第一話 冒頭
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男の名前は、日下始という。
年齢は五〇歳で。長いこと失職中だったが。いまはアルバイトの仕事についている。
そのアルバイト職で得た収入から。日下は。
借りている木造アパートの部屋の家賃を払い。アパートで暮らす光熱費を払い。日々のこまごまとした生活費を払い。税金を払い。どうにかこうにか、生活をしている。
このような、ひっ迫して。困窮した。貧乏生活を強いられているせいで。日下は、いまだに独り身だった。
とはいえ。これといって、最近ではめずらしくもない。孤独な高齢者の男の身辺について、これ以上話してもしかたがないので。そのかわりに、日下がやっている、いっぷうかわったアルバイトについて語ろう、と思う。
日下がむかったアルバイト先は、いま述べた彼の境遇とは不釣り合いな、大勢の利用者が出入りする、公共施設だった。
区役所分庁舎。古びているが、けっこう大きくて立派な建物のなかに、日下は入っていく。
こまごまと設置された、たくさんある行政サービスの窓口の前を通って。その奥にある、都民の声、という窓口にやってくる。
都民の声。この窓口は。都民からの陳情などを受け付けるためにもうけられた窓口になる。
陳情する方法だが。都民の声のホームページのアドレスに、電子メールで陳情したい内容を文章にして送ることのほかに。
行政サービスのコーナーに設置されている投かん箱に。窓口に大量においてある専用の投稿用紙をとってきて。用紙に記入して、投かんをする。
都民であれば。だれでも自由に、投かん箱に、記入した用紙を投かんできる仕組みになっている。
日下の仕事は、この投かん用紙にかかわることだった。
この窓口で募集をしていた、アルバイトの仕事の要綱は。次のようになる。
都民の声。窓口における、業務の補助をお願いいたします。
業務の内容は、PC入力作業になります。(その他、電話対応など)
募集の年齢は、30代~60代の男性。
勤務地は、東京都☓☓区。☓☓駅より徒歩5分。
時給は、1200円。交通費は1日、500円。
日下としては、もっと安定と保証がされている、しっかりした境遇の仕事につきたかったが。どうしようもなかった。
勤め先こそ、役所ではあったけれど。
職場における日下の立場は、吹けば飛ぶような。取るに足らない、下っ端だった。
アルバイトの管理をしている職員の、さじ加減ひとつで。本当に、ほんのちょっとした、気分次第で。
なにか適当な理由をつけて、前ぶれもなく解雇されても、文句のひとつもつけられない。そんな立場だった。
職場にやってきた日下が、面を伏せて、急ぎ足でむかった先は。職員たちが、デスクをならべて働いているスペースではなかった。
窓口があるスペースの横にある、細い通路の奥に設けられた、物置のような場所だった。
実際に、この場所は。本来ならば、倉庫や物置に使われる部屋で。使わない備品や資材をしまっておくための狭い空き部屋だった。
いまは、そこには。机と、椅子と、ノートパソコンが用意されている。
机の上には、なにやらいろいろと書き込まれた投稿用紙が、何十枚も山になって置いてある。
これは、窓口を訪れた都民たちが投かん箱に入れていった、陳情書だった。
日下の仕事は、その書類を一枚一枚読んで。
そこに書かれていることを。読みやすい、短い文章に直して、パソコンに打ち込んでいくことだった。
そうやって日下が一日かけてつくったデータは。日下のようなアルバイトを管理する職員の手に、その日の終業になるとわたされる。
その後、どうなるのか、というと。
区役所に設置してあるサーバに保管されて。
この区役所だけでなくて、都の職員全体で共有して、自由に閲覧できるようにすることで。行政サービス側で問題に対応できるようにする。そういう仕組みになっているようだった。
(陳情書を読んで。問題に対応した結果も書類として残っているはずなのだが。そちらは、日下のもとにこないので、彼に知る由もなかった)
日下の仕事は、あくまでも。都民が持ってきた、投書の内容のデータ化であって。それ以外のことは、彼にはいっさい、知りようもなかったのだ。
