急転
栗見の港町にある浅井与次郎の館の一室で甲賀衆と伊賀衆の者達と向き合う。伊賀衆の先頭には植田長兵衛が座り、甲賀衆の先頭には多羅尾四郎兵衛光俊が座る。傍には浅井与次郎他、旧浅井家臣達も同席していた。栗見視察は一時休止。萩には申し訳ないが、この屋形の別室にて休んで貰っている。
「して、三好筑前守の詳細を聞こう」
「はっ。この半年、体調が優れない日も多くあったようにございます。そしてここひと月は姿を見る機会もなく、将軍家の挙兵に対しての出陣後に倒れた模様」
「…半年も前からか? それを甲賀は把握しておったのか?」
「申し訳ございませぬ。十河民部大夫の件により、三好家の甲賀者への警戒は強く、内に入り込む事が叶いません」
十河一存の死は明らかな毒殺、暗殺の類だ。三好家のそれらへの警戒が強まるのは確かだろう。現当主の居る芥川山城、先代の居る飯盛山城の二城はその警戒が最上位になっていなければ逆に可笑しい。
だが、六角家を支えて来た三雲家が率いる甲賀衆でさえも入り込む事の出来ぬ包囲網を敷いて尚、足利将軍家が抱える刺客を遮る事が出来なかったのかと疑問が残る。
「そのような厳戒態勢の中、室町はどのようにして刺客を潜り込ませたのだ? まさか射殺したのか?」
「それが…。まだ定かではございませぬが、御屋形様とのご会談の後、襲撃者との戦闘で傷を負っていたようにございます。軽い傷ではあったようでございますが…」
「破傷風か!?」
裂傷などに土がついた場合、綺麗に洗い流し清潔に処置しなければ、体内に破傷風菌が入り感染する。死亡率はかなり高く、この時代の戦などでの傷で亡くなる者の中ではその感染者も多いと聞く。
また、この時代の出産はかなり環境が悪く、百姓であれば汚い小屋に茣蓙を敷いての出産が当たり前であり、武家であっても女性の血を穢れと称して男衆が近寄れない場所で出産させる。煮沸消毒はあってもアルコール消毒の思考がない為、清潔であるかと問われれば、答えは否だ。
「破傷風…言い得て妙にございますな」
「傷が膿んだ様子。高熱が出ていた事もあり、出陣の時に姿を現しましたが、かなりお痩せになられておりました」
俺が思わず口にした病名に近くにいた浅井与次郎が唸る。だが、俺にはそれを気にする余裕はなかった。もし、三六会談後の襲撃での怪我が原因で三好筑前守義興の命が失われたのだとすれば、直接的な原因は室町であったとしても、間接的な原因は俺だという事になる。
史実では病死となっているが、時期的にも状況的にも三好義興の死には多くの疑問が残っているが、まさかその死因が史実にはなかった六角との会談となるとは考えもしなかった。
「詳細は解らぬが、あの会談後の怪我が原因となれば、六角は三好に大きな借りを作ってしまった事になる。俺が蒔いた種であったか…」
「室町が筑前守殿の状況を知っていたとは思えませぬが、挙兵の時期を考えますと室町が無関係とも思えませぬ」
「筑前守の周囲に人を入れている可能性はあろう。だが、こうなれば本当に三好も危うい。修理大夫殿本人が陣頭に立たなければ、畿内での三好の威信は崩れるぞ」
「室町からも当家に再度使者が来ましょうな」
「俺は動かぬぞ。元々室町に付く気もないが、これで動けば勝ち馬に乗る為に動いたと恥を掻くだけだ」
形勢が良くなったから室町に付いたなどと言われたくはない。元々、室町とは俺の中で完全に断絶しているのだ。何があろうと足利に付く気はない。正直、こうなったら三好と共に足利を潰し、三好との連立政権の樹立をした方が良いような気がした。
「暫しは静観だ。室町からの使者が来れば対応はするが、六角の方針を変える事はない」
「承知致しました。甲賀衆へも周知させます」
「伊賀も同じく」
思わず腕を組んで目を瞑ってしまう。
最早現代を生きていた時の事は思い出せない。自分が何をしていた人間なのか、何を生活の糧としていた人間なのかが解らない。だが、今、この時代で生きている方が考える事も悩む事も苦しむ事も多い気がする。
