伊賀衆
小休止と考えていたが、相当疲れていたのだろう。あのまま半刻どころか一刻ギリギリまで眠っていた。お萩は微笑みながら、『お疲れのようでしたので、よねに木村様へ言伝をお願いしておきました』という。流石にここまでして貰って『何故起こさなかった!』などと騒ぐほど馬鹿ではない。眠ってしまった事自体が俺の間違いであり、お萩はそんな俺を労わってくれていたのだから。
「すまぬ、遅れた」
「いえ、奥方様と仲睦まじい事は六角家にとって吉にござれば」
皆が揃っている間に入ると、蒲生下野守がにやにやとしながら迎え入れる言上を述べた。上座に座り評定衆達の顔を見ると、皆一様に含み笑いをしている。こやつら、全てこの短い時間で俺が事を成したと考えているのだ。否定したところで、何も良い事にならない為、黙って座り、出来るだけ威圧感を出せるように周囲を睨みつける。
「新左衛門尉! 伊賀に付いて報告!」
「はっ、伊賀国の有力豪族である森田、植田が御屋形様へお目通りを願っております。藤林、百地は今も尚、判断を保留」
新たに三雲家当主となった三雲新左衛門尉が報告を始める。伊賀国には有力豪族として十二家の家があると言われている。森田、植田もその中の一家だ。森田浄雲、植田光次が現当主という事になるだろう。史実では織田家の天正伊賀の乱でかなりの大立ち回りをした者達である。
百地は伊賀国の豪族達の惣領のような立場であったように思う。百地、藤林、服部が後世では伊賀上忍三家と呼ばれていた記憶がある。という事は、森田、植田は上の意思を無視して独断で六角へ仕官しに来たのか。それとも上の命を受けて六角の真意を探りに来たのか。おそらく後者であろうな。
「まずは、森田、植田と会うてみよう」
「はっ、では日を定め、先方へ伝えます」
この時代の伊賀衆や甲賀衆はまだ良いが、所謂後世で忍者と称される立場の者達の地位は低い。武士として認められず、かなりの蔑みを受けていた。六角での三雲家の待遇を知っているからこそ話を聞く気にはなっているが、逆に甲賀衆がいるにも拘わらず、伊賀にも声を掛けて来る事への不信感はあるのだろう。
使い潰しにされては敵わぬと考えているだろうし、汚れ仕事だけをさせられるのもご免だと考えているだろう。一朝一夕で信じられる話ではないのだ。
「仁木氏に於いては如何致しますか?」
「当面は放置だな。仁木氏の勢力は大きくても阿拝、山田の北二郡。南二郡を六角統治下に置ければ、その発展によって北二郡から人は流れて来よう。徐々に干上がる」
「清水山と同じという訳ですか…」
仁木氏は列記とした伊賀国守護職であるが、その力は伊賀一国全土に及んではいない。伊賀は近江高島郡よりも独立意識の高い豪族達が南を支配している。高島党は一応六角に従ってはいたが、南伊賀の豪族達は仁木氏に対して反発を示す事も多かった。
この時代は何処の国も同じような物だが、守護とは言え、その一国を統治する事が出来ていないのだ。細川、斯波、土岐などのように多くの国の守護を担って来た家は、そのほとんどの国を守護代に奪われ、有名無実の物となっている。武田や畠山のように、分家を離れた守護国に残し、それが独立して行く事もあるが、良き成功例のような物だろう。
「公方の側にいる仁木与四郎(仁木義政)は、伊賀守の官職を持ってはいるが、名だけだ。ただ、守護自体を攻めても六角の南に不穏有りという理由で幕府を黙らせる事は可能であろうが、それこそ六角の血を引く与四郎を守護として伊賀に置けと言われかねん。それでは伊賀を傘下に置く意味がない」
「もし、与四郎殿を伊賀に据えた場合、修理大夫殿までもが伊賀に入国しかねませぬな」
仁木与四郎義政は、俺の祖父である六角定頼の兄の次男である。そして六角修理大夫義秀は六角定頼の兄の嫡男の息子。つまり、本来の六角家直系の系譜なのだ。現在室町との仲が拗れている六角家に対し、義秀を擁立し、伊賀の義政を動かして六角を包囲という事をやりかねない者達がいる。隙を見せれば、六角が傾く。
日ノ本の中心にある近江という国は、逆に考えれば四方八方を敵国に囲まれた場所という事にもなる。現状どこの国とも同盟を結んでいない為、何かの落ち度があれば攻める大義名分を与える事になり兼ねない。
