第二十話 続く
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犬にはどれくらいの知能があるのか。犬を飼った人なら。だれでも一度は、考えたことがあるだろう。
調べてみると。
犬の知能は、二歳から三歳の子供と同じくらいある。
犬は、人間の言葉を165個、把握して理解できる。
犬は、4から5までの数字を数えられる。
そういうことがでてくる。
けっこう高くて驚くが。犬はその知能を、じつは、ほかの動物にはない、独特な方向に使っている。
それが何よりの、犬の特徴ではないか、と語り手は考えている。
たとえばオオカミは。(150万年程前に、狼は発生したと考えられているが)
狼たちによる、狼だけの集団生活のために。狼同士のコミュニケーション能力を高めてきた。
狼は、群れをつくって集団生活をする。
狼同士のコミュニケーションの方法として。
遠吠えや唸り声や身振りなどで、意思疎通を行い。それにより、集団生活を円滑に行う。
つまりは、狼は。狼たちによる集団生活のために。その能力や特徴をのばしてきた。
群れとして強くなることで。ほかの種の動物が滅びても、狼は現在まで生き残ったわけだ。
では狼から派生した、犬はどうか、というと。
犬は、狼とはまったく異なる進化をした。
二万年から四万年前に。人間がだすゴミをあさる狼のうちから、犬は生まれた。と考えられている。
最初は、犬たちも狼と同じに、群れで集団生活する動物だった。
ところが犬たちは。唸り声や吠え声、身振りなどの、自身の能力を。
犬の群れではなくて。人間と共同生活するために。
人とコミュニケーションをとる方向に。発達させていった。
本来、野生の狼は。獰猛で攻撃的で。人に近づくことはしない。狼はそういう動物なのだ。
ところが犬は。
狼は肉食なのに。犬は人と暮らすために、人が食べるものを食べられるように雑食になった。
狼は遠吠えしかできないのに。吠えるという行為をあみだして。さかんに吠えたり、唸ることで。無言でいる狼よりも、犬は人にアピールする方法を会得した。
さらには、人が使う言葉を単語として記憶することで。犬同士のコミュニケーションのためではなくて。
牧羊犬や警察犬のように。飼い主に協力したり、飼い主を手助けしたりと。人間とよりよくコミュニケーションがとれる方向に、犬の能力を伸ばしていった。
そんな動物は他にいない、と声を強くして言いたい。語り手は、そう思っている……。
(大昔に。狼から犬が生まれたわけだが。なぜこんなことが起きたのか、というと。
肉食から雑食に食生活が変化したことで。狼のうちから小型の個体が生まれた。
その小型の狼のうちで。性格が攻撃的で警戒心が強い個体よりも。性格がおだやかで人になつきやすい個体を選んで交配させるうちに、犬になったのではないか、と考えている)
動物は、環境にあわせて自身を変化させて。そのうちの、適応に成功した種が、生き残る。
そして。条件が合えば、増える。
狼から派生したばかりの原始的な犬と。現代の犬とを比較してみると。
現代の犬の方がきっと。人間の言語を覚える能力も、言語を理解する能力も。祖先の犬よりも発達しているのではないか。と思う。
カナダの心理学者、スタンレーコリー博士によれば。人間をパートナーにする、コミュニケーション能力が高い犬は、知能指数が高い、という。
人間とかかわりあう作業を行う犬は、点数が高くて。みずから獲物を追う本能が強い犬や。独立心が強い犬は。じつは、点数が低い傾向にある、と博士は発表している。
一見、逆のように思えるが。人の指示に従わない、一匹狼な犬よりも。
言葉を覚えて、媚びたり甘えたり、人との社会生活ができる犬のが、アタマは良いらしいのだ。
そんな動物は、ほかには思いつかない。
犬たちがいまのようになるまでに。そこに人間の手が入っているとしても。それはけっきょく。犬が私たち人間といっしょに生きていくために、そうなったわけだ。
犬は成功した動物である。
現在の犬種の多種多様さと、犬の個体数の多さをみれば。犬が人間をパートナーとして増えた動物であるのは間違いない。
(現在いる、狼の数と犬の数とを比較すれば理解できる、と思う)
こうした背景を考えると。だからこそ。
今回のような出来事は避けるべきだろう。
語り手としては。できるなら今後も、犬が。人間という身勝手な動物の友人として。いっしょにやっていけるのを願い、祈るばかりである。
駆除後に。回収された野犬の死骸のうちから見付かった。あなたが知能犬と呼んでいる、二頭の犬の死骸を。行政上の面倒な手続きをすべて終えて、施設にお届けした。
そう報せがあった。
まだ犬に咬まれた負傷が治癒していなかったけれども。