嫌気が差す事も多く、気苦労も多い。百万石はある領地を持つ当主である為、誰かの顔色を覗う事はないように思うが、実際は家臣達や他の大名達へ意識を向けなければならず、気が休まる事もない。
「御屋形様、三好や将軍家はどうなりましょう」
控えていた浅井与次郎政元が口を開く。彼は滅んだ武家の生き残りである。北近江二十万石を領していた浅井氏も、一つの行動が原因で六角に滅ぼされている。彼から見ると、三好も足利もそういった岐路に立っているように見えているのだろう。
一歩を間違えれば、そのまま滅びの道を歩む事になる。それを彼は誰よりも知っているのだ。
「足利は滅びの道を歩んでいるだろうな。既に岐路は通り過ぎ、確定した道を歩んでいる筈だ。だが、三好はまだわからぬ。修理大夫殿、豊前守実休、摂津守冬康の兄弟がいる限り大崩れはせぬだろう」
「しかし…」
「うむ。有能な跡取りであった若き当主を失った事で三好が荒れる事は確かだろう。三好は一門衆が多い。三人衆と呼ばれる者達などは、修理大夫長慶、筑前守義興が当主であったからこそ収まっていた筈だ。筑前守殿の嫡子は生まれたばかりであり、とてもではないが当主として立つ事は出来ぬ。修理大夫殿があと十年健在であれば何とかなるかもしれぬが、人の天命は我ら凡人には解らぬ故、その跡を継ぐ者は決めておかねばならぬだろう。そして、その時、一門衆は強い味方にもなるが、最大の敵にもなる。しかも、今は三好家本貫である四国に修理大夫殿の兄弟はいないからな」
三好三人衆と呼ばれる者。三好日向守長逸、三好右衛門大輔政康、岩成主税助友通。三好家重鎮として存在しており、史実では修理大夫長慶の死後、後継となった三好義継の後見として実権を握った者達であり、永禄の変の実行者達だ。
だが、結局は三好家内の内乱を誘発させ、三好家を弱体させた者達と言っても過言ではないだろう。松永弾正久秀がどのような人物なのかは分からない。史実にあるような悪逆非道な男なのか、それとも三好長慶に忠実な男であったか。ただの嫉妬によって嫌われていた男なのか、それとも本当に三好の為にならない男だと考えられていたのかもわからない。
だが、三好義興の死によって三好家が揺らぐのであれば、三好三人衆と松永弾正の対立は避けられないだろう。
「今はあれこれ考えても詮無き事よ。ここまで来れば、最早なるようにしかならぬ。佐々木六角家としてどうあろうと対処出来るようにしておく事しか出来ぬな」
「公方様を三好が誅すれば、主家殺しの汚名を蒙りましょう。その三好を打倒すれば六角家が…」
「与次郎、そして六角に新たな公方を擁立せよと? 誰が公方となろうとも、足利の血を引いているのであれば同じ事よ。今の世は公方擁立の執権程度では治める事など出来ぬ。現に公方自ら挙兵しても、従う武家は極僅かだ。六角も従っておらぬ。征夷大将軍が号令をかけても集まらぬのだ。勝手に新公方を祭り上げた武家に従う者などおらず、六角を攻める口実を相手に与え、その内に実権がない事に不満を覚えた公方に討伐令でも出されるのが落ちよ」
「では、御屋形様は如何なされるおつもりにございますか?」
「何もせぬ。公方様が三好に京を追われたのならば、西国か陸奥にでもお送りしよう。『今の五畿内で御身をお守り出来る地はござらぬ』とな。誅されたならば、足利の世の終わりとして受け止めるしかあるまい」
現代の東北地方である陸奥であれば、まだまだ征夷大将軍の威光は輝いている。だが、陸奥国は基本的に各大名が縁戚であり、身動きが取れない。要は領土を拡げにくいのだ。一度その中に入ってしまえば、足利家再興は不可能に近い。関東公方家は公方の身柄を嫌がるだろうし、北条がそれを許すとも思えない。
あとは西国だが、この時期の毛利は大内を滅ぼし、周防長門を手に入れたばかり。石見銀山はまだ尼子が領しており、出雲を本拠とする尼子も前当主晴久を失ってはいるものの未だに健在。将軍家を匿う余裕などはないだろう。
