閑話~萩の方~
私の名は萩。近江を領する佐々木六角家の宿老に列する父平井加賀守定武の娘。幼き頃より、観音寺城の平井丸で育ち、父の領地である粟田郡には余り足を踏み入れる事がありませんでした。今では、人質の意味もあったのでしょうと解りますが、昔はこの観音寺城が遊び場でありました。
遊び場と言っても、外に出て走り回ったり、木に登ったりなどはした事はなく、主に平井丸周辺で日々を過ごす事が多かったのです。
平井丸には様々な方が足を運ばれる事が多く、父と同じ六角家重臣の方々やその御子息やご息女も参られておりました。兄とは年も離れている事から共に遊ぶことはなく、兄と同年代の重臣の御子息達もまた、私と関わる事はなかったのですが、その中で奇妙な二人が居た事を覚えております。
とても我儘で尊大な男の子と、その男の子に従いながらも常に切れ長の目で睨むように見ていた男の子。いつもその二人の近くには大人達が付いており、偉い人なのでしょうと子供心ながら思っておりました。
「萩様、御屋形様から反物が届いております」
「まぁ、綺麗な柄です事。このような美しい反物を頂いてもよろしいのかしら」
今なら分かります。あの我儘放題で尊大な男の子は後の六角右衛門督弼頼様で、切れ長の目で睨み付けていたのが、浅井新九郎賢政様であったのでしょうと。共に遊んだ記憶はありません。平井丸を訪れた時にお茶をお出しし、少しお話をした記憶があるのみ。
ただ、右衛門督様が怖かった記憶はございます。子供心ながらもあの尊大さと自分の思い通りに行かないと癇癪を起す性格は素直に怖いと思ってしまいます。それに対し、子供である右衛門督様を睨む男の子は私には優しかったような記憶がありました。
「何をおっしゃいますか。奥方様は、御屋形様の室にございます。誰に何を憚れる事がありましょう」
そんな小さかった私が、今やあの頃に怖ろしいと感じていた方の室になるとは、夢にも思いませんでした。一度は浅井家に嫁いだ身。縁なく実家へ送り返された私は、出家するしか道はないと思い詰めた時期もございましたのに。
武家の娘の中では、何度も嫁がれる方もいらっしゃるそうですが、そのほとんどは夫との死別により未亡人となった方々。そういう方々の多くは出産を経験されている方が多く、一度でも子を成す事が出来たのならば、石女ではないだろうという理由もあり、縁談のお話があるという事です。ですが、私は身籠った経験もなく、主家の養女として嫁いだにも拘らず、主家の役にも立たなかった女子。平井家の家臣筋に嫁げれば良い方で、尼となる未来が現実だと考えておりました。
『萩! 喜べ!』
実家に戻り、ほとんど来た事の無かった粟田郡の屋敷で過ごしていた頃、急遽父が領地に戻って参りました。私の部屋に断りもなく入って来た父は、私の手を握り、涙を流しながら満面の笑みを浮かべていたのを不思議な気持ちで眺めておりました。
心が沈んでいた私は、久しぶりに見た父の笑顔を見て嬉しくなりましたが、その喜びも父の話を聞いて行く内に萎んで行くのが分かりました。父の話では出戻った私に対し、御屋形様である右衛門督様が温情を下さり、私を正室として迎え入れるという事であったのです。
『其方は必ず幸せに暮らせよう』
そんな父の言葉を私は全く信じる事が出来ませんでした。子供の頃に見た右衛門督様の姿からは、私のような女子に温情をくださるような方には思えず、一時の戯れであろう、婚儀を済ませた後は、私の事を歯牙にもかけず、平井家の面目を保たせる為だけに捨て置かれるだろうと。この時の私は、そんな右衛門督様の戯れを真面目に受け取っている父もまた、私を捨てるのだと絶望していたのです。
