第五話 箱わな
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日下始は、こんなふうにして。イヌと名付けた、灰色の犬との共同生活を。手さぐりですすめていった。
日下自身は。犬にむかって。
お前のことが、アパートを管理している不動産屋に気付かれる前に。いや、それよりも。あの、おっかない女研究者にバレる前に。早く出ていってくれ。おれを解放してくれ。
そんなふうに愚痴るのをくりかえしたが。
犬のほうは、日下の要求を無視して。彼の部屋に居座り続けた。
日下自身は気付いていなかったが。こうして犬と暮らし始めたことで。日下の生活は、少しずつだが、変化をしていた。
将来に希望や期待を持っておらず、自暴自棄でいた、五十歳の男の生活は。ほんの少しずつだが、よい方向に変わり始めたのだ。
日下は、毎日決まった時間に早起きをすると。犬のために部屋のドアをあけてやって。出勤前には、犬といっしょに、朝の散歩をするようになった。
仕事中は、犬のことを考えていて。仕事を終えて、アパートにもどってくれば。帰りを待っていた犬に、夕食をあたえて。夜の散歩をするようになった。
自分のことだけではなく、犬のことを考えて行動するようになった。
たわいがない、といえばたわいがないが。この新たな習慣のおかげで。男の生活に、張り合いが生まれて。目的が生じて。精神的にも、肉体的にも、改善されていったのである。
それと同時に、日下は毎日、区役所に出かけて行って。集められた投書のデータ化を続けた。
それにより、日下始は、新たな事実を知ることになる。
例の犬たちの目撃情報が増えてきていた。
野犬たちは、いまでは。この町で暮らす、多くの人々に、目撃されるようになっていた。
そして、住民からの目撃情報が増えて。集められた目撃情報に目を通すことで。日下にも、野犬たちの姿や、犬たちの行動の特徴がだんだんとわかってきた。
(増えた情報から、野犬たちの具体的な姿や、野犬たちの行動の特徴が。日下にも把握できるようになった。)
それは、次のようになる。
野犬たちは、基本的に、夜にあらわれる。
彼らは、単独ではなくて、群れで行動をする。
その数は、少ないときは、三頭程度だが。多いときには、八頭から九頭に増えて。ときには、十頭をこえる数にもなる。
野犬たちの目的は、都内の各所にある集積所に集められた、ゴミ箱をあさることだ。
この町の住民がだす、家庭ごみ、飲食店の残飯、廃棄された販売店の食品。こうしたゴミをあさって、食べられるものを食べて、野犬たちは生活をしている。
犬たちは、同じ移動ルートを巡回することが多い。
ただし、だからといって。犬たちが出現する場所や、姿をあらわす時刻が。毎回、必ず決まっているわけではない。
なにかあると、犬たちは突然に、前日とは10キロメートル以上も離れている別の区にあらわれて。そこのゴミ集積所を荒らしたりもする。
このように、犬たちは。予測するのが難しい行動をとっている。
ところで。なぜ目撃される野犬たちの集団の頭数が変わるのか。日下は、最初は理由がわからなかった。
(彼は、あとでその理由を知ることになる。)
群れには。大型犬、小型犬もいたが。ほかにも、三頭から四頭の、灰色の中型犬がいた。
じつは、犬たちの頭数が変わる理由は、飼い主のもとから逃げた飼い犬たちがくわわることで。不定数の、野犬の集団ができていたからだった。
そして。三頭からいる灰色の犬たちが、飼い犬たちを仲間にくわえて、群れをひきいていたのだった。
ほかにもある。
このように、都心に、数十年ぶりに野犬があらわれて。都民から、その目撃情報がよせられたことで。
紅林さやかが、区役所の窓口で、いますぐに実行するように言った。行政による野犬の捕獲が、開始されていた。
要請をうけた保健所の職員たちが、狂犬病予防法にのっとり、問題の野犬をつかまえようと、行動を始めたのだった。
保健所の職員たちは、野生動物をつかまえる罠で、野犬たちをつかまえようとした
使われたのは、箱わな、とよばれる仕掛けだった。
箱わなは、ほかにも、有害鳥獣対策捕獲檻や。シンプルに、捕獲檻とよばれたりもする。
(厳密にはそれぞれ違うのかも知れないが、構造や仕組みは、基本的には同じものになる?)
