第九話・美富子の立ち位置
葉奈子は私立素通学園の中等部からそのまま高等部、ついで素通短期大学の家政科に進学する。数少ないが言葉を交わす友人もでき、その友人の親からの伝手で模擬試験の監督のバイトなども経験した。想像力はあいかわらずあり、春子に内緒で童話を書いている。友人から勧められて雑誌に投稿したが受賞したことはない。それでも楽しいので、在宅時は部屋にこもってひたすら童話を書く。
私学の教育費はサラリーマンの家庭には重く、その分、春子の宝飾品を購入する頻度は下がった。そのかわりゲン担ぎのお札やブレスレット、金運がつく財布を購入するようになった。春子は夫婦して高卒だから、一人娘を短大に行かせてやることができてうれしいと口癖のように言う。確かに豆島一族では、近大卒の継彦以外は全員高卒だ。学歴が全てではないのはわかっているが、春子にとって短大卒の娘がいるということは誇らしいことのようだ。葉奈子は将来的な希望は童話作家になりたいということだ。聴力も良くはならぬ代わりに悪くもなっていない。見知らぬ人との会話が苦手で人前に出るのは模擬試験の監督ぐらい。人生これでいいのだろうかという不安はある。
葉奈子は、春子に問う。
「お母さんが私ぐらいの時には何をしていたの」
「ハタチの時は、すでにお父さんと見合いして結婚するために花嫁学校に行ってた」
「花嫁学校ってなに?」
「料理や裁縫を教えてくれる学校のことや」
「ふうん。お母さんも高卒でしょ」
「そうよ。みっちゃんもあっちゃんも、本家のなっちゃんも鈴ちゃんもみんな高卒。だから短大卒は、はあちゃんだけ。自慢にできる」
「でも本家の又従姉妹たちはみんな大学卒でしょ」
「本家は関係ない。みっちゃんが高卒なのに、はあちゃんの方が学歴が上や。あのな、私は、はあちゃんだけが頼りなんや。年取っても私と一緒にいてや。ずっと一緒やで」
「でもいつかは誰かと結婚したいなあ」
「結婚はしてもええ。せやけど、はあちゃんは卦配のこの家の一人娘や。お婿さんもらって私と一緒に暮らすんやで、親不孝なことしなや」
葉奈子は突然、目の前にいる極度に肥った初老の女がいやになった。母親だから、一生一緒にいないといけないのか。葉奈子は男性との交際もしたこともない。人生はこのままではいけない。一人暮らしをすべきだと感じた。それが当面の目標になる。
というのは、春子は出不精でどこも行かない人間だが、娘の葉奈子も同じようになっている。学校の行き帰りの他は特に外出はしない。公男だけが会社に勤務し土日は終日豆島家の田畑の手伝いだ。
豆島の実家は美富子が新毛農協の支店長になるどころか、近畿農協女性支部長、常務に昇格する。世の中はバブルの真っ盛りで景気の良い話ばかり。美富子は、土地の転売を重ね、株や外貨、果ては、やりもしないゴルフの会員権まで手をだしすべて高騰しているという。我が世の春の状態だ。その情報は夕子や秋子が教えてくれる。夕子はそんな美富子を心配して「女だてらにそないな男のようようなことをせんと、今からでもどこかに嫁に行ってくれ」 といい、春子にも愚痴をこぼす。
「みっちゃんは仕事がおもしろいから一生、独身で過ごすっていうてるらしい。家には継彦夫婦と三人の子どもがある。ちゃんとした跡継ぎがあるのに絶対に嫁には行かへんて。あの子はお金と結婚しているつもりやで」
あいかわらず葉奈子は、美富子が苦手だ。お正月や地蔵盆、法事などの行事でしか会わぬが、会うと必ず「春ちゃんに似て肥ってきた」 と嘲る。継彦も幼いころは「お兄ちゃん」 と呼び、一緒に落書きなどをしていたが、自然と美富子の思考に似るようになり、「あいかわらず陰気くさい娘や」 という。しかも芳江もそうなってきた。最初は細身で優し気な容姿だった芳江も三人の子どもに恵まれ、美富子のような気の強い小姑と同居するようになってからは、態度がかわった。肥りすぎて膝を痛めた春子に頼まれ月に一度、裏の豆島文化住宅の家賃を豆島家に持参しても「ご苦労さん」 と上から目線だ。
変わらぬのは夕子だけだ。柔和な笑顔で迎えてくれる。一方、芳夫は酒がたたって肝臓を壊し寝てばかりいる。