「下野守、北伊勢はどうだ?」
「はっ、某の娘が現当主へ嫁いでおります関氏は、恭順の意を示しております。また、関氏の分家筋に当たる神戸家も同じく」
「そうか、神戸家当主にも其の方の娘が嫁いでいるのだったな」
蒲生家の勢力拡大の欲望は凄まじいな。北伊勢の有力国人である関氏へ娘を嫁がせ、その分家であり、勢力も大きい神戸家にも娘を嫁がせている。本領の中野城周辺から北伊勢に自身の勢力を伸ばしているのだから、それを許していた六角家も駄目だな。
宿老を担い、先代からの家臣である下野守へ物を言えなかったのかもしれないが、流石に酷いものだと思う。
「あいわかった。工藤はどうだ?」
「先年、権中納言様のご次男が養嗣子として入っております故、難しかろうと存じます」
伊勢国司北畠家嫡男である北畠権中納言具教。後世ではあまり評価はされてはいないが、公卿家にも拘わらず、塚原卜伝に師事した剣豪と名高い。後の織田信長との戦によって評価は落ちてはいるが、伊勢国司北畠家の跡継ぎとしては申し分ない男であっただろう。
現在、当主である北畠晴具はまだ健在である事から、正式に家督を継いでいる訳ではないが、現状は既に表に出て来ているのは具教であり、実質の当主となっている。
「国司に出て来られるのは厄介ですな」
この伊勢国司である北畠権中納言具教であるが、妻が我が父承禎入道の妹が嫁いでいる。つまり血縁上は俺の叔父となる。正直、俺の伯母たちは各所に嫁ぎ過ぎなのだ。細川晴元、武田信豊、北畠具教。外交政策と言えば良いが、別に外交同盟のような関係でもなければ、従属関係にもなっていない。ただただ、周囲を血縁でつないでしまっただけであり、六角を近江に縛り付ける悪手となっていると俺は思う。
「まぁ、雲林院に手を出さなければ、工藤も動かないだろう。関氏が六角に恭順すれば、津の港も使える。可能であれば、津の周辺に城を築きたいな。白塚辺りが良いか…」
「また、御屋形様の悪い病気が始まってしまいましたな」
「然り、然り。御屋形様の築城癖をどうにかせねば、六角の財政は破綻してしまいますぞ」
俺の言葉に、今まで黙っていた父が口を開き、それに呼応するように評定衆たちが笑みを溢す。場が和やかになるのは良いが、当主を馬鹿にするのは如何なものか。
父をぎろりと睨みつけると、溜息を吐き出していた。
「しかし、白塚となると、工藤家庶流の分部氏が安濃郡におります故、難しかろうと存じます」
「ふむ。面倒だな。長島願証寺を潰して長島に城でも築くか」
途端、先程までにやけ面をしていた家臣達が表情を凍り付かせ、皆が無言になる。過半数の顔は引き攣っており、他の家臣達からは表情が消えた。俺が本気で言っている可能性を考えたのだろう。何せ、堅田の寺社を壊し、叡山の僧兵を撃ち殺した男だからな。
堅田の寺社破壊に関しては、石山本願寺から多くの苦情が届いた。それこそ仏敵、罰当たり者、仏をも愚弄する愚か者など様々な罵詈雑言の文が届いた物だ。それに対しての俺の対応は徹底無視。使者は受け入れ、文も受け取るが、そのまま焚火の中に直行だ。一応読むには読んだが、内容がどうしようもない物であり、読み物として何の知識にもならない愚書であった為だ。
最後には、一向宗派の近江立ち入り御免の文を石山へ送ってお終い。今の所、武家と同じ扱いになる恐ろしさを知った民達が蜂起するような素振りはない。このまま近江から一向宗が無くなればよいのだが、その経緯を見知っている家臣達としては、俺が口にした事が尚更に現実味を帯びているのだろう。
「既に長島城はございます。伊藤氏が治めておりますが…」
「そのすぐ南には願証寺があろう。伊藤氏は本拠を桑名に置いており、長島はいつ一向派に取られても可笑しくはない。長島城を六角の物とし、有力な誰かを入れる事が出来れば良いのだが」
本来なら、俺が入りたい。長島という特殊な地形を利用して色々やってみたい。この時代は川の氾濫などがあった際は大変だろうが、海と川に恵まれた土地であれば色々とやる事が出来るだろう。しかも、尾張と美濃にも近く、伊勢も近い。最重要拠点になる筈だ。
