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江南の夢(不定期連載)  作者: 久慈川 京


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慶事




「薬師を呼べ!」


 代官館に入ると同時に奥に届く程の大声を上げる。既に腕の中にいる萩はぐったりと気を失っていた。家人達は俺の剣幕に驚き、慌ただしく屋敷内を動き回る。奥の部屋に萩を寝かせる準備をさせ、この視察に同道していた侍女のよねが萩の衣服や手に付いた吐瀉物を拭きとっていた。


「御屋形様、お召替えを」


「俺は後で良い! まずはお萩の身の回りを整えよ!」


 俺の衣服にも萩の吐瀉物が付いている。しかも肩口から相応の量がついており、従者達からすれば、何よりも一番にと考えるのは当然なのだが、今の俺にそれを良しとする余裕はなかった。

 寝かされた萩の顔色は良くない。苦しそうに眉を顰めたまま眠っている姿が弱々しく、侍女のよねが口周りに付着した吐瀉物を拭きとった後も荒い息を吐きながら目を閉じていた。


「まだか!?」


 焦りが出る。この世界で意識を戻してからここまで心が乱れたのは初めてだろう。それ程までにこの萩という女性が自分にとって大きな存在になっているという事に今更ながら気が付いた。

 正直、まだまだ『IF』の世界で生きているという認識があった。『もし、六角義治が平井加賀守の心情を慮っていたら』、『あの時早急に対浅井の行動に出ていたら』という自分の中にある妄想、希望を辿って来たという想いがあったが、最早俺はこの室町末期を生きる一人の人間なのだろう。

 だが、妻がいて、その妻が体調を崩して、これ程に苦しんでいる姿を見ると、遥か未来で生きていた頃の意識が表に出てしまう。この時代の武士としては今の俺の行動は異様なのかもしれない。だが、それでもこの焦りと苛立ちを誤魔化す事は出来なかった。


「御屋形様! 落ち着かれませ!」


 そんな俺を制する声が本当に意外な場所から飛んで来た。

 声の出所に視線を送ると、そこには厳しい表情で俺を見つめるよねの姿がある。余りにも意外過ぎて俺の時間が完全に止まってしまった。

 いつも俺を見ると恐怖を前面に出していた侍女が、今はとても厳しい母親のような表情で俺を叱りつけている。


「奥方様の御召し物を替えまする。殿方はご退出くださいませ!」


「わ、わかった。すまぬ」


 思わず謝ってしまった。最早百万石に手が届きそうな大名である六角左衛門督弼頼が一人の侍女に頭を下げてしまったのだ。呆然とする俺を追いついて来た浅井与次郎が連れ出すようにして部屋を出る。

 俺と入れ替わるように廊下で薬師の爺とすれ違うが、それに声を掛ける事も出来ず、別室に連れていかれてしまった。


「御屋形様、申し訳ございませぬ」


「何故与次郎が頭を下げる」


「御屋形様、奥方様の食事を管理していたのは某の館にございます。此度の奥方様の不調、その食事が原因であったのならば、腹を斬ってお詫びするしかございませぬ」


 別室で俺が腰を下ろすと同時に、目の前で浅井与次郎政元が平伏する。確かに食事に毒でも混入されており、それが原因で萩の体調が可笑しくなったのだとすれば、それを差配した台盤所頭は斬首であり、この屋形の主である与次郎もまた責任を取らなくてはならない。

 だが、同じ食事をとった俺がこれ程に健康なのだ。萩の膳に毒を盛り、俺の膳に毒を盛らないなど意味のない事もしないだろう。どうせ殺すのならば六角家当主の方が意味があるのだから。それこそ態と俺を苦しめようという悪意でもない限りは。


「毒物の物と決まった訳ではない。だが、万が一毒物であった場合は覚悟を致せ。その下手人及び、黒幕を俺の目の前に連れ出さぬ内に腹を斬って楽になるなど出来ぬと心得よ」


「はっ、畏まりました」


 万が一にも毒物であったのならば、今回ばかりは許さぬ。この世の地獄を味わわせてやろう。それが幕臣であれば、処刑し首を晒す。武士の面目などもありもしない。賊と同様の扱いで遇してくれるわ。


