第四話・祖母の家、豆島の家
葉奈子は、お菓子が入った袋を両腕に抱えて走る。お地蔵さんのいる公園を突き抜けて角を曲がる。足指が痛いのも限界だった。すぐにおばあちゃんの新しい家が見えてほっとする。途中で何回か後ろから声がかけられたようだが、振り向かなかった。葉奈子にかけられた声ではないかもしれないからだ。
その新しい家に行くのは二回目だ。門を開けるとすぐに犬小屋と松の木があった。庭のしつらえは変わっていず、ほっとする。常夜灯に照らされ、まだ咲いている赤いツツジが玄関に続く小道の両脇にある。すみっこには鶏小屋があって、小さな畑があり、いつでもねぎが植えられているはずだ。しかし、もう真っ暗なので畑の配置がどう変わったかまではわからない。その向こうには車道を隔てて広大なじゃがいもと玉ねぎの畑があるが、これも夜で見えぬ。
玄関をはさんで反対側が逆に明るい。縁側が開け放され、人が輪になっているのが見える。葉奈子は遠目で太い背中を持つ春子の後姿を認めるがそこからは声をかけない。皆の前で「お母さん」 と呼びかけたら後で怒られるからだ。
蔵があった方は車庫になった。ガレージのシャッターがあいていて、暗い穴があるようだ。車はないので、持ち主の豆島継彦が戻っていないのがわかる。春子の一番下の弟のことで、葉奈子は「おにいちゃん」 と呼んでいる。葉奈子は彼の不在がわかり、がっかりする。一緒にお絵かきをしてくれるかもと期待していたから。
昔のおばあちゃんの家は、玄関を入ると横長の土間があったが今はない。天井を見上げると黒い横木が交差していたのが見えていたが、今は天井が平たく、テレビドラマで見かけるような大きなシャンデリアがぶら下がっている。今日は地蔵盆で親戚が集まるせいか、内側のドアも取っ払われて長四角の穴になっていた。その穴から大勢の人のざわめきが聞こえる。草履を脱いだらまず春子を探さねばならない。それからお菓子を見せる。次におばあちゃんをさがしてその横に座ってお菓子を食べる。葉奈子はその手順を頭の中でなぞる。そこまでに至るまで、誰からも声がかからないようにと願う。
新しい玄関には下駄や草履、サンダル、ひも靴、革靴、いろいろと脱ぎ捨てられている。ざっと二十人はいる。葉奈子はそれを見て暗い気分になる。すでに廊下で酒瓶を囲んで煙草をくゆらしている男性が数人こちらを見ている。声高な男たち会話が聞こえてくる。
「春ちゃんの子や。名前は確か葉奈子やったな」
「ふむ。目が細い。豆島の家の顔やない」
「春ちゃんに、あんまし似てへん」
「卦配のだんなのほうに似たんやろ」
「こっちおいで。まんじゅうをやる」
葉奈子は聞こえても聞こえぬふりが得意だ。葉奈子が誰かに話すのを春子は嫌がる。だからそのまま、ろう下を走っていく。
母親に似ていないと言われるのはつらいが、父親に似ていると言われるのはうれしい。二人とも葉奈子にとってかけがえのない親だ。周囲の大人だってそれぞれ親がいるはずなのに、誰と似ているなどという話をしておもしろいのか。しかし葉奈子がその感情を出さない。思考を言葉に出すのは恥ずかしいことだと禁じられている。
葉奈子は鼻緒から解放された足でろう下を走る。浴衣のすそが割れて太ももがむき出しになってもお構いなしだ。ろう下の突き当りに大きな屏風がある。これは前の家からあるので、ほっとする。金泥でところどころ剥げているが、鳥が梅の木の間を飛んでいるものだ。葉奈子は鳥が好きなので動かぬ鳥に向かって声を出さずに「こんばんはぁ」とつぶやく。それから左を向いて走ると大広間だ。こちらのふすまも解放され、いつもより広く感じる。そして日本酒とたばこのにおい。
