第四話 ワクチン接種
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名刺には、紅林さやか、とある。
それが、あの女性の名前らしい。
区役所の職員を相手に、あれだけえらそうな態度でふるまっていたのだから。
もしかすると、あの女性は、公務員よりも立場が上な存在なんじゃないだろうか。
そう思った日下だったが。名刺を見るかぎり、そうは思えなかった。
名刺によれば、さやかは。××製薬、という。大手製薬メーカーの研究者で。さやかの肩書きは、そこの主任研究者、になっている。
なのにどうして。高圧的な態度で、指示をしたり、命令ができたのか。
その理由は、(名刺によれば)さやかが現在、参加している。国が主導する医薬品プロジェクトにおける有名な研究チームと関係があるから、らしい。
それではそこで、紅林さやか、という女性が、いったいどんなことを研究しているのか。というと……。
気になった日下は。研究チームの名前と、女性の名前で、スマホで検索をしてみる。
すると。厚生労働省が主導をする、認知症の治療薬開発プロジェクト、というのがでてきた。
どうやらこの女性は、この医薬品関係のプロジェクトチームで、なにか重要なことをやっているらしい。
ほかにも、この女性がこれまでやってきた研究について、紹介記事がぞろぞろとでてくる。
でもそれ以上は、専門用語がならぶ文章を読むのが面倒くさくなってしまい。日下は調べるのをやめてしまう。
日下は、仕事を終えて。借りているアパートの部屋に帰ってくる。
出したままにしてあった、折りたたみ式の小さなテーブルの上に、もらった名刺を置く。
日下は、それから。その名刺と。寝床で寝ている、灰色の犬とを。交互に見る。
「まいったよなぁ……。どうしたものかなぁ……」
すぐには、結論をだせない。なので。日下は、その場にすわって、あぐらをかく。
名刺と、犬とを、何度も見比べながら。日下は、再びまた、考え込んでしまう。
いいや。本当は。べつに。こんなふうに、むずかしい顔で、思い悩む必要はないのだ。
どうすればいいのかは、ハッキリしている。とるべき選択は、ひとつしかない。答えは、でている。
わたされた名刺には、連絡先の電話番号も、メールアドレスも記載されている。
いますぐに、ここに連絡を入れて。
そちらがさがしている、感染症にかかった危険な犬は、ここにいます。私の目の前で寝ています。
ですから、すぐに、ここまでつかまえにきてください。大急ぎで、大至急で、お願いします。
そう連絡すればいいのだ。それでいいのだ。それだけのことだ。
日下は、決意すると。スマホをとりだして、電話をかけるために数字のボタンを操作する。
でも途中で、その手がとまる。
スマホをしまうと、日下は犬によびかける。
「……なあ。教えてくれないか? おまえは、危険な感染症にかかっているのか? そういう病気にかかっている状態で、おれを噛むのか? そのつもりでいるのか……?」
目の前でまるくなっている犬に。見た目は。
両手をまわしてかかえられるサイズをした。毛が生えたかたまりにむかって。
日下は、ためらいながらも、そうきいてみる。
毛皮に覆われた、もりあがった背中は。よく見れば、呼吸するたびに、ゆっくりと上下している。
その、ゆるやかで規則正しい呼吸の動きから判断して、どうやら犬は、いま寝ているらしい。
寝ている犬の背中にむかって、日下は。ばかばかしいと思いながらも。
今日、なにがあったのかを。ためらいながら、話していく。
「おれは、紅林さやか、という研究者に会ったんだ。
その人が言うには、おまえは狂犬病のような危険な病気にかかっているから、つかまえなくちゃならない。
発見と捕獲に協力してくれ。みつけしだいに指定の番号に連絡してくれ。そう言われたんだ。
でもおれが見たところ、おまえは。だれかれかまわずに噛みつく、錯乱状態じゃない。そんなことにはなっていない。むしろ、犬とは思えないくらいに、賢明な行動をとっている。
ということは、病気にかかっている、ってのは。デマじゃないかって。気がするんだよ……。
それとも、おれの判断が間違っているんだろうか。
いまおまえは、危険な病気の潜伏期間なだけで。病気が発症して噛みつかれる前に、この名刺の番号に。あの人に連絡をして。ひきとってもらうべきなんだろうか?