ちなみに。日下が打ち込んだデータについては、個人情報にあたるために、他者に話したり教えたりすることは厳禁とされていた。
もしもそんな真似をしたら。日下はアルバイトの仕事をクビになるだけではなく。区役所側から罪を問われて、賠償金を請求されることになる。そのように、最初に書いた契約書に明記されていた。
といっても。このアルバイトを始めて、もうけっこうな期間になるが。
いまのところは、日下は、解雇もされていなければ、裁判にかけられてもおらず。無事に、仕事を続けていた。
(ちなみに。彼の上司である。甲田という男だが。年齢は、国家公務員の定年である六十歳間近くらいで。グレーのズボンに、ボタンシャツに、黒ぶちのメガネという、典型的な役所の公務員の格好をした、白髪の小男になる。
甲田は。毎日、朝の仕事の開始と。終業の確認のときに。日下のもとに顔を見せにあらわれるほかは。ほとんど言葉をかわすこともない、そういう間柄だった。)
午前の作業が始まる。日下はいつものように、匿名の都民からよせられた投書の内容を読んで、それを文章にして打ち込む作業を始める。
都民からの陳情といっても、投書の内容の大多数は。
家族や友人や知人や、見も知らない隣人や、特定ではないだれかにむけた、悪口や中傷やあてこすりや愚痴だった。
たぶん、こうして打ち込み作業を続けている日下以外には、きちんと読まれることもなく。窓口の職員からも、取り組むどころか、注意をはらわれることもなく。
電子データ化されたのちに。区役所のサーバーに保管されて忘れられていく。そういうものだった。
携帯電話や、パソコンを使った電子メールが全盛の現代に。投書用紙を使った、時代遅れな方法が、本当に利用されるのか、と思うかもしれないが。
送信記録をたどって。発信した人間を特定できる電子メールに対して。窓口に行って用紙さえとってくれば。連絡先を空欄にすることで。特定の人物への、だれが書いたのかもわからない悪口を好き勝手に連ねられる、このレトロな方法は。いまだに根強い人気を維持しているのだった。
作業を始めて、すぐに。日下は思わず、声にだして訴える。
「ああ。また、あれだ。例のやつの目撃情報だ。これで何度目だ?」
ウンザリした様子で、日下がデータ化にとりかかった投書の内容は。次のようになる。
×月×日。××区××町。×丁目の飲食店。××の店主××からの投書。
時刻は、夜の11時頃になる。店主××は。店の裏にあるフタ付きのゴミ箱に、業務で生じた、袋詰めにした生ごみをだそうとした。
じつは。この店のならびにある、ほかの飲食店では。少し前から、生ごみを荒らされていた。
そこで店主は、自分のところでは、そうならないように、対応策として。フタを固定するストッパー付きのゴミ箱に交換をしていた。
生ごみを捨てに店の裏にでた店主は。ゴミ箱がおいてある暗がりで。ストッパーを押しあげて、箱の中身をさぐっている相手と遭遇した。
店から人がでてくるのに気づいた相手は。店主にみつかる前に、暗がりのむこうに逃走した。店主は、相手の姿を確認できなかった。
ストッパーをあけることは、野良犬や野良猫、カラスにはできない。
そうした事情から、店主は。これは人間がやったことだ、と考えて。警察に被害届をだして。窓口の投かん箱に投書をした。
じつは、ゴミ箱が荒らされていた投書は、この一件だけではない。
日下がデータ化した、ここ数か月間の投書で、ほかにも同様の苦情がよせられていた。
苦情はどこも飲食店で。夜間に、店のゴミ箱の中身が荒らされた、という内容になる。
不思議なのは、いまの件と同様に、あけられないはずのフタ付きのゴミ箱をあけて、荒らされることだ。
日下は、机に積んである、ほかの投書を読んで。その内容をデータ化していきながら。いったいなにが、フタ付きのゴミ箱をあけたのだろう、と想像をめぐらせる。
この店のゴミ箱をあけた犯人は。手先が器用で。ストッパーを押しあげることで、中身をだせる。とわかっている。そして、それを実行できる対象になる。
ヒトではなくて。なにか野生の動物だろうか。