桑名に関しては、伊藤、樋口、矢部の三家が城を持っており、桑名三城と呼ばれているのだとか。一家一万石も満たない故、踏み潰そうと思えば如何ようにもなる。
「しかし、願証寺は御屋形様へ弓を引いた訳でもございませぬ故、大義名分がございませぬ」
「邪魔というだけでは名分にならぬか?」
「なりませぬな」
俺の問いに対し、ぴしゃりと但馬守が言い放ち、周囲の家臣達も慌てたように頷きを見せる。後の世を知っているだけに、この後、長島願証寺がかなり厄介な存在になる事も、長島城を奪い、徹底的に武家に対して抗戦する事も解っており、そうなる前に寺院の立ち位置を明確にしておきたいのだが、今は難しいか。
「わかった。だが、俺は守護不入は認めぬ。そして、既に俺は一向門徒達にとって不倶戴天の敵となっておる。俺が北伊勢に入り、桑名へ兵を進めれば抗って来るぞ? その時は、堅田と同様、武家の領分に入ったと見做す。そして武家の流儀に則って対処する故、皆の者も覚悟を決めておけ」
「はっ、家中一同、御屋形様の御下知があり次第、動く覚悟は出来ておりまする」
俺の言葉に真っ先に答えたのは、宿老目賀田摂津守。
長島の地か、桑名は目賀田に与えたいが、近江から離れる事を嫌うだろうか。その辺りも追々考えて行かねばならないだろうな。
「まずは、伊賀。伊賀の調略次第、北伊勢に軍を向ける。北勢四十八家の中で六角に降らない家は潰して行く」
「伊勢国司が騒ぎましょう。如何なされるおつもりですか?」
「北畠鎮守府大将軍の末裔と言えども、今や伊勢一国すら統治出来ておらぬ。関氏、神戸氏の要請を受け、北勢の統一を図っての出兵と答える。伊勢国は伊勢国司に任せよなどとは、恥を知っておれば口にはすまい」
「もし口にすれば…」
「伯母上には悪いが、戦だな」
俺の覚悟を語れば、家臣達に驚きの表情が浮かぶ。婚姻関係を持っていれば、大義名分がなければ、戦を起こす事は不可能だ。もし、大義名分なく戦を仕掛ければ、周辺諸国からも袋叩きに合う。あの織田信長でさえ、大義名分がなければ戦を起こしてはいないのだ。
「御屋形様、伊勢国司との戦に名分がございませぬ」
「なんでも、権中納言殿は、嫡子である左近衛少将殿にご不満がおありらしい。常々家臣達に武士の風貌ではないと愚痴をこぼされており、四男の徳松丸殿を可愛がっているそうだ。伯母上のお子は左近衛少将殿のみ。もし、嫡子継承の正道を曲げ、六角との縁を切るというのであれば、御諫めせねばなるまい」
この北畠具教の嫡子である北畠左近衛少将具房は、数え八歳で侍従の官位を賜り、十歳で左近衛少将を賜っている。俺より二つ下になるが、公卿としてのエリートと言ったところだろう。だが、後世では肥満体系である事で父より疎まれていたと伝えられている。本当の事なのかと調べれば、やはりこの時代でも肥満体系であり、同様に疎まれているという情報であった。
甘やかされたのか、運動が嫌いなのか、それともそういう病なのかは解らないが、史実でも三十四の若さで命を落としている事を考えると、何かの病だったのかもしれない。
そして、大義名分は絶対に必要だが、その名分が言い掛かりである事など、この時代ではよくある事である。要は、皆が少しでも『そういう事もあろう』と思えば良いのだ。
「皆の者、良いか? 六角は今よりも大きくならなければならぬ。それこそ、南近江のみを領有していた頃の六角領と同等の領土を、皆の者それぞれが領する程に。その上で自領を豊かにせねばならぬ。時代は変わっておる。領地境の小競り合いで満足している時代ではないのだ。暢気に構えておれば、俺のような考えを持つ者達に飲み込まれるぞ」
「…御屋形様程の御方が他におられましょうか?」
「おる! 雲光寺様と其の方達が考案し、父が完成させた楽市楽座も今では真似をする者達も多く出て来ておる。商いを自由にさせ、米ではなく銭で税を取る割合を増やして行く事の出来る者達は豊かになる。豊かになれば、近隣の民達は流れ、近隣は更に弱る。弱れば、豊かな領を持つ者が攻め、自領とする。一郡が二郡、二郡が四郡、四郡が一国へ。今のような小豪族達が溢れる国など、瞬く間に消えてなくなる。世は変わっているのだ。六角はその波に呑まれる事無く、波を乗り新たな世へ漕ぎ出すのだ!」