父の公男は飲酒も喫煙もしないので、こういう雰囲気は苦手だ。顔を赤くした親戚のおじさんたちが笑いかけても見えぬふりをする。顔をそらして春子をさがす。部屋のすみに見知ったおばたちと一緒にいるのを見つけほっとする。
なんせ春子はからだが丸くて肥っているから見つけやすい。春子も葉奈子を見つけて手招きしてくれる。そこへ行くまでに丸いちゃぶ台を四台つながれ、そこに座布団が敷かれている。ちゃぶ台の上にはサバの押しずし、巻きずし、おいなりさんが行儀よく並んでいる。エビマメといって小海老と大豆を甘辛く煮つけたもの、枝豆もうずたかく大皿に盛りつけられている。かつおの身を蒸してさらに甘辛く煮つけた生節も並んでいる。合間を縫うようにビール瓶や、日本酒の瓶が林立している。傾いたおちょこもある。が、すでに酔っ払って寝ている人もいる。祖父の豆島芳夫とその兄の本家の豆島一夫が赤い顔をよせあって話をしている。葉奈子を認めると「はあちゃあん」 と二人とも手を振る。兄弟というより双子のようだ。葉奈子も手を振り、ちゃぶ台をぐるりと回って春子の座っているところにたどり着く。それから春子にお菓子を見せる。
春子の妹の秋子、あっちゃんが大声で「はあちゃん、こんばんはあ、その浴衣、よう似合うでえ」 と叫ぶ。出産が近いのでマタニティドレスだ。下腹部にまるですいかを隠しているようだ。葉奈子は膨れたお腹を見下ろし、秋子に聞く。
「もうすぐ生まれるんやね?」
秋子も微笑む。
「せや。はあちゃんのいとこになる。本家はともかく、分家では、はあちゃんが一番のお姉ちゃんになるさかい、生まれてきたら仲良ぅしたってや」
「うん」
小さな赤ちゃんはどんなにかわいかろう。抱っこさせてもらえたらうれしい。しかし葉奈子のその考えを口に出すとそれも怒られる。だから黙っている。
春子もビールをのんだせいか顔が赤くなっている。両腕にぶら下がっているお菓子の中身をチェックすると頭をなでた。
「二つも、もらったんか、そらよかった」
「豆島さんによろしくって」
「だれが?」
「知らない人」
「だれやろ? はあちゃん、相手の名前もよう聞かん子やさかい、しょうがないわね」
「ごめんなさい、お母さん。これ、もう食べてもいい?」
「いいよ。ここは大人ばかりやし、子供はここにいない方がいい。おばあちゃんとこで食べといで」
あっちゃんが声をかけた。
「隣の本家に行ってもええで。鈴ちゃんたちの子はあっちにいる」
葉奈子は首を振る。又従姉妹でも年が開きすぎだ。中学生のお姉さんたちとは話があわない。何をしゃべっていいのかわからない。それならお兄ちゃんと寝転がって絵を描くほうがずっとましだ。最近そのお兄ちゃんも大学へ行くようになってから遊んでもらえなくなった。車を買ってもらい運転するようになってから一度も会ってない。今晩も会えなさそうだが、おばあちゃんとお菓子を食べるのも楽しいからそれでもいい。
立ち上がろうとすると、目の前にガラスのコップが見えた。茶色い液体に四角い小さな氷がいくつか浮かんでいる。お盆を持った顔がコップと並ぶ。
「はあちゃん、来たね」
「あっ、みっちゃん」
美富子も髪を結い、清楚な藍色に白い花火があがる浴衣を着ている。美富子は艶やかに笑う。
「これ、うちが作った冷やし飴やで。おいしいから飲みぃ」
「うん」
