋である平井加賀守に黙々と従う事など出来ぬであろう。何かにつけて不満を口にするであろうし、加賀守の代での完全平定は難しかろう」
「それでは、今回の加増は…」
「それだけ苦労を掛けるのだ。儂が近江を統一し、他国へと領土を広げるまで、あの地での争いは控えなければなるまい。あの場所が乱れれば、生臭坊主どもも一緒に騒ぎ出す。あの地を抑えるならば、現在の加賀守が持つ粟太郡の領土だけでは足りるまい。この先の高島郡の統治に関して言えば、現当主である儂と縁戚であるという後ろ盾がなければ厳しい物になるに違いない」
「…なる程、比叡山に堅田の一向宗でございますか。確かに堅田が蜂起し、高島勢が背けば、平井殿は孤立無援になる。その為に船木の港を急がせた訳ですな」
むむむと蒲生下野守が唸る。
正直、高島郡の領土にこの時点では余り旨味はない。本来、我らの祖である佐々木信綱が地頭となり堅田の漁業権などを支配する筈だが、延暦寺が荘園を置いた辺りから可笑しくなり、いつの間にか領主が延暦寺なっていた。そのうえ、浄土真宗の本福寺が建造され、一向宗の力もました事で、この堅田の利権を巡って様々な勢力が争う事になる。
一向門徒たちも健在であり、延暦寺の威光もある港町となり、武家だけがそこに立ち入れないような状況であるのだ。まさに守護使不入。
「その方らは何か色々と懸念があるようだが、それほどまでに跡取り達が不安か? のう、下野守。儂は左兵衛大夫であれば、蒲生の家督を継ぐに相応しいと考えておる。但馬守、嫡子壱岐守も既に独り立ちしており、今回の出兵でも良く兵を用いておった。その方らの家に何の不安がある? 儂が大きくするこの佐々木六角家の屋台骨六本を支えし六家が、互いを妬んで如何する。どの柱もしっかりと大きく、太くなってもらわねば、この六角家も立ち行かぬぞ?」
「ははっ」
今更、妬みなどで諫言していないなどと口には出来ないだろう。よくよく考えれば、平井加賀守に与えた船木周辺の統治の難しさは解るのだ。それにも拘わらず、思考よりも感情で動いてしまったからこそ、この場所にいるのだから、それが妬みでなくてなんであるのか。
「だが、その方らの言い分にも一理ある。平井家のみを厚遇しているとなれば、加賀守の高島郡統治にも悪い影響が出るかもしれぬな。然れば、その方三人に頼みがある」
「…何でございましょう」
しっかりと姿勢を正した俺の姿に、三者が一斉に姿勢を正す。
無理難題が降りかかるとでも思っているのかな。そんな無理難題でもないのだが。
「儂から加賀守の娘をやはり側室にするとは言えぬ。だが、加賀守からの申し出であれば受けざるを得ぬ」
「…畏まりました。我ら三者で加賀守殿を説得致します」
深々と頭を下げた三人が謁見の間を出て行く。しかし、その表情は厳しい物であった。おそらく、下野守と但馬守は先程の俺の言葉の裏を理解しているだろう。山城守はどうだろうか。理解しているからこそ厳しい表情であったと思いたい。
俺は言外に、『そろそろ世代交代の時期ではないか?』と問うたのだ。実際は但馬守も山城守もまだ若いだろう。下野守は既に五十を過ぎているから嫡子に家督を譲っても可笑しくはない年齢になっている。祖父六角定頼の時代から活躍している武将であり、現宿老の中でも最古参であるのだ。だからこそ、当主である俺の決定に異を唱えに来たのだろうが、今後の六角家に理のある諫言以外はいらない。その辺りを理解してくれると良いのだが。
「父上、これで父上の懸念も晴れましたでしょうか」
「見事よの。この承禎、感服したわ」
にやりと笑った俺の表情に、承禎は坊主頭をつるりと撫でて、はにかむように笑った。そのお互いの表情を見やり、どちらかともなく噴き出す。止まらぬ笑いは謁見の間に響き渡り、驚いた小姓が様子を伺いに現れるまで続いた。