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1.

 櫻井(さくらい)海斗(かいと)は、目の前にぬぅっと現れた男を見上げて目を丸くする。


「よぅ、(りく)。迎えに来てやった」

「なんだよ、兄ちゃん。なんで今日にかぎって迎えにくるのが早いんだよ」

「んあ? いつも早く迎えに来いって言うから、早く来てやったっていうのに。なんなんだ、おまえは」


 目の前で突然始まった兄弟喧嘩のようなやりとりを眺めてはいたものの、むしろ海斗はこの場を止めなければならないだろう。


「陸くん。おうちの人が迎えに来たんだね。で、いいんだよね?」


 小学三年の陸のお迎えに来たのが、海斗と同じ高校に通い、さらに同じクラスの秋山(あきやま)(そら)ならば、そう確認したくなる。


「あ? こいつはオレの弟だよ」


 空の言葉で海斗もはっとする。空の名字が秋山だが、陸の姓も秋山だった。


「あ、そうなんだ。ごめん」


 知らなくてごめん、という気持ちだ。


「陸くん。おうちの人が迎えに来たから、帰りの準備をしようか」

「えぇ? まだ、宿題。終わってないのに?」


 海斗と陸のやりとりに、空が割り込む。


「宿題なんか、家でやれよ」

「やだよ。だって、兄ちゃん。教えてくれないじゃん。海斗先生、めちゃくちゃ教えるのがうまいんだよ。宿題終わるまで、待っててよ」

「んあ?」


 片眉をピクリと動かした空は、海斗を見やる。


 こういうとき、どう対応したら良いのかが海斗にはさっぱりとわからなかった。

 他の職員に助けを求めようとしたが、近くには誰もいない。


「わかったよ。宿題終わるまで、待っててやるから」


 畳の上に乱暴に鞄を放り投げた空は、どさりとあぐらをかいた。


「五分で終わらせろ」

「むりぃ~」


 そう言いながらも、陸は鉛筆をノートの上に走らせる。


 海斗がこの青葉放課後児童クラブの手伝いを始めたのは一週間前のこと。高校の進路指導の教員から提案されたのがきかっけだった。


 ――櫻井くん、部活動に入ってないよね。それに小学校教員を希望していたよね。こういうのがあるけど、参加してみる?


 こういうの。というのが、放課後児童クラブのお手伝いだった。ここで小学生の勉強のサポートをし、勉強が終われば一緒に遊ぶというもの。


 ――小学生って、中高生に憧れがあるんだよね。私たちのような年寄り教師に勉強をみてもらうより、少しだけ年上のお兄さん、お姉さんに教えてもらうとう、頑張ろうという気になるみたいだね。


 海斗が小学校教員を目指しているのは事実。だから高校卒業後は教員課程のある大学への進学を希望しているし、二年のクラス分けでも進学コースを選択した。


 児童クラブの手伝いは、自治体が高校生、大学生に公に募集しているものだった。教員を目指す学生を対象とし、そんな彼らが子どもたちと触れ合い、子どもたちの学びを助けることで、教員のやりがいを感じてもらうというもの。


 教員不足が叫ばれる昨今、自治体もあの手この手を使って、教員を目指す学生を増やしたいのだろう。

 早速、その話を聞いた日の夜、海斗は放課後児童クラブでの活動について父親に相談した。


 ――やってみれば? 海斗はもっとやりたいことをやっていいんだよ。


 父親は、二歳になったばかりの弟の陽翔(はると)をあやしながら、背中を押してくれた。

 だから、陽翔の保育園のお迎えに間に合うように、夕方五時半までを児童クラブでの活動へとあてることにしたのだ。


 そして青葉放課後児童クラブにやってきて一週間。ここに通う小学生とはなんとなく馴染んで、こうやって宿題を教えるような関係にまでなった。


 特に目の前の秋山陸は「宿題みて~」「算数教えて~」「今日、国語の時間に~」と海斗の姿を見つけるや否や、駆け寄ってくる。だけど「海斗先生」と敬意を持って接してくれるのは、どこか恥ずかしかった。今となってはもう、慣れたが。