「御屋形様でなければ、何を世迷言をと思うのでしょうが、今の淡海の船の数、各所の港の賑わい、民達の笑顔と収穫の多さを見ていると、楽しみでしかありませぬな。この下野守、この魂を閻魔様に奪われるその日まで、御屋形様に従いまする」
「同じく!」
皆が平伏をする。六角弼頼として近江を統一した後は、各所の港の整備、船の建造、そして田の整備をして来た甲斐があるという物だ。まずは六角直轄領で田の形を整え、正条植えを行った。勿論、泥水選を行わせて、苗を育て、苗を植える形での作業だ。
最初は直轄領の民達も難色を示したが、対価として銭を渡して作業をさせた。そして、この秋の収穫は、正直俺の予想を遥かに超えた豊作となり、六角家の蔵に大量の米が運ばれたのだ。おそらく、それを『また右衛門督様が何やら面妙な事を』と遠巻きに見ていた家臣達は、今年の春には真似をし始めるだろう。
「では、まずは伊賀だ。西の甲賀衆に東の伊賀衆。実現できれば、日ノ本の情報の全てが六角に集まるぞ」
「本当に楽しそうに語るのう」
「父上、情報は何にも勝る宝ですぞ。斥候が持ち帰った情報がお家を救う事もあります。これからの世、戦功だけを評価するのではなく、内政も、諜報も、それ相応の評価と恩賞を与えて参ります。皆の者もそう心得よ!」
「はっ」
時代は徐々に動き出している。おそらく、織田信長の目は美濃へ向かっており、洲股への築城の命を出している事だろう。あの場所に城もしくは砦を築く事が出来れば、尾張と美濃の交通の要を領する事となり、美濃侵攻が格段に容易くなる。だが、それは簡単に成功する物ではなく、おそらく人を変え、策を変え、結局五年以上の月日が掛かる筈。
後世で有名な『墨俣一夜城』は創作だという説もあるが、あの場所を奪取する事の重要性は変わらない。美濃を取れば、織田信長の所領は百万石近くとなる。今の六角家より強大な領地と、熱田などの港からの潤沢な資金により、恐ろしい敵となるだろう。ただ、まだ尾張一国も完全に掌握していていない筈。まだ時間はある。
「では、御屋形様、次に移ります」
「うむ」
「尾張の織田弾正忠家より、ご使者の面会願いが届いております」
「はぁ?」
素で驚いてしまった。
だが、可能性はあるのか。確か、史実でも織田家が浅井家との同盟を打診、成立したのもこのぐらいの時期だったように思う。美濃攻めを視野に入れれば、西から美濃を牽制する事の出来る家との関係構築は重要な事になる筈。
そうであれば、史実で婚姻同盟を果たした浅井家は美濃斎藤家と縁戚であった事を考えると、六角家の方が遥かに関係を築き易いのだ。だが、おそらく史実では家格の部分で六角家より浅井の方が良いと考えたのだろう。
史実では六角へ嫁を送り返した浅井賢政も、六角義治も正室はいなかった筈だからな。そもそも、最初は婚姻同盟の目的ではなく、ただ単純な利害一致としての同盟関係を打診していたのかもしれないが。
「使者は既に観音寺に来ておるのか?」
「いえ、まだでございますが、先触れが届きましてございます」
では、既に六角領内に入っているという事だな。使者である為多くとも十数人だろうし、軍備を備えている訳でもない。
「先触れを持って来たのは?」
「鎌刃城堀氏家臣、樋口三郎兵衛直房にございます」
堀氏の家老ではないか。
鎌刃は六角に降り、現当主堀遠江守秀基が治めている美濃との境にある。しかし、この時期に使者がどうやって関ヶ原を超えたのだろう。現代人の感覚だと、本当に不思議だ。
しかし、堀遠江守も大胆だな。先触れの使者として家老を宛がうとは。それ程の重要案件とでも考えたのか。それとも、樋口三郎兵衛に思う所があるのか。史実では近江一の智謀者として後世で謳われた男ではあるが、越前一向宗との講和を独断で行うなど、独断専行のきらいもあった人間故に、幼い嫡子の居る堀遠江守としては不安なのかもしれない。
「樋口三郎兵衛に食事を出し、休ませてやれ。堀家への褒美も忘れずにな」
「はっ、畏まりました」
さて、織田家が何用だ?
