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第十八話 逃げた先で


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 逃げた知能犬の一頭が逃げ込んだのは。放棄されて、ガランとした、大きな民家だった。

 もとあった家具はすべて運びだされたあとで。屋内は、もうカラッポになっている。

 でもこの放棄された家は。じつは。三頭の知能犬たちが。事前に用意しておいた。

 雨や夜風をしのげて、夜も暖かく。安全にすごせる隠れ場所として。ねぐらのひとつだった。

 なんとか、ここまで逃げてきた知能犬は。だが。いまや。すっかり打ちのめされていた。

 彼は。兄弟である、ほかの知能犬が。撃たれて血煙をあげて倒れるのを目撃したが。

 そのときに、彼が覚えたのは。天地がひっくりかえるほどの衝撃だった。

 催涙ガスの、とうてい耐えられない煙に、ホテルの中からあぶりだされると。

 走って逃げて。建物の外で待ちかまえていた、防具で動きがとれない人間の手をかいくぐったときには。

 まだ。その知能犬は、この事態を面白がっていた。

 兄弟たちといっしょに、危機を脱して逃げきれる。と思っていた。

 けれども。のろまで、鈍重な人間たちを鼻で笑いながら、風のように彼らがいる通りを駆け抜けたその先で。

 不意に、なんの前ぶれもなく。すぐそばを走っていた知能犬の兄弟が、撃たれてしまい。悲鳴とともに、後方にふっとばされた。

 その瞬間に、それまでの愉快な気持ちはどこかに消え失せて、以降はすべてが一変した。

 身体から血を流している兄弟のもとにかけより、相手の体の様子をたしかめた二頭は。

 だけれども。撃たれた兄弟を、もう助けられない。自分たちにはなにもできない。のを知った。

 命中した弾頭は、変形して。犬の体内でそのエネルギーを四方に分散させて。臓器のいくつかを破壊していた。

 撃たれて転がった犬は。なにかを訴えるまもなく。驚きの表情を二頭にむけた格好で、こと切れて亡くなった。

 残った兄弟のもう一頭は、すぐさまに怒り狂い。歯をむいた形相で、通りの先にいる、散弾銃をかまえている警官に突進していった。

 そのあとは、なにがどうなったのかは、記憶があやふやだった。

 激昂して敵に立ち向った兄弟も、きっと撃たれて殺されたのだろう。

 なぜなら。生きていれば。ここで合流しているはずだからだ。

 彼自身は、こちらにむかって射撃をくりかえす射手の射線に入らないように、一目散に逃げるよりなかった。

 逃げ切って。この隠れ場所にたどりついたときには。

 一頭だけ生き残った彼は。その知能犬は。

 負傷して。疲れきって。息も絶え絶えの状態になっていた。

 隠れ場所に用意した、大きなバケツのなかにためておいた飲料水を、頭をつっこんでガブガブと飲む。

 それから、毛布やシーツでつくった寝床に、倒れるように腹ばいになって。荒い息をつく。

 彼はそのまま、悲痛な悲しみに満ちた唸り声をもらす。

 疲れきっていて。打ちのめされていて。つらくて。悲しくて。気持ちが押しつぶされそうだった。

 ひどい状態だったけれど。それでも。それとは別の強い感情が。銃撃を生き残った彼をささえて、もちこたえさせていた。

 その感情は、怒りと憎しみだった。

 彼は。この強い怒りと憎しみは、知能犬である自分の頭脳がうみだしている、それを自覚していた。

 知能犬ではない、ごく普通の犬の脳ならば。この状況に恐怖しか覚えなかったろう。

 ただの犬であったなら。大脳の記憶量が少ない普通の犬の脳であったなら。

 兄弟が殺された。仲間が死んでしまった。

 みんないなくなってしまった。自分一人になってしまった。

 それしかわからなくて。恐怖のままに、ふるえているだけだったろう。

 生命維持に関わる、短期的な反応である。

 感情や情動は。脳の深いところにある、大脳の辺縁系がつくりだす。

 脳の深い部分にある大脳基底核や、その周りの古皮質や旧皮質は。

 思考にもならない。もっとシンプルな。動物たちを衝き動かす。恐怖といった原始的な感情や。生き残りたい、という生存本能を生みだす。

(カエルやトカゲにも感情はある。けれども、それは。恐怖、空腹、性欲といった単純で原始的なもので。それはこの、大脳基底核と脳幹や、大脳の辺縁系が、生み出している)

