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7.

 神にも祈るような気持ちで、空の名前を出したところで「通話」をタップした。


 ――プルルルル、プルルルル。


 呼び出し音が異様に大きく聞こえ、この時間がもどかしい。


 ――プルルルル、プルルルル……。


『どうした?』

「あ、秋山くん。ハルが……ハルが……」

『ハルがどうした? とりあえず、落ち着けって。何があった?』


 空の声を聞いただけで、目頭が熱くなった。不安の代わりに、心強さが込み上げてくる。


「うん。ハルが急に嘔吐して……それで、ぐったりしてるんだけど……病院はもう終わってるし、変な病気だったらどうしよう……」

『う~ん』


 スマートホンの向こう側からは、空が何かしら考えているようだ。


『ハルの様子は。他には? 嘔吐しただけ? おむつは? おしっこ、出てる?』


 空が何を確認しようとしているのかはわからない。だけど、今は彼に頼るしかない。

 陽翔のおむつを確認してみると、少ししか濡れていなかった。こども園を出てから今まで、おむつはかえていない。となれば、もう少しずっしりとしていてもおかしくはない。


「多分……出ていない……」

『あ~もしかしたら、ウィルス性の胃腸炎かも。これってさ、病院で点滴するやつ。特効薬はないから、対症療法しかないやつ。とりあえずさ、経口補水液。それを様子見ながら、飲ませて』

「経口補水液? そんなの、ないよ」


 返事がない。もしかして、あきれているのだろうか。


『……わかった。オレ、買って、そっちに行くわ。今日、櫻井の親父さん、出張でいないんだろ? オレさ、今日は親父がいるからさ。車、出してもらうからすぐだよ。待ってて』

「え?」


 海斗が返事をする前に、通話が切れた。


(どうしよう……)


 そう思いつつも、空の言葉を信じれば、とにかく水分をとらせることが重要なようだ。


(え? でも、今日、お父さんが出張で不在だって、秋山くんに伝えたっけ?)


 そんな疑問は浮かびつつも、今は陽翔をなんとかしなければ。


 とにかく水分。

 すぐに思い浮かんだのは麦茶だ。それをストローつきのマグにいれて、陽翔の口元に運んでみる。


 喉が渇いていたのか、陽翔はチューチューと一気にストローを吸い上げる。麦茶を飲んだことに安心したのもつかの間、口からすぐに吐き出した。


 しかし、海斗だってわかっている。一度、嘔吐すれば、落ち着くまで繰り返すのだ。だから洗面器に新聞紙を敷いたものを用意していた。


 海斗はスマートホンを操作して、空が口にした「ウィルス性胃腸炎」を検索する。


 やはり、対症療法とか、脱水に注意とか、そういったことが書いてあった。それから、経口補水液というキーワードも。


(一気に飲むと吐いてしまうから、こまめに飲ませる……)