「大殿…」


 そんな考えに心が染まり、おそらくかなりどす黒い表情を浮かべていたのだろうが、その時、俺の部屋の中へ声を掛けて来る者がいた。この屋敷の主である浅井与次郎の家臣となった遠藤喜右衛門直経である。

 開け放たれた部屋の襖の向こうで片膝を着いて頭をさげている。遠藤喜右衛門は小谷城落城の折、浅井家の女子供を仏門まで共にした者である。その後、浅井家臣の内、何れは浅井与次郎政元の家臣となりたいと思う者達もいたが、現状では俸禄も支払えない浅井与次郎の下では家族を養うことも出来ず、六角家の家臣の中に取り込まれた者達も多い中、この遠藤喜右衛門だけは浅井与次郎旗下に入っていた。

 勿論俸禄などは出ず、衣食住だけはこの代官屋敷で保障されてはいるが、実質ただ働きである。それでも浅井与次郎の家臣として行動するのは、それが忠義という自分の考えに酔っているのか、それとも本当に贖罪のつもりなのかは分からない。だが、浅井与次郎にとっては頼りになる男である事に間違いはないだろう。


「如何した?」


「観音寺より使い番が来ております。観音寺へ京より使者ありとの事」


 血管が切れそうだな。実際、今の俺の額には漫画のように血管の筋が浮かび上がっているかもしれない。京よりの使者は幕府よりの使者であろう。三好義興の死が確定し、その情報を幕府が掴んだのかもしれない。

 俺への刺客を送り込んでおいてよくも使者など寄こせるな…。どういう神経をしていればそれが出来るのだ。幕府、将軍、幕臣、それら全てが別物だとでも言うのか。双頭の龍でもあるまいし、俺がそれに付き合う必要もない。


「何の用だ? 昨日の丁重なもてなしに対する謝罪の使者か?」


「いえ、どうやら出兵の命のようでございます」


「…斬って捨て、首だけ室町に送り返してやれ」


 使者として来た者を斬り捨てるというのは、流石に武家の中でも禁忌に近い。それでもこの状況で尚、己の立場も弁えずに上から命じる者に対してであれば許されよう。流石に俺の我慢も限界だ。遥か未来の時代で生きていた頃もこれ程に舐められた事はなかった筈。

 陰湿な虐め、暴力など、抗うのならば相手を殺してしまえば良いのだ。そのような低俗な人間が世の中の役に立つとは思えないし、そのような人間が時間の経過とともに自分の行いを忘れ、幸せな時間を送るなど許される事ではない。


「…使者は細川兵部大輔殿のようでございます」


「だから何だ? 喜右衛門、其の方は今の俺が自身の尻も拭う事の出来ぬ室町の為に、床に伏せる妻を置いて観音寺へ戻れとでも言うつもりか?」


 俺の怒りが伝わっていないのか、遠藤喜右衛門の表情は変わらない。だが、俺の目の前にいる浅井与次郎は顔を青くさせていた。本気で今すぐに観音寺城へ戻れと俺に対して諫言するのであれば、それは一向宗や叡山の扱いに異を唱えた進藤山城守とは異なる。

 時勢やお家の立ち位置、そして主君が望むものを理解する事を放棄した諫言であり、古く凝り固まった不要な考えであるという事になる。俺には…今の六角には不要な人物となる。


「いえ、大殿は動かれる必要はございませぬ。使者としての役目があるのならば、この栗見へお呼びになられれば宜しいかと」


「兵部大輔もまた幕臣の一人であるぞ」


 遠藤喜右衛門は幕臣である細川兵部大輔藤孝を栗見に来させろと言っている。それに対し、彼の主君である浅井与次郎が異を唱える。遠藤喜右衛門は俺にとって陪臣となる。家臣である浅井与次郎の家臣であり、本来俺に対して意見が出来る立場ではない。与次郎はそれを考慮し、俺が口を開く前にそれを遮ったのだ。

