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第三話 共同生活

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 これが、日下始と。彼のもとに居ついた、得体が知れない、不思議な犬との。出会いの顛末だった。

 昨夜は、いろいろとあったせいで、睡眠をとっていなかった日下は。疲れ果てていて。その夜は、布団に入ると、朝まで泥のように眠りこけた。

 不安ではあったけれど。六時間から七時間あまりの睡眠のあいだだけは。同じ部屋にいる、人語を解する犬のことを忘れられた。

 日下が、翌朝に目覚めたのは。どこからともなくきこえてくる、ガリガリ、ゴリゴリ、という金属の表面を硬いものでひっかくような音のせいだった。

 その音のせいで、スマホに設定したアラームの時間よりも早く目覚めた日下は。音がする玄関に行ってみて。そこで信じられない光景を目の当たりにすることになった。

 あの犬。名前がわからないので、そう呼ぶしかない灰色の中型犬が。

 玄関のドアのところで、後脚で立ちあがると。ドアに前脚をついた格好で。ドアのカギをあけようと悪戦苦闘していた。

 ドアは、ありふれたシリンダー錠で。ドアのノブのつまみをひねって施錠する仕組みになっている。

 灰色の犬は、ノブのつまみの部分を。鼻先で上に押しあげてひねってあけると。

 金属製のドアノブを、顎と歯でノブを噛んでおさえて。右に回転させて。口であけようと奮闘していた。

 つまみの開錠はどうにかできたが。ノブをひねることはできない様子で。くちでくわえてまわそうと試みるが。試みては、そのたびにすべらせて失敗をする。

 ドアをあけるのに熱中していたせいだろう。日下がびっくりした表情で、背後に立っているのに気付いた犬は。

 ふりかえって日下の顔をたしかめると。そこにすわって、日下の顔を見上げる。

「……おまえ、ドアの開錠のやりかたがわかるのか? もしかすると、おれがあけたのを見て、それを覚えたのか?

 ……いやそれよりも。まさかとは思うが、ドアの錠の仕組みがわかるのか?」

 もはや驚きを通り越して。なぜこんなことが、こいつにはわかるのだろう、できるのだろう、と考え込む表情で。日下は、自分を見ている犬にそう言いきかせる。

 それから、待っている犬の前で、唾液でベタベタになったドアノブをひねって、ドアをあけてやる。

 トコトコ、と出ていく犬のあとを追い。日下は犬がどこで用を足すのか、ついていってたしかめてみる。

 そのあたりでてきとうにすませるのか、と思っていたが。犬はアパートの敷地からでると。二軒むこうの草ぼうぼうの更地にまで行って。

 更地のむきだしになっている地面に前脚で浅い穴を掘ると。そこに用を足して。後脚で砂をかけて。また階段をのぼって、日下の部屋にまでもどってきた。

 犬の手際がいい行動に日下は感心していたが。さらには、部屋に入る前に、廊下のコンクリの上に。犬が前脚と後脚をちゃっちゃっとこすりつけて、土を足から落としてから入るのを見て。日下は、驚くのを通り越して、かける言葉を失ってしまった。

