5-3. 梓恩、お粥を食す
「越境したら突き飛ばすって約束だったじゃないですかっ、梓恩さんっ!」
「いや普通、それ、できます? 人として」
「ぜんぜんできますよっ! もし僕なら、黙って乗っかられてたり、絶対にしませんからっ」
いや、黙って乗っかられたり、どころか。ホールドしてたんですよ。ぎゅっと。わたしが。
…… とは、とても白状できない。もにゅもにゅと口のなかで返事し、わたしは大きな丼に盛られたお粥に目を落とした。
お米の優しい白と、ふちに散らされた鮮やかな若菜色。真ん中には時間をかけて柔らかく炊きあげられた鶏肉。枸杞の実と葱と生姜入りの、香芹のお粥 ―― わたしと寧凛は、外廷のお粥屋で朝ごはん中なのだ。
店には温かい湯気が充満していて、宿直や早出の宦官たちでそこそこ賑わっている。
「それにしても、早朝からこんな立派なお粥を用意してくれてるなんて…… お店の人、神ですかね?」
「話をそらさないでくださいよっ、梓恩さん!」
「いやもう過ぎたことだし良いじゃないですか、あんまりカリカリしてると、肝火があがって養生にわるいですよ…… はい、いただきましょう、いただきます」
わたしにつられて手を合わせる寧凛のほおは、ぷう、とふくれたまま ―― これで 『寝ぼけて、わたしをペロペロしてましたよ』 とかバラしたら、いったいどうなるんだろう。めっちゃ気になる。かわいそうだから、言わないけど。
もっとも、寧凛のふくれっ面は、お粥のひとくちめで、あっというまに治ってしまった。
草のなかに封じ込められた、春の風と雪解け水が、口に入れた瞬間にぱっと弾けて、広がる…… 香芹の、みずみずしく爽やかな香りと食感はまさに、この季節そのものだ。
春って、いいな。
「坊っちゃまのお食事にも、ぜひとも香芹を投入しなければ……」
「……っ 梓恩さんに、たまには、まともなものを使おうという意識があって、なによりですっ」
「ふふ。そんなふうに言われると、照れちゃいますね」
「ほめてませんからっ」
もうね、この安定のツンデレ感がね…… 寧凛には、ずっと、このままでいてほしい。
お粥を食べながら、わたしと寧凛は、ぼそぼそおしゃべりを続ける。内容としては、割かしどうでもいいこと3割、巽龍君の食事のこと5割ていどで、残りの2割が皇后陛下の不調についてだった。
「奥さまは、坊っちゃまと同じで、少し熱を溜めやすいご体質とは思いますが…… 基本、健康なおかたですよね?」
「はい。これまでも、大きな病気などにかかられたことは、ないはずです。おカゼなども、めったに、ひかれませんし……」
「そんな感じですよね。ご不調って、どうされたんでしょうか……」
「たいしたことでないと、いいですね」
坊っちゃまもまだ、お若いですし…… 寧凛のつぶやきが、ぽとりとお粥に落ちた。
―― 後宮妃たちの寿命は、だいたい短い。
美人薄命なんて言葉があるけれど、つまりは運動不足とバランスを欠いた食事とストレスの大きい環境で、健康を損なってしまう結果なんである。
そうして、食欲と気力を失い、寝たきりになって枯れた花のように散っていく……
そんな女性を何人も、幼いころから巽龍君に仕えていた寧凛は、見てきたのかもしれない。
「ま、ちょっとした不調なら、気血を補って、からだの巡りをよくすれば解決ですから。それより朝ごはん、食べちゃいましょう」
「梓恩さんって、ときどき、腹立つくらい、のんきですよねっ」
「いやあ、それほどでも」
「だから、ほめてませんっ」
わたしと寧凛がお粥を食べ終わり、東宮に戻ったころには、東の地平線がほのぼのと明るくなっていた。
さあ、今日も張り切って、わたしたちの坊っちゃまの食事を作ろう。
出かける前から、とろ火にかけておいた鶏ダシのスープはいい感じにコトコト煮えてる。これに枸杞の実と生姜、米を入れて、煮えたら軽く焼いた公魚を入れて、刻んだ款冬を散らす。
