605 浸水
「くっ!」
速い!この女、スピードは完全に俺より上だ!
「予想以上・・・帝国の師団長以外で、私とここまで戦えた人は初めてだよ」
正面の斬撃を防いだ時の、一瞬の硬直時間の間隙を突かれ後ろに回り込まれる。
この超スピードを身を持って味わい、俺はリンジーさんの言っていた、生存率ゼロと言うリコ・ヴァリンへの評価に納得した。
このスピードについていける者が、一体どれだけいるのか?
「目で追えてるだけでも、キミはすごいと思うよ」
まるで心を読んだかのような言葉を背にかけられ、舌を打ちたくなる。
背後から振るわれた一撃を腰を落とし躱す。かすめた髪がパラパラと宙に舞う。
一瞬でも反応が遅れていれば、髪どころか首が飛んでいただろう。
リコ・ヴァリンの動きはかろうじてだが、目で追う事はできる。だが、目で追えても体が付いていかない。反撃をしようと拳を向けると、すでにリコ・ヴァリンはいないのだ。俺は攻撃すらできていないが、リコ・ヴァリンの攻撃が俺を捉えるのは時間の問題だろう。
このままではいずれ、リコ・ヴァリンに軍配が上がるのは、火を見るより明らかだった。
「・・・このまま仕留めた方が、いい・・・か」
リコ・ヴァリンに翻弄されるアラタを見て、ダリル・パープルズは呟いた。
デューク・サリバンと同じ戦い方をする男に、強い興味を持った事は確かだ。
この男を捉えれば、どれだけ調べても分からなかったあの男の、過去の一端でも知る事ができるかもしれない。
だが、それ以上に、この男は今ここで仕留めるべきだと訴える、体中からの警告に耳を傾けた。
第六感、虫の知らせ、言い方は様々だが、ダリル・パープルズが43歳という若さで、帝国の大臣になれた理由の一つに、直感を信じ、心の声を見逃さない危機管理能力があった。
それがなにかは分からない。
だが、リコ・ヴァリンの攻めに防御一辺倒で、ジリジリと追い詰められているこの男には、まだなにかある。これだけでは終わらない。瞳の奥にそう感じられるなにかがあった。
「・・・不安要素はその場で排除すべきだな。リコ、そのまま仕留めろ」
少し距離を取り、ダリルは自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
デューク・サリバンの秘密は気になる。だが、秘密が秘密のままでもデュークは皇帝に忠実であり、謀反を企てる事も考えられない。
ならば自分の好奇心より、目の前の敵、おそらくはロンズデールかクインズベリーの実力者を、排除できるうちに排除しておくべきだ。
そう判断したダリル・パープルズは、アラタは捕虜ではなく、ここで排除すべき敵として認識し、二人の戦いに集中する事にした。
光の力を使えば反撃の糸口になるかもしれない。
一瞬頭をよぎった考えを、アラタはすぐに振り払った。
駄目だ・・・すぐに光の力に頼ろうとしてはいけない。活動限界は三分、無理をしてもせいぜい五分だ。
仮にここで勝ったとしても、その後はどうする?もう一人残っているあの男、ダリル・パープルズはおそらく体力型だ。そして護衛を付けているからと言って、戦えないわけではないだろう。
事実、あの男からも並々ならぬものを感じる。
この女、リコ・ヴァリンとの戦いで、全てを出し尽くすわけにはいかない。
余力を残し、この女を抑え込む。
それがこの戦いにおけるアラタが自分に科した勝利条件だった。
だが、それはこのリコ・ヴァリンを相手にして、至難の業である事は言うまでも無かった。
数十、いや百を超える斬撃を躱し、防ぎ続けたアラタだが、そこから先の活路を見いだせずにいる。
本気を出すと口にしてからのリコ・ヴァリンの攻撃には緩急がついた。
拳で受けきれる斬撃と、受ければ体ごと吹き飛ばされる斬撃を織り交ぜて、放って来る。
そして遠距離からの斬撃に気を取られると、一瞬にして背後に回り直接斬りかかってくる。距離が離れているからと言って、前にだけ集中するわけにもいかず、絶えず周囲に気を張っていなければならない。アラタにとってそれは、体力だけでなく、精神も大きく消耗する根気の勝負だった。
・・・すごい男だ。
私はスピードなら誰にも負けない自信がある。
そしてこのガラスの剣は、戦いの中でその目に映す事は困難なもの。
それなのにこの男は、ここまで致命傷だけは確実に避けている。
体の反射が追いつかない分は、おそらく勘で補っている。
目で確認せずに感覚、体で感じる気配、そして空気の流れ、おそらくそういったものから、自分への攻撃の軌道を予測し、それに従い動いているんだ。
そしてなにより、この男は諦める事をしない。
黒髪の男の目は死んではいない。この状況の中でも、どうにか反撃に転じようと考えている。
これほどの男がいたなんて・・・・・・・
「ちょっと楽しくなってきたよ」
リコ・ヴァリンは笑った
あまり感情が表にでないリコだが、その表情は欲しかった玩具を買いに行く子供のように、期待と喜びで明るく花開いていた。
「リコが・・・笑った、だと?」
遠巻きに二人の戦いを見ていたダリル・パープルズは、眉根を寄せた。
「あんなに嬉しそうに・・・そうか、ずいぶんとその男を気に入ったようだね。もう少し遊びたいのかな?でも、いつまでもここでグズグズしているわけにはいかないからね・・・」
ダリル・パープルズは足元に感じた感触、そして何かが跳ねる音に目を落とした。
ここに着いたばかりの時は、それはまだ無かった。だが、その時無かったものが今はあるのだ。
「・・・浸水してきたか」
水である・・・
この大型客船ギルバート・メンドーサ号が転覆した事を、ダリル・パープルズは知っている。
転覆した船に浸水してくる事は、至極当然の事だった。
現在は正午を回ったところだが、夕暮れの頃には完全に水没するだろう。
それまでに目的を果たし、船から脱出しなければならない。
「ロンズデール国王、リゴベルト・カークランドの生死だけは確認しないとな。死んでいてくれるとありがたいが、生きていたとしても、まぁ・・・船が転覆したんだ。不運な事故で命を落としても不思議はない」
靴のソールが水に浸り、ダリルは近くの折れた柱の上に飛び乗った。
少しづつ、だが確実に水は船を飲み込んでいた。
ギルバート・メンドーサ号、水没まで・・・残り五時間・・・