「しかし、必ず誰かが新公方を擁立なさるのではありませぬか?」
「その時は、擁立を認めるか、抗うかを考えるしかないだろうな」
史実での足利義昭の擁立は織田信長が行ってはいるが、そこまでかなり紆余曲折があった。一乗院から脱出した覚慶(後の義昭)は、朝倉を頼って越前へ行った。そこで何故六角を頼らなかったのかという点が俺の疑問なのだが、もしかすると史実の六角義賢もいい加減足利家にはうんざりしていたのかもしれない。その後、足利義栄を擁立した三好家と手を結んだ事が何とも皮肉であり、足利義晴、義輝の流れに続く義昭へ手を貸す気にはなれなかったのだとすれば、何故か納得が行く。
越前で匿われた覚慶は還俗して足利義秋となり、帰京を望むが実現するのにかなりの時間が掛かる。既に新将軍として三好は足利義栄を次代将軍候補として擁立しており、将軍宣下が執り行われるまで紆余曲折はあったものの、結局征夷大将軍に就任してしまった。
何度も朝倉へ上洛を願うが、それははぐらかされ、逸らされて実現がしていない。正直、朝倉義景の立場からしてみれば、足利義秋を担いで上洛するにしても、三好と手を組んだ六角を超え、その後で畿内を掌握する三好を京から排除しなくてはならず、それを朝倉家単体で行うには何もかもが足りなかったのだろう。
「最早、足利で頭を悩ます必要はない。無駄な時間を使うな。六角は将軍家との関りは絶ったのだ。今回の襲撃も裏に幕臣が居るのだが、襲撃して来た坊主崩れ共の首を丁重にお届けすれば、以後行動を改めるであろう」
「御屋形様にしては珍しく楽観的でございますな」
「楽観的? 違うぞ、四郎兵衛。俺はどちらかと言えば悲観的だ。最早、六角は足利などに時間と労力を掛けている余裕はなくなったのだ。これから幕臣達が嫌う下剋上は益々加速する筈だ。出来星のような大名が増えるだろう。守護代の家系など珍しくもなく、守護を喰らう豪族も出てくる。我ら六角はそれらを喰らって更に大きくならねばならぬのだ。既に斜陽を終えた室町に構っている暇など無い」
織田家の台頭後には、小さな大名は悉く滅んでいく。他国に滅ぼされるところもあれば、自滅のような形で消えて行く家もある。史実で言えば、六角とて自滅に近い形で消えて行った家の一つだろう。
小さな土豪が生き残るには、大きな勢力に従うしかなくなるのだ。特にこの畿内は織田信長の台頭によって臣従しなければ家名も命も無くなるという事を理解した者達が多く、急速に一勢力に吸収されて行く。戦国後期まで独立独歩の精神が強い豪族が残っていたのは東北と北関東ぐらいだろう。
「取り合えず、この一年は領内を富ませて力を付ける時間だ。三好と足利など放っておけ」
三好にはまだ四国の二カ国という保険がある。例え畿内の戦に敗れても巻き返しは十分に出来るだろう。だが、足利は後がない。この戦で敗れれば更に求心力は低下し、どさくさに紛れて将軍の首が落ちるかもしれない。戦の混戦の中であれば、死んでも不思議ではないからだ。
だが、足利義輝という将軍が死んでも足利の権威は消えない。必ず新たな将軍候補を立てる勢力が出て来るだろう。それは抗えない事実だ。擁立しようとする勢力に対抗出来るように力を蓄える事が肝要であり、もし史実通りの永禄の変が起きた際には、時を置かずに六角で山城国を制圧し、畿内から三好を追い出さなければならない。
三好長慶、義興親子と誓紙を交わしてはいるが、それはあの親子が生きていたらの話だ。死んでいても義興の嫡男が跡を継いでいれば約を違える気はないが、そうでなければむしろ戦の大義名分になり得る。
「さて、俺はお萩と共に港でも見に行くか」
「お、御屋形様、直に日も傾きまする。本日はこの屋敷でお過ごし頂き、明日ご視察をされるのがよろしいかと」
「ふむ。致し方あるまい」
ようやく実現できた城下の散策なのだ。萩も楽しみにしていた。それだけに今日という日を楽しめなかった事が悔やまれる。それもこれも糞幕府が原因だ。
