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第十九話 再戦

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 妹は。犬たちの虐殺が行われたあの場に残された、かすかな匂いをたどって、ここまで自分を追ってきた。

 怪我をして身体から血を流せば、道路上に血液が一定距離ごとに残る。自分たちは、その血の匂いをたどることができる。

 血を流していなくても、足跡に残された匂いをたどることもできる。

 猟犬は皆、そうやって獲物の匂いを追うのだ。

(ヒトにはできないが。人間の数万倍からの嗅覚をそなえている犬たちは。

 地面に鼻面をこすりつけて。そこに残された、わずかな匂いの分子を吸い込む。

 それで犬は。そこで何があったのかを、匂いの分子の痕跡から、知ることができる。

 たとえば警察犬は。何時間も前に逃げた。会ったこともない、見たこともない。犯人の追跡ができる。

 路上に残された。靴底の合成ゴムや、ポリウレタン等の。地面に付着している物質の分子を。

 すぐれた鼻の嗅覚細胞と、ヒトよりも大容量の嗅球の記憶量をもとに、嗅ぎ分けられる。

 なので。容疑者の私物の匂いが、そこにないかを調べられる。

 そのようにして。警察犬は。対象の追跡を続けることができる)

 でも、それだけじゃない。

 妹が。こんな短時間で自分の追跡を成功させることができたのは。

 こいつらが、包囲から脱出した犬がいたらすぐに追跡を開始できるように、と。

 最初から包囲網の近くに待機していたから。

 前もって準備をしていたから、だ。

 つまりは妹も、紅林さやかに協力している。ということだ。

 知能犬である彼は、暗がりのなかで。四つ足をひろげて、身がまえた格好で。こうべをたれると。

 こみあげるやりきれない感情から、くちもとをゆがめて笑う。

 ほかの犬にはない、すぐれた頭脳を持って生まれてきて。知力と、高い身体能力で、大勢の同族を従えて。人間たちを翻弄してきた自分が。

 兄弟や仲間を失い、傷ついて一人、こんな場所に追いつめられている。

 そしてその追いつめた相手は、血をわけた兄弟である妹なのだから。自分がおかれた境遇を笑うより、彼にはほかにすべがなかった。

 この家に踏み入った一人と、一匹のコンビは。不用意にそれ以上はすすむと危険だ、と判断したのだろう。

 出入口のあたりでたちどまって、真っ暗な建物の奥の様子をうかがっている。

 こうなったら、戦うよりない。

 彼は、くじけそうになる気持ちをふるいたたせると。兄弟を殺された怒りと憎しみを自分を動かすエネルギーに変えて。

 自分をとらえにきた侵入者たちにむかって、咆え声をあげてつっこんでいく。

 知能犬の兄弟同士で、たがいの技術や体力を高めるために、これまで幾度となく、とっくみあいの争いをしてきた経験から。

 彼は。いくら自分が傷ついていても、妹には勝てる。と見込んでいた。

 妹は、脚は速いし、反応速度と反射神経は良いけれど。兄である自分たちよりも、筋力は劣っている。

 最初の攻撃で、体当たりや噛みつきをうけてひるむと。あとは相手の攻撃を受けるのでせいいっぱいになってしまう。

 だから、力で押せば勝てるはずだ。

 予期していたのだろう。おそろしい吼え声をげながらむかってきた兄犬の攻撃を。妹犬は、まっこうからうけとめた。

 たがいに、相手を威圧しようとする二頭の犬の吠え声とともに。犬と犬とが正面をきって争う際の、歯と歯とがぶつかりあう音が響く。

 二頭の犬による、すきがあれば戦っている相手のからだのどこにでも食らいついて痛めつけて弱らせようとする、一進一退の肉弾戦が。広くて暗い部屋のなかでくりひろげられる。

 雌犬の背後にいた、夜目のきかない人間である日下にとってみれば。目の前でくりひろげられている二頭の犬の争いは。反射速度と戦闘方法のどちらも人間には対応できない。見てもわからない、驚くべき出来事だった。