だとしたら、不思議なのは。この店の店主が夜間に遭遇するまで。その動物がゴミ箱を荒らしていたのに気づかなかったことだ。
もしかすると、この動物は。ゴミ箱をあさったあとで、あけたフタを元通りにしておいたのだろうか。
でもまさか、そんなはずはない。
手先が人間なみに器用な。野生の猿ならば、カギ付きのゴミ箱をあけることは、見よう見まねでできるだろう。
でも中身を物色したあとで、気付かれないように蓋を閉じておく、なんて真似はしない。
その動物は。そうすることで、次回も捨てる側に気付かれることなく、再びゴミ箱をあさることができる、と判断する。それだけの知能をそなえていることになる。
そんなことを考えながら。ほかの投書の内容のデータ化をすすめていた日下は。今回の投書のなかに、ほかにも興味深い、よく理解できない内容のものがあるのに気付いた。
こちらもまた同様に。飲食店が多い繁華街の裏道で遭遇した、不思議な出来事について投書したものだった。
×月×日。××区××町。×丁目の裏道。投書した人物は、自身が会社員である理由から、匿名を強く希望している。
時刻は、夜の0時過ぎ。ハッキリしない。
投書の会社員は。付近の飲食店で、酩酊するだけのアルコールを摂取してから。裏通りに迷い込んだ。
(飲酒のせいで、会社員は。自分が目撃した出来事を。事実ではなかったかもしれない、と述べている)
裏通りは照明が点灯しておらず。夜間のせいもあって。見通しは非常に悪かった。
最初は、そこになにがあるのか。匿名者は把握できなかった。
よく見ると。金属製の大きなトラッシュケースのまわりに。なにかよくわからない動物たちが集まっていて。動物たちが、その大きな金属製の箱を引きずって運んでいた。
金属製のトラッシュケースは。ゴミ収集車が定期的に周回をして。集積されているゴミを回収するためにもうけられた、屋外用のごみステーションになる。
容量は960リットルあって。45リットルのゴミ袋を、内部に19個から21個、おさめることができる。
トラッシュステーションは。この箱を利用する住民の利便性を考えて。ダンパーの力で扉をロックして。犬、猫、カラスにはあけることができない構造になっている。
トラッシュステーションは、固定をされていない。
業務用の大型サイズのゴミステーションは、4トントラックでなければ運べないサイズと重量になるので。勝手に持ち去られる危険はない、と判断されているからだ。
ところが匿名者の目の前で。重量がある鉄の箱が、裏道を移動させられていた。
信じがたい光景をまのあたりにして。匿名者は、ショックをうけると。恐怖にかられてその場から逃走した。
自宅に帰って。酔いがさめたあとで。自分が見たことをだれかに伝えなければならない気持ちから。同窓口に投書をした。
投書には別紙が付属している。日下は、窓口の職員が添付したらしい、そちらも読んでみる。
追加の情報として。
問題のゴミステーションは。ゴミ収集車が通るルート上の定位置である、表通りにある集積所の場所から。裏道へと入って、奥の細道にまで、移動させられていた。
(どうやって移動させたのか、というと。中身が入った大きな金属の箱のまわりに、用意したロープを幾重にもまきつけて。大勢で力まかせにひきずって運んだらしい。
発見された位置にまで移動させてから。それ以上は進めることができなくなってしまい。あきらめて放置した、と思われる)
だれがなんの目的でやったのかはわからないが。イタズラだとしても。都民が共用する、公共物を盗もうとした犯人がいたことで。この件は警察に報告された。
午後四時をまわって、終業時間もせまった頃だ。
日下の興味をかきたてる、新たな別の投書が。残った投書の山の下からでてきた。
さっそく、読んでみる。
投書の投函がされたのは、今日の午前中で。午後の休憩時間中に。投かん箱から、この机の上にまで、直接にやってきたらしい。
これまでの投書の内容が、目撃してから日数が経過して投書されていたのを踏まえると。この出来事が起きたのは、日付が正しければ、つい昨日のことだった。
あくまでも、投稿者が真実を述べていれば、の話だが。
(時間がなかったので。日下は。この投書を、読むだけにとどめて。データ化は明日にすることにした)
