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閑話~観音寺城 六角承禎入道~



 観音寺城の一室にて、壮年の男性六人が儂を取り囲むように座っている。儂を前にし、左右には五十過ぎの男が二人、そしてその左右の横に三十後半の男と、四十半ばを過ぎた男が座り、最も遠めに五十近い男とこれまた四十過ぎの男が座っておる。


「大殿、このような会合を御屋形様が知れば、謀反を疑われますぞ」


「下野守、其方、言葉と表情が一致しておらぬぞ。今の四郎がそのような考えに至らない事は其方が一番解っておろう」


 儂の左手に座る大柄な男が笑みを浮かべながら口にした軽口に、この場にいた誰もが笑みを溢した。


「確かに、今の御屋形様であれば、謀反だとしても、我ら宿老の力を削ぐ絶好の機会を得たと嬉々として受け入れましょうな」


「阿呆! その時には、儂はこの禿げ頭を四郎に差し出さねばならなくなるわ」


 またもや七人の男が笑い合う。誰も彼もが口から冗談を言い合う。陽が陰り、観音寺城の一室も真っ赤に染まる中、障子が開け放たれた一室で絶え間ない笑い声が響く。周囲に人がいない訳ではない。寧ろ、この一室は様々な役職の者達が通るような場所であり、隠れて陰謀を話し合う事に最も適さない部屋でもあった。


「失礼致します。軽食をお持ち致しました」


 開け放たれた廊下から声が掛かり、各人の前に膳が置かれて行く。酒の肴のような食事であり、米などはない。そして、徳利に入った澄酒。各々の前に置かれると、まずは大殿と儂の盃に澄酒が注がれる。それを機に皆が隣の男に酒を注ぎ、各人が盃を掲げた。


「では、まずは一献」


「おめでとうございまする」


 盃を掲げ、口々に祝いの言葉を紡いで、盃を干す。皆の姿を嬉しそうに見つめる儂は、この観音寺城先代城主である六角左京太夫義賢。今は承禎入道を名乗る坊主でもある。


「加賀守殿も、改めてお祝い申し上げる。此度は、良き婚儀でございました」


「有難う存じます。これも御屋形様のご温情があればこそにございます」


「ほんに羨ましくもございますな。今の御屋形様なれば、ご息女は必ずや幸せに暮らされましょう」


 蒲生下野守が口を開き、それに対して平井加賀守が返礼をする。それに対して進藤山城守が軽口を叩いた。既に婚礼の儀で強かに飲んでいるのだ。既に各人ある程度の酔いは回っており、誰もが上機嫌になっている。


「しかし、この澄酒という物は、飲んだ事を忘れたかのように止まりませんな」


「これも御屋形様の功績にございますぞ。まぁ、あの騒ぎには驚きましたが」


「然り、然り。台盤所で騒ぎがと小姓が大騒ぎしておりましたからな。中には御屋形様がご乱心などと騒ぐ不埒者までおりました故」


「あれには、儂も以前の四郎に戻ってしまったかと嘆いた物よ。何せ、濁り酒を大窯に全て入れたかと思えば灰を入れるのだからな。だが、一晩明ければ、四郎の言葉通り、濁っていた酒が綺麗に澄んでいるではないか。その味も濁り酒とは比べ物にならぬ」


 酔っ払い共の声は大きい。大きな笑い声が大広間から廊下を通り、足早に歩く女中達は驚きの表情を浮かべる。そんな女中の姿が皆の酒の肴となり、笑いが生み出された。


「この酒など、四郎が為した事の大きさから比べれば、些細な事よの」


「確かに、近江が完全に統一されるなど、雲光寺様の御代でも想像すら出来ませんでした」


「我ら、六角の六宿老などと近隣諸国では云われておりましたが、今では何とも恥ずかしく思いまする」


 儂が盃に視線を落とし、そこに映った揺らめく蝋燭の炎を見つめながら呟いた言葉に、後藤但馬守、目賀田摂津守が返答する。


「しかし、この澄酒の売上も相当なものですぞ。この売り上げで城が四つも築かれました故」


「それもそうよな。しかも、それを売りに出す前に、帝への献上品とし、箔を付けた上でだからの。商人達の泣き笑い顔が痛快であったわ」


 あの時の商人達の表情は本当に楽しかった。先々代の雲光寺様が起こした観音寺城下町での楽市楽座。これにより座という物が南近江ではなくなり、誰しもが自由に商いの出来る状況にはなった。だが、やはり貧富の差は、商人達の中にもあり、豪商と呼ばれる商人達はその膨大な資金によって我々武家に対しても大きな顔をする者が多くいる。