いや、用向きは明白か。
しかし、後世では英雄のような扱いの織田信長。その家臣達の能力値も他家の家臣達と比べれば差が激しく伝わっている。その誰が使者として来るのか解らないが、楽しみではあるな。
「明日には、観音寺に到着するだろうな。明後日に時間を作る」
「はっ、そのように樋口殿へ伝えます」
織田家が西進を望むのであれば、最大の障壁は六角家となる。ただ、将軍を奉じるという名分がなければ、六角と敵地する利がないのも事実。ここで織田家と同盟を結んでしまえば、六角の東への進出は不可能となるが、西に力を向ける事も出来るだろう。
陰りの見え始めた三好との関係を良くするか、それとも上り陽である織田との関係を新たに構築するか。この選択が六角の行く末を決めるだろうな。史実通りに三好家の後継である筑前守義長が死に、舎弟である三好豊前守実休が討ち死にし、最後に三好修理大夫長慶が心労と病で死んでしまえば、間違いなく三好は崩れる。だが、史実にはない三六会談を行い、公方の挙兵に六角が加わる事がなければ、少なくとも三好実休の討ち死にはないだろう。
俺が一人考え込み始めた事で、本日の議題は全て終了となり、評定は終わりを迎えた。一人謁見の間に残った俺は、徐々に暮れ行く日の中、色を変える庭へ視線を向けたまま、考え込み続ける。
「お初にお目に掛かります。森田新右衛門浄雲と申します。此度はご拝謁を賜りました事、厚く御礼申し上げます」
「植田長兵衛光次でございます」
翌日、謁見の間には伊賀の森田、植田の両名が揃っていた。早いな。俺が会う決断をしてから伊賀を移動して来たのか、それとも既に観音寺付近にいたのかは解らないが、『明日でも良いぞ』という俺の言葉に即座に反応する辺り、彼らの本気を伺える。
「よく来てくれた。この観音寺へ来てくれたという事は、森田殿、植田殿は六角家への仕官を受けてくれるという事でよろしいか?」
「右衛門督様、某たちの事は呼び捨てで構いませぬ」
敬称がいらないという事は、俺の家臣になる事に同意しているという事だ。それはつまり、伊賀衆として六角家臣団に入るという事だろう。
「有難い! 森田、植田の両名の仕官、嬉しく思う! 観音寺城下への屋敷の建造の許可も与えるうえ、その方らは六角家中の者として登城致せ!」
伊賀衆が家臣になるという事に喜びを感じ、捲し立てるように言葉を紡ぐ。伊賀には十二家の豪族達がおり、その中でも序列はあるのだろうが、俺の中では森田、植田が最上位だな。伊賀の取り纏めも彼らに頼む事になろう。
伊賀に城を築くか。南伊賀だから何処が良いだろう。後世の伊賀上野城は仁木家の領内である北伊賀である為に無理だな。同じく後世に織田信長の次男である信雄が築城を命じた下神戸の丸山城を築城するか。
「御屋形様、逸り過ぎでございます」
「ん?」
出来上がる城へ思いを馳せていると、近くから声が掛かった。そちらへ視線を送ると後藤但馬守が俺へ声を掛けているようだ。気が逸っていた事は認めるが、咎められるような事はしていない筈だが。気が付けば、目の前に座る森田、植田の両名も何とも言えない表情をしている。不思議そうに見ていると、一つ息を吐き出した後藤但馬守は三雲新左衛門尉へ視線を送った。
「御屋形様、森田殿、植田殿両名は、伊賀十二家の使者として来られております」
「新左衛門尉の話では、藤林、百地は様子見という事ではなかったか? それに先んじて森田、植田の両名は六角への臣従を示すために来てくれたのではないのか?」
伊賀十二家には上忍三家と後世で呼ばれる家が三家ある。それが藤林、丹波、服部。その三家が伊賀十二家の長であるように言われているが、所詮は小豪族の集まりの取り纏めであろう。その十二家の中で他の家よりも先に六角家への臣従を示してくれた家を大事に思う事は間違いではない筈だ。
「他家よりも先に六角へ馳せ参じてくれた家を大事とする事はいかぬか?」