 だが、既に俺に対して使者が細川兵部大輔であるという意見を述べている。遅すぎる制止であるのだが、十三、四の若者にそこまで求めるのは酷であろう。


「…わかった。会おう」


「…畏まりました。喜右衛門、すぐに観音寺へ使者を栗見に迎え入れると伝えよ。謁見の為の準備も早急に致せ」


「はっ」


 ここで俺が駄々を捏ねたとしても、室町の使者が諦めて帰る事はないだろう。ならば遠藤喜右衛門の進言通りに栗見で謁見を果たした方が良い。俺の返答を受け、今度は喜右衛門が返答をする前に与次郎が答え、すぐに指示を出す。

 正直、今の俺にとって室町の使者など煩わしいだけであり、どのような要求も呑むつもりはない。萩の容態の方が余程大事であり、それに比べれば足利の存亡など興味の欠片もないのだ。


「そのような些事よりもお萩だ。薬師の見立てはどうなのだ。お萩の部屋へ戻るぞ」


 遠藤喜右衛門が部屋の前からいなくなった事を確認した後、俺は立ち上がる。そのまま部屋を出て、萩が伏す部屋へと歩みを進めた。

 気のせいか、先程より萩の部屋周辺が騒がしくなっている。嫌な汗が流れた。この時代は遥か未来とは異なり、病での死亡率が遥かに高い。病で床に臥せった時点で回復の見込みが薄いのだ。

 萩がこの世からいなくなる。それを考えるだけで俺の目の前が真っ暗になってしまう程の絶望感に苛まれた。俺はこの時代で生きる誰よりも身近な人間の死という絶望には弱いのかもしれない。『仕方がない』とか『仏様の下へ行ったのだ』とか、そういう達観が出来ない。『あの時代であれば』、『あの薬があれば』、『あの手術が出来る人間がいれば』など、知識があるだけに絶望感が段違いになる。


「お萩!」


 心の中に生まれた不安と焦りが、俺の足を速め、声を荒げて襖を勢いよく開けてしまう。突然現れた俺に部屋に居た全員の視線が向けられた。


「よね、お萩は大事無いのか!?」


 床に伏せる萩の横では薬師が荷物の整理をしており、反対側では侍女であるよねが汗を拭く為の手拭を絞っていた。部屋では火鉢が二個程置かれており、その上には薬缶と蓋の無い鍋が置かれ、蒸気を上げて部屋の温度と湿度を上げている。

 まるで今際の際のような雰囲気が俺の心の焦燥感を掻き立てる。よねの傍に滑るように座り込み、その肩を掴んで問いかける。不思議な物で、既によねの中に俺への恐怖心が消えているのか、駄目な夫を見るような哀れみの視線が送られた。


「御屋形様、よねは先程も申しました。落ち着きなされませ。萩様が起きてしまいます」


「す、すまぬ。だが、お萩は大事無いのか? どこが悪いのだ? 治るのだろうか?」


「御屋形様、少しも落ち着かれてはおりませぬ。萩様は大丈夫にございます。詳しくはよねにではなく、薬師様へお尋ねくださいませ」


 俺も萩もまだ十代の若輩者だが、このよねという侍女は二十三になったと言っていた。この時代では行き遅れの類に差し掛かる女性ではあるが、実は既に一度婚姻をしており、その夫とは戦で死別した後、嫁ぎ先から離縁されたという事であった。嫁ぎ先から追い出され、実家にも戻れぬ十七、八の娘を平井加賀守が引き取り、浅井へ嫁ぐ娘の侍女にしたという経緯がある。

 元来のよねは俺に怯えるような小心な女子なのだろう。戦で夫を亡くし、小さいながらも武家の家から追い出された経緯もあり、大きな六角家当主という立場にいる俺に恐れを持っていても仕方がない。だが、そういう嫌な場数を踏み、様々な経験を積んでいるからこそ、この萩の危機という状況になり、腹を括るのも早かったのだろう。いつの時代でも、男性よりも女性の方が腹を括るまでの速度は速く、一度括った腹は覆る事はないのだ。


「薬師! どうなのだ!?」


「…御屋形様」


 求めている答えが返って来ない苛立ちを薬師の爺様にぶつけてしまうと、横にいるよねから静かな抗議の声が届く。

 弟を嗜める姉のような、子を叱る母親のようなその声に、俺の中の苛立ちが萎んで行く。これは俺の苛立ちだったのか、それとも心の奥にある六角義治の苛立ちなのかは分からないが、ようやく心が落ち着いて来た。