 我々武家は、銭勘定を卑しいとする所があり、銭を持たない事が多い。雲光寺様が少し変わっておったのだろう。銭の大事さ、その有用性を理解されていた。

 戦をするにも、政をするにも銭がいる。その銭はどの武家も商人から借用し運用している事が多い。戦に負ければ返済が滞り、借用が難しくなる。それは武家の衰退に直結するのだ。


「あの時の商人達に対しても、御屋形様は御屋形様でしたな。『別に無理に買ってくれなくとも良い』との言葉で退出を命じたきり、二度とその商人が顔を出す事はありませんでした」


「商人との継続的な契約。原料となる米の買取契約。今でも某には全てを理解出来ませぬ」


 澄酒を帝に献上し、定期的な献上の中に必ず入れる事で宮中に澄酒をあっという間に流行らせた。宮中で働く公家達は、話し好きが多い。他所から訪問してきた武家に澄酒の話をしたり、それを取り扱っていないかを訪ねたり、瞬く間に日本全国で澄酒の需要は跳ね上がったのだ。

 現在澄酒を造れるのは、この南近江のみ。製造方法は簡単であるから、その内何処でも作られる事になるだろうが、今は色々な商人が躍起になって近江観音寺へ面会を希望している。それでも四郎は、いつもの四郎のままであり、不当に金額を吊り上げるような事をしないが、不当に買い叩こうとする商人は、追い払い、二度と会おうとはしなかった。四郎曰く、『商人とは信頼、信用が第一である』との事であった。

 継続的な売買契約と、澄酒が広まった際の取り決めなどを含め、内容を詰めた数人の商人と契約を交わし、今後も何か新しい物が出来次第、その商人達と取引すると決めたそうだ。御用商人という物とは少し異なっているが、中々に面白い。


「今や、あの時の御屋形様の言葉通り、淡海は船で溢れております。商人の船、漁師の船、これ程の賑わいを見せる淡海は見た事がございませぬ」


 下野守は、四郎が近江の未来を語った際に、心から敬服したと語っていた。その時の四郎の顔は、子供の頃の無邪気な笑い顔そっくりの顔をしており、懐かしさとその成長に心が熱くなったとも言っておったか。悔しいのぉ。それは儂も見てみたかったわ。


「四郎に家督を譲った時、皆には苦労を掛けた。今ならば素直に詫びる事が出来るわ」


「大殿、それはもう謝罪ではございませぬぞ」


 儂の言葉に下野守が快活な笑みを浮かべる。下野守は儂よりも二十近く年齢が上だ。先々代から六角に仕え、雲光寺様よりその薫陶を最も受けた男の一人であろう。平井、蒲生の両者は儂にとっては、父の家臣という想いの方が強かったかもしれぬ。


「しかし、その四郎が浅井を破り、この近江を六角の下に統一を果たした。京極さえも臣下に加えた時は驚きを通り越して呆れたわ」


「近江に根付いた宇多源氏佐々木一族が、御屋形様の下に集いましたな」


 昔分かれた宇多源氏佐々木一族の末裔が、佐々木信綱公の子孫達が分かれて近江に散り、その信綱公三男である泰綱公の末裔に当たる六角家の十六代当主弼頼が、再び一族を集結させた。感慨深い…。無意識に目頭が熱くなる。三百年の時を経て、近江は一つとなったのだ。

 涙を隠すように盃を呷る。咽る程に酒精の強い澄酒が喉を熱くさせた。側に居た平井加賀守が盃を儂の手から取り上げる。進藤山城守が言うように、この酒は止まらない。強いがするすると喉を通って行く。


