閑話~栗見屋敷 萩の方~
目を覚ますと、暖かな部屋でした。
柔らかな敷布の上で横たわっている事に気付き、首を動かすように周囲を確認致します。私は何故寝ているのだろう。ここは何処だろうと疑問が幾つも浮かんできます。
火鉢が見えます。その上には薬缶が乗せられ、音を立てながら湯気を出していました。その景色を見ると、ここが昨日私が宿泊した部屋である事に気付きます。
そこに来て、何故私がここにいるのかという事に理解が及びました。
「萩様! お目覚めになられましたか!?」
私が倒れてしまうまでの出来事を思い出し、羞恥と嫌悪で胸が痛くなっていると、傍からよねの声が聞こえてきます。私の目覚めを喜んでくれている事が分かります。
ここまで喜びを表すという事は、私はかなり重い病であったのでしょうか。あのような吐き気は初めての事でした。胃の腑からせり上がる感覚は恐怖を感じる程。周囲を漂う空気、臭いその全てが不快に思える感覚は本当に初めての事です。
「よね。四郎様は?」
「御屋形様でございますか? 今は席を外されておりますが、萩様がお目覚めになられましたらお呼びするように言われております」
四郎様にご迷惑をお掛けしてしまいました。視察という名目まで作り、私を栗見まで連れて来て頂いてにも拘わらず、体調を崩し、視察を中断させ、あろうことか吐瀉物まで四郎様に…。
そこまで思考が及び、罪悪感と恥ずかしさ、そして大きな自己嫌悪に苛まれます。やはり私のような者が四郎様の室となったのが誤りなのでしょう。
「御屋形様は、萩様がお目覚めになられたと知れば、飛んで参りますよ」
横にいるよねの表情がいつもと違う事に気付いたのは、よねが私の手を取って身体を起こすのを手伝ってくれた時でした。起き上がった私の肩に四郎様がお作りになられた外襦袢を掛けてくれた時、よねは自ら四郎様の事を口にしたからです。
いつものよねは私から四郎様の事を口にしない限り、四郎様の事に触れる事はありません。四郎様の話をしなければならない時には、いつも表情が強張ってしまっておりました。ですが今のよねは、私に向けるような笑みを浮かべながら四郎様の事を口にするのです。何があったのでしょう。
「よね、何があったの?」
「体調を崩された萩様を抱えた御屋形様が、血相を変えて御屋敷に御帰還され、御召し物が汚れたままで御屋敷の方々へ指示を飛ばされました。御屋形様が本当に萩様を大事になさっている事がこの御屋敷に居る方々全てに伝わりましたよ。普段の御屋形様からは想像もできない慌てぶりでございました」
私の質問に答えるよねの顔には優しい笑みが浮かんでいました。まるで子供の事を話す母親のような、やんちゃな弟の身を案じる姉のような、そんな表情をするよねに対して私の中で何か言いようのない感情が湧いて来るのが分かります。
四郎様は私の夫であり、四郎様と私は夫婦なのだという想い。
「ですが、私はそんな四郎様に粗相を…」
「そのような事、御屋形様は気にもされておりませんでしたよ。従者の方々が汚れた御召し物の替えをと言っても、『後で良い。萩の方が先だ』と言って、呼んだばかりの薬師の到着を『まだか!? まだか!?』と…。余りの慌てぶりに、よねの方が落ち着いてしまいました」
何故か解りません。悔しい想いが沸き上がってきます。私の方が四郎様を知っている筈なのに、私の知らない四郎様の行動や言動をよねが話す事が面白くありません。
四郎様が慌てふためく原因が私であるという事は本当に心から嬉しく思います。ですが、自分でもこの想いが何なのかが分かりません。
「よね。四郎様は私の夫です」
「まぁ。萩様がそのような事をおっしゃるとは…。ふふふ。申し訳ございませぬ。不敬ながら、よねは心の内で萩様を本当の妹のように思うておりました。そんな萩様を心から大事に思うてくださる御屋形様を見て、よねは心から嬉しくなってしまって」