「すまぬ。薬師よ、お萩の容態はどうなのだ? 病名は何という?」


「容態は落ち着いておられます。ですが、今後もしばしば体調を崩される事があるやもしれませぬ。身体を冷やさず、適度に歩くなどすればよろしいかと」


「病名は!?」


 勿体ぶった言い方に苛立ちが爆発してしまった。ようやく落ち着いたかと思ったが、六角義治の精神のせいだろう。そういう事にしよう。この薬師の顔面を殴りつけてやろうと思う程の苛立であった。

 流石に最早よねも苦言を呈する事はなく、静かに後ろに下がっている。それでもこの薬師は静かに俺を見つめ、余裕の表情で静かに頭を下げた。


「病名は、ご懐妊にございます。おめでとうございまする」


「おめでとうございまする」


 頭を下げながら発した薬師の言葉に、部屋に居た全員が祝いの言葉と共に平伏をする。俺にとって全くの予想外であった言葉に、暫し呆然としてしまった。

 懐妊? 妊娠をしたという事か? 俺はこの時代の薬師が分かる程に妊娠が進んだ時期に妻を連れ出し、馬に乗せ、連れまわしたと言うのか。何という愚かな夫だ。


「…そうか。子が出来たか。萩、そのような大事な時に、このような場所まで連れ回し、すまなかったな」


 茫然としたまま、萩の傍に寄り、眠るその顔に手を翳す。汗により少し湿りを帯びた額に手を付け、張り付いた前髪をそっと分ける。

 萩は基本的に『垂髪(たれがみ)』である。侍女のよねは『束髪(たばねがみ)』と言って後方でお団子のように丸く髪を纏めているが、萩は長い髪を背中まで垂らしているのだ。綺麗な直毛の黒髪であり、今は病人のように扇形に広がった髪の上に横たわっているようにも見える。


「元気な子を産んでくれ。そして、今度は親子三人で栗見へ来よう」


 優しく手を萩の頬に充てると、温かみを直に感じる事が出来て安心する。俺はいつの間にかこの娘に過剰な程の情を持ってしまっていたのだ。この時代に来て、自身では気付かぬ寂しさを持っていたのかもしれない。父承禎入道や六角家重臣達には隙を見せられぬと気を張っていたのだろう。それを緩め、心から安らぎを感じる場所が萩だった。

 遥か未来の時代であれば当たり前の理想。一人の女性を愛し、慈しみ、生涯の苦境を共に乗り越えて行く。そんな理想を俺はこの萩に求めてしまっている。やはり、生涯妻はこの萩一人が良いな。


「それでは、私はこれで」


「…これまでの失礼、平にご容赦を。妻の状態に気が動転していたとはいえ、薬師殿のお名前さえも聞く事なく、申し訳ござらぬ。改めて、此度の診察を御礼申し上げる」


 薬師の爺が片づけを終え、席を立とうとするのを見て、ここまでの自分の非礼を慌てて詫びた。如何に大名家の当主と言えども、余りにも失礼な態度であったと思う。静かに頭を下げ、謝礼を述べると目の前で小さく息を呑む音が聞こえた。


「これは…。六角家ご当主とあろう方が、一介の薬師などに頭を下げてはなりませぬ」


「武家であろうが、商家であろうが、感謝の意に変わりはなかろう。相手が家臣であろうが、それこそ百姓であろうが、こちらが悪ければ頭も下げる。そうでなくば、人の上に立つ事など出来はせぬ」


「ふふふ。巷の噂とは程遠い…。畏れながら、某の名は曲直瀬(まなせ)道三と申します。右衛門督様の奥方を思われる御心、この道三、心を打たれ申した。安芸へ向かう前に近江に戻っておりましたところにございますれば、これも何かのご縁にございましょう。右衛門督様や奥方様に何かございますれば、某を御呼びつけ下さいませ」