 だけど、その陸が空の弟であるとはまったく気づかなかった。


「つうか。宿題なんて、すぐに終わらせときゃいいじゃん。おまえ、ここに何時間いるわけ?」


 待たされているのがおもしろくないのか、空はぶつくさと文句を言う。


「だって、海斗先生が来てから始めたんだもん。それまでは、図書室で借りてきた本を読んでた」


 これではまるで、海斗が悪いみたいな言い草だ。

 だが陸には悪気がない。それをわかっているから海斗も気にしない。


 ただ、これに反応したのは空だった。


「おまえ。人のせいにすんなや。今日、櫻井が来なかったらどうするつもりだったんだ?」

「そんときは宿題やらないもん。海斗先生がいないからできませんでしたって学校で言う」

「ああ? だから人のせいにすんな」


 空がコツンと陸を小突いた。


「いて。だって、兄ちゃん。宿題、教えてくれないじゃん」

「宿題は自力でやれ」

「兄ちゃんなんて、全然勉強していないくせに」

「オレは天才だからな。家で勉強しなくても百点満点だ」

「嘘ばっか」

「喋ってる暇があるってことは、終わったんだな? じゃ、帰るぞ」

「待って、あと一門」


 目の前の兄弟のやりとりが微笑ましい。海斗にも弟はいるが、まだ二歳で会話らしい会話は成り立たない。意思の疎通すら難しいときがある。


「終わった。海斗先生、確認して」


 陸が差し出したノートを海斗は受け取った。計算ドリルの文章問題だ。問題とノートの中身を確認すると、一カ所だけ式の間違いがあった。


「陸くん。ここ、もう一度、問題をよく読もうか。花子さんの前二は五人の人がいて、後ろには三人でしょ?」

「だから、五足す三」

「花子さんは? どこに消えたの?」

「あっ」


 すぐに間違いに気がついたようで、勢いよく消しゴムで消し始める。


「おまえ。消しゴムのカス、散らかすな」


 空の指摘は間違ってはいないものの、彼がそんなことを言うのが少し意外でもあった。


 秋山空という男は、どちらかといえばヤンチャなイメージがある。短い髪の毛の前髪をツンツンと立たせているのも、そういった印象を持たせる原因の一つだろう。

 クラスの中でも、わりと中心にいる人物だ。


 それに引き換え、海斗は面白みにもかける真面目な人物に分類される。その感じを決定づけているのは、黒縁眼鏡のせいかもしれない。


「櫻井くん、五時半になるわよ」


 児童クラブの女性職員が声をかけてきた。

 彼女はここの代表で、海斗の家の状況も知っている。だから五時半になれば、いつもこうやって声をかけてくれるのだ。


「はい、ありがとうございます」


 顔を向けて返事をすれば、彼女は満足そうに頷く。


「え、もう、そんな時間?」


 陸がずずいと差し出したノートを確認し「正解」と答える。


「櫻井、もう帰るのか? だからか……」


 空は一人で何かを納得したようだ。


「え?」

「オレ、いつもは六時過ぎに迎えに来るからさ。だから、今まで会わなかったんだな」


 その言葉に海斗も納得した。だから、陸と空が兄弟であると気がつかなかったのだ。


「じゃ、陸も帰るぞ。櫻井は? これから塾かなんかか?」

「え、いや……まぁ、お迎えがあるから……」


 嘘をついても見栄をはっても仕方あるまい。


「お迎え? じゃ、引き留めて悪かったな。時間、大丈夫か? ほら、陸も櫻井にかまうな。さっさと帰る準備しろ」


 なんとなく空のその言葉が嬉しかった。お迎えと言っただけで通じたからだ。

 海斗もロッカーから鞄を手にすると、職員室に向かって声をかける。


「お先に失礼します」


 ホワイトボード上の行き先表の「櫻井」と書かれた隣に「帰宅」のカードを貼った。


「お迎え、間に合うのか?」


 玄関で、秋山兄弟に会った。


「あ、うん。それは大丈夫。隣だから」


 青葉放課後児童クラブの隣には、認定こども園あおばがある。こども園とは幼児教育と保育を一体的に行う施設のことで、零歳児から就学前の子が通うことができる。


「へぇ、弟? 妹?」

「弟」


 こんな会話をしているだけで、すぐにこども園の正門前に着いた。


「じゃ」


 海斗は秋山兄弟に右手をあげて挨拶をした。


「海斗先生、またね~」


 陸がせいいっぱい手を振っているのを見て、心がぽっとあたたかくなった。


「またな」


 さらに空のその一言で心が満ち足りたような気がした。


 陽翔の迎えが嫌なわけではない。だけど、今まで足取りが重かったのも事実。


 実際、このお迎えがあるから部活動にも入っていないし、塾にも通っていない。

 その事実が海斗の心に重しをのせていた原因でもあったのに、今はその重しがどこかへ飛んでいってしまった。そうやって心を軽くしてくれたのが、秋山兄弟にちがいない。


「はるとくん。おうちの人がきたよ」


 こども園の入り口は、児童クラブよりも厳重な感じがする。ガラスでできた引き戸だが、このガラスだって相当分厚いものだ。


 入り口を入ってすぐ、受付と呼ばれるカウンターがあり、ここには必ず誰かしら人が座っている。

 そしてこども園の来訪者をもれなく確認するのだ。もちろん、防犯カメラだってつけてある。


「にぃに」


 二歳児クラスに入ると、陽翔が満面の笑みを浮かべ、よたよたと近づいてきた。荷物をささっとまとめる。


「ハル。亀さんのリュック、背負ってね」


 これから夕飯の買い物をして帰るのだ。できるだけ陽翔には、自分で自分の荷物を持ってもらいたい。


「あい」


 リュックを背負った陽翔の手をぎゅっと握りしめ、担任と幾言か言葉を交わしてから帰宅する。


 自宅は、こども園から歩いて五百メートルくらいの場所にある。


 朝は、父親が会社に行く前にこども園に寄り、帰りは陽翔が迎えにいくことになっている。学校の授業が早く終わったときは、図書室で勉強してから六時に間に合うように迎えにきていた。しかし今は、児童クラブの手伝いがある。勉強時間は削られてしまうが、部活動の一つだと思えば、なんてことはない。


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