閑話1 夜明け前
【博鷹 (義兄) 視点】
「じゃ、行ってきますね、博鷹兄さん」
「ん。気をつけろよ…… まあ梓恩なら、バレる心配もないだろうが」
「ええ。その辺は、本当に。疑われても、いませんからね」
啓明のほのかな光のなか、梓恩が宦官服の胸を張る ――
この仕事を頭領から押しつけられた当初は 「暗殺なんて無理よりの無理」 と涙目でボヤいていた彼女だが、実際に仕事が始まってみると、楽しそうに後宮に通っている (宦官は侍従以外は通勤制なのだ)。
本当に、楽しいのだろう。
なにしろ最近は、博鷹が仕事のことを梓恩に聞くと、万の鈴の音の気をシャラァァン、と全身から放ちそうな勢いで、こう返されるのだから ――
『漢方養生のことを考えて食事を作ればいいだけなんで! これはもう、養生慢活と言っても、過言ではありません』
昔から健康ネタが大好きだった梓恩だが、この仕事を始めてから、やたら 『漢方養生』 とか言うようになった。
漢だなんて、そんな辺境の国のなにがいいのだろう、と博鷹は思ってしまうのだが。
―― ともかくも、博鷹としては、梓恩の 『仕事』 は気がかりだらけである。
「ああ、その美少年顔で絶壁じゃ、性別はバレようがないだろ。心配なのは 『斑蝥の毒』 のほうだ。養生にばかり夢中になって、警戒を怠ってはいないだろうな?」
博鷹の気遣いゼロの発言に、一瞬ムッとした梓恩。だが、すぐに笑みを浮かべた。
「任せてください。少しずつ、少しずつ…… 決してバレないように、時間をかけて盛ってみせますから」
「そうか…… ほかに適任者がいれば、よかったんだが…… すまないな」
「いえいえ。もぐのがイヤなのは、わかりますから。じゃ、行ってきますね」
夜明け前の道を、小走りにかけていく梓恩の後ろ姿を見送った博鷹は、懐から参考書と短刀を出した。
片手で参考書を広げつつ、片手で短刀を無造作に投げる。
短刀は、すぐそばの茂みの1点をあやまたず突く ―― がさり、と茂みが揺れた。
茂みから姿を現したのは、中肉中背の、柔和な顔立ちの男。商人のようないでたち ―― 人混みのなかにいたら、まず見逃してしまいそうな凡庸な雰囲気を身にまとっている。
この男が暗殺一家の長、夷千峨と…… 相対するだけで身の裡が震えてしまうような刺客だと、知っている者が何人いようか。
しかしいま、千峨はのんびりとした顔つきのまま、手にした短刀を博鷹に投げ返す。
木の実でも放るかのような、雑な仕草…… なのに狙っていたかのような眉間に落ちる切尖を、博鷹は参考書から目を離さぬまま避け、その柄を片手でつかむ。
そのまま地を蹴って跳躍し、相手の風府 (後頭部付け根の中央) をめがけて短刀を繰り出す…… しかし攻撃は、わずかに身体をひねる動作だけで避けられてしまう。
思わず舌打ちをすると、千峨が笑った。
「ずいぶんなご挨拶だな、博鷹」
「それはこっちのセリフですよ、おやっさん…… なんの用ですか」
「なに、近くに寄ったものでね。我が子たちが、どうしているのか見にきただけだよ」
「変わらずですよ」
博鷹は参考書の頁を、これ見よがしにめくってみせた。
「用が無いのなら、帰ってください。忙しいんです」
「科挙か…… なんなら、縁故を使ってやっても、いいんだぞ?」
「ふん…… 前から言っているでしょう? それじゃ意味がない」
「その矜持の高さは、誰に似たのやら……」
やれやれ、と千峨はわざとらしく溜め息をつくと、荷物をかつぎなおして歩き出した。
「まあ、じゃあな。報告はいつものところで、また聞くよ」
「いったい、なんのために来たんですか……」
とっと去れ、と内心で毒を吐いていた博鷹は、次の瞬間、固まった。
その耳に、ひとりごとのような呟きが届いたからだ。
「おお、そうそう。星が勘づいたぞ」
「なんですって」
「まあ、梓恩なら、なんとかするだろ」
「そんな無責任な……!」
すでに千峨は、向こうの往来である。
博鷹は懐に参考書をしまうと、禁城のほうへとかけだした。
―― まったく、こうも心配事が多くては、受験勉強どころではない。