よねと私の年齢差は五歳ほど。私が浅井へ嫁ぐ前に一度嫁に出てはいますが、それでも若い内から私の侍女として付いて来てくれた人。身内も知り合いもいない浅井家の中、唯一私の味方でいてくれた人。
私にとっても姉のような存在に、私は悪しき感情を抱いてしまいました。なんて浅ましいのでしょう。これは嫉妬なのですね。そんな浅ましい感情を私の事を妹のように思ってくれている人にぶつけてしまうなんて。
「そのような顔をしてはいけませぬよ。萩様は今、お気持ちが不安定なのです。薬師の方がおっしゃっておられましたが、何やら不必要に悪く考えてしまうような事もあるそうでございます。お気持ちが弱ってしまう事もあり、深く考え込んでしまうような事は避けなければならないそうですよ。お萩様には何があろうと御屋形様がついておりますし、大丈夫でございますよ」
またよねの口から四郎様の名前が出て来る。何故か嫌な気分になってしまいました。それが顔に出てしまったのでしょう。私の顔を見たよねがまた笑い出してしまう。その笑いが益々私を不機嫌にするのでした。
ですが、ここで私は再び思い出します。私が外に出てすぐに嘔吐をした事。そして気を失ってしまった事。
私は何か重い病気なのでしょうか。ようやく穏やかで幸せな日々を送れるようになったというのに…。どうして、どうして。
「…萩様?」
四郎様と会えなくなってしまう。四郎様の笑顔も、寝顔ももう見る事が出来ない。『お萩』と私を呼んでくれるあの優しい声も。髪を撫でてくれるあの優しい手も。抱き寄せて下さるあの逞しい体躯も。
涙が溢れてきます。よねが何かを私に言っているようですが、その言葉さえも聞き取れません。浅井へ嫁ぐ事が決まった時も、離縁され平井の家に戻った時も、そして悪い噂の絶えない四郎様へ嫁ぐ事が決まった時も、自身の事を不幸だと思った事はありませんでした。これも定めなのだと、そう感じはしても、『何故自分だけがこのような苦しみを』などと考えた事はありませんでしたが、今はそう思ってしまいます。
私よりも不幸な人間などこの戦国の世には数多いるでしょう。でも一度これ程の幸せを知ってしまうと、少しの不幸を大きく感じてしまいます。
「お萩! 目が覚めたか!?」
周囲の声や音が聞こえなくなりどれ程の時間が経ったのでしょう。突然襖が開かれ、私の耳に力強い声が届きます。音と色を失っていた私の世界に再び全てが戻ってきました。
「四郎様!」
はしたなくも私の横にお座りになられた四郎様の胸に顔を埋めます。この御方と離れたくはない。淑女としてこれ以上ない程に恥ずかしい行いではありますが、何故か今はそのような事を考えられませんでした。
「お萩、どうした? よね、何があったのだ!?」
「し、四郎様、私は四郎様と離れたくはございませぬ」
「何? どういうことだ?」
私を抱き寄せた四郎様のお顔が強張っております。やはり私は大病を患ったのでしょう。もう余命も幾ばくもないのかもしれません。
今までこれ程に自身の命が惜しいと思うた事はありません。死んでしまうのが怖ろしい。武家の娘として生まれ、武家の娘として育てられたにも拘わらず、このような想いを持つ自身を情けなく思ってしまいます。
「よね、お萩は何を言っておるのだ? 何故泣いており、何故俺から離されると思うておるのだ? 産屋の事か?」
「…萩様は何やら思い違いをなされておるようにございます」
よねが四郎様からの問いかけに、言葉を詰まらす事無く返答している姿の異様さに、私の頭が急に冷めて来ました。今、四郎様は何という言葉を口にされたのでしょう。何やら聞き覚えの無い言葉が聞こえたような気がします。
私は病ではないのでしょうか? 今も尚、重く感じるこの身体を蝕んでいるのは病ではないのでしょうか?