おまえは、どう思うね? これは、おまえの今後にかかわることなんだから。おまえの意見をきかせてもらわないと困るんだよ。今度ばかりは無視するなよ。おい、黙ってないで。なんとかいえよ……」
日下は、深刻な表情で。まるまった犬にむかって。そうやって、呼びかけたり、問いかけたりするが。
犬は。日下が帰ってきたときと同じ格好でいる。
くるりとからだをまるめると、右の臀部あたりに、自分の頭部をくっつけて。自分の顔を、ふさふさした尾で隠した、その恰好のままでいる。
「もしかすると、おまえ。寝ているのか? いい気なもんだな。このままでいたら、つかまって、処分されるかもしれない、ってのに。まったく……」
いくら待っても、返事がないので。日下は立ちあがって、犬に近づくと。おっかなびっくり、尾をつまんで持ちあげて、のぞきこむ。
ふさふさの尾で隠れていたその下から。右側をむいた、毛が生えている面長の顔と。
ぱっちりと見開かれた、白目のある、まるい黒目があらわれて。その目が、日下を見る。両者の視線が合う。
「び、びっくりした……」
どうやら、犬は寝ているフリをしていただけで。まるまった格好で、日下が話すことに耳をかたむけて、ジッときいていたらしい。
「……」
日下は。自分が肝を冷やしたのをごまかすために、またもとのところにもどってあぐらをかくと。
まるまった姿勢で、右目だけ動かして、こちらを見ている毛皮のかたまりにむかって。帰る途中でずっと考えていたことを、声に力を込めて、言いきかせる。
「おい、犬。いいか、よくきけよ。おまえがまだ、ここに居座るつもりなら。おまえには、おれが次に言うことを、やってもらわなくちゃならない。例外はない。これは、絶対にやってもらわなくちゃならないことなんだ。
もしも、おまえが、イヤだ、というなら。おれは名刺のさやかさんに連絡をとって。おまえをつかまえてもらうことにする。
それじゃ、なにをするのかを。いまから、順番をおって説明するから。最後まで、ちゃんときくんだぞ? いいか、まず最初は……」
自分が話していることが伝わっているのかどうかは、皆目見当がつかなかった。けれども。それでも相手が、話をきいているのを信じて。
日下は。目の前でまるまっている、毛皮に覆われた動物にむかって。これからこの動物がやらなければならないイベントについて、できるだけくわしく、わかりやすく、語ってきかせる。
日下が話してきかせるあいだ、灰色の犬は。まるまった格好のままで。これまでもそうしてきたように、ずっと沈黙したままでいた。
「……」
区役所のアルバイトの仕事がない、その週の週末に。
日下は。朝から、ずっとけわしい表情でいる犬を連れて。
アパートからさほど遠くない距離にある(といっても徒歩で1時間以上はかかる)、動物病院に行くことにした。
日下は。スマホで所在地を調べて。数日前に、ちゃんと事前に予約を入れておいた。
その次に。動物病院に行くのだから、と。首輪とリードを事前に購入もした。
でも、つけようとすると。灰色の犬は、歯をむいて唸り声をあげて、それを拒否する。
しかたがないので。日下は。前回と同様に。いつも使っているバックパックに犬を入れて、背中に背負い。タクシーを呼んで、犬を運ぶことにする。
狂犬病は。いまだに患者がでている、非常に危険な感染病になる。
じつは。狂犬病の患者数は、世界的に見れば。毎年、三万五千人から五万人も出ている。
患者が多くでている地域は、アジアになる。
患者の多くは、狂犬病にかかった犬、あるいはネコなどに嚙まれることで、この病気に感染する。
ただし、噛まれても、必ず狂犬病になるわけではない。潜伏期間を経て、この病気は発症する。
そして、この病気が発症した患者は、ほぼ百パーセント、死亡している。
ここまで書いてわかるように。海外では。狂犬病は、身近で起きるかもしれない危険や、自分もかかるかもしれない脅威として、いまも存在している。
ところが日本では。名称は知っていても、狂犬病がどんな病気なのかわからない。という人が多い。
どうしてこうなったのか、というと。一九五六年を最後に。国内では六十年間以上も狂犬病の患者が出ていないからなのだ。
海外では、いまだに危険な病気であるのに。私たちからすれば、狂犬病は、忘れられた過去の病気になっているのだ。
ではなぜ、ほかの国ではおさえられなかった狂犬病を、この国では無くすことに成功したのか、というと。
その理由は。日本が島国であるから、と説明されることが多い。海外から狂犬病の患者や動物が入ってこないように空港や港でチェックすることが、狂犬病の発生をふせいでいる、というのが理由にあげられる。
それから、もうひとつ。狂犬病をふせいでいる、もっと大きな理由がある。
それは。この国で犬を飼うのなら、飼い犬に、年一回の狂犬病のワクチン接種を義務付けたことだ。
犬を飼うのなら、飼い犬にワクチン接種を欠かしてはならない。この決まりのおかげで。狂犬病にかかる犬がいなくなり。病気になった犬に噛まれて狂犬病になる人もいなくなった。そういうわけだ。
動物病院の待ち合い室で、日下は。そんなことを、つらつらと考えてみる。
狂犬病のワクチン接種は、紅林さやかが言っていた、例の未知の感染症に対して、効果はないかも知れない。
でも打っておいたほうがいい。打っておけば、それだけ、安全性は高まるはずだ。気休めでしかないかも知れないが、ワクチンを打っておけば、気持ちは安らぐ。
とはいっても。いま足もとにいる、不機嫌そうな顔をしているこの犬に。いまの話で、ワクチンを注射する必要性をわかってもらえるだろうか?