「な、なんと。医聖と名高い曲直瀬殿でございましたか。重ね重ねご無礼を」


 これは驚いた。後世に日本医学中興の祖として医聖と謳われる三人の内の一人であったとは。しかも、この曲直瀬道三は近江佐々木六角家と縁の深い人物でもある。彼もまた、宇多源氏佐々木氏の庶流である勝部氏の出であるという説もあり、母は目賀田摂津守綱清の娘であるともされていた。

 摂津守綱清は、現六角宿老である摂津守忠朝の父である。つまり、この道三は摂津守忠朝の甥という事になるのだが、それにしては年齢が合わないような気もする。道三の母が歳の離れた姉でなければ可笑しい事になる。


「医聖などとは畏れ多い」


「我ら同じ宇多源氏佐々木家の流れを汲む者。その中より医療に携わる者が出て来た事を誇りに思っております。いずれ、曲直瀬殿は医聖として名を残しましょう。我ら武家は人を殺める事しか出来ぬ故…。日ノ本の医療をお願い申し上げる」


「何を申されますか。この栗見の港は今や近江以外でも噂が絶えませぬ。近江の発展は宮中でも話題の中心となっております。恥ずかしながら某も出生地である近江の発展をこの目で見たく、今回訪れましたまで。関所もなく、道は整備されて歩きやすく、所々に警備を配置され、旅人や商人は皆、笑顔でその道を歩いておりました。これら全て右衛門督様の成された事。そのような御方から頭を下げられましては、某死ぬまで医業に没頭せねばなりませぬな」


 俺には医療、医業の知識がない。遥か未来で天才外科とかであれば、この時代の医療を飛躍的に向上させることも出来るのであろうが、そんな知識も経験もない為、史実通りの医学の進歩を願う他ない。

 その研究などを後押しして進歩を早める事も可能なのだろうか。銭ならある。権力もそこそこある。土地もある。研究所や保養所を立てる事も可能なのかもしれない。


「時に曲直瀬殿、この後、暫しお時間を頂けませんでしょうか?」


「はて? 何でございましょう?」


 曲直瀬道三は元々は近江宇多源氏佐々木氏の武家の出ではあるが、出家し、還俗し、医師としての道を歩んでおり、この頃では帝の診察も行っている。それ故に相手が六角家の当主であろうと、謙るような事はない。現将軍である足利義輝の診察も行った事があるようだし、俺に対しての言葉にも遠慮が感じられない。

 今も、本当に何を言われるのかという警戒感を隠しながらも呆けたように首を傾げている。しかし、俺の真剣な表情に何かを感じたのか、静かに首を縦に振り、従者に連れられて別室へと向かって行った。


「よね。お萩が目を覚ましたら教えてくれ。夜中でも構わぬ。何か体調に変化があっても知らせるのだぞ」


「はい。しかと承りましてございます」


 未だに眠る萩の額をもう一度撫で、よねに指示を出す。いつもとは異なり、はっきりとした返答をしたよねは、静かに平伏した。今回の件でよねの中でも色々と変化が起こったのであろう。それが良いのものであれば良い。

 侮りや蔑みではなく、親しみという点であれば悪い事ではない。よねの目や仕草を見る限り、そのような悪しき感情ではない事が分かる。


 別室へ俺も向かうと、既にそこには曲直瀬道三が座っており、小姓が近くの火鉢の火を調整していた。春先である為、本来は節約の為に火鉢などを使用する事はないのだが、今回の視察の為にこの辺りも準備をしていたのだろう。

 暖かな室内に入り、曲直瀬道三の対面に座る。曲直瀬は障子を背にして座っている為、その対面に座れば、必然的に俺が上座に座る事になる。この武家の世では当たり前なのかもしれないが、同じ武家同士であればその中でも上位下位があっても良いが、商人、医師などが相手であれば、どちらが上も下もないように思うのだ。


「まずは改めまして、六角右衛門督弼頼にございます」


「これはご丁寧に。先程も名乗りましたが、曲直瀬道三にございます」


 互いに頭を下げ合い、小姓が持って来た白湯で軽く喉を潤す。

 曲直瀬道三の顔に緊張の色は見えないが、警戒のような微妙な雰囲気は醸し出されている。確かに改めて呼び出されれば、警戒もするだろう。


「場所を改めさせて頂き、曲直瀬殿を留めましたのは、一つお願いがあるからにございます」


「お願いにございますか?」


 一度居住まいを正し、曲直瀬道三を真っ直ぐに見て声を掛ける。やはり、俺からの依頼という点で思い当たる節はなく、無理難題を言われるのではないかと警戒を露骨に表情に出ていた。声にも硬さがあり、少し汗も掻いているようだ。