豆島の家に行く都度、高額な調度品が入れ替わりにあり、年に一度は家のどこかを改築する。美富子は農協に勤務するが、梅田駅近くに分譲マンションを購入して休日はそこで過ごしているという。正月や盆になると海外で過ごす。国内にいる場合は、継彦夫婦と三人の子どもとよく老舗のホテルに遊びに行く。駐車場には外車三台のほか、フォルクスワーゲンのキャンピングカーまである。美富子は継彦のために隣の家の敷地を現金で買い上げ、土地を広げた。
美富子は公私とも多忙のため休日も畑仕事に出なくなった。すべてを公男に指図してまかせるようになった。豆島家では春子の体型を笑いながらも不要の食物をくれる。葉奈子はそれをうれしいとは思わぬ。しかし春子は「家計が助かる」 といって喜ぶ。それから美富子の金持ちぶりを羨む。春子のせいで卦配家が疎まれているのがわからぬのか。
ここまでくると、葉奈子は真剣に家を出たいと思う。ネックになるのは、公男だ。寡黙で金魚とにわとりと庭の樹木の世話、加えて豆島家の広大な田畑の世話をして休日をつぶす男。糖尿があるというのに、春子は調理に気遣わず大量の砂糖が入ったカレーや煮物を食べさせられている。糖尿病がすすんだせいで、公男はやせてきた。葉奈子は時として血糖値があがりにくい野菜中心の料理を作ろうとするが、春子が拒否をする。
「ここは私だけの台所や。娘といえども台所には入ってほしくない。それよりか勉強しなさい」
春子にとって台所が聖域で日中は一人で好きなものを食べる。葉奈子は「お父さん、食べ物に気を付けてや」 というのが精いっぱいだ。
やがて葉奈子は素通学園短大を卒業した。そして大阪市内の六十床ほどの病院の医療事務に就職した。朝は早く結構忙しい。会話が苦手でも仕事で患者や同僚と話さないといけない。それにも慣れてきた。それに、朝夕に笑顔で話しかけてくれる男性もいる。十才年上の白糸昇だ。大阪の人ではなく、鳥取から出稼ぎに来ているという事務職だ。彼も葉奈子と同じく補聴器をつけている。補聴器の良しあしを話していくうちに昇のまじめな性格がわかり惹かれていくのがわかった。でも春子には内緒の交際だ。春子は葉奈子の相手は春子が決めると言っている。美富子に縁談を頼んで大卒で家柄のいい人を紹介してもらおうと言う。いらないというと、怒るだろう。葉奈子は、もう動植物や人形、家具に話しかけたりはしない。そのかわりに童話の構想を練るようになった。それは楽しい時間だ。
」」」」
ある秋の夕暮れ、葉奈子が在宅していた時に来客があった。美富子と芳江だ。珍しいことだが、あいにく春子は美容院に白髪染めに行き、留守だった。美富子は襟元を大きくあけた薄いピンクのスーツを着こなし、その後ろにはTシャツ姿の芳江がいる。シャツは汚れている。三人の子どものうち、一人は手がかかるのでおしゃれをしているヒマがないのだろう。それに一段と肥った。春子と張り合えるぐらいに。
同居の美富子が食べ物を余らすなと怒るため、食べてしまうらしい。それを聞いていたので葉奈子は気の毒に感じた。美富子は、奈良の国宝寺への寄付を募りに来た。葉奈子は金のありかは知っているが、後で春子に勝手に引き出しを開けたなどと怒られるのも嫌で、小遣いの二千円を渡したところ、背筋を伸ばして嫌味を言う。
「二千円か。これは親戚の中で一番の最低金額や。まあお父さんがサラリーマンやし、しようがない。あんたとこはな、父親が田畑の用をしてくれるから米や野菜代がかからんのやで。せやから春ちゃんが小さい宝石でも買えるんや。あんたも私学を中学から短大まで通えた。でもこの家の土地だって元々豆島のものやさかい、そこを勘違いせんといてや」
美富子は毒のある言葉を吐いた後、寄付金額を書いた領収書を乱暴によこす。葉奈子は黙っている。幼いころからの習慣だ。あとで追加の寄付金を支払うという気の利いた言葉すら言えぬ。他人に対して己の思う言葉を表現する術を葉奈子は知らぬ。お行儀のよいおとなしい娘が評価される家で育った娘は他人へのかかわりを教えられていない。
葉奈子はこの話は誰にも言わなかった。言えば春子は怒るだろうし、もっとお金を持って行こうとするだろう。公男は身体を小さくして風呂場や金魚の水槽を一生懸命に洗うだろう。両親の行動はもう手に取るようにわかる。
美富子はあいかわらず身ぎれいな美人だ。厚みのある上等の生地。上品な物腰、柔らかな大阪弁。どんなにがんばっても春子は美富子に勝てない。
春子はいつも美富子のいないところで悪口を言う。