『御屋形様が佐和山を落とし、磯山に城を築くぞ』
『御屋形様に船木の地を頂き、今後は高島郡の頭領に任じられた』
『婚儀は、近江平定後に大々的におこなうそうじゃ! 楽しみよのう』
何かが違うと感じ始めたのは、毎日のように届く文と、前よりも頻繁に領地に戻ってくるようになった父の口から語られる右衛門督様の為人が、私の記憶とかなりの隔たりがあると気付いた為でした。
古い唐の地の言葉に『男子三日会わざれば刮目して見よ』という物があるようです。ですが、人とはそれ程に変われるものなのでしょうか。特に右衛門督様の評判は、私がまだ浅井へ嫁ぐ前も悪い物ばかりでありました。六角家に対しての愚痴など決して言わない父であっても、右衛門督様には思う所もあったようで、小さな不満を口にしていた程です。
その父曰く、私の離縁の話を耳にした途端、右衛門督様の目が変わったとの事。『おそらく、御屋形様はあの時まで自身を抑えておられたのだろう』と今までとは真逆の評価に転じてしまっておりました。
『一つ。其方は十分にやった。身内も味方もいない浅井へ嫁ぎ、懸命に浅井と六角を繋ごうと気張っていた筈だ。己を蔑むな、己を誇れ。そして、今度は六角家中で嫁いだのだ。皆身内だ。父である加賀守も近くにおる。其方を蔑む輩は俺が全て排除する。何も心配せず、安心して暮らせ。』
それでも信じる事が出来なかった私は、婚儀の後の初夜では、敷布の上で震えながら右衛門督様を待っておりました。現れた右衛門督様が乱暴をされるのではないか。暴言を吐かれるのではないか。そもそもこの床に来て下さらないのではないか。そのような不安が渦巻く中、震える身体を動かすことも出来ずに右衛門督様を待ち続けたのです。
ですが、そんな私の不安と恐怖は、床に入る前に語られた右衛門督様の言葉によって打ち壊され、霧散致します。抑えていた不安、恐怖が溢れ出し、それが涙となって視界が歪んでいきました。優しいお言葉を下さった右衛門督様の御顔さえも見えない。嗚咽で言葉も出て来ない。必死に右衛門督様にしがみ付く事しか出来ない私の髪を優しく撫でてくださる右衛門督様は、私の知る右衛門督様なのでしょうか。
『夫婦にはゆるりとなって行けば良い。俺もお萩もまだ若い』
そんな私の新たな不安も、翌朝平伏する私に掛けて下さった言葉で少しずつ溶けて行きます。その時の右衛門督様の目には何故か覚えがありました。
昔、私が童であった頃、同じく童であった右衛門督様が平井丸に顔を出した事がありました。まだ雲光寺様がご健在の頃、父の元を訪れた左京大夫様に付いて来られたのでしたか。私の居る部屋にひょっこり顔を出した小さな男の子。本来は娘が生活する奥へ入って来る事は処罰の対象なのですが、主家である六角家の嫡子であるという事もあり、家中の者達も強く言えなかったのでしょう。
そんな男の子が私を見付けて嬉しそうに微笑み、傍に来て手を開きます。小さな手の中には、手より小さな星が幾つも乗っておりました。『しょうにんがもってきた!いこくのかしだと』と笑顔を浮かべて差し出して来ます。不敬ではありますが、あの頃の右衛門督様は『異国の菓子』という言葉の意味も解っていなかったのだと思います。それでも良い物だと思ったのでしょう。私の手に幾つかの星を乗せ、そのまま近くに座ると、自分の手に乗る星を口に入れてしまう。
私にも食べるように促され、口に入れるとその甘さに驚きました。今まで食べた者の中で最も甘く、口の中でさらさらと溶けて行き、瞬く間に無くなってしまう。呆然としながらも『甘い。美味しい』と口にした私。
『そうか、よかったな』
そう言って私を見る右衛門督様。その瞳が先程の右衛門督様の瞳と重なった。ああ、思い出しました。あの頃食べた南蛮菓子の味と右衛門督様の御顔。傲慢でもなく、我儘でもなく、優しいお顔でした。