「某の母は、某が幼い頃に病にて亡くなりました。幼い頃はそれが悔しく、周囲の全てが憎く感じたものです。今の某にも医療、医術、薬学などの知識はございませぬ。ですが、今の某は六角家当主としての地位と権力を持つようになり、そして銭がございます。近江に医療の為の研究所、もしくは医院を作りたいと考えてございます。その場所で病、怪我などの診察を行いながら、医療に携わる者を育て、そして医学薬学の研究を行う。そのような場所を作りたい。勿論一般の者から診察料を取りますが、それは一定の金額とし、六角家が支援するような形での運営を考えております。その場所を管理して頂ける人選をお願い出来ないでしょうか?」


「…な、なんと。お、お待ちくださいませ」


 先程考え付いた物であり、実際にかかる費用の計算などはしていないが、大まかに考えて実現は可能だろう。清酒などの販売額、椎茸などの栽培、米の増産も含めれば六角の財政は二年前に比べて大幅に変化している。一つぐらいの道楽ならば許されるだろう。

 しかし、この時代の武家でこのような事を考える人間はいない筈。確か豊後の大友宗麟が宣教師に病院の設立を許したのが、日本初の西洋医学の病院であったように思う。


「九州の方では南蛮医学の病院を宣教師が開いたと聞いた。その医学、医術の研究も含めて行える施設をこの近江に作りたい。医療、医術は異国では日々進歩しているとも聞く。古くからある漢方医学と、新たな南蛮医学を分けるのではなく、それらを合わせた日本医学をこの近江を発祥としたいのだ」


「…」


 聞いているのか?

 目の前に座る曲直瀬道三は完全に呆けている。口こそ開いてはいないが目は瞳孔が開いているのではないかと心配になる程に見開かれている。

 放心しているだけなのか、まさか昇天している訳ではないだろう。


「曲直瀬殿? 大事無いか?」


「はっ!? も、申し訳ございませぬ。そ、それよりも今のお話は真にございますか!? 真に六角様の後ろ盾で医療所を建てられるのですか!?」


 覚醒したと思ったら、今度は錯乱している。立ち上がりかねない程に身体を前のめりに市し、その目は見開かれたまま、気持ち血走っているようにも見える。


「曲直瀬殿、落ち着かれよ」


 俺が身体を仰け反るとそれに合わせて更に近づいて来る曲直瀬道三を手で制して押し戻す。それでようやく自分の体勢に気付いたのか、曲直瀬道三は慌てて元の位置に戻り、居住まいを正した。


「重ね重ねご無礼を致しました。余りに突然の事ゆえ我を忘れてしまいました。六角様がそれ程までに医療、医学についての想いがおありなどとは思わず…。しかし、漢方医学と南蛮医学の統合でございますか…。それを日本医学と称すると」


「うむ。困難であろう。曲直瀬殿としても抵抗はあるかもしれぬ。だが、それを実現し、時と場合によって処方や処置を変えて行く事が出来れば、日ノ本の医学は飛躍的に進歩する。そして、それに慢心せず、新たに入って来る医学を研究し、効果があるものは組み入れて行く事で日本医学が出来上がって行くのだ。どうだ、面白いとは思わぬか?」


 史実で日本に西洋医学がしっかりと普及されたのは、明治維新が終わってからになる。江戸時代末期にはオランダやポルトガルの医学である蘭方医学が長崎の出島から広がりを見せていたが、その頃の日本主流である東洋医学との間での諍いは多かったと聞く。

 ならば、未だ東洋医学である漢方医学でさえもまだまだ普及していないこの時代なら、新たに入り始めている西洋医学も含めての医療所の設立、研究を続ければ、西洋医学への嫌悪や抵抗も少ないのではと考えたのだ。