「大殿、御屋形様も申しておりましたが、深酒、大酒はお控え下され。この澄酒、飲みやすく、美味いが故に飲み過ぎてしまう事があります。酒は百薬の長ではございますが、酒毒の元ともなりまする。不敬ながら、大殿も含め、我ら宿老全て、足腰立たなくなるまで御屋形様に扱き使われなければなりませぬ故、酒毒にて倒れる訳には参りませぬ」


「ふ、ふはははははは。その通りよの。その通りじゃ。儂らはまだまだ四郎に扱き使われなければならぬ。近江の後は何処じゃ? 美濃か? 伊勢か?」


 気持ち良く飲んでいる所に水を差されたが、その口上が面白い。父である雲光寺様から政務を引き継いだころは、加賀守の小言が煩く感じたものだ。それが今や、笑いしか出て来ない。このような時が来るとは、僅か数年前まで思う事さえなかった。


「御屋形様の目は、伊賀に向いておる模様。我ら甲賀とは別に伊賀の者も登用出来ないかと内々に打診がございました」


「伊賀だと? 対馬守はそれで良いのか?」


 急に笑い声が萎む。六角家には昔から三雲対馬守が率いる甲賀衆を登用している。甲賀地方に根付く地侍を甲賀衆と呼ぶが、甲賀流と言われる技を持ち、諜報活動、破壊活動を担う乱破(らっぱ)を数多く囲っていた。

 その甲賀流と同様に、伊賀国で暮らす伊賀衆と呼ばれる地侍達も、伊賀流という技を伝える乱破集団であった。甲賀衆とは異なり、伊賀衆には明確な主君がおらず、基本は金によって仕事を請け負う事で生活をしている者達が多い。

 同様の仕事内容であれば、古参の甲賀衆としては伊賀衆が同じ主君に仕える事を良しとはしないだろう。


「正直、御屋形様からお話を頂いた際には戸惑いました。我らの働きが不満なのだろうかと」


「然もあろう」


 当たり前だ。自分達の仕事を認めて貰えず、他の乱破を雇うと言われたようなものだ。一気に酔いが覚めた。四郎は何を考えておるのだ。ようやく一つに纏まった六角家を内から壊すつもりなのだろうか。

 そんな儂の不安は、次の対馬守の言葉で杞憂に終わった。


「御屋形様の目は、既に日ノ本全土に向いておりました。御屋形様曰く、この近江は日ノ本の中心であるとの事。東に越国、信州、海道、関東、陸奥があり、西には畿内、近国、中国、遠国、四国、九州がございます。我ら甲賀衆で日ノ本全土を観る事は不可能。西は甲賀、東は伊賀という形で請け負って貰いたいとの仰せにございました」


「なんと、日ノ本全土に諜報を放つと仰せでございますか?」


 対馬守の言葉に、後藤但馬守が驚きの声を上げる。平井、蒲生の両名も目を見開いて驚いていた。儂も言葉が出ないほどの衝撃を受けている。近江の後は何処へ向かうのだと疑問に思っていたが、それどころの話ではなかった。


「西の甲賀に、東の伊賀と日ノ本全土に名が轟く日が来るかもしれぬと御屋形様が楽しそうに語られる姿を見て、年甲斐もなく胸が熱くなりましてございます」


「ふははははは。四郎は、儂ら年寄りを転がす術を手に入れたようじゃな」


「しかし、御屋形様はこの近江の場所は勿論、そのような日ノ本の姿を何故お知りになっておられるのでしょう」


 楽しそうに語る対馬守を見ていると、儂まで楽しくなって来る。しかし、進藤山城守が口にした疑問に儂ら全員が口を閉ざした。敢えて口にしなかった疑問。誰もが触れる事を躊躇った疑問。それが思わず漏れてしまったのだろう。山城守だからこそ口に出来たのかもしれない。