自分本位なのは良い。当たり前のことだからだ。故に三好に対して勝手に挙兵する分には大いにやれば良い。だが、俺に対して刺客を放つのは違う。段々腹が立って来た。
「摂津中務大輔から順に一人ずつ消して行くか。そうすれば幕臣共も己の立場を理解出来よう」
「ご指示頂ければ、即時実行は可能でございます」
冗談のつもりで呟いたが、甲賀衆、伊賀衆共に即座に反応を返す。家臣達の我慢も限界に達しているのかもしれない。ここまで室町への不満が家中に溜まり始めれば、俺が弱腰で対応し続けてしまうと、矛先が俺に変わる可能性もある。考える事が多過ぎるな。
「よい。戯れであった。近く消え去る者達の為に我らの手を汚す必要などない」
「畏まりましてございます」
「今回の刺客共は首を落とし、胴は穴を掘ったところに纏めて焼いた後で埋めよ。必ず焼くのだぞ。疫病の元となる。首は首桶に入れて、摂津中務大輔、進士美作守、あとは叡山に届けよ」
「委細、承知致しました」
六角家の方針としては放置。三好筑前守義興の死因が破傷風のような物であったとしても直接的な原因は襲撃を指示した幕府である。
だが、もし三好筑前守義興の実子がいるのならば保護しよう。史実でも伝承のような物であり、架空の人物として扱われている義興の嫡男が本当に生きているのであれば、三好が乱れる中でも六角は味方となろう。それが俺なりの贖罪であり、誠意だ。三好義興の系譜を三人衆や松永弾正、そして幕臣共の好きにはさせない。
「新左衛門尉へ伝えよ。三好筑前守義興の嫡子の有無。いるとすれば、その処遇についてを調べよ。もし筑前守を今失えば三好は荒れる。修理大夫の跡取りが居なくなり、もし筑前守に嫡子が居たとしても幼いだろう故、一族の中から陣代を置くか、養子に入れる筈だ。そうなれば利権を奪い合う家臣達の権力争いに発展しかねぬ」
「しかとお伝え致します」
さて、あとは幕府側がどう出るかが問題か。筑前守を失えば、三好が揺らぐ。史実通り修理大夫も表に出て来なくなれば、尾州畠山家と対峙している三好実休らも後退せざるを得ない。摂津の三好居城である芥川山城や飯盛山城まで兵を引けば、三好の本貫である四国阿波へ渡る方法が無くなってしまう。
畿内で当主を孤立させるわけには行かない為、必然的に岸和田を死守するために河内高屋城を放棄する他ないだろう。だが、そうなれば大和の松永弾正少弼久秀が完全に孤立し、独立せざるを得なくなる。既に多聞山城を失っている松永家としてはかなり厳しい立場になる筈だ。
足利が攻勢に出るとすればここしかない。ここを逃すようであれば、最早武家ではない。だが、今の幕臣共だけでは正直攻勢に出ても敗れるだろう。戦の経験が少なすぎる上、他国へ侵攻した経験も少ない。後世に名を残している細川藤孝とて、信長上洛後で織田旗下武将として働き始めるまで碌な戦を経験していないのだ。
今援軍で向かっている若狭武田は西の地理には疎い。武田義統の才覚云々ではなく、山城国近くにある芥川山城や飯盛山城であれば単純な城攻めであるが、そのまま摂津国を通り、河内、和泉と攻め込む事は出来ないという事だ。
「室町にも十分注意を致せ。これだけ謀殺が上手くいっているのだ。味を占めたと考えて良い。三好だけではなく、六角にも送ってくる可能性が高い。身辺の従者たちをもう一度洗い直せ」
「はっ」
謀殺、暗殺、毒殺は上手くいけばいくほどに味を占める。こちら側の労力と財力をそれほど掛ける事なく相手側の戦力を大幅に削る事が出来る。現代の感覚とは異なり、暗殺の類を依頼する相手は下賤の者と蔑んでいる相手であり、そう多くはない金銭で請け負う為に使いやすい。
大きな領主、大名となれば、その武名が傷つく事を恐れて使う事を躊躇うが、成功するほどにその感覚は鈍って行く。今回だけはと使用した一度目が上手くいけば、二度目もまた今回が最後だと自分を言いくるめて行い、回数を重ねる度に自分への言い訳をする。最後には何も感じなくなり、周囲からの信用も失うのだ。誰も近づかなくなり、共に食事をしてくれる者もいなくなるだろう。
