第二話 遭遇
2
時刻は。夜の8時すぎ、で。
場所は。二十メートルほどの細道の左右に。数十軒の店舗がならんでいる。暗くて、狭い、裏通り、になる。
そんな、世間の人に知られることもない裏通りは。いまでは、本当にだれも寄り付かない、無人の場所になってしまっている。
その通りが。お客が訪れない、不人気な場所になってしまった理由は。通りのひどいありさまを見れば。それもいたしかたない、と納得せざるを得なくなる。
通りには、無人になった各店舗から運びだされた、おびただしい量になるゴミが積んである。
進路をふさいでいる、大量のゴミのせいで。訪れた人は、この裏通りに入ることができない。
表通りは。あんなに、あかるくて。大勢の人たちでにぎわっているのに。
そこからすぐの、この裏通りは。照明のたぐいが皆無の、先をも見通せない、真っ暗な状態で。
足もとは、障害物になるゴミだらけで。踏み入っても、行く手をゴミの山にふさがれる。そんな、ひどい状態になってしまっているのだ。
むやみに、なにがあるのかもわからない、障害物だらけの暗やみに踏み入ったりしたら。ゴミに足をとられて転倒してしまうかもしれない。
そのうえ、ゴミの山が崩れて下敷きになれば。訪れる人もいない、こんな場所で。ゴミの中から、脱出もできずに、生命の危険にさらされかねない。
ここまでやってきた、日下は。どうしようか、と悩んでいたが。意を決すると。
いつも持ち歩いている(アパートの廊下が暗くて困るときに使う)マグライトをポケットからとりだして。掌の中に、ギュッと握りしめる。
ここまできたのだから、と自身にいいきかせて。通りに入る。
人の背丈に達するくらいまで、いくつも積んである大量のゴミのあいだを。ゴミの山に、ぶつかって崩さないように、注意して通り抜けて。その奥を目指す。
通りの奥に行っても。なにかみつかるとは、日下は期待していなかった。
せいぜい、学生たちの投書が、やはり創作だったのを裏付ける。そんなような、なにかの証拠がみつかる程度だろう、と。そのくらいの考えでいた。
通りの奥まったあたりは。大量のゴミに道がふさがれていて、行きどまりになっていた。
でもそのあたりまで行ってみて、暗やみのむこうになにかがいるのに、日下は気がついた。
ホコリっぽくて、すえたようなイヤな匂いがする。暗やみのむこうに。
身を低くして、ゴミのあいだに隠れるように。こちらを見ている、なにかがいる。
それも、一匹だけではない。複数いる。
その一体のほかに。二体目。三体目、もしかすると四体目までもが。最初のやつから、ちょっと距離をおいて、隠れている。
物陰で。ジッと息を殺しているが。そうしていても、かすかにきこえる呼吸音と。身動きをするたびに、そばにあるゴミの山にからだがふれてたてる擦過音で。見えなくても、日下にはそれがわかった。
日下のにぶった危機感が、彼に。あれに近づいたら危ない、と知らせた。日下は暗やみに隠れている、複数体いる相手から、そろそろと離れようとする。
それでも、なにがそうさせたのかはわからないが。日下は、そこにいる正体不明の相手にむけて。ふるえる手で、フラッシュライトをむけて、点灯させる。隠れている相手の姿を、ライトの光で照らして、たしかめようとする。
カチッという、スイッチが押される音がする。
安物のライトの、弱々しく、とぼしい光に照らされて、暗やみに隠れていたものが浮かびあがる。
浮かびあがったのは、上下に大きくひらかれた大きな顎と。上下の顎にならんだ歯列だった。
歯をむいた顎が、いままさに、こちらにむかって、とびかかってこようとする瞬間の光景だった。
「……☓☓☓!!」
言葉にならない悲鳴をあげて。日下はうしろに逃げようとするが。足もとをとられて転倒してしまい。
そばにあった特に大きいゴミの集積物にぶつかって、ゴミ山をひっくりかえす。
バキバキ、メキメキと、音がしたあとで。重量がある金属製のなにかや。木製の大きななにかや。プラスチック製のかさばるなにかが。崩れて落ちてくる、ガラガラ、ドシャーンと、耳ざわりなものすごい音が、あたりに響きわたる。
椅子やテーブルといった、降ってきた重たいものにぶつからないように。日下は転がって逃げると。そのまま、両手で頭をかかえた格好で。うつぶせになってふるえていた。
