1-2. 梓恩、出勤する
禁城についたころには、空はほんのりと明るみを増していた。皇太子の起床まではあと一刻ほどか…… いそがなきゃ。
まだ青い実をつけたネズミモチの垣沿いに、後宮に近い玄武門へと走る。
「梓恩さん?」
宦官専用の通用口で門衛に名札をみせていると、門の内側から人懐こそうな声がした。
宦官服の少年がこちらに向かって拱手している。歳はわたしと同じくらい。16、7歳といったところだが……
羨ましいくらいの美少女顔だ。
白く滑らかな肌、濡れたような黒目がちの瞳。目鼻口眉のどこをとっても形のいいパーツがバランスよく並び、朝露をのせた薔薇のつぼみのようにみずみずしい。
たしか、ゲームでは貴重な攻略対象 (年下枠) だったはず。名前は、えーと。
「東宮内侍の蔡寧凛です。新任の梓恩さんですよね?」
「はい。新しく東宮づきになりました、夷梓恩です。初めまして、蔡さん」
「寧凛と呼んでください。坊っちゃまもそう呼んでおられるので」
では参りましょう、と寧凛がきびすを返す。
わたしたちは人通りのない広い道を、やや急ぎ足で進んでいった。
「あの、坊っちゃまって、皇太子殿下のことですか?」
「ええ。内侍は皇帝陛下のことをご主人さま、皇太子殿下すなわち巽龍君のことを、坊っちゃまとお呼びします。皇后陛下は奥さまで、弟君の雅雲殿下のことは小坊っちゃまとか、二の坊っちゃまとか…… 一般のご家庭と同じにすることで、お心を休めていただこうという配慮です」
「へえ……」
皇家、思っていたよりフレンドリー。
通用門からすぐは倉庫群。宮廷で必要なものはだいたい、ここにおさまっている。
そこを抜けると、錆水と呼ばれる河のほとりに妃たちの宮殿が立ち並ぶ。
北から、三美人の禧宮、碧宮、琅宮。中央に皇后の夏の住まいになっている永宮、そのさらに南は階級の高い三妃の莉宮、嵩宮、珠宮。もらった地図ではそうなっていた。宮と妃の呼び名は同じで、それぞれの出身地方の名である。
宮殿もそれぞれ、妃の出身地方の城のレプリカ。前世ヨーロッパの城っぽいのから、いかにも中華らしいたたずまいのものまで…… 歩くだけで、ちょっと楽しい。
ちなみに皇太子の暮らす東宮は永宮の向かいにあり、禁城の本宮とは渡り廊下でつながっている。
「つきましたよ。僕たち使用人は、厨房近くの裏口から入ります。厨房はこちらです」
巡らされた塀のなかは、小川の巡らされた庭園だった。きちっと整備された庭というよりは自然に近い感じだ。ピクニックできそう。
「さっそくですみませんが、坊っちゃまの朝食、お願いできますか?」
「もちろんですよ。そのための早朝出勤でしょう?」
「助かります。僕は料理が全然できないので…… うぶっ」
申し訳ないのと悔しいのと半々。そんな顔をする寧凛の背後から、とつぜん、小柄な人影が走りよってきて、寧凛にタックルした。
寧凛が 「うっ」 と口元を押さえて涙目になる。舌を噛んじゃったみたい。
「坊っぢゃま…… おはようございます」
「うむ!」
「朝の鍛練、ご熱心ですね」
「今日こそは師範に、参りました、と言わせたくてな! そっちは、新しい召し使いか?」
「はい。食事担当の者です」
「梓恩と申します」
わたしが寧凛にあわせ、拱手して頭を下げると、少年は 「うむ! しっかり働いてくれ!」 と笑った。
皇太子、永巽龍―― くっきりした目鼻立ちに、やや濃いめのきれいに弧をえがく眉。赤い唇の近くにポツッと出たニキビが年齢相応な感じだ。そして笑うと両のほおにえくぼができて、偉そうな口調でも嫌みにならない。
こんなかわいい子を殺そうなんて…… 考えるのは人間じゃないね?
「私はもう少し鍛練をする! 温かい朝食、楽しみにしているぞ、梓恩!」
「はっ。精一杯、つとめさせていただきます」
わたしがより深く頭を下げると、巽龍君は素振りをしながら 「では、あとでな」 と行ってしまった。
まだ子どもらしい背中。見送りつつ、思わずつぶやく。
「温かい朝食って……? まず、そこなの?」
「それはですね、東宮のいまの召し使いが、誰も料理できないからなんですよ」
―― 寧凛の説明によると。
皇太子殿下こと巽龍君は、12歳になったこの春、それまで皇后と暮らしていた禁城の中宮から東宮に移ったそうだ。
しかし一緒に東宮に移った皇太子づきの宦官には、料理できる者がいなかった。
こうした場合、貴人の食をまかなうのは宮中に食を提供する尚食局の役割になるのだが…… 問題は、そこが東宮から離れすぎていることである。
尚食でつくった食事を東宮まで運ぶころには、いくら頑張っても料理が冷めてしまうのだ。
がまんできなくなった巽龍君が温かい料理を切望した結果、料理ができる使用人を雇うことになったのだという。
―― なるほど。
そこを暗殺依頼主につけいられて、わたしが潜りこむことになった、ってわけね。
依頼主が誰かというのは、頭領しか知らないんだけど…… きっと、内情に詳しい高官か妃なんだろうな。やだな。
けど。
真正の暗殺者じゃなくて、わたしが来た時点で巽龍君は運が良かった。きっとそう。
寧凛が、情けなさそうに下を向く。
「私が料理できれば良かったんですが、生まれてこのかた、包丁を握ったことがないんです……」
「大丈夫、おまかせください」
どうやら宮廷でのわたしの仕事は、考えていた以上に、食に片寄るようだ。
食といえば、養生の基本 ―― 前世で無駄に溜めこんでいた知識が、めっちゃ活かせそうな予感。
育ち盛りの可愛い子には、いろんなものを食べさせてあげなきゃね。それに、もし莉宮の女官と仲良くなれれば、作った料理を莉妃におすそわけする機会もあるかもしれない。
―― 考えてたら、わくわくしてきた。
よし。まずは、朝食づくりからだ……
厨房に入ると、わたしはさっそく、食材のチェックを始めた。