 いつまでも、犬がすることを見物しているわけにもいかない。部屋に犬を残して、日下は出勤することにする。

 あいている容器に、パックの牛乳の残りをすべて入れて。それを犬のそばにおいてやると。少し考えてから、部屋のドアのカギは、ちゃんとロックしておく。

 区役所に到着すると。物置部屋に行って、机について。その日もさっそく、机の上に用意されていた、今日の分の投書のデータ化にとりかかる。

 仕事を始めて、一時間ほど、経過した頃に。日下は、投書のうちに、変わった内容のものをみつける。

 内容は。愛犬の散歩中に、野犬の群れに遭遇した、というものだった。

 投書をした人は。××区に住む。年配の女性になる。

 この女性は、小型犬を飼っていて。その小型犬を、朝晩に散歩させるのを習慣にしていた。

 ところがこの小型犬が、少し前から、いつもの散歩ルートを行くのをイヤがるようになった。理由がわからずに、女性は困惑することになる。

 昨日の夜の犬の散歩でも、小型犬はさっそく暴れてウチに帰りたがったが。それでも女性はリードをひっぱって、夜の散歩を強行した。

 女性はまた。夜の散歩のときには。人通りが多いところでは、通行人の迷惑になることもあるので。

 できるだけ人通りが少ない裏道を選んで、散歩のルートにしていた。

 その日の夜の散歩中に。女性は。人通りがない、薄暗い裏道の途中で。生まれてはじめて、野犬というものに遭遇したのだ。


 野犬の存在に、私たちは、最初は気付きませんでした。

 愛犬がしきりに暗がりにむかって吠えるので。暗やみに目を凝らして、そこでようやく、そこに何匹もの犬がいるのに気付いたのです。

 暗かったので、ハッキリとはわかりませんが。犬は、四匹から五匹いた、と思います。

 私はおそろしくなってしまい。愛犬を抱きあげると。いつもより早足で、その場から遠ざかろうとしました。

 犬たちは、私たちのあとを、集団で追ってきました。

 一定距離をとって、私たちのあとをついてきたのです。

 私たちが急ぎ足になると、犬たちも追う足を速めて。私たちが歩行を遅くすると、犬たちも遅くするのです。

 私が抱えていた愛犬は、ひっきりなしに吠えていましたが。追ってくる犬たちは、吠えたり唸ったりしませんでした。どの犬も無言のままで、距離をおいて、あとをついてきました。

 いつ。いっせいに走ってきて、襲いかかってくるのではないかと。逃げているあいだはずっと、私は生きた心地がしませんでした。

 犬たちに追われた私は、だれかに助けを求めようとしました。ようやく表通りに出て、ふりかえって見ると。

 犬たちは追うのをやめて。逃げる私の後姿を全員で見送っていました。

 そのときの犬たちの様子は。追う相手に逃げられたのをくやしがって怒るのではなくて。

 なんといったらいいのか。まるで。逃げる私たちの反応を、興味ぶかく観察しているようでした。

 あの犬たちの態度や反応は、私が飼っている愛犬とは違う。なにか得体が知れないところがありました。未知の動物に出会ったようでした。

 私は、あんなおそろしい目にあったのは、初めてです。

 すでに、このことは警察には届けました。でも、こちらの窓口にも。なにがあったのかを知ってもらいたくて、こうして筆をとりました。

 どうか、そちらの窓口で。なにか適切な対応をお願いします。


 投書の内容は、だいたい、そのようになる。

 内容をまとめて、データ化するために打ち込みながら。日下は、投書の内容に対し、次のように彼の考えを述べる。

「……ナンセンスだよなぁ。都会のまっただなかで、野犬に追いかけられるなんて。そんなことが、あるわけないじゃないか。

 きっと投書した女性が、飼い犬を野犬と間違えたんだ。そうに決まっている。

 たとえば、逃げた飼い犬が、たまたま、二頭か三頭、集まっていて。その飼い犬たちが面白半分に追いかけてきたのを。それを投書の女性が誤解したとか。そういうことじゃないだろうか……」

 ほかにだれもいない、一人きりの物置部屋で。日下は自身にそう言いきかせると。きっとそうだ、と何度もうなずく。

 これまでの日下ならば、その説明で納得して、決着がついたろう。

 でも昨夜からアパートに居すわっている、あの灰色の犬のことを思い出すと。日下の表情から、だんだんと自信がなくなっていく。

「……でも。もしかしたら、ってこともあるか……」

 その投書が原因だろう。日下は、昼食を買い置きのカップラーメンですませると。

 その日の昼休憩の時間は、物置部屋にこもって。国内でこれまで起きた、野犬による事件を、スマホで検索して調べてみることにする。

 それでわかったが、自分も投稿者の女性も、どうやら間違えていたらしい。

 野犬、というのは。飼い主がいない、自然の中で自活している、イノシシや、クマなどの、野生動物と同等の犬をさすものらしい。

 市街地や公園を徘徊して、私たちがだしたゴミをあさって生活する、飼い主がいない犬は、野良犬やノイヌ、になる。

 ただし、野犬と野良犬の区別はむずかしくて。野良犬やノイヌも、野犬の一種として分類するために。広義では、野犬も野良犬としてあつかう、とある。

 検索してわかったことだが。自然のなかで、狩りをして獲物をつかまえる、本来の野犬たちは。

 一九八〇年代に、練馬区で捕獲されて処分されたのを最後に。都内では、三十年間以上も報告がされていない。

 つまりは、東京都内に。現在は、野犬はいないのだ。

(だから、目撃情報にあった動物は、野犬と呼んでもいいが。本当のところは、野良犬だ、ということになる)