「みっちゃんは、上等な食べ物をちょっとしか食べへんのや。だからあんなにほっそりしてる。残り物は全部芳江さんが食べる。見ぃ。芳江さんは私以上に肥ってきたがな。もう昔の面影すらあらへん」
葉奈子は久々に目の前にある赤福餅に向かって話しかける。心の中で。
「あなたたち、今晩中にお母さんの胃袋の中へ全員行くのね、気を付けて行ってらっしゃい」
もう一つのエピソードがある。葉奈子の仕事帰りに美富子と四季子に鶴橋駅でばったりあった。美富子は何を思ったのか、その場でどこかでおいしいものを食べようと提案した。葉奈子は断ったが、美富子は強引だ。電車を降りてタクシーに乗り、心斎橋まで連れていかれる。
普段葉奈子は人通りの多い心斎橋や御堂筋には行かない。車窓の景色を珍しいと思って眺めていたが、四季子は慣れているのかタクシーでもまっすぐに素直に前をみている。四季子とは従姉妹でも十才離れており、彼女も京都の名門大学付属幼稚園から小、中学校にあがりそのまま通学している。四季子がしている紺色をした上等のシルクのリボン、付属中学校のセーラー服に、ぴかぴかの革靴。それがまた良く似合う。そして豆島の顔と言われる二重のぱっちりとした目に、整った鼻、歯並びの良さに気後れを感じる。
連れていかれたのは、「みみう」 という老舗のうどん屋だ。一緒に食事をしていて驚いたのは、彼らの金銭感覚だ。葉奈子が品書きを見て、おごりだと悪いので六百円のきつねにしようか、たぬきにしようかと悩んでいるのに、四季子は当たり前のように一人前三千円もするうどんすきを注文した。美富子も。そして葉奈子の注文を聞いて二人で笑う。
「きつねうどんて? なんでや。おごったげるさかい、うどんすきにしなさい。このお店でうどんすきを頼まへんのはアホやで」
四季子もずっと年上の葉奈子を見て笑っている。そして案の定残す。美富子も半分以上を残している。名店の看板メニューをなんともったいないことをする。春子が知ったらのどまで食べ物が詰まってでも食べきろうとするだろう。美富子が言う。
「今日は芳江さんがいないので困るな。葉奈子、食べてよ。え、もうムリ? 春ちゃんならこういう時は頼もしいけどなあ」
そのあと不二家のパフェを食べたいとごねた四季子のために徒歩で移動して入店する。外食はほぼしない葉奈子はそれも珍しい。かわいいカーテンや絵がかかった室内を見て楽しみ、フルーツパフェを頼んでおいしくいただいたが、同じものを頼んだ四季子はおなかいっぱいだとまた残す。
美富子の注文はコーヒーだけだ。一口すすっただけで、もうええ、と言い捨ててレジに向かう。葉奈子も席を立ったが、四季子の席に残されたパフェの容器に力なく沈むオレンジと生クリームがかわいそうで後ろ髪をひかれる。真っ赤なチェリーから「助けてくれえ」 と叫ばれているようだ。葉奈子はその想像を苦労して追っ払う。そしてタクシーで東大阪の家まで送られる。
その夜両親にこの話をすると春子は叫ぶ。
「やっぱり豆島の家は景気がええ、最初に土地を買い上げられた一億円で豆島の運命が変わったんや。それを知っていたら私もみっちゃんのように結婚なんかせえへん。サラリーマンの奥さんにはならへん。ほんまに好きなようにお金を使えるみっちゃんがうらやましい」
春子の目は笑っていない。そして葉奈子に向き直る。
「あっちゃんから、こんな話を聞いた。あっちゃんとこの江里ちゃんやけどな、一つ下の四季子をライバル視しているらしい。こないだプールに連れて行ったら無視して一度も話かけへんかったって。帰りになんで意地悪したかと聞いたら、大学付属の学園に通学し、文房具も服も良いものを持っていて腹がたつやて。従妹でも女同士っちゅうことや。子供でも競争心があるんや」
秋子の一人娘の江里、そして葉奈子、例の四季子とは同じく従姉妹で双方とは一つ違い。葉奈子だけが彼女たちより十才年長のこともあり、交流はあまりない。江里の心情を思い、葉奈子自身は四季子と接触がなくてよかったと感じた。春子のその負けず嫌いを見ているせいもある。昔から今に至るまで美富子には負けを認めない。公男は苦笑しているだけ。何も言わぬ男に何ができよう。
その夜、葉奈子が自室にいると階下の居間から話が聞こえてきた。嫌な雰囲気を感じて葉奈子は補聴器をつけ、階下におり、電気もついていないろう下に立つ。そっと両親の部屋のふすまに聞き耳をたてる。春子の声は甲高いのでよく聞こえるが公男の声がくぐもって聞こえにくい。どうも公男が珍しく春子に意見をしているようだ。
