第三話・地蔵盆
地蔵盆というのは新毛本町公園の隅にある六地蔵を八月十四日の夜に拝みにいくことだ。その晩だけ、地蔵の前に大きなござを敷いて、近所の人がくつろぎにくる。町の役員や青年団が翌日の盆踊りの準備に木材で台座を組み、周囲に提灯をつりさげ、大きな太鼓を運んでいるのを眺める。婦人会も手伝いつつ持ち寄ったものを食べる風習がある。
その時に幼稚園児と小学生にだけ、無料のお菓子がもらえる。もらうこと自体はうれしいが、その前にお地蔵さんの前にたむろしている人々に「こんばんは」 と言わないといけない。葉奈子にとって億劫なことだ。早くあいさつをすませ、お菓子をもらって「ありがとう」 と言えたらそれでおしまい。ござに座って食べることはしない。一緒にお菓子を食べたい友だちはいない。
お菓子を持っておばあちゃんのそばに座って食べたい。葉奈子はそれを楽しみにしている。
提灯の連なりが視界いっぱいに見えてきた。普段は公園の片隅の地蔵前には誰もいないのに、地蔵盆だけは人が集まる。ざわめきが肌で感じられる。ビールと焼き鳥の匂いもする。春子は葉奈子の手を緩めた。
「ほら、あそこ。地蔵さんの横で子供が並んでるやろ。行っといで」
「……うん」
「おばあちゃんとこは知ってるな。そこの横曲がったらすぐや。お菓子もらったらお地蔵さんを拝んで、それからおいで。玄関は開いているからピンポンしなくていい、わかった?」
「うん。でも一緒に」
「あかん。あんたも大きくなったし、一人でもらっといで」
「……」
春子は列の最後尾まで葉奈子を誘導するとそのまま太い背中を見せて去って行った。とたんに心細くなり、足元の鼻緒だけを見つめる。目の前に葉奈子よりも背が低い子供がいる。その子も浴衣で黄色い帯をしめている。葉奈子はその結び目を眺めつつ、かゆいところをかく。結び目が前に進むと葉奈子も一歩ずつ進む。そこへいきなり肩をつかまれ揺すられる。
葉奈子は、ぎくっとして振り返る。背の高いショートヘアの女の子が歯を見せて笑っている。
「はあちゃんも、来たの? さっきの人、あんたのお母さん?」
同じクラスの横下あおいだ。学級委員をしているが、葉奈子は苦手だ。横下は葉奈子の肩に置いた手をはずさず、さらに揺する。
「いひひ。あの人、すごく太ってブタみたい」
横下と葉奈子を囲むようにあと三人、同じく浴衣姿の女の子が近寄ってきて笑いかける。そばかすだらけの子。日焼けで真黒な子たち。みんな片手にお菓子が入ったビニール袋を持っている。すでに並んでお菓子をもらったのだ。横下がそのうちの一人に耳打ちをする。葉奈子には聞こえないように。彼女たちは全員、同じクラスだ。しかし葉奈子の友だちではない。名前は益田、佐々木、花井。皆で、葉奈子を指さして意味なく笑う。
「なあ、あんたの家、新毛東町やろ。なんでこの新毛本町に来るの?」
「ブタの子どもが、うちらの地蔵盆に来た」
「よそ者のくせに、地蔵盆のお菓子が欲しいのね、厚かましい」
葉奈子にはその場で去る選択肢はない。お菓子をちゃんともらわないと春子に怒られる。葉奈子はクラスメートの罵倒よりも、春子が直接見せる怒りの方が怖い。葉奈子を傷つけようとする罵倒よりも、春子からもらう長い時間の嫌味の方が耐えられない。だから黙っている。
唇をしっかりかんで聞こえぬふりをしていると、「なんか言うてみ?」 とさらに肩をゆすられる。すると「やめろよ」 という声がかかった。
もう一人の学級委員である奥本だ。横下がさっと身を引き、いじめっ子たちの輪がほどけ、ぱらぱらと散らばった。奥本はいつものようにシャツと半ズボンを着ている。手には棒付きあめを持っている。両方の膝をこけたかで、夜目にも血がついている。そして奥本は横下よりもずっと背が高い男の子だ。
「この子のお母さんは、新家本町の人やで。せやからお菓子をもらいにきてええんや」
横下が舌打ちをした。他の三人と肩を組んで「おもしろな、さ、いこいこ」 と公園の奥に走っていく。奥本は口からあめを出して葉奈子に忠告した。
「卦配。お前な、嫌なこと言われたらちゃんと言い返せ」
「う、うん。ありが」
礼を言い終わる前に奥本はあめを口にくわえ、両手で近くを通った男子の腕をしめた。相手からも足を絞め返され二人して笑いながらプロレスごっこをはじめた。周囲に小さな子供たちの輪ができ、拍手がわいた。おなかの突き出た男がござの上で寝ころびながら奥本たちに注意する。
「棒を加えたまま暴れると危ないがな、ええ加減にせえ」
そこへ葉奈子の腕に新しいお菓子の袋が押し付けられた。
「ほい、持ってき」
はちまきと法被を着たおじさんがビニールに詰めたお菓子を渡してきた。順番が来たのだ。
「ありがと……」
言い終わる前に後ろにいた子がさっと手を出し、係のおじさんからお菓子をひったくる。おじさんはその子に怒鳴る。
「行儀悪いなあ。ちゃんとありがとうって言ぃや」
後ろにいた大人たちが葉奈子を見ている。そのうちの一人が話しかけたが、プロレスごっこの歓声が混じってよく聞こえない。次におばちゃんが話しかけてきた。甲高い声でこれは聞こえた。
「あんたの顔、どっかで見るなあ。お父さんかお母さんの名前、言うてみ?」
「は、はい。卦配……」
もう一人のおばちゃんが素っ頓狂な声をあげた。
「卦配でわかった。春ちゃんの子や、な、せやろ?」
「はい、卦配春子は私の」
言い終わる前に皆はがやがやと話をはじめた。後ろの子が葉奈子を押し出すように次々とお菓子をもらっていく。葉奈子の手にもう一袋同じお菓子の袋が押し付けられた。
「あ、あの」
もうもらったと言おうとしたら、さっきのおばちゃんがさえぎった。
「ええねん。取っとき。豆島のみっちゃんには世話になってる、余った分はあげるさかい。そのかわり、よろしゅう言うといてや」
「はい……」
もういいだろう。お菓子はもらった。あとはいじめっ子とは会わないようにして、おばあちゃんの家へ走って行くだけだ。奥本には二学期の始業式にでもお礼を言ったらいいだろう。
葉奈子はほっとして、両手にお菓子の袋をさげて小走りでおばあちゃんのところへ行く。後ろで視線を注がれているのはわかるが、知らぬふりをして角を曲がる。どうせ見知らぬ大人か横下たちのどちらかだ。葉奈子にとって苦手な人種であるのにかわりはない。
お地蔵さんに挨拶を忘れたが、帰りにすればバチは当たらないだろう。だから後回しにする。