足利は十河民部大夫を暗殺した。最早、これは逃れようのない事実だ。幕臣共はこの事実の隠蔽に成功していると思っているだろうが、俺がそれを許さない。各地を巡る甲賀衆と伊賀衆に噂を流させている。今や関東や東北の一部、西は中国や四国までもこの噂が回っていた。
その上で三好筑前守義興までもが横死すれば、『まさか、また足利が』となるだろうし、その後も謀殺に手を染めれば、全て足利主導での物と考える者達も出て来るだろう。既に権威以外に何もない足利将軍家が、その唯一の権威までも手放そうとしている。
次に六角へ暗殺の手が伸びて来たならば、六角家として足利へ抗議を入れる。それは暗殺=足利という決定打になり兼ねない。
今回は譲らぬぞ。下手人の首もしくは身柄を貰わなければならぬ。
「御屋形様、もう一点ございます」
「なんだ?」
「丹波に落ち延びた逸見駿河守、不穏な動きを見せております。内藤家の兵を借りて若狭へ入る算段のようで、旧家人らの招集を行っておりまする」
「ふむ。今、丹波の内藤が動けば、荻野、赤井が丹波を掻き乱すか。だが、畿内を放置することも出来ぬ故、若狭武田の兵を幕府から引き剝がす駒とするつもりのようだな」
若狭武田の援軍は三千。大勢には影響がない兵数ではあるが、馬鹿には出来ぬ兵数でもある。正直、現在の若狭での動員最大兵数にほぼ近い数であり、それを援軍として遠く離れた山城まで連れて行っている時点で、武田義統の器量も分かると言うものだ。
将軍家からの援軍要請という事もあり、丹後一色家、越前朝倉家、近江六角家が若狭に攻め入る事はないと踏んでいるのだろうが、この戦国の世では甘すぎる考えであると思う。
これを機に若狭国内の不穏分子を煽り立てて蜂起させ、それを援軍出兵中の武田に変わり制圧するという名目で若狭に入り、そのまま国を奪うという方法もある。史実でも朝倉が行ったように武田家を抑え込む事は難しい事ではない。
「逸見駿河守としてもこの機を逃さぬだろう。旧領奪還に全力を尽くすだろうし、この機会に若狭半国でも取れれば、三好家中でも立ち位置を確保出来る。利用されている事は百も承知であろうが、それでも利の方が大きい」
「確かに今の若狭であれば、苦労せずに砕導山城辺りまでなら制圧は可能でしょう」
「伊賀衆の内、手練れを朝倉へ入れよ。朝倉とて労せず若狭が手に入るのであれば出兵も厭わぬだろう。だが、六角からすれば、北を朝倉に抑えられるのは避けたい。朝倉が動くようであれば、深坂の峠を我らも越えるぞ」
「塩津浜、小谷へも御屋形様のご意思お伝え致します」
朝倉軍が金ヶ崎を越えて若狭へ入国しようとするならば、六角として深坂峠を越えて疋檀城を落とす。可能であれば敦賀に入り金ヶ崎城も落としたいが、あの場所は朝倉にとっても重要拠点である。一朝一夕にはいかぬだろう。
疋檀城に兵を入れ、そこを死守しながら若狭にも兵を入れる。東若狭を維持しながら朝倉を退け、逸見と対峙すれば良い。三好が出てくれば話は別だが、逸見単独であればそれを滅ぼし、西若狭も手に入れれば良い。その後、武田家に若狭を返そうともすぐに立ち行かなくなる。土地を治める将もいなければ、国を維持する物資もないのだ。
武将たちの謀反ではなく、民衆たちの蜂起によって国自体が立ち行かなくなろう。
「足利は煩わしいが、六角が大きくなる機会を与えてくれていると考えれば、礼を述べたくなるな」
「そのようなお考えが出来るのは、御屋形様だけでございます」
横に座っていた浅井与次郎が口を開いた。暫し口を開かぬから寝ているのかと思ったが、何やら汗を掻いている。この男が謀反を企てているとは思わないが、何やら思う所があるのかもしれない。
視線を送ると、何やら目を伏せる。やましい事でもあるのかと疑いたくなる心を抑え、優しく問いかけた。
「与次郎、如何致した? 何か思う所でもあったか?」
