650 レイチェル 対 リコ
「レイチェル・エリオットだ」
私は目の前の、小柄で無表情な女に向かって名を告げた。
腰まで伸びた長く艶のある紫色の髪。
髪と同じ紫色の瞳からは感情が読み取り難いが、私を戦うべき相手として認識している事は分かる。
その体には、深紅に染められた丸みのある肩当てと胸当て、肘から下の腕当て、膝から下への脛当てを身に着けている。
そして帝国の幹部のみ着用を許される深紅のマント。
私の名前を聞いても返事もなく、これと言って動きも見せないので、もう一度こちらか言葉をかけてみた。
「リコ・ヴァリン、それがお前の名前だろ?すごいな、お前と戦って生き残った者は一人もいなって話しを聞いたぞ」
するとリコ・ヴァリンは、そこで初めて反応らしい反応をしてみせた。
眉をピクリと動かして、私の後方に目を向けた。
「・・・一人いる。後ろの男、サカキ・アラタ」
「・・・なに?」
反射的に振り返りそうになるのを、無理やり堪えた。視線を切ってはならない。
リコ・ヴァリンの一言で、私は全てを理解した。
つまり、今のアラタの状態はこの女のせいだというわけか?
サリーはヒールをかけて薬を飲ませたから、時期に目を覚ますと言っていたが、相当危ない状態だった事はよく分かる。
こいつか・・・・・
こいつがアラタをこんな目に合わせたって事か。
「アラタに勝ったのか・・・マルコス・ゴンサレスを倒したアラタをね、やるじゃないか」
「・・・彼は強かった・・・ただ、あまい」
どこか不満気な言い方、そしてあまいという言葉に私はピンときた。
アラタの事だ、相手が女だから、おそらく殴れなかったのではないか?
「あ~、うん、なんとなく分かったかも・・・じゃあ、そろそろ始めようか?女同士遠慮なくね」
私は左右の腰に下げたナイフを抜き取り、右のナイフは順手、左は逆手に持ち左半身を前に構えた。
「・・・構えないのか?」
私が臨戦態勢に入っても、目の前の小柄な女は両手を下げたままだった。
それは一瞬の油断。
両手をを下げたまま、ただ立っているだけにしか見えないリコ・ヴァリンに対して、僅かに気が抜けてしまったのだろう。
微かに笑ったように見えたと思ったその次の瞬間、私の右肩から左の脇腹にかけて鋭い痛みが走り、同時に真っ赤な血が宙に飛び散った。
「・・・すごい。あのタイミングで一歩後ろに下がるなんて・・・」
目を離したわけではない。一瞬だけ気が逸れたその間隙をついて、リコ・ヴァリンは私の目の前まで距離を詰めていた。
そして何も持たない右腕を振るい、私を切り裂いた。
「ぐッ・・・ハァッツ!」
レイチェルとて百戦錬磨、バリオスに鍛えれ今日まで研鑽を怠らなかった戦いの勘が、考えるより先に体を動かしていた。
一歩後ろに体を引き、リコ・ヴァリンの見えざる刃から致命的なダメージを回避すると、そのまま体を左に回し、右のナイフでリコ・ヴァリンの頭を狙って斬りかかった。
「・・・遅い」
しかし胸から斬られたダメージが、レイチェルの動きを鈍らせる。
リコ・ヴァリンは大きく上体をのけ反らせてレイチェルの右のナイフを躱すと、そのまま流れに任せるように軽く飛び上がり、両足でレイチェルの腹を蹴り付けて後方に飛び退いた。
「うぐっ・・・!」
リコ・ヴァリンは宙に舞う一枚の羽のように軽やかに、そしてクルリと縦に回転して、音も立てずに足を付ける。
「そ、れが・・・お前の武器か」
何も持っていないと思われたリコ・ヴァリンの右手には、キラリと握られる何かがあった。
その先には今しがた、レイチェルの体を切り裂いた時に付いた赤き血が滴り落ちていた。
「そう・・・これが私の武器、ガラスの剣」
淡々とレイチェルの問いに答えると、リコ・ヴァリンは剣を振るい、床に血を払い落とした。
「くっ・・・」
ガラスか・・・剣の素材でガラス何てよく思いついたものだ。
そして元々透明感のあるガラスを、可能な限り薄く研ぎ澄ましたという事か?
それが分かれば見えなくはない。だが・・・見えなくはないが、見え辛い事に代わりはない。
面倒な武器だ・・・
次に体の状態を確認する。
腹を蹴られたが、ダメージはほとんどない。私から距離を取る事を目的とした蹴りだからだろう。
胸から袈裟懸けに斬られた傷も、それほど深くはない。
両手に握るダガーナイフの感触を確かめるように、くるりと回して握り直す。
・・・大丈夫、指は震えない。まだまだ戦える。
「・・・そろそろいいかな?」
「おや、待っててくれたのかい?いいとこあるじゃん、それとも余裕かな?」
レイチェルが自分の状態を確かめている間、リコ・ヴァリンは何もせずに、レイチェルの様子を見つめていた。
仕掛ける事ができなかったわけではない。だが、レイチェルの注意が自分から切れていない事を感じ取り、踏みとどまったのだ。好機ではあったが、思わぬ反撃をくらいかねないと判断して。
「やっぱり傷は浅そうだね。あなたもスピードタイプかな?」
「どうかな?スピードに自信がある事は確かだけどね」
レイチェルの返事に、リコ・ヴァリンはほんの少しだが微笑みを見せた。
「・・・私に付いて来れたら、嬉しいな・・・」
独り言のように呟くと、一定のリズムを刻みながら、何度か爪先で跳躍をし始めた。
トーン・・・トーン・・・と微かな足音が鳴る度に、リコ・ヴァリンは静けさを深めていった。
それはまるで存在そのものを消すような、か細く消え入りそうな空気。
そしてその静けが生み出したものは・・・混じり気の無い純粋な殺気。
数メートルの距離を取っ手対峙するレイチェルに寒気が走った。
それは初めての経験だった。
クインズベリー最強と言われた男、マルコス・ゴンサレス。
一騎当千と言われるゴールド騎士、アルベルト・ジョシュア。
魔道剣士四人衆、ラクエル・エンリケス。
いずれも強かった。
しかし、どんな強者と戦っても、寒気を感じて怯まされた事など無かった。
ただ自分を仕留める。
そこには怒りも憎しみも無い。ただ殺すだけ。
これほど研ぎ澄まされた殺気を向けられたのは初めてだった。
この女・・・リコ・ヴァリンとはいったい・・・・・
一気に全身に冷や汗をかかせられたレイチェルは、リコ・ヴァリンに吞まれていた。
「集中しなきゃだめじゃない」
目の前にいたはずのリコ・ヴァリンの声が後ろから聞こえた。
背後を取られた事は初めてだった。