「いえ、それ自体は悪い事ではありませぬ。ただ、今回に限って言えば、悪手にございます。森田殿、植田殿は、十二家での寄合の中で、代表として御屋形様にお目通りしております。森田殿、植田殿を六角家家臣としてしまえば、お二人を伊賀十二家の長としてしまう事になりまする。それはなりませぬ」
「良く分からぬな。ならば、藤林、丹波が来るべきだったのではないか? 六角は全家に声を掛けておるだろう」
「当家には既に三雲殿を始めとする甲賀衆が居られます。おそらくは御屋形様の真意を伺う為にもお二人が来られたのかと」
「尚更わからぬ。俺の真意を知りたいのであれば、長として来ればよいのではないか?」
これは俺がいつの間にか、自分の偉い人間だと思い始めている事の弊害なのか。後藤但馬守が言っている事が良く分からない。真意を探りたいのであれば、本人自らが来るべきだろう。俺でさえ、三好長慶、義長親子にその心の内を話すために直接会いに行っているのだ。
何故、勿体ぶって他の人間を送る? 正直、余り心象は良くない。それこそ、藤林、丹波を重用しようとは思えない。
「御屋形様、某から少しよろしいでしょうか?」
気持ちが表に出てしまい、眉を顰めた頃、それまで暫しの間黙っていた三雲新左衛門尉が俺の方へ身体を向けて口を開く。脇息へ肘を掛けて新左衛門尉へ睨むように視線を送った。
少しひりついた空気が間に流れるが、それに気を向ける事無く、新左衛門尉に先を促すと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「甲賀衆も多くの家がございます。その家の取り纏めを行う家が現在は当家ではございますが、本来は表に顔を出す事を嫌います。当家は雲光寺様の頃より既に取り立てて頂いております為、こうして皆様の前に顔を出しておりますが、未だ仕える主がない場合はおそらく顔を晒すような真似は避けるでしょう。それは伊賀衆も同様かと」
「ふむ。俺の真意を聞き、六角に仕える価値無しと判断した場合、長の顔が割れているという事を避けたいと?」
昔の忍者じゃあるまいし…。ああ、昔だったな、今は。伊賀という国は特殊で、江戸時代に入るまで開発は進まず、商人も通らず、貧しい国の一つであった。自国で取れる米の量も少なく、それを補うために汚れ仕事を各地の大名から請け負っていたのだ。
銭を貰い、それを生計の足しにする。そうする事でしか生きる事の出来ない暮らし。その害になり兼ねない可能性があるのであれば、素顔を晒すような事はしないか。
「有り得る事ではございませぬが、公方様が周辺諸国へ文を出し、二条御所への招集を行ったと致しましょう。その場で、『先んじて来てくれた家に山城周辺国を任せる。後の者は従うように』と云われたとすれば、御屋形様は従いましょうや?」
ああ、また後藤但馬守のしたり顔が出たよ。こういう所だよ、お前が義治に殺された理由は。俺の内に潜む義治の精神が不快感を前面に出し始めている。
そのような事を言われれば、公方への怒りしか湧かないだろう。そして、指名された者の指示などを聞く事はない。それは伊賀衆も同じだという事だろう。
「あいわかった。森田、植田、俺の早合点であった。許せ。その方ら伊賀衆が六角家中の者となる喜びに舞い上がっていたようだ。醜態を晒してしもうたな」
「いえ、右衛門督様が本心から我ら伊賀衆をお望みである事が解り、某、嬉しく思うております」
「伊賀に戻り、藤林長門守、百地丹波守にこの事を話すのが楽しみでございます」
これまで空気のようにその存在感を消していた二人が、小さな笑みを浮かべて平伏する。余り良い空気ではないと感じたのか、その存在感を消していたのは流石だと感心した。
伊賀十二家も甲賀衆と同様に、絶対に六角家に必要だと強く思う。本来は甲賀も伊賀も六角家の近隣なのだ。後世では甲賀者、伊賀者という敵対関係を題材にした話が多く、総じて善が伊賀で、悪が甲賀のような扱いを受けているが、それは日本最終幕府の創始者である徳川家に仕えていたのが、伊賀者で有名な服部半蔵正成だからだろう。
だが、俺の理想は両衆ともに英雄であり、龍虎並び立つとなって欲しい。