「あ、いや…。ご無礼仕りました。御屋形様にもご報告致しておりますが、最近、ご実弟である次郎左衛門様や朽木の弥五郎殿と文を交わさせて頂いております」
「そうであったな。次郎も其の方との文のやり取りを楽しみにしておるようだ」
浅井与次郎の年もまだ十四、五。俺の弟である大原次郎左衛門尉高定とは年が近い。また、先年元服を果たした朽木弥五郎元綱とも年が近く、最近ではこの三人で文のやり取りを行っているという報告があった。それぞれ若くして当主となり、次郎左衛門は今浜城主、朽木弥五郎は朽木谷城主、そして浅井与次郎政元はこの栗見の代官として日々試行錯誤の中、懸命に励んでいる。それぞれの悩みを共有し、互いに助言をし、そして模索しながらも結果を出していた。
三人ともそれぞれが互いの状況を気にし、刺激としている。云わばライバルのような物なのだろう。
「次郎左衛門様も弥五郎殿も早く御屋形様のお役に立てるようになるのだと励んでおります。某も同様にございます。ですが、御屋形様とご家中の方々のお話を聞けば聞く程、某がお役に立てることなどあるのだろうかと考えてしまうのでございます」
「ふふふ。ははははは」
思わず笑い声を上げてしまった。
本来であれば、父を殺され、兄も殺され、母や弟を強制的に出家させた相手を恨む事はあれど、役に立ちたいなど思う訳もない。
それにも拘わらず、目の前にいる少年の言葉には心が籠っていた。その原因も理由も分からぬが、この少年は本当に六角の中で力を発揮したいと考えているのだろう。
「…すまぬ。其の方を笑った訳ではないのだ。ただ、其の方の悩みは的外れであるぞ」
「的外れにございますか?」
「その通りだ。既に弟次郎には今浜を預け、その開発を任せておる。徐々に結果も出始め、城下町もしっかりと出来て来た。弥五郎は民部少輔からの教えを受けながら懸命に朽木谷を治めており、俺のやり方を真似ながら領地の石高を上げておる。そして其の方にはここ栗見の代官を任せておるのだ。既にお前達三人は六角家にとって替えの利かない人材である。自信を持て」
遥か未来であれば、まだまだ中学生として義務教育を受けている年代の人間が大人達に交じって仕事をしていれば、その理解力や応用力で劣るのは当たり前だ。経験が違うのだから当然であろう。
だが、この年の近い三人の少年達は周囲の家臣達の話を聞き、自身の中でそれを噛み砕き、何とか実務へ落とし込もうと懸命に励んでいる。俺のようなズルではなく、本当の努力によって政務をこなしているのだ。それを褒めずして何を褒めるのだ。
「其方達は立派にやっている。新たな六角の三柱となる日もそう遠くはなかろう。まだまだ其方達は若い、この先十年経験を積めば、各方面の軍団長を任せる事もあるやもしれぬ。情報を大事にし、それを自身の中で噛み砕き、方針を定めるまで考える。それを怠らなければ、それで良い」
「励みまする」
「うむ。六角の先は明るい。其方達のような若い枝が伸びて行けば、木が覆う事の出来る大地も広がるという物だ」
「御屋形様も十分にお若うございますぞ」
俺の軽口に甲賀衆の多羅尾四郎兵衛が冗談交じりの返答を返す。室内には軽い笑い声が響き、それを以てこの場はお開きとなった。
俺も萩の待つ一室へ向かい、その日は軽い夕餉を取って就寝となる。萩を貪り食う事もなく、静かに肩を抱きながら横になり、外にある石灯籠に灯された炎の揺らめきを障子越しに眺めながら眠りに就いた。
翌朝早くに起きた我らは恒例の鍛錬を行い、朝餉を取った後、栗見の港の視察に入る。末に淡海へ続く港周辺には人も多くなっており、俺と萩は護衛に囲まれながらも港町となった栗見を見て回る。
今朝上がった淡海の魚たちが並ぶ店。そこにはしじみもまた並んでおり、磯とはまた異なる香りが漂っていた。その近くには小鮎の煮干しのような物を売っている店もある。
隣を歩く萩の目は傍で見ていても分かるぐらいに輝いており、落ち着きなくあちらこちらへと視線を送っていた。
「与次郎、栗見は活気があるな。これこそ其方の統治の結果だ」