 今日婚儀を終えた加賀守の娘である『萩』の身柄と共に告げられた浅井の離反。あの日、あの時、あの場所から、四郎は我らが知る四郎とは別人になっていた。深い所は変わらぬ部分も多く、時折癇癪のような怒りを吐き出す様や、誇り高い部分などは変わらない。だが、思慮深く、先を見据えたような智謀。以前の四郎では考えられない発想など、説明できない部分も多かった。

 狐憑きではないか、妖が化けているのではないかなど、家臣達からも疑問の声が上がっていた事を知っている。だが、六角を大きくし、近江まで統一する武略。離縁された家臣の娘の心を慮り、妻として迎えようとする懐の深さなどを見ている内に、家臣達からの疑惑の声は小さくなっていた。


「それも、某が御屋形様にお伺い致しました。実は以前、御屋形様は何度となく城下へ降りておられた事をご存じでしょうか?」


「うむ。政務から逃げ出していた頃の事だな」


「はい。某も護衛として付けていた部下達から話を聞き、そのように思っておりました。ですが、御屋形様は城下町を見て、様々な諜報活動を行っておられたようです。商人達から話を聞き、種子島の事や、畿内では何が流行しているのかなどを知り、近江国内では農村から何が売りに持ち込まれているかなどを把握されていたようです」


「な、なんと…。御屋形様が種子島をあれ程迅速に集められていたのは、そういう経緯がおありだったとは」


 四郎が変わったのではない。四郎の本質を我らが見抜けていなかったのだ。あの時、四郎は『視界が晴れ、頭に乗っていた石が取れた』と言っていた。その石とは、我らの事ではないだろうか。あの離縁によって、隠居の儂や六宿老に遠慮する事なく、自身が前に出る事が出来ると判断したのかもしれない。

 そうであれば、我らのなんと愚かな事か。当主となった若者の真意を見抜く事も出来ず、愚かにも当主を愚者として辱め、見下し、勝手に諦めすら感じていた。不用意に出張り、真の当主が前へ出ようとする事を妨げていたのだ。

 盃を置き、儂は両手で顔を覆ってしまう。四郎にどころか、家臣達にも顔向け出来ぬ。何と愚かな父親だろう。何と愚かな当主であった事だろう。


「茶屋のようなところでは色々な旅人が集い、様々な土地での情報も集まります。そのような場所によく出入りをしていた当時の御屋形様の行動に疑問を感じなかった事に、諜報を生業としている者として、羞恥で御屋形様へ顔を上げる事も出来ませんでした」


「対馬守殿、我ら一同、同じ思いよ」


 当時の四郎の行動は、新たな当主としての行動としては相応しくなかった。実権を儂がまだ持っていたという原因もあるであろうが、それでも隙を見ては城下に降りて、茶屋や店に入っては横暴な振る舞いをする事もあり、農村近くの木の根元で昼寝をしているような事もあったと聞いている。その全てに理由があったとは。

 確かに、四郎は政務に関して手を出そうとはしなかった。いや、我らがさせなかったのか。だが、勉学や弓術の鍛錬に関しては、文句を言いながらも真面目に励んでおった。昔から四郎は頭脳が悪い訳でもなく、理解が遅い訳でもなかった。短慮な所が目立ち、癇癪を起す事も度々あったが、それもまた、我らが四郎を不当に扱っていた事への鬱憤であったのかもしれない。


「そんな中、御屋形様は近江を訪れた南蛮の坊主の話をお聞きになられたようです。日ノ本は広い世界の中でも小さな国であり、更に強大な国が海の向こうには数多くあるのだと教えられたとか。その強大な国には種子島のような新たな武器が数多くあり、今の日ノ本の戦では敵わないと感じたと仰せにございました」


「四郎の眼は、近江を超え、日ノ本全土どころか遥か海の向こうにまで向けられておるのか」


 茫然自失とはこの事だろう。最早、儂のような老いぼれの頭では考えが追いつかない。四郎が何を想い、何を目指し、何を欲しているのか、想像にすら難しい。その後に続いた対馬守の話では、南蛮ではこの世界は丸い珠のような物で、それを模した調度品も作られているという事であった。四郎は、それを手に入れようと南蛮の商人への伝手を作っているという。