あの後、父にその菓子について尋ねたら、小さな麻の袋に入れられた数粒で城が建つ程の値だというのです。遠く西の国に訪れた南蛮人から手に入れた六角御用商人が船で京に運び、この近江まで持って来られたそうで、雲光寺様が大事に飾っておいた物でした。
「ふふふ」
「奥方様、如何されましたか?」
不意に現実に戻り、思い出し笑いをしてしまいます。おそらくあの後、勝手に異国の菓子を持ち出した事が雲光寺様に露見した右衛門督様は、かなりのお叱りを受けた事でしょう。そんな右衛門督様を想像すると、可笑しさが込み上げて来てしまいました。
何が原因で右衛門督様が変わられたかは解りません。でも、あの目は昔のままなのだと理解した時、右衛門督様への恐怖が嘘のように消えていました。
「お、御屋形様!?」
そんな陽だまりのような思い出に思いを馳せていた私の耳に、突然侍女であるよねの叫び声が入って来ました。驚いて顔を上げると、そこには先程まで思いを馳せていた右衛門督様が立っており、そのまま部屋に入って来るのが見えます。
慌てて頭を下げ、御屋形様を私の部屋に迎え入れます。隣で平伏するよねの手が震えており、よねはまだ右衛門督様が怖いのだなと思うと、自然と笑みが浮かんで来ました。
「よね、ここはもう良いですから」
「は、はい。失礼致します」
よねの気持ちを考え、暫し部屋を下がる許可を出します。ほっとしたようによねは右衛門督様と私に頭を下げ、静かに部屋を出て行きました。残ったのは、右衛門督様と私だけ。でも、あの夜のように気を張る事もなく、静かに右衛門督様を見つめる事が出来る。
そんな私へ視線を送った右衛門督様は、そのまま畳の上に大の字に寝転がってしまいました。如何したのでしょう。身体の御加減が悪いのでしょうか。
「う、右衛門督様、御具合が悪いのでございますか?」
「…四郎だ」
心配になり尋ねると、私の呼び名が不満なのでしょう、不服そうに口を開かれます。顰め面の顔がまた何とも可愛らしい。右衛門督様は私よりも二つ年が若い。本来であれば、私のような出戻りの年増を室に入れる必要など無い御方であり、浅井を滅し、近江を統一した今であれば、諸国から縁談の話があっても可笑しくない太守であります。それでも、このように不満顔をするのが可笑しく、自然と笑いが漏れてしまいました。
「申し訳ございませぬ。四郎様、お身体の御加減でも悪いのですか?」
「…疲れた」
不満そうに、不貞腐れたように呟かれる言葉がまた可愛らしい。浅井へ嫁いだ時、夫となった新九郎様にこのような感情を抱いた事もありませんでした。新九郎様も右衛門督様と御歳は同じ。ですが、子供の頃に感じていた優しさがまやかしであり、あの切れ長の目から発せられる冷たさがあの方の本質なのだと知ったのは何時だったでしょう。
「お疲れでございますか?」
「…疲れた。本当に疲れた。暫し、ここにいて良いか?」
また小さな笑みが浮かんでしまう。あれから何度も夜を迎え、本当の意味で夫婦となって解りましたが、この御方は私に甘えたいのかもしれません。この部屋を出れば、強い当主として気を張って生きていらっしゃる。私が何度話しても侍女のよねも恐れたまま。でも私だけは、この御方の御心を知っている。それが何故か嬉しく感じてしまいます。
「この部屋は、四郎様だけは何があっても拒みませぬ。いつでもいらしてくださいませ」
「部屋は拒まずとも、お萩は拒むのか?」
「まぁ。そのような事がない事を四郎様はご存じですのに」
