2-1. 梓恩、珈琲を欲する
「月落ちて烏啼き霜、天に満つ / 珈琲の薫香、愁眠に対す ……」
わたしが後宮に仕えはじめて、1ヵ月が経った。
秋が深まり、朝は霜柱をきゅっきゅっと踏みしめての通勤…… となると、思い出すのが前世の有名な漢詩だ。
作者やタイトル忘れちゃったけど、この 『霜、天に満つ』 がいいのよね。
口ずさむと、夜のキラキラ輝くように冷たく澄んだ空気を感じる。
このもとの詩にはもちろん、珈琲なんてない。たしかオリジナルは 『漁り火が眠い目にチラチラする』 みたいな意味だったはず…… けど、つい、連想しちゃうんだよね。珈琲。
「はあ…… 飲みたいなあ……」
昼食用の牛蒡をささがきにしながら、わたしは 「はあ……」 とためいきをついた。
―― ここ最近、たいしたできごとはない。せいぜい、嵩妃の実家から珍しい白牛が献上された程度。
皇帝陛下は、飼育場所を自ら指定されるほどの喜びようで…… 牧場の日当たりの良い小川のほとりの一角を、特に飼育場所に定められたのだ。
そこでわざわざ献上式が行われ、式典の折にわたしは初めて、皇后をはじめとした7人の妃たちをリアルで見た。といっても、頭を下げていたので裳から下しか見えてないが。
仕事 (裏じゃなくて表の) も順調。
巽龍君は何を出しても 「美味であるっ!」 と満足して食べてくれるし、問題だった丘疹や唇の荒れも、いつのまにか治っている。
初めのうち、なにかとつっかかかってきていた熱血ツンデレ美少女顔宦官の寧凛も、わたしのことを 『師匠』 と呼ぶまでになった。ツンデレぶりは相変わらずだけどね。
もともとこの世界では、主人に食事を作るのは近侍内官のサービス (いわば、それだけ主人のことを思っております、というアピール) だから……
悔しがってるより、自分も料理を習得して巽龍君に食事をお出ししよう、という方向に切り替えたんだろうな、寧凛。
それはさておき、珈琲である。
思い出したら、飲みたくてたまらない。なにしろ前世のわたしは、かなりのコーヒー党だったのだ。
「…… 夜半の煩悩、客船に至る…… 珈琲…… 輸入とかできないのかなあ…… いや無理か。まだ大陸発見されてないしな、この世界」
「さっきから珈琲珈琲って、なんなんですか、梓恩さん」
「幻の飲み物……」
「また、奇妙なことを」
寧凛がささがきの手を休めて、軽く振った。
そうそう、初めてだと、手、疲れちゃうよねえ。
ささがきは硬い野菜を、笹の葉みたいな形と大きさに、薄く細くそいでいく切りかただ。慣れてないと手に余分な力が入って、けっこうしんどい。時間もかかる。
「幻って、それ、おいしいんですか、師匠?」
「もちろんですよ、寧凛さん。なにしろ珈琲は神の飲み物ですから。はあ、飲みた…… 「神の飲み物とな!?」
急に、わたしの背後から凛々しい声がした。
皇太子殿下、巽龍君だ。
「坊っちゃま…… 厨房まで、わざわざお越しくださいますとは」
「うむ。なにか良い香りがするのでな! 昼食がなにか、気になったのだ!」
言われてみれば、厨房は晴れた日の野原みたいな牛蒡の香りでいっぱいだ。草と土と、それからお日さま。
「本日は、牛蒡の根をお出しする予定でございます」
「牛蒡の根!? 食せるのか!?」
「はい。この国では種子を薬とすることが多いのですが、じつは根も、このように香り高く、ほのかに甘く美味なのです。お料理は、炸牛蒡や蓮根といっしょに金皮拉、汁物など……」
「わかった、楽しみにしている!」
皇太子の顔が、ぱあっと明るくなる。まるっきり、食べ盛りの親戚の子だ。
まかせなさい! お姉ちゃんが、おいしいごはんを作ってあげるからね。
「ところで、先ほど言っていた、神の飲み物とやらも…… 牛蒡を使うのか?」
「あ、それは違います。この国では手に入らない豆を煎っていれたお茶ですから」
「手に入らない? そなた、飲んだことがあるのか、梓恩」
「はい。はるか昔のことですが……」
「どのような味だ?」
「苦いです」
「苦いのか?」
「はい。ですが、おいしいです。あと、眠気をとり集中力を増す効果もあります」
「ほう…… 飲んでみたいな! 梓恩、そなた、なんとかして手に入れられぬのか!?」
「まあ…… 蓬莱山を探す程度には難しいでしょうねえ」
「飲みたいなあ! 飲みたいなあ! 飲みたいなあ!」
殿下が、しっぽ振ってとびついてくる子犬に見える…… かわいすぎか。
えーと、とわたしは少し考えこんだ。
なにか、代わりになるもの…… ん? そういえば、アレがあったんじゃない?
「ええと…… そのものは無理ですが、似せたものでしたら、なんとかなるかもしれません」
「わかったぞ! 楽しみにしているからな、梓恩!」
「はっ。精一杯つとめさせていたただきます」
下げた頭をあげたころには、皇太子はすでに厨房の外だった。これから、会議の見学だろう。教育係の大臣に解説してもらいつつ、実地で政務を学ぶのだ。
わたしは寧凛にきいてみた。
「寧凛さんは、会議の見学に行かないんですか?」
―― 本来なら、寧凛も皇太子に付き添って会議を見学するはずだ。
寧凛はもともと、皇太子の学友とも侍従ともなるべく採用された少年 ―― 後宮に仕えるためにナニを切ってしまったとはいえ、将来は皇帝の側近の地位が約束されている身なのである。学び次第では、宰相よりもさらに近しい皇帝のご意見番として、権力を握れるだろう。いまの内侍総官が、そうであるように。
なのに寧凛は、ずっとわたしを手伝ってくれている……
「寧凛さん。そこまで、こちらに気をつかってくれなくても、大丈夫ですよ?」
「いえ。私は、梓恩さんが奇妙な食材を使わぬよう、監視しなければなりませんから!」
「それならいいですけど…… 会議、行きたくなったら遠慮せずに行ってくださいね?」
「わかっています。大丈夫ですよ…… それより、先ほど、坊っちゃまに約束してました珈琲。どうされるんですか?」
「ちょっと思い付いたことがあるんですよ。あとで、採りにいきましょうか」
「採りに、ですか? 幻だったのでは……」
「代わりに、いいものがあるんです。すぐ近くに、ね」
そう。ここ後宮では、アレがそろそろ、収穫どきを迎えているのだ。
珈琲豆は手に入らなくても、アレなら、大量にある。
色と苦味はアレを焦がして出すとして、あとは、アレとアレとアレで……
―― うん。できそうだ。
珈琲っぽいものが……!
考えるだけでつい、顔がゆるんできちゃう。
わたしはうきうきと、昼食作りを終えたのだった。