 そして、野良犬だが。こちらは全国で、いまでもそれなりに捕獲されている。

 環境省、動物愛護管理行動事務所の発表によれば。

 東京都に接する、茨木県や、千葉県で。野良犬は、年間に一五〇〇頭から、捕獲されている。

 なぜこのように、野犬や野良犬が捕獲されて処分されるのかというと。それには理由がある。狂犬病だ。

 狂犬病は、狂犬病ウイルスによる感染症になる。そして、発症すれば確実に死ぬ病気、として知られている。有効な治療法はみつかっていない。

 狂犬病にかかった犬に噛まれた人は。咬傷から狂犬病ウイルスが、からだに入る。

 ウイルスは、患者の神経を移動して、脊髄から脳へと上っていくと。炎症を引き起こす。その後、ウイルスは、脳から末梢神経へとむかう。

 患者は。最終的には、昏睡状態におちいり。気道閉塞、けいれん、麻痺を起こして死亡する。

 ウイルスが脳に侵入することで、狂犬病になった犬は相手かまわずに噛みつくようになる。人の場合は、幻覚をみたり、錯乱状態になって暴れる。

 ワクチンはある。でもこのワクチンは、早いうちに接種しないと効果はない。神経に入られたあとでは手遅れなのだ。

 日本では、50年間あまり、狂犬病の患者はでていないが。2020年にフィリピンからの来日者にみつかった。

 狂犬病は、致死性のウイルス脳炎であり。対策や予防策は、狂犬病の患者がでる前に、あきらかに野犬や野良犬だとわかる犬をつかまえて処分するよりない。

 このために、昭和25年に〈狂犬病予防法〉が制定されて。通報があると、保健所が野犬をつかまえに出るようになった。

 都内から野犬がいなくなったのは。つまりは、狂犬病の発生を予防するためなのだ。


 日下は、カップ麺をすすりながら。狂犬病の危険性、という広報記事を、スマホの画面で読んでいく。

 読み終えると。いまウチにいるあの灰色の野良犬には、やはり早いうちに出ていってもらおう、と。憂うつな気持ちで決心する。

 午後には、気持ちをきりかえて。日下はまた、残っている投書のデータ化にとりかかる。

 ところが、思いもしなかった意外な出来事が、その日の午後に起きた。

 物置部屋にこもって。投書のデータ化をすすめているときだった。職員たちが働いている、オフィスがある窓口の区画で、なにやら騒ぎが起きる。

 それは、壁で隔てられている、物置部屋にいる日下にまで伝わってくる。

 アルバイトは、立場上。職員たちが働いている窓口側へは、許可なく入ってはならない。

 甲田から、そう言いきかされていた日下は。窓口でなにかあっても、そちらに行くわけにはいかなかった。

 打ち込み作業の手をとめて。物置部屋にいる日下は。壁のむこうで、なにが起きているんだろう、といぶかしんで、想像してみる。

 そのとき、都民の声の窓口には、いっぷう変わったお客が訪れていた。

 窓口をまかされている責任者である、課長代理のもとにやって来たのは、一人の女性だった。

 身長は百六十センチくらい、で。年齢は四十歳くらい、だろうか。

 体型は。彼女の年齢を考えれば、頑張って維持している方である。

 それでも年齢相応の肉が、胸や腿や腰まわりについてしまい。そのせいで、短いタイトスカートに、ボタンシャツを着用している姿は、なんだか妙に肉感的である。

 これだけだと、タイトスカートを履いた、グラマーで色っぽい、年増の女性をイメージするが。

 でもきっと、多忙のせいだろう。髪はちゃんと撫でしつけられていない。目の下にはくまがあって。化粧はあきらかに手を抜いている。

 でもそんな外観とあきらかに異なるのは。彼女が発揮している独特の雰囲気だった。

 私は自分の仕事に一途に打ち込んでいる。我が身を犠牲にしてもそれを成し遂げる。だからそれをジャマする相手はだれであろうと許さない。

 口に出さなくても、彼女の表情はそれを物語っている。

(若い頃とくらべれば、スマートさは失われたのかも知れないが。時間の経過とそれにともなう経験が。年齢相応のタフさや。年齢以上のしたたかさを。この女性からひきだすのに成功していた。)