紅林さやかは。身体に包帯をまいた上から服を着ると。苦痛に耐えながら、よく動かない両脚を動かして、研究所にやってくる。
研究所の保管室で、到着した死骸を確認してから。さやかは、死骸の移送の件で全面的に協力をしてくれた、名前を挙げられない、出資者へ。感謝の連絡を入れることにする。
「……警察側には。未知の狂犬病のウイルスを持っている可能性があるために、知能犬はウチの専属先の施設で調べさせる、と先方を納得させてくれた、ようですね。
貴重な知能犬の検体を、こうして私どもの手にとりもどせたのも、あなたの対応のおかげです。
本当にありがとうございます。検体は、責任を持って、今後の研究に役立たせてもらいます。
……ええ。たしかに、おっしゃる通りです。死亡したあとではなくて、生きた状態で。知能犬をとりもどせていれば。犬たちの脳に、これからどのような変化が生じるのかを調べることもできたでしょうに……。
犬の寿命は、私たちの五分の一ですから。脳の老化の仕組みの解明を始め。この犬たちは、ほ乳類の脳の仕組みを研究する、最適な実験動物である。と私は考えています。
知能犬たちの脳に生じる変化を調べることは。アルツハイマー病などの。まだ解明されていない、脳にまつわる病気の解明や。脳の病気の治療方法、治療薬の開発に、つながるはずです。
なによりも、この研究は。私たちヒトをふくめた、ほ乳類全般の動物の脳の仕組みを解き明かすのにつながるでしょう……。
それを思うと、犬たちを生きて回収できなかったことが、悔やまれます。本当に残念です。
ですが、安心してください。こちらの予定では。生きた知能犬が、私たちのもとにもどってくることになっています。それに期待しましょう。
ただし、そのために部外者の協力が必要になりますので、そちらは私にまかせていただければ……」
いつものように、さしさわりがない文句をならべて、相手への感謝を伝えたのちに。携帯電話の通話を終了させて、紅林さやかはホッと安堵する。
それから、さやかは。負傷をかばうように、包帯が巻かれた腕とよく動かない指で、ワイシャツのボタンをはずして。もう少し呼吸がラクにできるようにする。
ほかにだれもいないので、立っているよりも横になりたかった。
けれども、そういうわけにもいかない。
部屋で一人。負傷の痛みに耐えながら。さやかは考える。
日下始に、逃げた知能犬の追跡と捕獲を依頼したが。日下の実力では、正直なところ、成功するとは思えない。失敗するのでは。と考えている。
でも、たとえ日下による捕獲がうまくいかなくても、知能犬は自分のところにもどってくるだろう。
その理由は、自分への復讐だ。
あの犬ならそうする。それは間違いない。
再び会うまでに、逃げたあの知能犬の脳にどんな変化が生じるのかは、研究者として興味深い。
きっと、普通の犬にはない、独特で未知の変化が、彼の脳にもたらされることだろう。
複雑な強い感情と、過度なストレスが、彼の脳にどのような影響をもたらすのか。
それを調べるのが、いまから楽しみだ。
紅林さやかは、あらためて。保管室のベッドに寝かせられた、これから冷蔵庫にしまう予定の、二頭の知能犬の死骸をながめる。
冷たく。硬く。生きていたときとはまるで別のものになってしまった二つの物体に近づくと。
さやかは。二体の全身を覆う毛皮にさわって、それをなでてやる。
死んだ犬たちの表情は、顔にも毛が生えているせいで。生きていた頃と変わらなく見える。
犬たちはどちらも。歯列のあいだから舌をはみださせて寝ているようだ。
さやかは、二頭の犬たちの。やわらかくて、なめらかで、さわり心地が良い毛皮をなでてやって。死に顔をながめているうちに。
きっとそのせいだろう。思い出さなくてもいいことまで、思い出してしまう。
以前に、日下始に。知能犬たちがどうやって生まれたのか、四頭の犬たちの生い立ちについて話したが。あの話は真実ではない。
犬たちは試薬の実験中に偶然に誕生した、と説明したが。秘密を守るために、じつは重要な部分をぼかしてある。
神経胚の異種移植、というのがある。
これは高校の生物の授業にもでてくる、わりあいと一般的な知識のひとつで。関連するものに、有名なシュペーマンの実験がある。
胚とは。動物や植物をふくめた、生物の最初期の状態をいう。
ヒトでは。胚は。おおざっぱにいって。分裂を始めた受精卵が、胎児になるまでの期間の状態をいう。
人も犬も、その仕組みは同じだ。
受精卵が分裂して、胚になって。
胚がさらに分裂をくりかえして、目や脳や、脊髄や消化器官、といった各部分がつくられていって。
胎児になって。
人や犬の、それぞれの赤ん坊になって。
出産される。というかたちで行われる。