「お萩に何も言ってはおらぬのか?」
「萩様の目が覚めてからそれほど時間が経っておりませぬ。何やら思い違いをされた萩様が取り乱されており、お話が出来る状況ではございませんでした」
取り乱していたのでしょうか。ここまで考えた時、私はよねの目の前で四郎様に抱かれている状況に理解が及び、羞恥で顔が熱くなるのを感じました。
慌てて四郎様から身体を離しますが、目の前が急に歪む感覚がしてそのまま後ろへ倒れそうになります。しかし、その身体を再び四郎様に抱きとめられ、先程と変わらない状況に戻ってしまいました。
「お萩、何をどう思い違いしたのか解らぬが、其方と離縁などする事はない。それこそ天地が逆になろうとも其方を離す事などない」
「そうではございませぬ。四郎様、私はどのような病なのでしょうか? 四郎様と共にある事の出来る時は少ないのでしょうか?」
自惚れのように聞こえてしまうかもしれませんが、四郎様が私と離縁するなどという事は考えた事もありません。大事にされていると思います。何よりも気遣って下さっていると思います。家中の噂で、尾張織田家からの縁組の打診さえも断ったと聞きました。その理由の一つに私への配慮があると思えるほどに私は四郎様に大事にされているという自信もございます。
ですが、死に至るような病であれば、神様や仏様でもない限りその別離を覆す事は出来ないでしょう。
「ふ、ふふふ、ふはははははは!」
襟元の着物を握りしめた私の表情と言葉を聞き、四郎様が突然大きな笑い声を上げられます。それは楽しそうに笑う四郎様に私は不敬ながらも憤りを感じてしまいました。
ふと見れば、よねさえも着物の袂を口元に寄せて小さな笑い声を上げています。
「四郎様!」
「す、すまぬ、すまぬ。お萩、そう怒るな。しかし、其方はやはり正しく俺の室であるな。のう、よね。其の方もそう思うであろう?」
「畏れながら、よねの口からは何とも申し上げる事が出来ませぬ。しかしながら、御屋形様も萩様も良く似ていらっしゃると思います」
私が少し大きな声を上げても、四郎様の表情は笑顔のままです。それに加えてよねの表情も今までを知る人間であれば信じられないほどの柔らかな笑みが浮かんでいました。あれ程に四郎様を畏れていた筈なのに、このように気の抜けた笑みを浮かべるよねが別人のように見えてしまいます。
「其方が倒れた時、俺も其方が大病を患ったのではないかと狼狽し、よねや薬師に声を荒げてしまったのよ。その時によねに叱りつけられての」
「…よねが四郎様を叱りつけたのですか?」
「うむ。それはそれは凄まじい気迫でな。六角百万石の当主である俺が不覚にも怯んでしまったわ」
「…御屋形様、御戯れを」
信じられません。あのよねが四郎様を叱りつけるなど。ですが、四郎様の言葉を軽くいなすよねの姿が以前のよねとは比べ物にならないほどに落ち着いており、それが真実であるという事を示していました。
正直、私が体調を崩した時、四郎様も慌てられたという話を嬉しく感じてしまっており、先程までの胸の具合も気にならなくなってきていました。しかし、続く四郎様の言葉を聞いて、私は心の臓が止まってしまうかと思う程に驚いてしまいます。
「お萩、其方の中に我らのややこが居る」
「!?」
ややこ…。漸漸子…。四郎様と私のややがこの中に。
信じられない。四郎様へ嫁ぎ二年が経ちます。その間に何度も身体を重ね、お情けを頂いてきましたが、これまで子を宿す事が出来ず、陰で石女と言われている事には気付いておりました。それでも四郎様の優しさで心を保って参りましたが、そんな私がややを身籠れるとは…。
「お萩、大丈夫か? どこか痛むのか?」
無意識に溢れて来た涙で四郎様のお顔が滲みます。それでも静かに涙を流す私を気遣って声をお掛け下さる四郎様の優しさに涙が止めどなく溢れてきました。
私と四郎様のややこ…。本当に嬉しく、愛おしい。
「今はゆっくり養生致せ。体調が戻れば、ゆるりと観音寺へ戻ろう。しかし、身重なお萩にあの山を登らせるのは無体だな。ふむ。この栗見に俺と共に暮らす家でも建てるか。ややこが産まれるまではそこで政務を行えば良いな」
「御屋形様…。そのような事をなされれば、萩様のご評判に関わります。ご自重ください」
「しかしな、よね。身重の妻に無理をさせぬ事も夫の立派な務めであろう」
「萩様は病ではないと薬師殿もおっしゃっていた筈ですよ。適度な運動は必要です。寝たきりになる方が余程お身体に障ります」
「ふふふ」
四郎様とよねのやり取りがまるで昔から知った仲の親子や姉弟のようで、自然と笑みが零れてしまいます。四郎様とよねの間でどのような事が起きたのかはとても気になりますが、それでも今のこの関係が悪いものではない事は解ります。
私と四郎様のややこ。そしてそれを見守ってくれる侍女のよね。ああ、この喜びを早く母上や父上にもお伝えしたい。どれ程に喜んで下さるだろう。
「それに、加賀守様にもお伝えしなければなりませぬ。このまま観音寺ではなく粟田でのご出産になるやもしれませぬ」
「それは許さぬぞ!」