「余り俺の醜態を語って欲しくはないが、その方らは俺の真意を聞きたいという事である故、嘘偽りなく話してやろう」
この場にいた全員が居住まいを正す。それを見届けてから少しずつ語り始めた。
俺の想い、この国の未来、そしてそれに甲賀衆、伊賀衆がどのように関わって行って欲しいか。それを余す事無く語り続ける。
最初は笑顔で聞いていた森田と植田であったが、次第に表情は固まり、終盤では汗がしたたり落ちる程の表情を受けベていた。
「う、右衛門督様は、天下をお望みか?」
「俺が天下を統べる必要はないが、足利の世では安寧は訪れない事は確かだな。俺は俺の手の届く範囲で安寧を広げたい。その為にも情報は力となる。攻める為だけでない。財は力であり、財を得るには情報が何よりも力となる。西に飢饉があり、東が豊作であれば、東から物資を流して西で売れば良い。西で流行りの物あれば、何れ東でも流行る。その先手を打つにも情報が必要。其方たちの力は戦が全てではない。食料、特産、疫病、他家の噂に他家の人間、全てに於いて、其方たちが掴んで来る情報が時に六角を動かし、時に六角を揺るがし、時には六角を潤わせる。日ノ本は広い。西は甲賀衆に、東は伊賀衆に任せたい」
「な、なんと…」
最早、驚きで声が出ないようだ。植田長兵衛に至っては、言葉を失くしてしまったのではないかと思う程、ここまで一言も発してはいなかった。俺に対して発言をしているのは、森田新右衛門浄雲のみ。その浄雲も何を話せば良いか分からなくなっているのか、困惑が表情に出ていた。
「伊賀国に関しては、その方ら伊賀衆に任せる。だが、国を豊かにするため、農業の手法など六角の指示に従ってもらう」
「伊賀が豊かになりまするのでしょうか?」
「なる! 農業だけではない。道も整備したい。北伊賀の柘植三方に関しては、既に六角だ。そのまま南伊賀へ通る道の整備も仁木に断る必要もあるまい。道が出来れば、人と物が通る。人と物が通れば、そこに宿場が出来る。宿場が出来れば人は増え、人が増えればそこに村や町が出来る。いずれ仁木がいなくなれば、伊賀を通って大和、近江への道が出来る。その先は京だ。ただ、その方ら伊賀衆にとっては国が開拓され、山が切り開かれるのは望まぬ事かもしれぬが…」
森田、植田は未だに呆けたままだ。余程の衝撃であったのだろう。瞬き一つせず、俺の方をじっと見つめている。もしかすると瞳孔も開いているのか。
後藤但馬守がそれに気づき、小さな咳払いをした事で、ようやく二人は正気を取り戻す。何度か瞬きを繰り返した後、慌てたように平伏した。
「滅相もございませぬ。伊賀は貧しく、我ら伊賀者は妻子を食わせる為に必死に銭を稼いでおります。もし伊賀で実りが増えるのならば、もし伊賀に商人達が訪れるのであれば、これに勝る喜びはございませぬ」
忍者はやはり山深い所という印象があるだけに、伊賀国の開発には反対されるかと思ってはいたが、生活の基盤はやはり重要であった。六角から代官として数名伊賀に送り、その農業手法を伝授する事を伝えると、植田長兵衛の瞳に涙が滲む。
だが、下神戸に城を築きたい旨を告げると、伊賀者二人ではなく、俺の周囲から数多くの溜息が聞こえて来た。『また御屋形様の築城癖が…』などという失礼な声が聞こえて来る。南伊賀衆が六角に付いたとしても、その拠点となる城なり砦なりが無ければ、すぐに失ってしまうだろうに。なんて失礼な家臣達だ。
「御屋形様、某から一点よろしいか?」
そのやり取りの中、最近は相談役になったからなのか無暗矢鱈に発言をする事はなくなった蒲生下野守が口を開く。元宿老筆頭格の重い口ぶりに皆が身構える。彼の跡継ぎである蒲生左兵衛大夫賢秀は、北近江小谷城城代として現地で奮闘しており、この評定の場にはいない。もし、この場に居れば、厳しい父親の口ぶりに身震いしていたかもしれない。
俺が頷いて見せれば、軽い咳払いをした後で口を開く。