(犬にわかってもらえるかどうかを、仮定してみるのが。そもそもおかしいのだが)
それに。たとえ、こちらの話を理解できたとしても。犬からしてみれば。この人間のために。なんでそんな痛くてイヤなことを、ワザワザやってやらなくちゃいけないんだ。そういう気持ちになっているはずだ。
そこで日下は、足もとにいる犬にむかって。次のように、言いきかせてやる。
「……おれだって。注射は好きじゃないさ。できるなら、しないですませたい。
でも考えてみろよ。注射を一本我慢するだけで。様子がおかしいほかの犬に噛まれても、あいつのせいで狂犬病にかかったかも、って。心配しなくてもすむようになるんだぜ?
おまえも、野良犬の経験があるんだから。ほかの犬とのイザコザにまきこまれたことがあるはずた。噛まれた知り合いの犬が、そのあとでおかしくなった、と知って。ゾッとしたことがあるんじゃないか?
だったら、今日ここで、注射をしておこうぜ? 痛いのをちょっと我慢すれば、そんな心配とは、しばらくのあいだ、おさらばできるんだ。
注射のせいで、気分が悪くなったり、からだがダルくなったりするかもしれない。でもそんなのは小さいことだ。病気でおかしくなるより、ずっといい。
なによりもだ。おまえなら、できる。おれが保証する。おまえは、ほかの犬とは違う。おれは最初に出会ったときから、すぐにわかったよ。おまえは特別な犬だ。だから注射なんて、へいちゃらだ。
こんなの、ちゃっちゃっとすませて。病気とは無縁の。安全で安心できる生活を、送ろうじゃないか。なあ、犬……」
足もとにおいたバックパックに、半身をつめた格好で。そこから前脚と上半身をだして。横たわっている。不安そうな表情でいる灰色の犬にむかって。
日下は、ぶつぶつと小声で話しかけて。思い付くかぎりの文句をかけてやることで。犬の気をまぎらわせようとした。
待合室には、ほかにも。連れてこられた、小型犬、中型犬、大型犬たちがいて。自分の身にせまった危機への恐怖から。くちぐちに、帰る帰ると、きゃんきゃん、ワンワンと、泣いて騒いでいる。
その大騒ぎのなかにあって。灰色の犬は。ジッと黙りこくって、いつもとかわりなく、落ち着いているように見える。
でもじつは、そう見えるだけで。犬が緊張状態にあって。なにかあれば、縮めたスプリングがはじけるように。建物の出入口にむかって、脱兎のごとく、すっとんで逃げるつもりでいるのは。そのけわしい表情とピリピリとした態度から、日下にも察することができた。
なので、日下はともかく。相手に話し続けることで、相手を落ち着かせようとした。
犬たちにとっては、拷問のような待ち時間が過ぎていく。
ようやく、予約していた日下の名前がよばれて。灰色の犬の順番がまわってくる。
犬が入ったバックパックを両手で持って、日下は病院の診察室に入る。
バックパックから出されて。診察台にのせられた犬を前に。動物病院の医師が、次のような質問をする。
「確認ですが。犬の登録はお済みですか?」
「先生、きいてください。じつは、ですね。この犬は、知人からあずかったのですが。その知人とは音信不通になってしまったのです。鑑札もついていないので、なんという名前の犬なのかもわからないのです」
「ああ、それなら。犬の頸のところに、マイクロチップが入っているかどうかを調べてみましょう。マイクロチップに記録された個体識別番号から、この犬について、なにか情報がわかるかも知れません」
「え。それはちょっと……」
最近の法律で、飼い犬にマイクロチップを入れる義務化がされているのを知らなかった日下は。もしかすると犬の正体が判明してしまい。自分の嘘がバレるのでは、とあせる。
だが犬に専用の読み取り機械をあてて調べても、皮下に埋め込まれたマイクロチップはみつからない。
「どうやらこの犬は、法律の施行前に生まれたのか。飼い主がマイクロチップのことを知っていてもやらなかったのか。そのどちらかのようです」
「な、なるほど。よ、よかった……。それじゃあ、なにかあったときのことを考えて、ここで再登録をお願いできますか?」
「事情はお聞きしましたので。この犬をあなたが引き取るというのなら、あなたの氏名、住所、連絡先を、この書類に記入してください。なにかあったときのことを考えて、犬の写真も撮っておきましょう」
日下が語る、しどろもどろの苦しい説明をきいても。医師は余計なことは言わずに、それに笑顔で応じると。新しい鑑札を用意しながら、次のように日下にたずねる。
「それでは、この犬の名前を決めてください。この子の名前は、なんにしますか?