「つつ通帳を返してもらえ、それとじ、じ、じっ」
「何をいうんや。あたしの妹を疑う気なの」
「で、で、でも」
「そんなに言うんやったら、自分でみっちゃんに言いや。あたしは知らん」
何があるのか、葉奈子はそっと部屋に戻り補聴器を外す。会話はただのかすかな雑音に戻った。公男が春子だけでなく、美富子にも何も言えないのは知っている。通帳とは農協の通帳だろう。美富子が勤務しているという理由で通帳を預けっぱなしなのも知っている。公男は何を問題視しているのだろう。
九月に入り美富子は前触れなしにオーストラリア旅行に葉奈子を誘った。パスポートもない葉奈子は面食らう。
「無料やからお金は取らへん。こういうときでもないとサラリーマンの家にはなかなか行かれへんやろ。連休やから仕事も休まなくていい。一泊三日の弾丸やけど連れて行ってあげる」
春子は無料と聞くなり「行きなさい」 と言った。例によって公男は空気だが、迷ってどうしようかと聞くと「い、い、一度ぐらいならええやん」 という。それで初めての海外旅行が実現した。団体旅行で同行者が美富子とあれば、安心だと思うのだろう。普段は春子の束縛があるので、海外旅行の許可があっさり下りて意外だった。
旅程表をくれないので、行き当たりばったりかと思っていた。しかし集合場所の伊丹空港へ行くと、美富子の勤務先の新毛農協がからんだ旅行だとわかった。大半が新毛本町の人らしく見覚えがある。美富子は葉奈子の服装や持ち物をじろじろと見ていたが、「やっぱり春ちゃんの趣味って悪いなあ」 と叫ぶ。周囲の同行者全員が葉奈子を見て苦笑する。細かい花柄は春子の好みだが、いけないのか。美富子は言葉で葉奈子の心をどんどん傷つける。
「ほんまはな、四季子を連れていきたかった。せやけどあの子はまだ学生やから危ないからあかんってお母ちゃんが言うから。仕方がないから、あんたを連れていくことにしたんやわ。四季子が泣いて、大学に行ったら絶対に留学させてやってな。根負けしてわかったと言ったけど」
四季子の代わりか……よほどその場で帰ろうかと思った。しかし出国してしまうと、戻れない。葉奈子は旅行会社の添乗員にこの旅行代はいくらかを聞きに行く。せめて旅費だけでも返したい。すると添乗員の男性は「これは新毛農協の貯金者旅行です。ご内密にしていただきたいですが、豆島さまとあなたさまだけ無料です。普段から豆島様通じて農協からごひいきをいただくので、招待させていただきました」 という。
無料ならば美富子の友人か春子、秋子でも誘えばよかったのに。葉奈子はくやしさで涙ぐむ。幼いころに地蔵盆で「無料やから並びに行け」 と一人追いやられたことを思い出す。あれと似た現象がまた起こったのだ。
短い期間とはいえ、オーストラリアの大自然や本物のコアラとの記念写真は良い思い出になった。だけど美富子とは同室でもなるべく接触しないようにする。美富子は美富子で、感謝の気持ちが感じられないと怒る。だからといって本心を隠して楽しそうにふるまえない。ただ無言で俯くだけだ。美富子は公男をも嘲る。
「あんた、公男さんによう似てる。不細工な顔も性格もそっくり」
弾丸旅行で現地のホテルの宿泊は一泊だけだが、上得意の美富子だけは招待だと添乗員が言うだけあり、部屋は最上階の角部屋で二つ窓から景色が続いて見える。農協の高額な旅行と名売っているらしく、新毛本町でも裕福な人が参加していた。が、彼らの美富子に対する態度から並々ならぬ遠慮を感じた。旅行会社の添乗員からも。葉奈子だけが美富子を避ける。やがて周囲は葉奈子が美富子に気に入られていないことを感じ取り、特に添乗員は葉奈子を露骨に避けるようになった。現地の説明も美富子には丁寧にするが、葉奈子に気づくと背中を向ける。
帰りの飛行機の席で美富子は、葉奈子の耳元ではっきりと聞こえるように言葉を区切って文句をいう
「もう二度とな、あんたを連れて行かへん」
次いで「ほんまに辛気臭い娘や」 という。もっと言いたかったようだが話はそれで終わった。キャビンアテンダントが近づいてきたからだ。葉奈子を誘ってくれたのは叔母としてのほんの少しの愛情もあっただろう。それには感謝をすべきだろう。普段の春子の束縛を思えば、オーストラリアという遠い国に行けたのも奇跡に近い。だが美富子とは今後一緒に外出することはないだろう。