おそるおそる、頭をあげて。あたりを見回す。
降ってきたゴミが、あたりに散乱している。
どうやら自分は、なだれ落ちたゴミの集積物の下敷きには、ならずにすんだらしい。
おびただしい量のホコリが舞っている。散らばったゴミの上を歩いて。まだ掌中にあったフラッシュライトの光をめぐらせて、なにが崩れてきたのかを調べてみる。
暗やみのなかにいた、複数体いたあれは。突然のゴミ山の崩落と、たまげるような、ビックリするような大きな音に驚いて、一目散に逃げ去ったらしい。
わが身が無事だったことに、ホッと安堵する日下だったが。そこで彼は、散乱している雑多な品々の下からのぞいている、あるものに気付く。
近づくと。重いテーブルのはしをつかんで持ちあげて。ひっくりかえして。その下にあったものをみつける。
思わず声にだして。驚いた顔で、彼は問いかける。
「……これは、なんだ?」
その翌朝。日下は。ロクに睡眠をとっていない、くまができた、寝不足の顔で、勤め先である区役所に出勤する。
そして、いつものように、命じられている投書の内容をデータ化する仕事にとりかかる。
でも、その日の。昼の休憩時間は。日下は、区役所の建物の外にでて昼食をとらなかった。
そのかわりに、日下は。物置部屋の自分の机にうっぷして仮眠をとって。午後は、いつにもまして、熱心に仕事にうちこんだ。
日下は、たまっていた投書をすべてデータ化すると。定時には、甲田への挨拶もそこそこに、大急ぎで帰宅の途についた。
その日。寝不足でいた、日下の頭の中で、ずっとめぐっていたのは。
あのよくわからないものを、借りているアパートの部屋に連れ帰ってよかったのだろうか。という疑問だった。
もしかすると、そのせいで。自分はなにか、面倒なことにまきこまれるんじゃないだろうか。なにか、罪に問われるんじゃないだろうか。
そんな不安が、日下を一日中、悩ませた続けた。
「そうだよな……。あれをみつけて。思わず、仕事用のバックパックにおしこんで……。
背中に背負って。タクシーと電車を乗り継いで。みつからないように、ウチに運んではみたけれど……。
あれは、もしかすると。警察署か、消防署に連絡をとって。そちらにひきとってもらうものなんじゃないか?
もしかしたら、危ないものなんじゃないか? 持って来てはいかないものなんじゃないか……?
でも、だとすると。でも、そうなると。なんであれを、ウチに持って帰ったのか。その理由を、警察や消防に、説明しなくちゃならなくなるな……。
そもそも、あれは。なんなんだろうか? そりゃ、もちろん。見た目は、犬以外の、なにものでもないのだけど……」
帰宅中の電車の車内で。電車のドアの閉まったところに寄りかかって。そんなふうに独り言を言っていた日下は。
自分のまわりの会社員や学生の視線に気づいて。あわてて面を、扉のむこうをながれる車外の景色にむけて。黙り込む。
昨夜に。すたれた繁華街の、くずれたゴミの山の下からみつけたあれは。どこから、どう見ても。中型くらいのサイズをした犬だった。
両手で持ってみて、体重は十五キロくらいだ、とわかった。
体色は、灰色で。暑い地方の洋犬の血が入っているのか、和犬よりも毛足は短い。
短い灰色の体毛が、部位によって厚みを変えて、全身を覆っている。
両方の耳はピンと立っていて。前脚はスラリと細くて筋肉質で。後脚は太くてがっしりとしている。
顔のかたちは、犬にしてはまるっこい。
雑種なのだろう。自分が知っている、何種類かの犬の特徴が、からだの各所にあらわれている。
でもそのせいで、灰色をした中型犬、という以外の際立った特徴がみつからない。
首輪はしていない。犬の名前や、飼い主の住所を示す、ネームプレートも身につけてない。この犬の身許を証明するものはなにもない。
ちなみに、性別はメスになる。
このメス犬は。崩れてきたゴミの下敷きになった衝撃で、気絶をしていた。
見つけたときは。四肢をおりたたんで、鼻づらを前脚のあいだに入れて、小さく身を縮めた姿勢で、身体を硬直させて、ジッとしていたが。
バックパックにつめこんで移動させたときも。
アパートの部屋に運んだときも。
室内の適当な場所に、日下の使い古した衣類やタオルを使って寝床をこしらえて、そこに寝かせたときも。