箱わな、の外観は。金属枠に、金属メッシュをはったパーツを組み合わせた、四角い箱型のオリのようになる。
構造は、箱の内部にほどこした仕掛けを動かすことで。入り口と出口のパーツが閉まって、入った動物が出られなくなる。というものだ、
箱わなは、イタチやテン、リスなどの小型の動物を始め。イノシシやシカなどの大型獣の捕獲にも使用されている。
またそのほかにも、カラスのような害獣に指定された鳥の捕獲にも使われる。
(イタチやテン、リスなどな、小さな動物をつかまえる場合には。メッシュの網目が細かい、サイズが小さい箱わなを選ぶようにする。網目を細かくすることで、それにより、内部からのすり抜けをふせぐためだ)
今回、保健所の職員が野犬の捕獲のために用意したのは。イノシシやシカなどをつかまえるのに使う、大型の箱わなだった。
サイズは、高さと幅が、それぞれ1メートル。奥行きは2メートル程度もある。
4ミリのワイヤーを使うことで。とらえられたイノシシが逃げようと暴れても、網を食いちぎれない強度をそなえている。
この箱わなは、獲物に警戒心を抱かれないように、2か所ある落とし扉をあげておく、両扉式だった。
誘い込まれた獲物が、箱内にぶらさげてあるエサをとろうと仕掛けをひっぱったり。
箱内におかれた板の上に足を置くことで。仕掛けが働いて、二か所の扉が落ちて閉まる。「エサ別方式」「踏み板地方式」というものになる。
保健所の職員は。野犬の目撃情報があった区に、この箱わなを車両で何セットも運び込むと。
野犬を目撃した場所を中心に、組み立てた箱わなを設置していった。
(保健所の職員は。野犬があらわれた場所を調べて。それをもとに野犬たちの移動ルートを想定すると。そのルートの要所要所に、箱わなをしかけていった)
その結果は。犬たちをつかまえたことはつかまえたのだが。つかまったのは飼い犬だった野良犬たちだった。というわけだ。
野犬たちは。基本的には。同じ区内を、毎日同じルートで、移動をくりかえしていたが。
なにか危険な出来事が起きると、その移動ルートは使わなくなってしまい。次回は別の移動ルートに変える、というルーティンをとっていた。
(日下が遭遇したのが、どうやら、このときだった)
大型犬、小型犬、と。野良犬が次々に箱わなにかかって、つかまったので。職員たちは、この成果に、最初は喜んだ。
だがその後も。野犬の出没が続くのを知って。職員は、そこで自分たちのあやまちに気付いた。
群れをひきいているのは、目撃情報にもあった灰色の犬たちであって。灰色の犬たちをつかまえなければ、野犬たちの出没は終わらない。野犬たちの、好き勝手なふるまいも続く。とようやく気付いたのだ。
けっきょくは、数は減ったものの、野犬たちは、都内の各所に、その後もあらわれ続けた。
犬たちは、夜のあいだに、町中にいくらでもあるゴミ箱をあさって。保健所の職員が設置する箱わなには近づきもせずに。移動ルートを変えながら、自由で勝手なふるまいを続けたのだった。
この灰色の犬たちは。保健所の職員たちがそれまで捕獲してきた、野良犬や野犬や。イノシシやシカなどの野生動物よりも、ずっと、かしこかった。
いくら、野良犬が好みそうな。うまそうな、魅力的なエサを用意しても。灰色の犬たちは、決して箱わなに入らなかった。
ほかの犬は入っても。灰色の犬たちは、箱わなを避けて。ごみ箱をあさって、自分たちの食料を得ることを続けた。
どうして、ほかの動物には識別ができない、箱わなの存在を察知して。それが危険だ、と回避できるのか。だれにも見当がつかなかったが。
灰色の犬たちは、つかまらずに逃げのびて。保健所の職員を翻弄したのだった。
こんなことは初めてだった。
日下は、灰色の犬たちと、保健所の職員たちとの、ゲームじみた争いの様子を。仕事でデータ化している、市民の投書の内容から知ったわけではなかった。
都内に出現する野犬の群れのことは。この頃には、すでに。スマホで見ることができる、SNSのニュースでとりあげられるようになっていた。
野犬を捕獲しようと、保健所の職員が箱わなを仕掛けて。それが失敗する様子は。面白おかしく、いくつものニュースサイトで話題にされていた。
自分のもとに集まってくる、紙の投書に書かれた犬たちのことが。昼の休憩時間に見ている、スマホの画面に表示されている、最新ニュースとしてとりあげられた犬たちと、同一の存在だ、と知ったときは。
あるいは、いま自分が借りているアパートの部屋で寝ている、あの灰色の犬のことだ、と気付いたときは。
驚きのあまりに、日下は区役所の物置小屋で。思わず声をあげていた。
そのあとで、いろいろと心配になってしまい。自分のいまの様子をだれかに見られたのではないか。怪しまれたのではないか、と。日下は、キョロキョロとまわりを見回す。
その日、アパートに帰った日下は。
テレビのニュースで、灰色の犬たちが、保健所の職員たちを翻弄して。世間の連中が、それに大喜びをしているのを見て。
自分の足もとに寝ている、犬のことを見下ろして。なんともいえない表情になる。