「面白い…。右衛門督様にとって医学は戯れでございますか?」


「戯れではない。だが、発展して行く様が好きだ。道を整えれば商人が増え、商人が増えれば町は賑わい、そして町が賑わえば民が笑顔になる。笑顔が増えれば更に人が増え、人が増えれば更に賑わう。そんな変わって行く様を見るのが楽しい。医学もそうだ。医療所を建て、そこで医師を雇い、医学の研究をさせる。その研究によって進んだ医療で今まで死に逝く事しか出来なかった者達を救い、救われた者の中には医学の道を志す者もいるだろう。それが医師を増やす事になり、医師が増えれば出来る研究も増える。そしてまた救える命が増えるのだ。今の俺ではそれを近江周辺でしか行うことは出来ぬが、それを日ノ本全てで行う事が出来るようになれば、日本医学という物が異国から見ても進んだ医療となるだろう。そのような未来を考えた場合、心が躍らぬか?」


「…異国よりも進んだ医学」


 また固まってしまった。

 俺が首を傾げても俺を見つめたまま五十を過ぎている男が固まっている。軽いホラーだな。既に冷めてしまった白湯で喉を潤し、正面に座るお爺が復活するのを待つ。だが、全く回復する気配がない。

 今、萩の目が覚めてしまったら、俺は萩の部屋に行くだろう。お爺と萩では優先順位に雲泥の差がある。早く復活して欲しいのだが。


「右衛門督様は、日ノ本の医学でそれが可能だと思われるのですか?」


「…一朝一夕には行かぬだろうな。それこそ、其方だけではなく、俺の生きている内には実現は出来ぬだろう。だが、それこそ百年後、二百年後には素晴らしい医術を持ち、素晴らしい医療を行い、そしてそれらを学ぼうとする者達が溢れる国になるやもしれぬ。今はまだ夢物語かもしれぬ。だが、その礎となる者がこの近江から生まれるのだとすれば、やってみる価値はある筈だ」


 再び曲直瀬道三の時が止まる。何なのだ、ゼンマイ仕掛けのブリキのおもちゃか?

 一回の会話ごとに止まってしまわれると、話が全く進まない。小姓を呼び、白湯のお代わりを要求し、それが届いて尚も固まっている曲直瀬道三に流石に声を掛けた。


「曲直瀬殿、その医療所を任せる事の出来るような人物に心当たりはないか?」


 最早、このお爺の相手も疲れて来た。俺の口調も随分変化してしまった。しかし、医療や医術の発展の為には硝子が必須だな。だが、硝子の製造方法はこの時代には既に失われており、復活するのは江戸時代に入ってからだったように思う。

 硝子の製造方法など流石に解らないな。それを研究する施設も作りたい。硝子細工の器が作れれば、飛ぶように売れるだろう。


「そのお役目、この曲直瀬道三にお任せ頂く事は叶いませぬか?」


「しかし、其の方は既に宮中にも参内する医師であろう。公方様の診察も行い、遠く遠方の武家の診察も行っていると聞く。それ程多忙であれば、とてもではないが医術の研究や近江の民達の診察など出来ぬであろう。今上帝への診察を最優先にするのは我らも望む事ではあるが、公方様や他家の武家を近江の民よりも優先されてしまえば、この地の医療所の意味はなく、本末転倒となる」


 医療所の責任者であれば、往診のような事も行うだろうし、それを禁止するつもりもない。だが、室町に呼ばれれば行き、幕府の要請として武家の診察に遠方まで行く事になってしまえば、近江での医療の研究など夢のまた夢となる。

 医療の書物などは、これから甲賀衆を使って遠く九州へ辿り着いた南蛮人から手に入れようと考えており、その書物の翻訳なども含め、ポルトガル語、スペイン語などの勉学もして貰わなければならない。

 今の曲直瀬道三の忙しさではそれは不可能であろう。


「確かに公方様へのご助力の為、安芸へ下向する予定ではございますが、それを終えれば近江在住は可能にございます。何卒、何卒そのお役目、某にお任せくださいませ」


「これまでのように、自由には動けなくなるぞ。六角の所有する医療所での務めとなる。当然として禄は支払うが、公方様や他家からの依頼や命などは、六角を通しての物以外は独自で請け負う事は出来ぬ。それでも良いか?」