見つけたときと、まったく同じ。四肢をおりたたんで、身体を硬直させた状態で、ジッとしていた。
最初は、下敷きになった際に、頭部を強打したのが原因で、身体の硬直を起こしたのではないか。と日下は考えた。
四肢をさわって、たしかめてみたが。からだのどこかを、骨折している様子はない。心臓は動いている。呼吸も続けている。なにが原因で意識をとりもどさないのか、原因がサッパリわからなかった。
外からは見えない、からだの内側を怪我している可能性がある。となれば、深夜も営業している動物病院に連れていくべきかもしれない。
でも、よくよく考えてみれば。そこまで面倒をみてやる義理もない。はなかった。
けっきょく、ほかに方法も思い付かなかったので。
日下は。動かないでいる、メス犬を自宅に残して。いつものように出勤をした。
思えば軽率な行為だった、と日下はいまになって後悔していた。
いつも通りに、アパートのさびた階段をのぼって。借りている部屋のドアをあけるときには。ついつい、日下は自身に問いかけていた。
「あれは。もう、死んでいるんじゃないだろうか? 死んでいたら、どうしたらいい? 動物の死骸をひきとってくれる先を調べて、そこに連絡しなくちゃならないよな。おれは、そんなの知らないぞ?
たしか、使ってない電話帳があったよな。いや、スマホでさがしたほうが早いか。面倒なことになったなぁ。やっぱり、放っておけばよかった……」
カギをとりだして、解錠して。アパートのドアをあけて、なかに入るときに。日下の脳裏によぎったのは。
部屋のなかが、しっちゃかめっちゃかになっているんじゃないか。という恐怖だった。
ところが。電灯のスイッチをつけて、日下が目にしたのは。彼が暮らしているアパートの室内の、いつもとかわらない光景だった。
「寝かしておいた寝床には……。おや、いないな……。
からだにかけておいたタオルケットは……。めくれて、落ちているな……。
あの犬、起きだして、どこかに行ったみたいだ……。でも、ドアのカギは閉まっていた。すると、あの犬は、窓からでたのか……?
いや、窓は閉まっている……。カギもかかっている……。
そうなると。あとは、浴室と、トイレになるが……。見たところ、ここにはいないな……」
日下は。ユニットバスになっている、狭い浴槽と便器が、同じスペースに隣り合わせている、一室をのぞいて調べてから。
まるで、煙のように姿を消してしまった犬の行先について。顎の下に手をやって、くびをかしげて、考え込む。
ひとつの可能性を思い付く。日下は、まさか、そんなはずがないだろう、と思いながら。安アパートにそなえてある、ものをしまっておく、観音開きの物入れのドアをあける。
いた。暗くて、せまい。物入れの奥の壁のところに。小さく身を縮めて、壁にピッタリとからだを押しつける格好で、ひろってきたあの犬が、隠れるように身をひそめていた。
でもよく見ると。昨夜と同じように、手足を折りたたんだ格好で、ピクリとも動かない。
「……なるほど、そういうことか。最後の力をふりしぼって、この中に隠れて。そこで、力つきて、死んじまったんだな。まあ、そういうこともあるよな……」
そう感想を述べながら。日下は、膝をついて、両腕をのばして。縮こまった、硬直している犬のからだをひっくりかえして、調べようとする。
犬の死骸をつかんで、動かそうとしたところで。信じられないことが起きた。
日下がさわったのが、きっかけになったのか。
(半覚醒の状態で、一時的に動いて、物入れに隠れると)
それまでずっと、擬死の状態を続けていた動物が、目覚めて動きだしたのだ。
硬直を保持していた筋肉がゆるめられて。別の筋肉が収縮をして。関節が屈伸をすると。おりたたまれていた前脚と後脚をひらく。
動物は、四つ足で立ちあがると。背中を弓なりにそらして。背骨がポキポキと鳴るくらい、大きな伸びをする。
そして、驚いた顔で、あおむけの姿勢でひっくりかえっている日下の上に、馬乗りになると。
灰色の犬は、閉じていたまぶたをひらいて。ふたつのまなこで、下にいる日下の顔をじっと見下ろす。
「……」
「うわわわっっっ! わっ! わっ! 待て、噛むな! どうやらおたがいに意見や主張に、相違や食い違いがあったようだが。おい、お前。ともかく、なんでもいいから、噛むのをやめろ!