 傍観しているより、ほかに方法がない。

 だがそれでも日下は。自分がこの犬といっしょに戦わなければ。雌犬がきっと負けてしまう、と。これまでの経験からわかった。

 自分が、他人ごとでいれば。いくら頑張っても雌犬は。いま戦っている、自分を追いまわしたあの灰色の犬に力負けするだろう。

 そうなったら次は、自分の番がめぐってくる。怒り狂ったあの犬に、自分は血祭りにされるだろう。

 そこで日下は、ありもしない勇気をふるいたたせると。用意しておいた道具を両手にそれぞれ持って。あらかじめ雌犬に言いきかせておいたことを、決死の覚悟で実行する。実行に移した。

 雌犬は、兄である犬とめまぐるしい肉弾戦を続けながら、背後にいる日下が行動を起こす瞬間をジッと待っていた。

 青ざめた決意の表情で、日下が前に踏みだすと。雌犬は、食いついてきた相手の歯の攻撃を、自分の歯でうけとめてふせいでから。次の瞬間には、目を閉じて横に跳んだ。

 日下は、右手に持った強力なフラッシュライトを点灯させて。それを前につきだして。前にいる知能犬の顔に光を浴びせて目をくらませてから。思わず、顎を閉じて身をすくませた知能犬の鼻づらにめがけて、左手で持っていた犬用の口輪をかぶせようとした。

 うまくかぶせられたら、うしろにひっぱって、口輪のベルトを犬の後頭部で固定すればいい。

 知能犬は、日下のとっぴな行動に驚いてとっさに口輪をかぶせられそうになったが。

 ハッとなると、かぶせられる前に、日下の左の掌を思いきり咬んで、それを阻止した。

 だが日下は、左手に防刃用の手袋をはめていた。

 犬の歯が手袋の表面を破りそうなくらいに強く噛んだのを知った日下は、そのまま犬の鼻づらを左手で握って動かないようにして。

 右手のフラッシュライトを捨てて。鼻先にひっかかっていた口輪を右手でしっかりとかぶせてから、口輪のベルトを犬の後頭部で固定した。

 ほんの一秒間から、二秒間の出来事だった。

 事前に雌犬に言い聞かせて練習していなければ、うまくいかなかったろう。こんなことはできなかったろう。

「……? ……!」

 知能犬は、自分の最大の攻撃手段である噛みつきを、口輪のせいで封じられたのを知ると。

 怒り狂って、つかめない前脚でそれをひっかいてとろうとし。頭をふるい、その場でとびはねて暴れまわり。口輪をはずそうとした。

 冷静であれば、口輪のはずしかたに気付いて。やすやすと自由になれたろう。

 だけれども、怒り狂っているせいで。普通の犬と同程度の判断力しかなくなってしまった彼には、それができなかった。

 噛みつく攻撃を封じられてしまえば、戦う方法を無くした犬は、もう一頭の犬に倒されるよりなくなる。

 争いは一方的な展開となる。

 十数分後には。倒れた知能犬と。それを自分の前脚でおさえつけて、荒い息をついている。勝利した雌犬の姿が、そこにあった。

 決着はついた。さんざんに噛みつかれて、残っていたプライドも喪失し、戦う気力も失ってしまった知能犬は。日下の見るかぎりでは、もう立ちあがることもできない様子だった。

 日下は。自分が脚でおさえつけている知能犬の様子を、油断なくうかがっている雌犬に、たずねる。

「それで、どうする? このまま、こいつを。さやかに指示されたように、あいつらにひきわたすか?

 ここだけの話だがな。おれはべつに、さやかに従わなくてもいい、と思う。つかまえようとしたが。逃げちまった、と言えばいいさ。おれは、お前に従うよ」

「……!」

 雌犬は、日下が言うことをきいて。驚いた表情で、日下の顔を見上げてから。しばらく考えたのちに、再び日下の顔を見る。

 雌犬の表情から、相手が言いたいことをくみとると。日下は、注意して慎重に、倒れた知能犬の口輪をはずしてやる。

 日下がすることを、倒れたその知能犬は。黙ってジッと見ていた。

 日下が自分のそばを離れると。日下にとびかかるかわりに、四肢をふるわせながら気力を振り絞って、立ちあがって。

 負けた犬は、自分を見ている雌犬のことをふりかえりもせずに。二人をそこに残して、よろよろとその場から立ち去る。

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