「森田殿、植田殿、現在南伊賀の付近には北畠権中納言様の御手が伸びているという話も聞くが、百地家は六角へ臣従する事を良しとされておられるのでしょうか? このような事を疑う事はお二人に無礼ではござるが、六角にとっての獅子身中の虫となるのであれば、辞めておかれた方が良いとご忠告致す」
「下野守殿…。その物言いは、余りにも…」
蒲生下野守から発せられた言葉は、本人も言っているが余りにも無礼過ぎる。それを咎めるように目賀田摂津守が口を開く。これも問題の一つだな。相談役とはいえ、元宿老が口を開けば、それを咎める事が出来るのは俺しかいない。現宿老である者達もやはりどこか遠慮があり、遠慮せずに蒲生へ意見が出来るのは、宿老の中でも平井と後藤だけだ。
まぁ、それも追々だな。
「勘違いをして頂きたく無い為、敢えて先に言わせて頂く。これは決して脅しの類ではござらぬ」
「お聞き致します」
下野守が伊賀の二人に身体を向けると、二人もその真剣さを悟り、居住まいを正す。その空気に呑まれ、周囲の家臣達は口を噤んだ。
はぁ、この流れは、きっとあまり良くない話をするつもりだな。主に俺にとって。
「もし、六角臣従を偽装なさろうとされておるならばお止めなされ。御屋形様にはすぐに見抜かれよう。そして使い潰される事となる。挙句に伊賀は火に包まれよう。其方ら伊賀衆の方々が守ろうとしている者達にも被害が及ぶ事となる。其方ら伊賀衆を侮っている訳ではござらぬ。御屋形様は敵には容赦されぬ方故、どれ程に六角に被害が出ようとも、伊賀を滅ぼされるでしょう。互いに利のない戦となります。それは、ただ北畠を喜ばせるのみ」
真野城の焼き討ち、堅田の寺社破壊、そして叡山僧兵の撫で斬りは、近江近隣では尾ひれがついて拡散されている。威嚇にも使える為、その情報拡散を止める事はしなかったが、余り気持ちの良い物ではない。その内、俺が第六天魔王などと呼ばれる事になればうんざりだ。
二つ名など要らぬ。だが、神仏隔離の原因として、天照大御神と第六天魔王が盟約を交わした為という説があったとされている。畏れ多くも日輪の神様と盟約を結べるのであれば、第六天魔王でも構わないな。
「対して、一度身内となれば御屋形様の手は伸びまする。観音寺山からみた淡海の姿は如何でしたか? 船が所狭しと浮かんでおりましたでしょうな。僅か数年前にはこの景色はございませなんだ。田の実りも数年前とは比べようもござらぬ。先程、御屋形様が目を輝かせて語られた伊賀は、夢物語でも、嘘偽りでもなく、僅か数年で見る事の出来る現世にござる。それを百地殿にもしかとお話頂き、共にその時を迎えたく存ずる。某からは以上にござる」
そう締め括って満足そうに口を閉ざした蒲生下野守。
何故か笑みを浮かべている六角承禎入道。
憮然とする俺。
収集が付かない状況になってしまったな。
「蒲生殿のご忠告、しかと持ち帰らせて頂きまする」
「某のみであれば、今この場で右衛門督様へ忠を示したく存じますが、やはり伊賀の総意として六角への臣従をお届けしたく、暫しのご猶予を頂ければと存じます」
「わかった。良き返事を待っておる。但馬守、二人に土産を」
頷きを返して、後藤但馬守に二人への土産物を指示する。土産と言っても饅頭などではなく、米俵などの食料、澄酒のような趣向品など荷車一台、二台分の物となるだろう。
あとは吉報を待つのみだ。伊賀が手中になれば、伊勢まで俺の手は伸びる。伊勢に出る事が出来れば海が手に入る。武田が海を欲しがった理由は、そこで取れる海産物や塩だけではない。海を渡って入って来る品々、交易の利、そして港の税など数多くの利点であろう。
この近江も海はない。塩は買うだけしか出来ず、金額は大きい為に馬鹿には出来ない。足利と完全手切れとなり、若狭が敵となれば、荷止めの可能性さえある。若狭一国を完全統治出来ていない武田家で果たして荷止めが出来るかという疑問はあるが、可能性の問題として起こり得る問題だ。
伊勢は手にしたい。最悪、北畠と戦になっても良いように大義名分は作っておかねば。
さて、明日は織田だな。
気持ちを切り替えて行かねば。
誰が使者として来るのか。有名な人間であれば楽しいが。