まだ、婚儀を行って一年。過ごした時間は短くとも、私はこの御方の側に居たいと心から願っています。未だにお子が出来ぬ事が悩ましいですが、いつまでもこの御方の側に置いて欲しいと願って止まないのです。
『子が出来ぬなら、出来ぬで良い』というのが四郎様の言葉ではございますが、お世継ぎを私が産めなければ、正室を持たない四郎様へ多くの縁談が持ち込まれてしまうでしょう。初夜の頃の想いとは真逆の想いを今の私は持ってしまっております。この御方の御心を知るのは私だけが良いと。
「お萩、共に城下へ降りてみるか?」
「これからでございますか?」
このような日の高い時間帯に奥へ足を運ばれる事は余りありません。いや、正確に言えば、許されないのでしょう。おそらく評議などを抜けて来られているのではないでしょうか。ご家中の方々がお怒りになられるのではないかと心配になります。
ですが、四郎様と城下に降り、二人で歩ける事を考えると、顔が緩んでしまいそうになり、慌てて顔を引き締めました。おそらく、四郎様は言葉通り本当にお疲れになっていて、逃げたくなってしまっているのでしょう。
「流石に今からでは難しいな…。一日城下視察とする日を作ろう。新たに整備している栗見の港まで行ってみるとするか」
「それは楽しみでございますね。私などが共に行ってもよろしいのでしょうか?」
「何故だ? 俺がお萩以外の誰と共に行くというのだ?」
城下視察という名目であれば、六角家当主として赴かれるのでしょう。ですれば、側近の方々を含め、ある程度の護衛が必要となる筈。また、政務を担う者達も同行致しましょう。例え六角領と言えども、それは譲れない筈。その中に私のような女子が同道するとなれば、足手まといになってしまうのではないでしょうか。
「俺の馬にお萩を乗せて行くぞ。視察の名目上、ある程度の護衛と従者は必要だろうが、観音寺城の膝元だ、それ程多くの人間は必要なかろう。そうか、お萩の馬装束をそろえなければならぬな。着物姿で馬に乗る訳にもいくまい」
「まぁ。私も勇ましい装束を? とても楽しみにございますね」
その日が待ち遠しい。時折、四郎様は私の許を訪ねて来られる時、こうして先の日の予定を作ってくださる。未だに家中で私の噂をする者が絶えない中で、私に先への楽しみを作ってくださっているのでしょう。鬱々とする日など無いように。そのような暗い考えに陥る暇など無いのだと叱るように。
それが今はとても嬉しい。そして、この殿方が心より愛おしい。
「四郎様、お疲れなのでしょう。萩の膝をお使いください。少しお眠りになられては?」
「そうか? ではお萩の言葉に甘えよう。半刻ほどで起こしてくれ」
少し崩した足に乗せられる四郎様の頭。今、巷で流行り始めていると言われる月代を四郎様は作ってはいない。長い髪を上に結うだけに留め、余計な油のような物も付けておられない。そんな御髪を触りながら撫でていると、すぐに静かな寝息が聞こえて来た。本当にお疲れなのですね。
四郎様はお口に出されないけれど、きっと母上様が恋しいのでしょう。四郎様の母上様は、四郎様の御歳が二つの時にお亡くなりになられております。四郎様が頼みとする弟君である次郎様は腹違いの弟君であり、次郎様の母上様は大殿の側室である為、四郎様は母上様に甘える事が出来なかったのかもしれません。
四郎様が私に対して母を求めているとは思いませんが、幼い頃に母に甘える事の出来なかった為に、甘えるという事に対して不器用なのだと思います。だからこそ、私の許へ来られた時は、出来るだけ気を許そうとお考えなのでしょう。
ですれば、私はそれに気付いていない事とし、四郎様の安らぐ場所を作りたい。四郎様が心を許す場所で、このような穏やかな寝顔を見ていたい。
「四郎様、お慕い申し上げております」