「有難き幸せ」
案内役として同行している浅井与次郎政元に声を掛けると嬉しそうに顔を綻ばせ、頭を下げる。まだまだ発展途上の港である為、人足も多く、港近くに立てる倉庫のような物に使う木材を運んでいた。その内の一人が護衛の一人とぶつかってしまう。
「無礼者!」
護衛の一人がその人足の肩を掴んで声を上げた。
くだらない。肩がぶつかったぐらいで何がいきり立つ理由となるのか。その手に刃物でも持っていれば別だが、その人足は片手に木材を持ち、もう片方には大工道具を持っている。本当に忙しなく動き回っているのだ。
「やめよ」
「し、しかし」
護衛の一人が俺の制止の声に反論しようと口を開く。そこで俺は護衛頭でもある永原太郎左衛門に視線を送った。無駄なプライドなど必要はない。守るべき主を放って怒りを顕わにし、その主の言葉に歯向かうような者は護衛としての役割を果たすことは出来ない。
永原太郎左衛門の手で後方に下げられたその男は、今後俺の目に映る事はないだろう。少なくとも六角家当主の護衛として仕事が割り振られる事はない。
「すまぬな。忙しところに足を止めさせてしもうた。其の方が建てる家屋を楽しみにしておるぞ」
「へ、へぇ」
俺が誰なのかはわからなくても、武家の偉い人間だとは気付いたのだろう。顔を青褪めさせて頭を下げる。その後で逃げるように去って行った。
「与次郎、何処か茶屋のような物はないか?」
「淡海の魚の塩焼きと酒を出す店はありますが、茶屋となると…」
確かにここはまだまだ発展途中の港町。茶屋のような優雅な場所ではなく酒を出す店の方が繁盛するだろう。人足のような者が多く、港に来るのも漁師のような荒くれ者が多い。そんな人間が茶と団子や餅で一休みなどと言う事はまずない。
「そうか…。萩、大丈夫か? 何やら顔色が悪いが」
「も、問題ございません」
先程から何処か具合が悪そうな萩の様子に休憩場所をと考えたのだが、茶屋がないとなれば、屋敷に戻るかその酒を出す食事処で休むしかないだろう。
永原太郎左衛門に目線を送り、それを理解した太郎左衛門が与次郎から聞いた食事処へ先触れに動く。俺は萩の手を取り、ゆっくりと先導する浅井与次郎の後を付いて行った。
「ゆっくりで良いからな」
「も、申し訳ございません…うっ」
俺の手を取りながらも青い顔で歩く萩だが、屋敷を出た当初はここまで酷くはなかった。小さくはあるが笑みを浮かべていたし、自分の足でしっかりと通りを歩いていた筈。だが、淡海がはっきりと見え始め、人が多くなり始めてからというもの言葉が少なくなり、顔色が悪くなり始めた。
それこそ周囲に人足が多くなり、独特の酒と汗と垢の臭いがするようになると口元を押さえるようになっていたのだ。
そんな萩が話途中に嘔吐をした。抑えていた口元から独特の饐えた臭いを溢している。それを見た時、俺の中で何かが壊れた。
「与次郎! 屋敷に戻る!」
未だに口元を押さえる萩の身体を横抱きに抱き上げ、履いていた草履を脱ぎ棄てて来た道を駆け出す。突然の行動に慌てた護衛達も後に続いて来るが、その中で先程俺に叱責を受けた護衛が俺を先導するように前に立った。
「御屋形様、ご先導申し上げます」
「大儀!」
駆け出した俺の腕の中では揺れにより吐き気を誘発された萩がもう一度嘔吐する。最早押さえていた手は意味をなさず、吐き出された吐瀉物が俺の肩口に掛かった。自分の行動が俺に汚物を掛けてしまった事で青い顔を更に青くした萩が小さく震える声で謝罪を繰り返す。だが、そのような物どうという事はない。酔っ払いを背負っている時に吐き出された事に比べれば、不快感を覚える筈がない。
「萩、辛抱致せ。直ぐに屋敷に戻れる」
もう返事をする余裕もないのか、小さく謝罪を繰り返す萩が痛々しい。
先導する護衛が周囲の人足を蹴散らすようにどかして俺の道を作る。馬鹿とはさみは使い様なのかもしれない。
草履を捨てた事で小石を踏む度足の裏が痛むが、それを無視して俺は屋敷に向かって走り続けた。