水でも飲んで、おちつけ! いや、それよりも。冷蔵庫に牛乳があるから、それをふるまってやるぞ? その牛乳を飲んで、おれに敵意がないのをわかってもらえたら。おれがドアをあけてやるから。お前は、そのまま、出ていっていいからな?
おたがいにそれで、昨日のことは、なかったことにしよう。それでいいよな? そのほうがいいよな? そうだよな? な! な!」
「……」
無言で自分をジッと見下ろしている、灰色の犬にむかって。日下は。それこそ、もう必死になって。伝わるはずもない妥協策を、べらべらと話し続けた。
灰色の犬は、日下の語りかけを、まるで本当にきいているかのように無言でうかがっていたが。
日下の顔を注視したままで、大きくくちをひらいて、自分の鋭い歯と強い顎をおびえる日下にみせつけてから。
おさえつけていた日下のからだの上から離れて、彼のそばにすわると。おすわりの姿勢で、日下の顔をじっと見つめる。
最初は、犬の意図がわからなくて、日下は「?」とくびをかしげていたが。あっと声をあげると。
あわてて冷蔵庫から牛乳のパックをとってきて。あいている食器に注いで。犬の前においてやる。
ぺちゃぺちゃと、犬が皿のミルクを飲み始めたのを見て。日下は信じられない気持ちで、「お前、言葉がわかるのか?」と犬によびかける。
どうやらこの犬は。だれかに飼われていて。そこで人の言葉を学習し、ある程度は理解できるようになったらしい。
それどころか、この犬は。日下のもとで。衰弱している自分の状態を回復させよう、と考えたようだった。
なぜなら、日下が。約束通りに、ドアを大きくあけてやると。牛乳を飲み終えた犬は、おとなしく、トコトコと、そこから出ていったのに。
いったん、でていったあとで。どこか手近なところで用を足してきたのだろう。
数分後には、もどってきて。あけたままでいたドアから入ってくると。日下が用意した寝床に、横たわって、まるくなったからだ。
犬が出ていくのを見送って、ホッと安堵していた日下は。またもどってきたのを見て、すっかり取り乱す。
日下は、あわてふためいた様子で。目の前で寝ている犬に、必死によびかける。
「お前っ。見ろよ。ドアは、あいているじゃないか! だったら、ここから、でていけよ! 早く、しろって! ここは、お前のウチじゃ、ないんだよ! なのに、なんで。またもどってきて、そこに寝ているんだよ!
あ。いま、そっぽをむいたな? おまえ、ヒトの言葉がわかるんだろ? わかるくせに。きこえない、わからない、みたいな顔しやがって。おれの言うことを無視しやがってっ!
おいっ。知らんぷりをするな。おれの言うことに従えっ。おいっ。きいているのか。この犬っ。イヌめがっ……」
そうやって、くりかえし、日下は相手に訴え続けたが。
よびかけられた犬は、日下の声がきこえない、わからない、といった態度と顔で。日下がくたびれてねをあげるまで、寝転がって、無言と無視を続けた。
「……」