しょうがが効いた冷やし飴でいつもよりも甘い。お祭りなので砂糖をたくさん使ったのだろう。葉奈子は冷やし飴を一気に飲む。きいんと頭が冷え、汗がすっと引いた。
「おいしい」
「そうか、よかったな。その浴衣もまあまあ似合ってるやんか。春ちゃんが作ったやつやろ」
まあまあ似合うか……と思うが、これも聞こえぬふりをする。
後ろにいた本家の鈴子と久子が頭をなでてきた。すると春子が葉奈子に目で威嚇してきた。同時に小刻みに首を振る。叔母たちと話すなという合図だ。すぐにここを去っておばあちゃんのところへ行けということだ。葉奈子はお菓子を持ってぴょこんと立ちあがり、おばあちゃんをさがすことにする。
美富子がろう下から呼ばれたらしく席をたつと、春子が美富子の後姿から視線をはずさず、秋子に寄り添う。そのしぐさに惹かれるように、本家の鈴子、久子、夏子も寄ってきた。噂話が始まるときには自然とこんな輪ができる。春子が口火を切る。
「みっちゃんは、また縁談断ったんやて。お母さんが電話で教えてくれた」
「へえ。今度はどこの誰?」
「松屋町の薬問屋の跡取りやて。でも、やっぱりお嫁に行くのはイヤやゆうて写真も見ずに断ったって」
「先月の相手なんか阪大病院のお医者さんやったのに、それもイヤヤて」
「お父さんはいつまで行かず後家するんやって怒ってた」
秋子がうちわでお腹を仰ぎながら笑う。
「そりゃそうやろ。みっちゃんよりも年下の私が先に嫁に行って、子供を産むんや。周囲から余計に行かず後家言われて当たり前や」
「仕事がおもしろすぎて、嫁に行きたくないんやて」
「農協の仕事ってそんなに面白いんやろか。結婚して赤ちゃん産んで育てるのが女の幸せと違うんか」
「みっちゃんは、昔から変わってる。自分は絶対に損したくないいうて」
「結婚するのは損かいな。あほらし。今はやりのキャリアウーマンを気取ってんねやろ」
そこへみっちゃんの声がろう下から飛んだ。
「ちょっと、春ちゃん、あっちゃん、みんな。ここまで全部聞こえてるで、ひどいやんか。誰が行かず後家やてえええ」
大広間にいる全員がどっと笑った。春子も秋子も大口を開けて笑っている。祖父たちだけがいびきをかいて寝ていた。まだ部屋にいる葉奈子に気づき、真顔になった春子が睨む。
葉奈子はあわてて広間を出て祖母の夕子を探す。すると急に玄関が騒がしくなった。背譜町から来た年寄りたちがビール瓶を片手に稲荷ずしを一口でほおばり、葉奈子を手で追い払いながら言う。
「誰か来たで」
複数の男性が、何やら冷やかしているようだ。葉奈子は入り口をふさがれ、立ち往生する。ほどなく、継彦が広間に姿を見せた。後ろに一人若い女性を控えている。細身で髪が長い。青いスーツを着ている。そして口元にほくろがある。その女性に見覚えがあり目をこらす。継彦は皆の視線からその女性をかばうようにして戸口に立っている。すぐ後ろに美富子が仁王立ちをしている。顔つきが険しい。
継彦はのんびりした調子でいつものように声をかけた。
「みなさん、こんばんは。やあ、はあちゃんもいるね」
葉奈子はお菓子の袋をかかげた。継彦は「地蔵盆でもろたんか、ええなあ」 という。隣にいた女性も控えめな笑みを浮かべる。葉奈子はその女性にやはり見覚えがあった。
春子と秋子が同時に立ち上がって継彦に近寄る。女性の品定めをするためだ。本家の鈴子、久子、夏子もじろじろ見ている。広間は再度静かになった。美富子が声を出した。顔はあくまで笑顔だ。
「継彦。皆さんにその人を紹介なさい」