 空はここへ来てくれると言った。だから、空がやって来るまでなんとかしなければ。

 少しずつ陽翔に麦茶を飲ませ、吐いたら片づけて、汚れたところは拭いて。


 ――ピンポーン。


 そのチャイムが救いの手のように感じ、心がぱぁっと開けた。だが、油断してはならない。もしかしたら、何かの勧誘かもしれない。


 インターホン越しに「はい」と出てみると、画面に映っていたのは空だった。それから後ろには大人の男性が立っている。


『おぅ、櫻井。オレだ、オレ。早く、開けろ』

「あ、秋山くん……」


 慌てて玄関へと向かい、扉を開ける。

 画面とみたときと同じように、空と大人の男性の姿があった。


「いつも空がお世話になっております……空の父です」


 そう言った男性は、髪をすっきりと後ろになでつけて眼鏡をかけていた。軽いノリの空とは正反対で、真面目な印象を受ける男だ。


「……あ。こちらこそ、秋山くんにはお世話になっています。櫻井海斗です」

「では、私はこれで。明日の朝、迎えにきますので」

「え? あ、あれ?」


 空は家の中に入っていくし、空の父親は背中を見せて去って行くし。二人の様子を交互に眺めた海斗は、空を追いかける。


「あ、秋山くん?」

「あ、勝手ながら、オレは今日、おまえの家に泊まるから。オレ、どこでも寝られるから気にしないでくれ」


 いきなりそんなことを言われても。


「具合の悪い陽翔と二人っきりじゃ、不安だろ? だけどオレと櫻井、二人いればなんとかなる」


 そう言った海斗が買い物袋からガサガサと取り出したのが、経口補水液と書かれたゼリー飲料だった。


「スプーンある?」

「あ、うん」


 海斗にスプーンを手渡せば、彼はゼリー状の補水液を少しだけスプーンにのせる。それを陽翔の口元にまで運び、コクリと飲ませた。


「よし、一口飲んだな。一度にたくさん飲ませると、吐くからさ。大変だけど、こうやって少しずつな。陸もよくかかっていたからさ。で、櫻井、おまえ、ご飯は食べたのか?」

「え、あ……まだ」

「ほらよ。コンビニのおにぎりで悪いけど、とりあえず食っとけ」

「ありがとう」


 おにぎりを目にしたら、安心したのか、一気に空腹が襲ってきた。


「秋山くんは?」

「オレは食ったよ。今日は、チャーハン作ったんだ。あとは、スーパーの惣菜だけど。オレにしては進化したと思わん?」


 海斗からも笑みがこぼれる。


「……そうだね」


 少しずつ心が安堵で満たされていく。


 空が側にいるといつもそうだ。

 不安とか不満とかでいっぱいだった心は、別のあたたかな感情で上書きされていく。


「どうしても集団生活してるとさ。こういう病気、もらってきちゃうんだよな。だから、櫻井のせいじゃないよ」

「あっ……」


 空はずるい。こうやって海斗が必要とする言葉をかけてくれる。


「ありがとう……」


 お兄ちゃんだから。

 航太とは血のつながりがないから。


 そんな負い目があって、陽翔の面倒だけは責任をもってみなければという思いがあった。だが、その重圧に負けそうになっていたのも事実。


 そうであっても、空や陸は、海斗のその重圧を取り除いてくれる。羨ましいとすら思える秋山兄弟の関係が、海斗にとっては気づかぬうちに心の支えになっていたのだ。


「とりあえず明日、朝一で病院に連れていこう。きちんと水分さえとらせれば、救急でいくまでもないから、安心しろ。だけど、これ、うつるから気をつけろよ」

「え? だったら秋山くんも危ないんじゃ……」

「オレ? オレはウィルスもらっても発症しないタイプ。だから言っただろ? 陸がよくかかってたって。だけどオレは無事」


 そうやって笑う空は、きっと海斗の気持ちを落ち着けようとしているのだろう。


「それより、親父さんに連絡はしたのか?」

「あ、うん……さっき、電話したんだけどつながらなくて。一応、メッセージは入れておいたけど」


 陽翔の世話にかかりっきりで、スマートホンはポケットに入れたまま確認していなかった。

 テーブルの上に取り出してみると、ピコピコとランプが光っている。


 航太からのメッセージだった。


 ――悪い、まだ打ち合わせだ。

 ――陽翔の様子は?

 ――すぐに帰りたいけど、最終が間に合わない。


 打ち合わせ中だと最初に書いておきながらも、いくつかメッセージがきていた。仕事中に何をやっているんだと思いながらも、そう思える余裕があることに気づく。


 そして、こんな時間まで仕事である父親が、逆に心配になってしまう。

 だからこそ、こちらのことでわずらわせたくない。


 ――今は落ち着いているから、問題ないよ。明日、病院へ連れていく。多分、ウィルス性の胃腸炎。水分をしっかりとっておけば、問題ないだろうって。


 嘘は混ぜないように、そして父親を安心させるように。そういった言葉を選んでメッセージを送る。


 ――わかった。陽翔を頼む。明日、できるだけ早く帰るから。


 気をつけて、とスタンプを送ったところで、航太からも、了解とスタンプが届いた。


「秋山くん、ありがとう」

「おぅ。困ったときはお互いさまだろ?」


 ニッと笑った空の顔は、彼の名にふさわしく青空のように澄んだものだった。


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