投稿者によれば。問題の出来事は、一昨日に起きた、という。
投書をしたのは、都内の××区にある、××校の学生だ。
この生徒によれば。この学校の生徒たちのあいだでは、都市伝説のようなうわさ話がはやっている。
それは。絶滅したはずのニホンオオカミの幽霊が群れをつくって、都内を夜な夜な徘徊している。というものだ。
そこで。このうわさ話の真偽をたしかめるために。学校の生徒たち数人が。問題の幽霊狼たちが出没する、というウワサのスポットに出向いた。
深夜すぎに。学生たちは、いまではシャッター通りになっている無人の繁華街で、探索と調査を開始した。
そして、学生たちは。そこで実際に。幽霊の実物に遭遇した。
投書をした学生によれば。最初に同伴した友人が気付いて。持っていたマグライトの光をむけて、相手の正体をたしかめようとした。
だが光をあてられる前に。暗やみのなかをものすごい勢いで走ってきた相手が。一瞬の早業で、光をむけた学生の手から、マグライトを叩き落した。
学生たちが、見たりきいたりしたのは。暗やみのなかを逃げていく、得体が知れない存在の足音や呼吸音だった。
あれは。幽霊ではなくて。たぶん、なにかの動物であって。その動物は、大声をあげて騒いでいる自分たちとは対照的に。だれも一言も発せずに、始終沈黙したままでいた。
学生たちは、仲間内の話題になっている都市伝説の実物に遭遇したことに満足して。それ以上は相手を追跡せずに、ウチへと帰った。
たったいま、読んだ投書について。
日下は、これを投書した学生の創作能力の高さに、すっかり感心をしていた。
今日、投かんされたばかりの投書の内容は。問題を解決して欲しい、という陳情ではなくて。だれかに言わずにはいられない、自慢話だ、とわかった。
投書の内容によると。学生たちは、正体不明の存在との遭遇を警察に届けることはしなかった。
理由は。学校で友人連中に自慢するためと。SNSに投稿して人気の話題になるためらしい。
そのあたりの事情は。日下には、どういうことなのか、サッパリ理解できなかった。
それはともかく。ここに書かれた。まるで実際にあったかのように語られた話は、なかなかできるものではなかった。
よくよく思い返してみると。学生たちが語っている住所は。人口密集地が多い都内にでも、あちらこちらに間違いなく点在する、すたれた商業地域のような場所だった。
いかにも都市伝説の舞台になりそうな。投書された出来事がおきてもおかしくないのでは、と。そんな気になるさびれた場所なのだ。
とはいえ。ここで語られたことは、とうてい信じられるものではない。
だからこの陳情に対して、窓口の職員がなにか対応することはないだろう、と日下は考える。
このアルバイト職に良い点があるとすれば。それは、終業時間がくれば、残業をせずに帰れることだった。
データ化を終えてない投書は、まだ束になって残っているが。
それでも、午後の五時をまわった頃に。上司である甲田が物置部屋にやってきて。そっけなく。それじゃ、帰って。と日下に告げた。
ペコペコと頭を下げてから。日下は、今日一日かけてつくったデータファイルを。都民の声の備品扱いになっている、用意された記録ディスクに入れて。甲田にわたす。
(時代遅れのやりかただが、そうするように指示されているので、それに従うよりなかった)
白髪の小男は、それを受けとると、なにも言わずに、背をむけて、もどっていく。
今日の甲田は。なにか言葉をかけてくれただけ、まだましな対応だった。無言で去っていくのが、しょっちゅうなのだから。
モタモタと長居をしていると、甲田の印象が悪くなるので。日下は急いで、帰宅をすることにする。
日下は。建物の外に出ると。退出者たちにより生じた、人混みの渦中からはずれて。ホッと一息をつく。
あとは、このまま、駅から電車に乗って。賃貸アパートの自室に帰ればいい。
でも、なぜなのか。どうしてか。今日はそんな気にならなかった。
日下は。駅にむかう足をとめて。少し考えてから、きびすをかえして、歩きだす。
なんとなく、投書にあった住所の場所に行ってみよう。と思い立って。
日下は、問題のシャッター街をめざして、歩きだす。