「…大殿、ご許可を頂きたく」


「…下野守、如何した?」


 皆が盃を既に置いており、誰一人口を開く事はない。揺らめく蝋燭の炎と、部屋に差し込む月明かりだけが動いていた。

 そんな中、左手に座っていた下野守が、己の膳を動かして儂の前に平伏する。何事かと身構えるが、下野守が顔も上げずに裁可を仰いでいた。何事かと問えば、暫しの後、重々しく口を開く。


「小谷攻め後に御屋形様にはお話をさせて頂きましたが、蒲生家家督を倅左兵衛大夫賢秀に譲り、隠居の御許しを頂きたく」


「し、下野守殿」


 小谷城落城の後の陣幕内で四郎に叩き返された隠居願いを、今度は儂にして来たのか。下野守の言葉の真意を読み取るのに、儂は暫しの時間を要する事となった。

 確かに先程の対馬守の話を聞き、儂でさえ、四郎の考えに付いていけず、茫然自失となった。儂よりも二十近く歳が上の下野守では、その衝撃は儂以上であろう。

 蒲生下野守定秀。我が父である六角弾正少弼定頼の時代より六角に仕え、父より『定』の字の偏諱を受ける程に信頼されていた家臣である。儂の代では宿老の一人としてその手腕を振るい、文武を兼ねた男であると同時に野心の強い男でもあった。独断で近隣の豪族と縁を結び、果てには佐々木一族である青地家に次男を養子として送り、蒲生家の力を広げる程に六角家中での影響力を強めていたのだ。

 そのような男でも四郎には及ばぬか。六角家中での勢力拡大に人生を掛けていた男が、日ノ本全土どころか海の向こうにまで想いを馳せる当主の目を見て、虚無感に苛まれたのだろうか。


「それは、儂が認める事ではあるまい。六角家当主として右衛門督弼頼が許可する事である」


「まずは、長年お仕えして参りました大殿のご許可を頂き、御屋形様へ申し上げるつもりでございます。以後は、御屋形様のお言葉に甘え、ご相談役として御屋形様のお傍で日ノ本を見たく存じます」


 相談役。儂と共に四郎の為に扱き使われるという事か。自然と笑みが口元に向かう。息子が認められるという事がこれ程に喜びを感じる事だとはな。

 六角は生まれ変わる。父である六角定頼の時代から続いていた古い体制が、新たな当主である四郎によって壊されて行く。反発もあるだろう、四郎の考えが分からずに恐怖する者もいるだろう。それでも下野守のように四郎の見ている世界を見たいと考える者達も多くいる筈だ。

 現に近江は少しずつ変わっている。この観音寺城から見える景色も様変わりしている。四郎が築いた四城(今津、塩津浜、今浜、磯山)には、高い櫓が築かれ、日が暮れてから暫しの間は火を灯されている。火事などにならぬように人を配置し、淡海を照らす事で、陽が落ちても暫しの間は船を動かせるようにしたのだ。

 火の灯っている場所が港の有る方角であると示し、淡海の航海の安全を確保している。その風景がまた幻想的で、夜にも浮かぶ船達の灯りと相まって、今では名物となり始めていた。


「いずれは、倅が御屋形様から新たな所領を拝領する働きをし、某の死後には中野城周辺を献上する所存にございます」


「な、なに!?」


 武士にとって土地は命だ。代々受け継ぎ、命を賭して守って来た土地を手放すなど考えられない。しかも、下野守ほどの男がここまで決意するとはとてもではないが信じがたい。それは下野守以外の宿老達も同様であったようで、皆が驚愕の表情を浮かべていた。


「御屋形様の目が日ノ本全土に向いているのであれば、各国の武家を滅し、その土地を接収する事も多いでしょう。その時にその土地を与えられるのは、戦功、武功があった者達。御屋形様であれば、武功に拘らず、文官の功も取り上げるかもしれませぬ。その時、現在の近江の所領に拘っておれば、新参者や元々所領を持たぬ者達に後れを取りましょう。我ら六家は今でこそ宿老の地位におりますが、御屋形様の事です、宿老職の世襲などお認めにならぬでしょうし、後れを取れば、新たに六角の柱となる家を見出される筈。倅にもその旨、しっかりと伝えまする」