つまりは、胚は。ごく最初の、身体のどの部分にでもなる二百個ほどの細胞が球状に集まった。一センチにも満たないサイズをした、原始的な生物の状態になる。
そして、脊椎動物の場合は。胚の表面に、将来的に脳や脊髄になる、神経板、神経管、というのができる。
引き写しになるが、経過はこうだ。
二百個ほどの球状細胞が球状に集まった胚の表面に注目すると。
やがて、胚の外胚葉が溝状に陥没して。
溝の両側が上に伸びてたがいに接触して。そのまま筒状に閉じて。
胚の表層部分に、筒状の構造物を形成する。
このニューラルチューブという、胚の表面にできた、中が空洞の筒みたいなものが。時間の経過とともにさらに変化していって。
筒の端の部分がふくれあがって脳になっていって。
筒のうしろの部分が私たちの背中にある延髄というものになっていく。
このように、人も犬も、胚が分裂と分化をくりかえして大きくなっていって。だんだんとそれぞれの違いがある、人や犬の胎児になっていくわけだ。
といっても。神経管ができた神経胚の頃はまだ。人の胚も、犬の胚も、見た目はどちらもそっくりなので、区別がつけられない。
脊椎動物は、胚の段階では、皆どれも変わらない。
それぞれの違いが生じるのは。胎児にまで、大きくなった頃になる。
私たちはなんとなく、両者がとても違うように思っているが。
人も犬も、同じほ乳類の祖先から分岐して生まれた、近しい分類にある脊椎動物なのだから。
発生から成長の過程が似ているのも当然なのである。
その事実に気付いた研究者たちは。それぞれの動物になる前の、球状細胞である胚の段階で。
胚の一部を切り取って、別の胚に移植すると。なにが生じるのか。それを調べる実験を始めた。
たとえば、ヤモリ胚からヤモリ胚へと。同種の動物の胚の、分化前の一部分を切り取って、別の胚に移植しても。その後、胚には異常は生じない。胚は成長と分化をとどこおりなく続けて、胚はやがてその動物の胎児になる。
だが分化がある程度まで進んだ胚では。一部を切り取って移植すると、通常にはない新しい未知の変化が、術後の胚にあらわれることがわかった。
ニワトリとウズラの胚間移植実験では。ウズラの胚にある神経管を移植されたニワトリの胚が成長すると。
ふつうのニワトリではなくて、頭部から尾部にかけてウズラの色素がからだにあらわれた。ウズラの鳴き声を発する、独自の変化をとげたニワトリが誕生した。
こうして誕生したキメラ動物は。実験で移植された組織から病原菌が感染するせいで、感染症で短命で死亡する場合が多い。そうなるのがごく当たり前なのだ。
紅林さやかが行ったのは。ヒトの神経胚から、神経管の一部を切り取って。それを犬の胚に移植する、という実験だった。
最初のうちは、手術が成功しても、胚はことごとく死んでしまった。
だが実験を続けるうちに、数少ないが成功例もあるようになった。
成功例となったその雌犬は、ほかの実験動物と同様に、感染症により短命で死亡したが。
亡くなる前に、四頭の仔犬を生んだ。
それがあの知能犬なのだ。
この実験に利用されたヒトの胚だが。クローン技術規制法や、14日ルールといった法規制や。倫理的な問題や人権的な側面を考慮して。
研究メンバーだった紅林さやかが自身の卵子を提供し、それからつくりだされたものだった。
法的な問題をクリアしていなかったので、実験についての経緯や結果など、すべての事実は秘匿されている。この施設でも一部の人間以外に知る者はいない。関わった当の紅林さやか本人も、なるべく考えないようにしているくらいだ。
知能犬の誕生については、いまだに解明されていないことも多い。
胚から胚への移植実験でできあがったキメラ胚から。たとえ本来とは異なる性質や特徴があらわれた動物が誕生した、としても。それはその個体のみだけであって。
キメラ胚や、キメラ動物の形質が。次世代にひきつがれることは少ないからだ。基本的にはない。
だが絶対に起きないわけではない。ES細胞を使ってキメラマウスをつくる実験では。移植した遺伝子情報がその個体の生殖細胞に伝達されて。キメラマウスから次世代のキメラマウスが生まれてきた例もある。
今回もそうで。ヒトの脳の大脳皮質の形質を獲得した、あの犬の子供たちには、ほかの犬にはない独自の性質や特徴があらわれていた。
さらに次世代のその子供たちにも、きっとそれは受け継がれるはずだ。
でもそうなると。あの知能犬たちには、部分的にであれ自分の遺伝子情報がひきつがれているわけで。自分とは血縁関係だ、ということになる。
ではこの騒動は、血縁同士で殺し合いをしていることになるのだろうか、と。紅林さやかは保管室で一人、自分の自虐的な想像に、笑みを浮かべる。