 多くの動物が共通で持っている、この生存本能に関わる部分と。大脳の古い部分と。そのあとでできた新しい部分は。

 それぞれの個体が生涯をかけて記憶した、わずかな記憶をもとに。脳の持ち主に、そのときの状況を判断させる。

 いまのような、生死にかかわる状況に置かれれば。ワニやトカゲのような動物なら、きっと。

 自分は死にたくない、生き残りたい、と。脳の持ち主に、生存を渇望させて。衝動のままに逃走させる。そうした行動をとらせる。

 ただの犬であれば。恐怖と生存本能のままに。ただ、逃げて隠れて。生き残ろう、としたろう。

 恐怖にふるえて。脳の底部と、古い部分がうみだす、生存本能に従うことだけを考えたろう。

 だがしかし、それよりも新たにつくりだされた。大脳皮質という、大脳の表層部分が。

 彼の。普通の犬よりも厚みをそなえた、知能犬としての、脳の増量した部分が。

 彼に考えさせて。こうなった理由を推測させた。

 そして、脳は。兄弟たちの死は、偶然ではなくて、紅林さやかのさしがねで行われたのだ。と彼に教えた。


 兄弟たちを殺したのが銃を持った警官でも。そうなるまでの一連の出来事は。だれよりも自分たちを理解している、紅林さやかが協力して行った。そうなるように導いた。

 知能犬である彼の脳は、思考することで、彼にそう推測させた。これまでの出来事から、彼にそうして論理的な判断をさせた。

 大脳皮質の増加は。脳の記憶量を増やすことで。普通の犬にはできない複雑なことを、彼に考えさせた。

 だから彼は、恐怖にのまれてしまうかわりに。怒りと憎しみの感情に身をゆだねることができた。

 無力な気持ちで、ただ泣き叫ぶだけの犬ではなくて。

 これからどうするべきか。なにをするべきか。それを計画できる知能犬として。自身の苦しみと悲しみに耐えることができた。

「……」

 とはいえ、前回はうまくいかなかった。苦労の末に、紅林さやかを追いつめて、望んでいたその瞬間が訪れたのに。

 その際に、自分でも気付いていなかった彼女への感情が。彼女への愛情が。紅林さやかに対してわきあがり、目的をはたせなかった。

 でももう、さやかへの愛情は。今日の出来事で。もっと強い感情である、怒りと憎しみへとかわった。

 彼は。こんな真似をした紅林さやかに、どんな報復をしてやるのかを。暗い部屋の中で、寝床で独り、兄弟たちを失った悲しみにくれながら。その頭脳を使い思いめぐらせる。

「……!」

 そのときだった。彼は。隠れ家にしたこの廃屋に、何者かが踏み入ってきたのに気付いた。

 侵入者がたてるかすかな物音が響く。空気中に知らない匂いの粒子が漂う。彼の鼻の感覚器官がそれを感知する。

 とび起きて、その身を半回転させると。次の瞬間には、出入口の方向をむいて。四つ足を踏んばって身がまえる。

 自分と兄弟たち以外に、この隠れ家の場所を知る者はいない。その兄弟たちも、もういない。

 ならば、ここにあらわれた相手は、自分を追ってきた敵だ。そういうことになる。

 侵入者にむかって突っ込むかわりに、彼は思考をめぐらせて、いくつかの可能性を検討する。

 そのとき。その一人がささやいた声をきいて。侵入者の正体に、彼は気付いた。

 その人間は、自分の前にいる犬にむかって、小声でたずねる。

「……本当に、こんなところに隠れているのか?

 お前が間違えたんじゃないか? あの犬は、もうとっくに。遠くに逃げちまって。こんなところには、いないんじゃないか?

 だっておれが同じ立場なら、できるだけ遠くへ逃げるもんな。とりあえす。まずは。この街から逃げる。そうしたら、次は、そうだな……」

「ゥ゙ゥ゙ッ!」

 おしゃべりな同行者が、緊張に耐え切れずに不用意に発した発言に。気付かれるからやめろっ。と短い唸り声で制止をうながしたのは。知能犬だった。

 現れたのは。同じ知能犬として生まれたくせに、兄である自分たちを裏切った、妹の知能犬だった。

 そして、もう一人。妹犬が自分たちの隠れ家に連れてきたのは。日下始という。あの、のろまな人間だった。

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