お粥を煮るあいだに、筆頭菜の調理。水をよく切って胡麻油で炒めていると、巽龍君がひょっこり顔を出した。早起きだな。
寧凛があわてて前掛けを外す。
「坊っちゃま、お着替えをお手伝いいたしますっ」
「うむ、たのむぞ寧凛! ところで、梓恩」
「はっ、えーと、手を休められないので、このままで失礼いたしますが、おはようございます、坊っちゃま」
「うむ! で、それが筆頭菜だな! ずいぶんとしなびたようだが!?」
「はい。火を入れると、こうなるのですよ。これから、醤油と酒、蜂蜜で甘辛く味つけしまして、お粥といっしょにお出しする予定です」
「うむ! 楽しみにしているぞ! 母君のぶんを包むのを忘れないでくれ!」
「はっ。心得てございます」
寧凛と巽龍君が着替えのために抜けたあと、わたしはバタバタと動きまわった。
筆頭菜、よし。あとで、皇后に贈るための器と、それを包む絹布を巽龍君に選んでもらおう。
それから、お粥も、よし。アツアツの鍋に款冬を散らすと、春のかおりがぱっと立ちのぼった。ふううう幸せ……
「梓恩さん、坊っちゃまと二の坊っちゃまが、席につかれました」
「了解です」
器に料理を盛って、給仕するのは寧凛の仕事。いやあ美しい盛りっぷりだわ。さすが。
わたしは、甜点作りに入る。
昨晩、作っておいた干酪に季節の果物を添え、蜂蜜をかけるだけの簡単レシピだが……
「美味であるっ!」 「はい、とても、おいしいです」
かわいすぎるご兄弟は、今日も大絶賛してくれたのだった。
さて、朝食のあとは、いよいよ、皇后のお見舞いだ。巽龍君は筆頭菜の器に、赤漆に金銀で六博盤の模様が描かれたものを選んだ。
「そんなに奥さまがご心配なら、素直におっしゃればよろしいのに」
「なんのことかわからぬぞ、梓恩! 私は単に、六博が大好きなだけだぞ!?」
「はい。かしこまりまして、ございます」
「うむ! わかれば、よい! さあ、さっさと用事を済ませてしまうぞ!」
巽龍君はあくまでもクールを装いたいみたいだけど、バレると思うな。
―― だって、六博に魔除けの意味があることなんて、この世界の誰もが知ってるんだから。
「なんだ、心配してくれたのか、宝龍ちゅあん? 宝雲もきてくれたのだな、嬉しいぞ」
「あの、皇后陛下にお見舞い申し上げます…… おかげんは、いかがでしょうか」
「ありがとう、宝雲。なに、少し頭痛や耳鳴りがするだけだ。薬湯も飲んでおるし、じき、治ろう」
連れだってお見舞いに行ってみると、皇后は意外と、お元気そうだった。巽龍君と雅雲君を同時に抱きしめて、ほおずりしてる。
雅雲君が固くなりながらも、礼儀ただしく挨拶する一方、巽龍君は手足をジタバタさせてもがいている。
「はなしてくださいっ! もう、子どもじゃないんですっ!」
「わかっているが、まあ、よいではないか。ほーれ、すりすりすりすりぃ!」
むしろ皇后、いつもよりテンション高いような…… あ、白目がちょっと充血してる。とすると、このテンションは、我が子に心配かけないための演技か…… ほろり。
「違うんですっ! 今日だって、梓恩の料理をおすそわけに参っただけで……!」
「おお、それ、筆頭菜だったかな。料理に使うとは、珍しい。なにか効能があるのか、梓恩よ」
「はっ。筆頭菜には血にこもった熱を取り、炎症をしずめる作用が期待できます。筆頭菜を乾燥したものには、余分な水分を取り排出する効能があるとされ、腎や膀胱、浮腫の治療に使われますが……」
「ふむ」
「ですが、ややこしいことはお考えにならず、この季節だけの天地の恵みをおいしく味わわれることこそが、いちばんの養生かと」
「それもそうだ」
からからと口を大きく開けて笑う皇后。
さっそく食べたくなってきた、と女官に皿と箸を用意させる。
「お毒味を……」
「不要。我が子の土産を疑えというのか?」
豪快に言い放ち、箸を取った、次の瞬間 ――
皇后の手が、固まったように見えた。
箸が、ぽろっと手から離れ、落ちていく。