日下さん。あなたが。愛情をもって、この子の名前を、つけてあげてください」
「そうですね。ウチにきてから、このかたずっと、犬、という名前でよんでいたので。犬という名前で」
「……あの。本当に、それでよろしいのですか?」
「もとの名前があるのに。気に入らない名前をつけられるよりも、こいつもそのほうがいいでしょう。
ちゃんと決まったら、そのときに、もっとカッコいい名前をつけてやりますよ。いまは、それでいい。それで、お願いします」
「わかりました。その名前で、登録をさせてもらいます」
面倒を避けるために、医師はそれ以上は、議論することはせずに。用紙の犬の名前の欄に、カタカナで、イヌ、と記入をする。
続いて、ここまできた目的となる。狂犬病の予防注射にとりかかる。
犬に使う注射器は、人間用の注射器にくらべて、小さくて細い。それを手に、医師が次のように説明をする。
これは混合ワクチンになります。狂犬病のワクチンだけではなく。犬ジステンパー、犬伝染性肝炎、犬アデバウイルス、犬パラインフルエンザ、等々。これら八種の病気の予防となるワクチンの効果をあわせたものになります。
九千九百円と。値段も、狂犬病ワクチンだけのものにくらべて高価になりますが。一度の注射で、犬がかかる代表的な感染症をふせいでくれます。狂犬病の予防接種をするなら、こちらの混合ワクチンをおすすめしますが、どうしますか?
医師から、彼がいままさに必要としているものを紹介されて。日下は、一も二もなく、是非とも、それでお願いします、と依頼をする。
医師は、小さな注射器を手に。診察台の上で、低く身を伏せた格好でいる、犬に近づいて。その背中に手を置いて、逃げたり動かないように、おさえこむ。
我慢できずに、大暴れを始めて、医師の手を噛んだりするんじゃないか。と日下はひやひやしていたが。犬は伏せをした格好で、犬の置きものになったように、ピクリとも動かない。
一見すると、落ち着いているように見えるが。じつは、今日で、いちばんの緊張状態にあるのが、日下にはわかった。
犬は、医師が手にした注射器を見ないようにして。全身の筋肉をかたくこわばらせたガチガチになった状態で。その瞬間がくるのを待ちかまえている。
医師は、犬の背中の毛皮をつまみあげて、そこに。なれた手つきで、もう一方の手に持った注射をする。
全身に、思いきり力を入れているのだろう。針が刺さっても、ビクッとしただけで。犬はそこから動かない。
注射そのものは、ほんの一秒間たらずで終わった。
医師は、使い終えた注射器を片付けながら、笑顔で、日下に世辞をいう。
本当に、お利口で。しっかりとした、リッパなワンちゃんですねぇ。こんなに大人しい子は、はじめてですよ。
これも、きっと。あなたを信頼して、言いつけを守っているからですね。
「……」
診察台にのせられた灰色の犬は、医師の自分への評価をきいて。信じられない、という、目を見開いた驚きの表情で。医師の顔を振り返って見る。
ともかく、注射が終わったのを知って。犬は、診察台というイヤな場所から、いますぐにでも、のがれようとする。
ところが、全身に力を入れていたせいで、四肢がこわばってしまい。犬は、そのまま、診察台から転げ落ちそうになる。
その犬を、医師はあわててうけとめて。日下にわたしてやる。
「栄養失調なようなので。おいしいものを食べさせてあげてください。ウチであつかっているドッグフードがおすすめですよ。
それから万が一もあるので。病気にかかっていないかを調べるために。血液検査をしてみたいのですが、どうでしょうか?」
医師はさりげなく、日下にそうきいてくる。でも日下は、自分の手の中で。それはやめてくれ、マズイことになる、という顔で、こちらを見ている犬の反応に気付いて。くびを横にふってかえす。
「ワクチン接種の支払いで、今日は手持ちがとぼしいので。すすめられた検査は、また次回にします。先生、今日は、ありがとうございました」
頭をさげると。よびとめようとする医師を尻目に、犬をバックパックにまたつめて。診察室をあとにする。
動物病院の窓口で。注射料金と、交付手数料と、新規登録手数料と、診察料金で。あわせて一万円超えの代金を支払い。
帰りは、タクシーの利用料金分を節約するために。バックパックからだした犬に、首輪をつけて。リードでつないで。徒歩で、歩いて帰ることにする。
今朝は、あんなに嫌がったのに。ワクチン注射という、大仕事を終えたからだろう。
犬は、日下に大人しく首輪をつけさせると。尾をさげて、うつむき加減に、とぼとぼと。日下と連れだって。アパートまで、いっしょに帰った。