四郎様の大きな声が部屋に響き、抱き抱えられた私の身体に四郎様の身体の揺れが伝わります。そっと四郎様の胸に手をやると、思った以上に大声が出てしまった事を恥じるように苦笑を浮かべた四郎様が小さく謝罪を口に致しました。
武家では本来出産の血は穢れと考えられ、出産が終わるまでは殿方の視界に入らないように産屋にて生活をする慣例がございます。特に六角家のような大きな武家であれば、不浄と考えられている出産による血の穢れを忌避するのが当然だと思います。
ですが、私も四郎様と離れたくはありません。
「しかし、穢れを観音寺城に持ち込む事は…」
「たわけ! 新たな命を生み出すのだぞ。それの何が穢れとなるのだ! 母子共に無事である為にも、清潔な出産場所である産屋は建てるが、その前後であろうと俺はお萩と共に暮らす」
出産は新たな命を生み出す事であると同時に、死を間近に感じる事でもあります。私達女子は命を賭して赤子を産みます。産後すぐに亡くなってしまう赤子もありますし、産後の肥立ちが悪くて命を落とす産婦もおります。無事に産まれて来る命の方が少ないと言っても言い過ぎではないでしょう。
四郎様はこのようにおっしゃってくださいますが、観音寺城におられる家人達はそれを良しとはしないでしょう。
「余りにも煩いようであれば、産屋兼俺とお萩の新たな生活場所として城を築く。そうだな、これを機に安土か八幡に城を築こう。大義名分は立ち、医療所を作る場所も出来る。そうすればお萩の出産時に医療所から人も寄こし易い」
「…そのようなお戯れを」
「戯れではないぞ。全てに於いて名分が立つ。本来は近江周辺の安全が確保されてからが良いのだろうが、観音寺城から本拠を移す絶好の機会であろう」
何やら大きな話になっています。極稀に四郎様がこのようになる事があります。四郎様は他の方々よりも思考の回転が速いのでしょう。ご自身の頭の中で思考が次々浮かび、それを整理し消去して行く事で結論に結び付くのだろうと思います。ですが、周囲の人間からすれば、四郎様の思考から結論に至る経緯が見えない為、何故そうなったのか、どうしてそれをする必要があるのかという点が呑み込めず、理解出来ないのです。
流石によねも今はその状態になってしまっています。私はこの栗見に来るまでの道中で四郎様が安土城か八幡城を築き、そこに本拠を移そうという転合を聞いておりました故、まだ理解が出来ますが、よねには突然の話でしょう。
全く話の見えない四郎様に再び恐怖を覚えてしまうかもしれません。
「お萩は暫しの間、この栗見で養生致せ。その間に城を築く故にな」
「四郎様、それでは城を移る頃にはこの子も産まれて来てしまいます。私は観音寺城が良いと思います」
思考の早い四郎様の話について行く事は私には出来ません。ただ、四郎様の考えの根底にあるのは私の身体の事だと思うのは自惚れではないでしょう。
「うむ。急げば半年もかからぬぞ?」
「それでは皆々様のご負担となります。此度の懐妊により、私が石女ではないと解りました。これからも四郎様に御寵愛頂ければ、またややこを授かれましょう。その時は四郎様と共に新しきお城で過ごせる事を楽しみにしております」
私が笑うと、四郎様は少し困ったような表情を浮かべて『そうか』と残念そうに肩を落とします。まるで幼い子供が楽しみを奪われたような表情に私は更に笑ってしまいます。
本当に愛おしい御方。この愛おしい御方のややこを身籠れた事が心から嬉しい。早くややこと会いたい。男子であれば嫡子として私の手から離れてしまうのでしょう。それは寂しい。女子であれば、また口さがない者達が色々と言うでしょうが、私の手元に残して愛でてあげる事が出来ます。
四郎様はやはり嫡子をお望みでしょうか。女子であれば落胆されてしまうでしょうか。
「どうした? 先程まで笑っておったのに突然眉を顰めて…。其方は何も気にする事はない。万事は俺に任せておけ。楽しみであるなぁ。男でも女でも良いから、其方と共に元気で産まれて来てくれれば良い。男であれば、父上のように我慢強い子が良いな。女子であれば、其方のような見目美しく、心映えも良い優しい子が良い。いや、待て、其方のような見目麗しく優しい子であれば、すぐに何処かから縁組の話が来てしまうな。それは駄目だ。少なくとも二十になるまでは嫁には出さぬぞ…」
私の考えが伝わったのでしょうか。四郎様はややこの性別に関して差別はないようです。その後に続く四郎様の独り言が飛躍し過ぎていて私はよねと顔を見合わせてしまいました。
二十になるまで嫁に出さないとなれば、私達の娘は行き遅れになってしまいます。四郎様であれば本当に縁組の打診を断ってしまいそうです。私の顔を見たよねも同じような事を考えたのでしょう。二人して笑い声を上げてしまいました。
「こ、こほん…。流石に考えが飛び過ぎてしまったようだ。お萩、元気な子を産んでくれ。そして其方も無事におってくれ。俺が願うのはそれだけだ」
私達の笑い声に気付いた四郎様が誤魔化すように咳払いをします。微笑を浮かべた四郎様が口にされた小さくも難しい願いが私の目から再び涙を溢れさせました。よねも優しい笑みで私達を見つめています。
このような幸せな日々は続いて欲しいと心から思いました。