「…下野守殿の言、聞けば聞くほど、尤も至極。某も船木周辺を倅弥太郎へ引継ぎ、隠居の準備を始めましょう」


「か、加賀守!」


 下野守の話は確かに納得が出来る。今の四郎であればそのように考える事であろう。現に、高島党の者達が本領安堵を願い出た際に、そのような事を話していたと聞いている。だが、儂の右手に居た平井加賀守までもが隠居を願い出るとは思いもしなかった。


「大殿、某も下野守殿と歳は変わりませぬ。下野守殿とは異なり、まだまだ倅は未熟者にて、即日家督を譲ることは出来ませぬが、その準備を始めまする。隠居の後は、御屋形様に願い出て、某も相談役として御屋形様のお役に立ちたく存じます」


「加賀守殿は、相談役という役目を理由に、御屋形様とご息女との間に御生まれになるであろう孫に会いたいだけではござらぬか?」


「こ、これは何と。まさかこれ程早くに露見してしまうとは…」


 平井加賀守の決意の言葉を、下野守が茶化すように声を掛け、そのからかいに対して大げさに驚いた加賀守がお道化ると、皆が再び笑みを浮かべ始める。

 この宿老達とこのように話が出来る日が来るとは思わなかった。それぞれが己の権勢を維持するために派閥を作り、互いを牽制し、冗談なども言わない者達だった筈。それが、四郎の台頭により、逆に皆が纏まった。皮肉な話である。

 儂の時代では成し得なかった家臣の纏まり。四郎という息子が認められた喜びが大きいが、僅かな口惜しさがある。父の時代では、この宿老達も若く、山城守や摂津守に至っては、まだそれぞれの父の陰に隠れていた。彼らが増長し始めたのは儂の時代からなのだろう。それを再び四郎が治めた。


「改めて、皆に願う。四郎を、右衛門督をよろしく頼む」


「お、大殿!?」


 自然と頭が下がった。

 儂は彼らを完全に掌握する事は出来なかった。だが、苦労を共にして来たという想いはある。公方の要望を受け、無茶な指示を出した事も一度や二度ではない。それでも彼らは懸命に儂を支えてくれて来た。

 その中で各人の勢力を伸ばす為の暗躍もあっただろう。だが、それでも彼らが儂の時代の六角家を支えてくれていた事は事実である。そして、これからは四郎の時代。変わって行く中で彼ら宿老の家がどのようになって行くのかは分からない。

 だが、儂を支えてくれたように、四郎の為そうとしている事の土台を支えて欲しいと願う。涙が零れる。歳なのかもしれぬな。最近は眦が弱っておる。


「大殿、新たな佐々木六角家の夜明けにございます。今宵だけは、酒毒を気にせず、全員で酔い潰れましょうぞ!」


「う、うむ。小太郎の申す通りじゃ」


 再び盃を掲げたのは、進藤山城守賢盛。この宿老達の中で最も儂に歳が近い男であり、最も苦楽を共にした男と云えるだろう。儂が父に叱責を受ける横で、こやつもまた父である山城守貞治に叱責を受けていた。

 その頃は、小太郎と呼んでおったな。それが思わず出てしもうた。小太郎も一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに笑みを浮かべ、盃を高く掲げる。他の者達も酒で満たした盃を高々と掲げ、皆で一気に飲み干す。

 この日は、本当に倒れるまで飲んだ。平井と後藤は明日の朝議がある為に控えめであったが、他の者達は儂と共に馬鹿話と馬鹿笑いをしながら酔い潰れるのであった。



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― 新着の感想 ―
『四郎を頼む』という大殿からの依頼がが進藤さんの諫言の伏線なのでしょうね。
連続更新、ありがとうございます あぁ、いいなぁ。こういう閑話は大好きです
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