 対峙している課長代理をひるませているのを見ても、それはあきらかだった。

 女性は。腕組みをして、背筋を伸ばした格好で立つと。目の前にいる相手をねめつける。

 それから。まだなにか反論しようとする課長代理に、ピシャリと次のように言いきかせて、話をしめくくる。

「これは、緊急を要する要件ですので。いま言った通りに、迅速な対応であたってください。くれぐれも、こちらの指示通りに、やってください。いいですね? わかりましたね?

 私は、このあとは。ほかの窓口をまわって。同じ内容の伝達をしてくるので。それでは、よろしく、頼みましたよ?」

「そう一方的に言われましても……。ウチの窓口は、少人数の部署ですから。とても、そちらの期待に応えられません。

 私たちが保管している、都民からの投書のデータは。しかるべき手続きを経れば、閲覧できますので。その際には。どうぞ、そちらで内容の確認をしてください。それ以上のことは、とても……」

「いいえ、ダメです。言いましたよね。私はあなたに、伝えた要件に適合する事件をピックアップするように、と依頼したのです。それも、できるだけ急いで用意もらいたい。そういうことですから、そうしてください。わかりましたね? いいですね?」

「待ってください。こちらにも、都合というものが……。ええ。はい。わかりましたよ。それでは、そういうことで……」

 相手をしている、この課長代理が。理由をつけて、なにもせずにすませよう、という魂胆なのを見越して。女性はあらかじめ、そう言って相手にクギをさしておく。

 課長代理は、しぶい表情で、顔を伏せて。けっきょく、同意するよりない。

 女性は、そのまま、都民の声、の窓口から立ち去ろうとしたが。そこで、通路の奥にも部屋があるのに気付いて。ほかに職員がいるのか、と質問をする。

 返答したのは、課長代理ではなくて、甲田だった。

 説明を最後まできかずに、女性はさっさと通路の奥へとむかう。

 日下は、一連のやりとりを、知るはずもなく。物置部屋の机について、投書のデータ化を続けていた。

 そこに突然に、肩をいからした女性が入ってきたので。目をまるくして驚くと。あわてて、相手が何者なのか。ねぜここに入ってきたのか、要件をきこうとする。

 だがそれよりも早く、女性は、立ち上がろうとする日下の前に立つと。彼の行動を制して。

 上着のポケットから出した、名刺をテーブルの上に置いて。見つけたら、ここの担当者じゃなくて、自分に伝えるように、ことわってから。日下の顔を見て、こう続ける。

「この町の住民から集められる情報のうちで。一風変わった、犬に関するものがあったら、それを私のもとに伝えてちょうだい。

 さがしているのは、灰色の中型犬よ。都内を集団で行動しているはずだから。彼らの目撃情報を投書のなかにみつけたら、すぐに私に伝えて。犬たちの所在に関する情報なら、特に歓迎するわ。

 これは緊急を要する要件なので。必要な許可はすぐにとりつける。あなたの上司からも了解を得る。だから違法にはあたらないわ。その点は心配しなくてもいいから……」

「なぜです? その犬が、なにかやったんですか?」

「これは、他言無用だけどね。狂犬病か。それに類似する危険な病気のウイルスを持っている可能性があるのよ」

「えぇっっ! まさか、そんなっ……。あの、じつは……。その……」

 日下は、度肝を抜かれると。うろたえて、くちごもってしまう。

 女性は、日下の返答には、最初から期待していなかったのだろう。

 やってきたのと同様に、女性は、さっさとまたでていってしまう。そのあとを甲田が追いながら、イライラした様子で、苦々しい表情で、苦言を述べる。

「……私たちがあつかっているのは。都民の個人情報にあたるわけですから。あなたの勝手な判断でやってもらっては困るんですよ。きいているんですか。いいですか……」

 二人が去ったあとには。血の気が失せた、青ざめた表情で、ジッと考え込んでいる日下と。連絡先が書かれた名刺が、机の上に残される。

「……」

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