「承知致しました」


「あいわかった。ならば、曲直瀬道三に近江での医療所の責任者を申し付ける。其の方が安芸より戻る頃には医療所の建築を終えるように致そう。場所はそうだな…これを機に八幡山に城でも築き、その麓に城下町を築いて医療所を作るか。それともやはり安土山に城を築き、その城下で作るか」


 作るのは医療所であって保養所ではない。当初、温泉の湧く地域の近くが良いかなと考えたが、そのような場所に医療所があっても仕方がない。綺麗な水が必要という事であっても、この時代の日本であれば汚い水を探す方が難しい。ならば城下町に結構な敷地を取って研究所と診療所を建て、それらを合わせて医療所と名付けたい。

 そうなれば、観音寺城下町のように既に出来上がった城下町では敷地面積を確保する事が難しく、やはり新たに築城する城の城下町に大きく作った方が良いだろう。


「医療所を作る為に、新たな城を作られるのでございますか?」


「医療の研究などは悪意に晒されやすい。六角の膝元に無ければ襲撃などを防ぐ事は出来ぬ。また、人がいない場所に診療所があっても病人、怪我人を診療することは出来ぬであろう?」


 八幡山城は羽柴秀次が築城した城だ。既に織田信長も亡くなり、その居城である安土城も焼失した後である。観音寺城も安土城もなく、琵琶湖の沿岸に築くとすれば、八幡山が最も適した山だったのだろう。

 京への交通の便も良く、琵琶湖へ繋がる西の湖も近く、内陸は平地で城下町も作り易い。この時代は琵琶湖の内湖が多い。安土城はその大中湖のすぐ傍にある安土山に築かれた城であり、湖への見晴らしという意味では八幡山城よりも安土城の方が良かったのかもしれない。


「悩みどころだな、安土か八幡か。曲直瀬殿が戻られるまでには決め、築城と城下町設置を進めよう」


「ふっ、ふふふ」


 築城地を決めかね、後回しにする事を決めると、突然曲直瀬道三が笑い始めた。黙り込んだり、時が止まったり、突如笑い出したりと気味の悪いお爺だな。俺は人選を誤ったのかもしれない。


「どうしたのだ?」


「も、申し訳ございませぬ。これまでの右衛門督様のお話をお聞きし、私のような凡夫には理解の及ばない程の大きな世界を見せられてしまった事で、不敬ながら畏れを抱いてしまいました。しかし、その医療所を作る為にお城を築かれると言われる。最早私のような人間が理解をしようなどと考える事こそが最大の不敬である程のご器量に、思わず笑いが出てしまいました。深くお詫び申し上げます」


 ふむ。これはまた重臣達に小言を言われそうだな。『築城狂いの金吾』などと呼ばれてしまうかもしれない。また、銭稼ぎの種を考えねばなるまい。やはり椎茸栽培か、石鹸でも作るしかないのか。だが、この戦国時代では植物油は少なく、荏胡麻油は油座の管轄で高価だ。そんな高価な油を使用して石鹸を作る事で利益を出せるかと言えば、苦しいかもしれぬ。

 これを機に菜種油を作り出すというのもありか…。食用油として使わなければ、健康被害もないだろう。油座を無視すると近江へ入って来る荏胡麻油も少なくなるかもしれぬが、石鹸を作る為だけに使用すればその限りではないだろう。


「右衛門督様?」


「ああ、すまぬ。少し考えに耽っていた。では、曲直瀬道三、以後よろしく頼む」


 俺の言葉に曲直瀬道三が平伏する。

 それと同時に、障子越しに声が聞こえた。


「如何した!?」


「はっ、奥方様お目覚めにございます」


「大儀!」


 その言葉を聞くと同時に勢い良く立ち上がってしまう。立ち上がってから曲直瀬道三が居る事に気付き視線を向けると、どことなく優し気な苦笑を浮かべて小さく頷いていた。軽い詫びを口にし、俺は従者を追い越し、萩の居る部屋へと急いだ。


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― 新着の感想 ―
ご懐妊おめでとうございます。 そしてまた脳を焼かれた老人が1人www
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